富岡多恵子『隠者はめぐる』/『荘子』(無用の用)
☆mediopos3516 2024.7.3
世間から出ることを「出世間」といい
世を遁れることを「遁世」という
富岡多恵子『隠者はめぐる』は
世を遁れて生きてきた人たちも
霞を食って生きていくわけにもいかず
「世を遁れるとしたら
その日から食べる心配があるはず」だということから
そうしたいわゆる「隠者」たちが
どのようにして生きてきたかについて書かれている
世の外にいると
食べるものにも困ることになるから
世を遁れるといっても
世間と何らかの関わりをもたざるをえない
しかし「出世間」し「遁世」するわけだから
俗のなかにあっても
俗にとらわれないようにしなければならない
この「出世間」「遁世」という生き方は
荘子と通じるところがある
『荘子』の「内篇 養生主 第三 第一章」には
「善を行うことがあったとしても名声を揚げない程度にし、
悪を行うことがあったとしても刑罰に触れない程度にして、
善と悪の中間にある根源を守ることを、
不変の原則」とすることが説かれ
「内篇 人間世 第四 第四章」には
「大衆の価値観」からは「役立たず」であることで
天寿を全うできた巨木の話から「無用の用」が説かれている
この世に生まれてきた以上
「出世間」「遁世」するといっても
なんらかのかたちで生きていかなければならないから
生活することは多分に世間的にならざるをえないとしても
その「価値観」にとらわれずに生きていくことが課題となる
そのときネックとなりがちなのは
昨今言挙げされることの多い「承認欲求」だろう
いわば「身を立て名をあげ」
それをひとから認められたいという欲求である
「出世間」し「遁世」することは
その価値観から自由になることでもあるだろうが
事はそう簡単ではなさそうだ
煩悩はおそらく常についてまわる
「俗」のなかにありながらも
「俗」の価値観から捻れの位置に自分を置き
「無用の用」の視点からいえば
「役に立つ」などと思われて
消費財のように扱われないようにしなければ
「なまじ役に立つ取り柄があるために、
かえって己の生命を苦しめ」ることになってしまったりもする
しかし生活をしていくためには
なんらかのかたちで働かなければならない
しかもシゴトの価値観にとらわれないと同時に
働く以上はそこでまったくの無能でいるわけにもいかない
かといって過度に有能だとみなされれば「評価」されてしまい
シゴトの場に呑みこまれてしまうことになる
また日々学んでいくことにおいても
それを「俗」の「価値観」による「評価」で
測られないようにする必要がある
そこにこそ「無用の用」の基本が貫かれる必要がある
それは「俗」の「価値観」からすれば
ともすればネガティブで自虐的なものとみなされてしまうが
「俗」との依存関係を最小限に抑えながら
じぶんがはるかに求めているものに近づくための
もっとも有効な生き方なのではないか
俗からはなれず
さまざまに学びながら
それにとらわれないまま
魂の航海が続けられますように
■富岡多恵子『隠者はめぐる』(岩波書店 2009/7)
■『荘子 全現代語訳(上)』
(池田知久訳・解説 講談社学術文庫 2017/5)
**(富岡多恵子『隠者はめぐる』〜「はじめに」より)
*「世間には、世に出たいひともいれば、世を遁れたいひともいる。出世は、世に出て成功するとか、名をなすのような意味で用いられている。ただし、「出世」には仏が衆生を救うために世に現れ出ること、また、出世間つまり出家して僧侶になること等の意味があり、一方、世を遁れるのを「遁世」といえば、これも出家のことだから、仏教の方では同意になるかもしれないが、ここは一般に使う日常語レベルでのことである。
世に出たいひとの物語は多くあるが、世を遁れたいひと。世を遁れたひとの伝説や物語、残された歌や随筆の類も多い。ただ、後者には俗世を遁れたことをいうためか、俗嗅が嫌われて、世を遁れ世間の外へ出ている者がどのようにしてその日の糧を得て暮らしているか、かれらをいったいだれが食べさせているのか穿鑿されることはあまりない。世を遁れるというのを、動機はなんであれ、ひとびとが生産にかかわって暮らしている世間からの脱出、離脱とすれば、生産に直接かかわらずに暮らしたい、もしくは暮らすということになる。世間から遁れて専一にしたいものには「遊び」もあれば、「修行」もあれば、「学問」もあれば、「文芸」「芸能」もあるだろうが、世間にあってその生産体制とかかわるからこそ食にありつけるのを、それをしないのだから、世を遁れるとしたらその日から食べる心配があるはずである。
しかし、かれらのなかには、さまざまなかたちでシゴトを後世に残している者がおり、「学問」であれ、「歌」であれ、それらがその時に職業となっているはずはないので、俗世との何らかの交通があったのではないかとの、下世話な疑問と興味から、大坂の学者契沖や越前の詩人橘曙覧など、思いつくままにあのひとこのひと、そんなひと隠者とはいわないよという声は聞きながして、素人の無謀で近づいていった————。」
**(富岡多恵子『隠者はめぐる』〜「十四 二重の遁世」より)
*「「世を遁れる」といっても、遁れきれるものだろうかというのが、いくたりかの、世間の「外に居る者」(少なくとも外に居たいと思った者)の様子をわずかながらも窺ってきての感慨である。町人の気儘と僧侶の遁世を同列にするのはおかしいといわれそうだが、「隠者」が多く「文芸」にかかわるのも考えさせられる。「世を遁れる」者、「世から隠れる」者が「歌」であれ、「日記」であれ、「随筆」であれ、或いは「学問研究」の著作であっても、それらは結局世(の人)に訴えようとするものなので、「世を遁れる」「世から隠れる」とは避けがたい矛盾がある。
今ひとつは、かれらの行為、行動(「歌」その他)は、世間の俗人のように生産にかかわらぬものなので、その時、その日の糧を得るための一文の稼ぎも保障しないから、「世を遁れ」「世から隠れる」本人をだれが養うかのモンダイがあり、荘園のあった中世の貴族の出身者や国が衣食を保障した「官僧」、町人でも寒月のような「親の金」がある者は別として、本人を本人が食べさせるとしたら、一体ナニをそのための稼ぎ仕事(托鉢、乞食は別として)にし、またそのことで本来したい「歌」なり「文芸」なり「学問」なり「遊び」なり「瞑想」なり「修行」なりが、どの程度可能かもモンダイとなり、やがてそれらを糊口のたしにするとなれば職業化されることになって、これまた矛盾にちがいない。「隠者」のすべてが、『発心集』で長明が記したような、修行の姿さえ知られると消えて行方不明となる僧侶や聖のようではないだろうし、またそうもゆくまい。「隠者」の残した仕事、高潔、孤立、孤独、寂寥、覚悟、その境地またはそこへの憧憬等々を称揚することは、のちのひとによって行われてきていても、世を遁れて「隠」の者でありえたこと、即ち隠遁、隠棲等の「隠」を具体的に支えたものの考察も世間の「外に居る者」の招待をより知る手がかりになるように思われる。」
**(『荘子 全現代語訳(上)』〜「内篇 養生主 第三 第一章」より)
・第一章 有限の生を養うために、無限の知を追いかけることを止める
*「私の人生には限りがあるが、知るべきことには限りがない。限りある人生を費やして、限りなき知を追いかけるのは、危険なことだ。そうであるにもかかわらず、なお知を追い求めるのは、危険極まりないことだ。
私の人生を危険に陥れるものは、名声や刑罰もそうである。善を行うことがあったとしても名声を揚げない程度にし、悪を行うことがあったとしても刑罰に触れない程度にして、善と悪の中間にある根源を守ることを、不変の原則としたいものだ。そうするならば、我が身体の安全を保持することも、我が生命を恙なく全うすることも、肉親を養育することも、さらには天寿を本来のままに生き尽くすことも、全て可能となるのである。」
**(『荘子 全現代語訳(上)』〜「内篇 人間世 第四 第四章」より)
・第四章 無用の用————大木はなぜ長生きできたのか
*「大工の棟梁の石が、ある時、斉(国名)に出かけた。曲轅(地名)という土地に着いて、その知の社に聳える神木の櫟の木を見た。大きさは数千の牛の群れを木蔭に寄せるほどで、幹の周りは百抱えもあり、高さは山を見下ろすほどで、地上より千仞(約一六〇〇メートル)も行ったところで始めて枝が出ている。また、この木を材料にして作れそうな舟の数は、何十艘にも上ろうかという巨木である。見物人が集まってきて、市場のような賑やかさであったが。棟梁は目もくれず、そのまま素通りしてしまった。
お供の弟子はじっと見とれていたが、大急ぎで棟梁に追いついてたずねた。「私が斧・戉を手にして棟梁の家に弟子入りして以来、このような素晴らしい材は見たことがありません。それなのに棟梁は視ようともせず、素通りしてしまわれた。どういうわけでしょうか。」
「止めなさい、下らぬことを言うな。あれはつまらぬ木だ。舟を作れば沈むわ。棺桶を作ればすぐ腐るわ、道具を作ればすぐ壊れるわ、門や戸にすれば樹脂が出るわ、柱にすれば虫が食うわで、全く役に立たない木だ。使い道がない。だから、こんなに長生きできたのだ。」
棟梁の石が家に帰ると、その夜、社の櫟が夢枕に立って、「そなたは私を何と比べるつもりかね。立派な木と比べたいのだろうが、一体、樝・梨・柚や、木の実・草の実の類は、実が熟すともぎ取られ、もぎ取られると辱めを受けることになる。また、大きな枝はへし折られ、小さな枝も引っぱられる始末だ。これは、なまじ役に立つ取り柄があるために、かえって己の生命を苦しめるもの。だから、天寿を全うしないで、途中で若死にする結果にもなるわけだが、自ら世の俗人たちに打ちのめされようとするものだ。こういったことは、何も木の場合だけに限らない。あらゆる物がこうなのだ。
それに、私はずっと以前から、役立たずでありたいと願ってきた。その願いは、死に近づいた今になってやっと適えられ、真に立つ存在になったのだ。仮りに私が世間並みの役に立つ木であったなら、一体、ここまで大きくなれただろうか。さらに、所詮そなたも私も、ともに一つの物であるにすぎず、根源者たる道ではない。どうして互いの価値を決められようか。そなたとて、死に損ないのつまらぬ人だ。私が真につまらぬ木かどうか、わかるはずもなかろう。」
棟梁の石は目が醒めると、夢の吉凶についてあれこれと思いをめぐらしていた。すると弟子がたずねて、「役立たずでありたいと願っていたのなら、何だって社の神木なんかになったのでしょう。」
「黙れ。滅多なことを言うでない。あれもただ社の櫟の木に姿を借りているだけだ。分からず屋たちが悪口を言っていると思っているだろうね。たとえあれが社の櫟以外の物に生まれていたとしても、伐り倒されて天寿を全うできないなどという恐れは、あるはずがない。それに、あれが胸中に抱いているものは。大衆の価値観とは違うのだ。それなのに、大衆の価値観で誉めたり貶したりするなんて、えらく見当外れだな。」