寺田 寅彦『万華鏡』
☆mediopos2634 2022.2.1
学校はいうまでもなく
身近に「師」といえるものを
見出すことはいまだできずにいるが
いちばん最初に
じぶんにとっての「師」といえるかもしれない
そんな存在を感じたのは
寺田寅彦である
その基本的な姿勢である
「科学と芸術」の両立ということもそうだが
ときに随筆のなかでみせる生き方に
どこか深い共感に似た尊崇の念をもってきた
今回の随筆集は
これまで何度も読み返した内容ではあるけれど
あらためてその「師」のことばはいつも新しく響く
「電車の混雑について」は
最初の頃読んで共感したもののひとつ
「必ず空いた電車に乗るために
採るべき方法はきわめて平凡で簡単である。
それは空いた電車の来るまで、気永く待つという方法である。」
もともとひとと競うという発想がなく
かけっこではなぜいちばん速く走らねばならいか
数値化され序列化される勉強に励まねばならないか
またなぜ人のたくさんいるところに
わざわざ集まらなければならないか
そうした疑問をもって生きてきた者としては
まさに「救い」のような啓示さえ感じられた
ひとのたくさんいるところで
われ先にゆこうとしないで
「気永く待つ」ということ
気永く待ちながら
そこでなにが起こっているのかに
注意深くあること
科学主義の問題も
アーティスト主義の問題も
それぞれがみずからの権威のもとに
みずからが依拠する
「限定」された「原因条件」だけを根拠に
みずからの真理性なり表現性なりを誇示することで起こる
ほとんど権威的な排他的宗教の論理が
そこには生まれていることさえ見定めることさえできれば
彼らの導き出している「結果」を
冷静に見てみることは比較的容易である
つまりそれぞれの初期条件と守備範囲を把握し
彼らがそれらの範囲の「外」で
無謀にもみずからの権威を振るっているときには
それを疑ってかかることができる
その基本的な視点のないまま
なにかを無意味に権威づけしてしまうと
あたりまえのことさえ見えなくなってしまう
たとえひとがみんながわれ先にゆこうとし
それを他者にさえ強制しようとするときにも
それらに従うことなく
「気永く待つ」のがいい
世の多くの争いやさまざまな問題は
焦って「結果」を得ようとするばかりで
「待てない」からこそ起こるのではないか
たとえ得られないとしても
その得られないことこそが結果として
もっとも得ていることになるのではないか
そんなことをずっと思いながら
生きてきたのだが
世の中はどうもそうでもなさそうだ
もちろんそれはそれで
大変参考になる景色ではあるのだけれど
■寺田 寅彦『万華鏡』
(角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2022/1)
(「自然現象の予報」より)
「自然現象の科学的予報については、学者と世俗との間に意思の疎通を欠くため、往々にして種々の物議を醸す事あり。また個々の場合における予報の可能の程度等に関しては、学者自身の間にも意見は必ずしも一定せざる事多し。」
「ある自然現象の科学的予報と云えば、その現象を限定すべき原因条件を知りて、該現象の起こると否とを定め、またその起こり方を推測する事なり。これはいかなる場合にいかなる程度まで可能なりや。この問題が直ちにまた一般化学の成立に関する基礎問題に聯関する事は明なり。しかし因果律の解釈や、認識論学者の取扱うごとき問題は、余のここに云為すべきところにあらず。ただ物理学上の立場より卑近なる考察を試むべし。
厳密なる意味において「物理的孤立系」なるものが存せず、すなわち「万物相関」という見方よりすれば、一つの現象を限定すべき原因条件の数はほとんど無礙なるべし。それにかかわらず現に物理学のごときものの成立し、かつ実際に応用され得るはいかん。これは要するに適当に選ばれたり有限の独立変数にてある程度までいわゆる原因を代表し、いわゆる方則によりて結果の一部を予報し得るによる。これにはいわゆる原因と称するものの概念の抽象選択の仕方が問題となる。これは結局経験によって定まるものにして、原因の分析という事自身がすでに経験的方則の存在を予想する事は明なり。(…)現在の物理学的科学の程度において、従来の方法によりて予報をなし得る範囲はいかなるべきかが当面の問題なり。」
(「科学者と芸術家」より)
「芸術家にして科学を理解し愛好する人も無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるか、あるいは場合によっては一種の反感を抱くものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌忌の念を抱いているかのように見える人もある。場合によってじゃ芸術を愛する事が科学者としての堕落であり、また恥辱であるように考えている人もあり、あるいは文芸という言葉からすぐに不道徳を聯想する潔癖家さえ稀にはあるようにお思われる。
科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか。これは自分の年来の疑問である。」
「科学者と芸術家の生命とするところは創作である。他人の芸術の模倣は自分の芸術でないと同様に、他人の研究を繰り返すのみでは科学者の研究ではない。もちろん両者の取り扱う対象の内容には、それは比較にならぬほどの差別はあるが、そこにまたかなり共有な点がないでもない。科学者の研究の目的物は自然現象であってその中になんらかの未知の事実を発見し、未発の新見解を見出そうとするのである。芸術家の使命は多様であろうが、その中には広い意味における天然の事象に対する見方とその表現の方法において、なんらかの新しいものを求めようとするのは疑もない事である。」
「芸術家科学者はその芸術科学に体知る愛着のあまりに深い結果としてしばしば互に共有な弱点をもっている。その一つはすなわち偏狭という事である。」
(「方則について」より)
「科学の法則は物質界における複雑な事象の中に認められる普遍的な連絡を簡単な言葉で総括したものである。」
「方則が可能であるためには宇宙の均等という事が必要である。時と空間に対して不変な事実が認め得られる事が必要である。かくのごとく事実が吾人に認め得られるというのは不思議な事ではありるまいか。」
(「物理学と感覚」より)
「人間がその周囲の自然界の事物に対する知識経験の基になる材料は、いずれも直接間接に吾人の五感を通して供給されるものである。」
「哲学者の中には我々が普通外界の事物と称するものの客観的の実在を疑う者が多数あるようであるが、吾々科学者としてはそこまでは疑わない事にする。世界の人間が全滅しても天然の事象はそのままに存在すると仮定する。これがすべての物理的科学の基礎となる第一の出発点であるからである。この意味ですべての科学者は幼稚な実在派である。」
(「電車の混雑について」より)
「必ず空いた電車に乗るために採るべき方法はきわめて平凡で簡単である。それは空いた電車の来るまで、気永く待つという方法である。」
「満員電車を嫌うか好くかは「趣味」の問題であろうから、多数の乗客がもし満員電車に先を争って乗る事に特別な興味と享楽を感じるならば、それは致し方ない。その趣味の是非を論じるための標準は数理や科学からは求められない。
昔は、人に道を譲り、人と利福を分つという事が美徳の一つに数えられた。今ではそれはどうだか分りかねる。しかしそういう美徳の問題等はしばらく措いて、単に功利的ないし利己的の立場から考えても、少くも電車の場合でじゃ、満員車は人に譲って、一歩おくれて空いた車に乗る方が、自分のためならず人のためにも便利であり「能率」のいい所行であるように思われる。少なくも混雑に対する特別な「趣味」をもたない人々にとってはそうである。
これは余談であるが、よく考えてみると、いわゆる人生の行路においても存外この電車の問題とよく似た問題が多いように思われてくる。そういう場合に、やはりどうでも最初の満員電車に乗ろうという流儀の人と、少し待っていて次の車を待ち合わせようという人との二通りがあるように見える。
このような場合には事柄があまりに複雑で、簡単な数学などは応用する筋道さえ分からない。したがって電車の場合の類推がどこまで適用するか、それは全く想像もできない。したがってなおさらの事この二つの方針あるいは流儀の是非善悪を判断する事は非常に困難になる。
これはおそらく誰にもむつかしい問題であろう。おそらくこれも議論にはならない「趣味」の問題かもしれない。私はただついでながら電車の問題とよく似た問題が他にもあるという事に注意を促したいと思うまでである。」