東畑開人「贅沢な悩み 連載第9回 第2部 生存編—心を可能にする仕事」/沢庵『不動智神妙録』
☆mediopos3614(2024.10.11.)
『文學界』で連載されている東畑開人「贅沢な悩み」は
これまで随時とりあげてきているが
前回「序論」としての第1部が終わった後三ヶ月間休載され
第9回が「第2部」として再スタートされている
第1部で論じられていたことを
簡単にまとめると以下のようになる
臨床心理学には「二柱の神」
「生存」と「実存」があり
「生存」は「いかに生き延びるか」を問い
「実存」は「いかに生きるか」を問う
1995年に起こった
阪神・淡路大震災とオウム真理教事件を契機として
「実存」へむかう心理療法は
「贅沢」とみなされるようになったが
たとえそれが「贅沢」だからといって
「生存」するだけの心理療法だけで
「実存」へと向かう必要がないとはいえない
「二柱の神」を結ぶ方向が求められる
第2部ではそれを受け
「生存と実存とはそれぞれに何者で、
いかなる因縁があって事件は起きてしまったのか」を探る
東畑開人はクライエントと最初に出会う
「インテーク面接」での「アセスメント」(見立て・診断)で
「心を可能にする仕事」か「心を自由にする仕事」かを
「火急性/不急性」「外部性/内部性」「現在性/歴史性」
という3つの判断基準に基づいて分別するという
「心を可能にする仕事」は
クライエントの「生存」に関わるものであり
「心を自由にする仕事」は
実存の問題に向き合うものである
「火急性/不急性」は
「クライエントの抱えている
苦悩の緊急度や切迫性をめぐる基準」であり
「外部性/内部性」は
「クライエントを苦しませる原因が、
外部の環境に存在しているか、
ご本人の性格や葛藤のような
内部に存在しているのかについての判断」であり
「現在性/歴史性」は
「クライエントの訴える苦悩が、今回限りのことであるか、
以前から続いてきているか」の問題である
インテーク面接ではその9割弱において
心を可能にする仕事が選択される
3つの判断基準においてひとつでも前者があれば
心が不可能になっていると判断されるからだ
東畑開人は「心」を
「箱のように輪郭があり、
奥行きのあるものだとイメージしている」という
「輪郭と奥行きが失われるときに、
心は不可能になっていて、
それらが確保されると内面という次元が立ち現れる」
「心が可能になる」とはそういうことだ
つまり問題は「心が不可能になること」にある
さて今回の記事の最初に
沢庵禅師の『不動智妙録』からとして
「心こそ迷はす心なれ、心に心心ゆるすな」
という言葉が置かれている
「心こそが心を迷わすものである。
心のことに気を許してはならぬ」という意味だが
これは『不動智神妙録』の締めくくりとして
記されている古歌である
連載の冒頭に唐突に引用されているだけだが
心が不可能になること/可能になること
心が不自由になること/自由になること
そこにかかわることが臨床心理の仕事であり
心を可能にし自由にするためになにができるか
それがその仕事の課題の表明として理解できる
まずは外界から区別された
自分だけの内的空間である「箱」をもつことで
「心を可能」にし
さらに箱のなかで不自由になっている心を自由にする
参考までに『不動智神妙録』から
とらわれた心は動けないこと(不動明王)
心を止めないこと(石火の機)
こころを一カ所に置かないこと
放たれた心を取り戻すこと
といったところを引用してみた
心はなにかとやっかいだ
■東畑開人「贅沢な悩み 連載第9回
第2部 生存編————心を可能にする仕事
5章 白さんのカラフルな刺繍
————我痛む、故に痛みあり、ゆえに我なし」
(文學界 2024年11月号)
■沢庵(池田諭訳)『不動智神妙録』(徳間書店 1997/8 18刷)
*「 心こそ迷はす心なれ、心に心心ゆるすな
(沢庵宗彭『不動智神妙録』)」
・1
*「贅沢な悩みに何が起きたのか。生存と実存とはそれぞれに何者で、いかなる因縁があって事件は起きてしまったのか。これらを探るのが第2以降の使命となる。
そのために新しい概念を導入しよう。
「心を可能にする仕事」と「心を自由にする仕事」。
生存と実存の二人組は、私の面接では「心を可能にする仕事」と「心を自由にする仕事」という名前で呼ばれている。」
「大雑把に言うのであれば、クライエントの生存の問題に取り組んでいるときには「心を可能にする仕事」は、実存の問題に向き合うときには「心を自由にする仕事」がなされている。」
・2
*「ごくごく臨床的に、つまり日々の面接の具体的な手続きにおいて、心を可能にする仕事と心を自由にする仕事がどのように姿を現すのかをまず見てみたい。
これがとりわけ問題になるのがインテーク面接である。カウンセリングに申し込んだクライエントと最初に出会うときの面接のことだ。「初回面接」と言われることもあるし、医療では「初診」と呼ばれる。
そこでなされるのが「アセスメント」である。(・・・)これを心理の専門用語では「見立て」と言い、医学では「診断」と言い、ユタという沖縄のシャーマンだと「ハンジ」と言う。
ようは謎解きだ。クライエントの抱えている問題がいかなりものであり、それがいかなるメカニズムで発生しているのか、そして今後何をしていけばいいかを明らかにするのである。」
*「3つの判断基準がある。「火急性/不急性」「外部性/内部性」「現在性/歴史性」である。」
・3
*「まずは何より「火急性/不急性」の判断が行われねばならない。これはクライエントの抱えている苦悩の緊急度や切迫性をめぐる基準である。」
「次に「外部性/内部性」である。クライエントを苦しませる原因が、外部の環境に存在しているか、ご本人の性格や葛藤のような内部に存在しているのかについての判断だ。これはもちろん、両方の場合はほとんどなのだが、それでも現在の苦痛に対して直接的なきっかけとなる原因がいずれであるかの判断はなされる必要がある。」
「最後に「現在性/歴史性」である。つまり、クライエントの訴える苦悩が、今回限りのことであるか、以前から続いてきているかが問題だ。」
・4
*「これらの3つの基準は心を可能にする仕事と心を自由にする仕事を分別するうえで決定的だ。というのも、この3つの基準はいずれも「心が不可能であるか、否か」を問うものであるからだ。
心はときどき不可能になる。火急性があるとき、脅かされた心は千々に乱れて拡散している。外部性の問題においては、内なる心ではなく外なる環境こそが焦点になる。現在性の問題においては、心の過去は視界から消えて、深さを失っている。
これに対して、心がきちんと輪郭(内部性)と奥行き(歴史性)を持ったものとして、ある程度安定して(不急性)存在しているときには、心は可能になっている。
箱である。内面という箱だ。
私はここで「心」を箱のように輪郭があり、奥行きのあるものだとイメージしている。この輪郭と奥行きが失われるときに、心は不可能になっていて、それらが確保されると内面という次元が立ち現れる。外界から区別された自分だけの内的空間。これが存在することを「心が可能になる」と言っているのである。
これらを確認するための基準が「火急性/不急性」「外部性/内部性」「現在性/歴史性」だったということだ。
その結果として、心が不可能になっているならば、まずは心を可能にする仕事がなされなくてはならない。逆に、心が可能になっているのであれば、心を自由にする仕事を行う余裕が余地があるということになる。つまり、箱そのものを補修するのか、箱の中身をガサゴソと探っていくかということだ。
したがって、実を言えばインテーク面接の結果。9割弱のケースで心を可能にする仕事が選択されることになる。というのも、「火急性/不急性」「外部性/内部性」「現在性/歴史性」のうちで、ひとつでも前者があれば、心が不可能になっていると判断されるからだ。
逆に言えば、不急の問題であり、その原因は心の内側にあり、そして古く方続いている歴史的苦悩であるときに、つまり不急性・内部性・歴史性の3つがすべて揃っている場合にのみ、心を自由にする仕事が選択される。箱の中で不自由になっている心が見え隠れしているからだ。」
*「心が不可能になること。これこそが問題なのだ。」
**(沢庵(池田諭訳)『不動智神妙録』〜「不動智神妙録」より)
・とらわれた心は動けない
*「不動明王とは、人の心の動かぬさま、物ごとに止まらぬことを表しているのです。何かを一目見て、心がとらわれると、いろいろな気持ちや考えが胸のなかに沸き起こります。胸のなかで、あれこれと思いわずらうわけです。こうして、何かにつけて心がとらわれるということは、一方では心を動かそうとしても動かないということなのです。自由自在に心を動かすことができないのです。
たとえば、十人の敵が一太刀ずつ、こちらに浴びせかけてきたとします。この時、一太刀を受け流して、それはそのままに心を残さず、次々と打ってくる一太刀一太刀を同じように受け流すなら、住人全部に対して、立派に応戦できるはずです。十人に対して十度心を動かしながら、どの一人にも心を止めることをしなければ、どの敵に対しても応じられるのです。もし、一人の敵を前にして、心が止まるようなことがあれば、その一人の立ちは受け流すことができても、次の敵に対して、こちらの動きが抜けてしまうことになるでしょう。」
・心を止めないことが肝要
*「石火の機ということがあります。これも、間髪容れずと同じです。
石をハタと打つと、その瞬間、光が出る。石を打つのと火が出るとの間に隙間というものはありません。
つまり、心を止める間のないことを表しているのであって、これを素早いことを意味しているのだなどと理解するのはいけません。心を物に止めないということは大切なのです。素早いというのも、結局は心を止めないから早いので、そこが肝心なところです。
心が何かにかかずらわれば、人にこちらの心を捉えられてしまいます。早くしようと心のなかで予め思って早くすれば、心はその予め思ったことに奪われるのです。
西行の歌集に「世をいとふ人とし聞けばかりの宿に、心止ぬまと思ふはかりぞ」(世の中を厭う人というが、所詮この世はかりの宿、厭うほどに心を止めてはならぬのだ)という歌があります。」
「止まらぬ心は、色にも香にも移ることがありません。この移らぬ心の姿を神といい、仏といい、禅心とも極意ともいうのですが、考えに考えていうのならば、立派な文句をいったとしても、それは迷いとされるのです。」
・どこにもおかねばどこにでもある
*「心を一カ所に置くことを、偏するといいます、偏とは一方に片寄ったことです。正とは、全体に行き渡っていることです。正心とは、身体の全体に心を行き渡らせて、一方に片寄らぬことをいいます。心が一カ所に片寄って、他に心が行き届かないのは偏心です。」
・放心を求めよ
*「放心を求めよとは、孟子の言葉であります。放たれた心を探し求めて、自分の身に取り戻せということです。」
・親がまず身を正せ
*「お世辞のよい大名を、将軍御前において大いに引き立てられるとのこと。重ね重ね、よくお考えにながらなければなりません。歌にも「心こそ迷はす心なれ、心に心心ゆるすな」(心こそが心を迷わすものである。心のことに気を許してはならぬ)」とあります。」
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