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上野 誠『折口信夫『古代研究』』(NHKテキスト)

☆mediopos2896  2022.10.22

mediopos2822(2022.8.9)で
同じ著者・上野 誠の『折口信夫「まれびと」の発見』を
とりあげたことがあったが

NHKテキストはそれをダイジェストした放送用の内容で
今回とりあげたのは
前著の「第七章 日本の芸能のかたち 」に関連した
「第3回 ほかひびとの芸能史」から

折口信夫は芸能者を
「聖と賤が表裏一体となった存在」とみて
その「賤」の側にいる芸能者の価値を見出し
それが日本文化に深い影響を与えているとしている

いわゆる「無頼漢(ゴロツキ)」
そして「かぶき者」
「悪所」といわれる場所も
そうしたものと関連して機能していた

現代では「除菌」が常識化されているように
「芸能」と深く関係している「賤」を
表の世界から排そうとする力が強く働いている

本来的にいって
光と闇が表裏一体であるのと同様に
聖と賤も表裏一体なのだが
それが表向き隠されているのが日常の世界で
その偏った世界を非日常的な有り様のなかで
バランスさせてくれるのが
「芸能」の世界であるともいえる

現代のように「芸能」の世界のなかにも
日常の道徳観が持ち込まれてしまうようになると
そこにあった「闇」は行き場所を失ってしまう

けれどもそれらは表向き消えているように見えても
これまでよりも巧妙なかたちで
あるいは見えない危険な場所から
むしろ強く働くようになってしまう

それは管理社会のなかで
魂が知らないあいだに闇を彷徨うように
スポイルされてしまうこととや
「除菌」社会のなかで
免疫力が失われてゆくことと通底している

きれいは汚い
汚いはきれい

その箴言ともいえることばに象徴される
聖と賤をそのままに体現するような
「芸能」的な有り様が
表社会から消去されてしまうとき
わたしたちはそれと知らず不治の魂の病に
冒されてしまうことにもなるのだろう

■上野 誠『折口信夫『古代研究』』
 (2022年10月 NHKテキスト NHK出版 2022/9)

(「第3回 ほかひびとの芸能史」より)

「折口信夫は、芸能者を「聖と賤が表裏一体となった存在」と見ていました。神を演じ、人に祝福を与える存在であると同時に、「下級の宗教者」として、時に差別の目にさらされました。ある面では「あこがれの対象」なのですが、それがある瞬間に反転してしまう。この点については、現在の芸能人にも似た構図があります。例えば、大人気のタレントのスキャンダルが発覚した途端、ゴシップの種として消費されてしまうような例を想起させますね。
 いずれにせよ、折口は、芸能にはさまざまな側面があると考えていました。だからこそ、「賤」の側にいる芸能者の価値をも認め、彼らが日本文化の中で果たした役割に注目した。この点にこそ、折口学の極めてユニークな特質があると、私は思います。例えば、『古代研究』には、そのものずばり「ごろつき」に言及した文章があります。

無頼漢(ゴロツキ)などゝといへば、社会の瘤のようなものとしか考へて居られぬ。だが、嘗て、日本では此無頼漢が、社会の大なる要素をなした時代がある。のみならず、芸術の上の運動には、殊に大きな力を致したと見られるのである。(「ごろつきの話/一 ごろつきの意味」全集③二二頁)

「ごろつき」という語には、一定の住所も職業もなく、あちらこちらをうろつき、時に脅しを働くような「ならず者」という意味があります。一般的に、ごろつきは、室町時代から江戸時代にかけて存在したならず者たちと考えられていましたが、折口はもっと長い歴史を持つものとして捉え直し、時代時代で姿を変えながら社会を動かし、芸能や文学を生み出す原動力となっていた人びとだ、と評価しました。そして、単なる無頼漢としてだけでなく、下級の宗教者や、歌舞伎として昇華する「かぶき者」にまで、「ごろつき」という語の指す範囲を広げていったのです。
 動詞「かぶく」は、もともと傾けることをいう言葉でした。つまり、中庸ではなく、右なら右、左なら左に大きく傾くことをいうのです。それを、生き方の信条としたのが、「かぶき者」です。世間の目を気にすることなく、派手な衣装を身にまとい、荒々しい振る舞いをする者が、「かぶき者」です。一方で、世間体や金銭にとらわれることなく、恋や色事を極める生き方、自分が犠牲になっても正しいことを貫く生き方を求めてゆくのも、「かぶき者」です。いわば、反抗的な生き方をする人びとなのです。
 このような「かぶ」いた生き方を舞台で見せるのが、「歌舞伎」なのです。現在でも、いろいろとゴシップはありますが、昔に比べれば、今の歌舞伎役者さんたちは、品行方正になったと私は思います。歌舞伎は、生き方そのものを観客に見せる芸ですから、時には破天荒なことをして、私たちを楽しませてほしいと思います。
 また、階級社会においては、下の階級の者が、上の階級の者に対して反発する気持ちを持っているのは当然です。折口は、その反発心を示す方法の一つとして芸能というものが機能した、とも考えていました。
(…)
 無頼の徒たちの芸能、すなわち権力に抗う者たちの芸能は、上からの圧力に対抗する中で生まれた情熱をエネルギーとして駆動されていた、というのです。この上下関係が調和してゆくのに伴い、彼らの芸は一気に輝きを失ったと折口は考えていました。ある種の危うい状況の中でこそ無頼の徒たちの芸は輝く、ということでしょう。彼らにつきまという闇の側面をも含めて、折口は、芸能を理解していたのです。折口信夫の芸能史の根底には「ごろつき」「かぶき者」「無頼の徒」への、深い深い理解と、愛情があるのです。」

「かつて寄席が「悪所」と言われたように、芸能はそれまで学問的な視点で論じられる対象ではりませんでした。むしろ、下賤なものとして蔑視されていた。それを折口は、日本人の心や文化にとって価値あるものとして再定義し、芸能評論という分野を切り拓いたのです。折口の弟子たちの中には、戸板康二や伊馬春部など、芸能評論家や放送作家となって活躍した人物もいます。これまで見てきたように、芸能史は、国文学の発生の延長線上にあるものなのですが、折口学の特性がいかんなく発揮せられた分野といえるでしょう。」

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