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重田 園江『ホモ・エコノミクス/「利己的人間」の思想史』

☆mediopos2674  2022.3.13

お金儲けのために生きるのは
人間ほんらいの自然に由来するものなのだろうか

現代はますますそうした人間像が
躊躇いも戸惑いもなく
受け取られるようになっているところがある
人間が資産と収入によって位置づけられるのだ

「ホモ・エコノミクス」とは
自分の利益を第一に考えて
合理的に行動する主体である「経済人」のこと

現代ではそうした「自己利益の追求」は
あたりまえの価値とされているが

こうした利己的な経済人「ホモ・エコノミクス」が
客観的にとらえられた「人間の自然」であり
人間像としてそのように単純化されたのは
近代以降のことであるという

本書は「金儲け」が道徳的に蔑まれた
古代・中世そして非近代の社会から
やがて「自己利益の追求」が当たり前の価値として
受け容れられるに至った経緯を
思想史の視点からとらえたものだ

現代の学生はかなりの割合で
「人の役に立つ仕事がしたい」と思っているそうだが
実際に社会人となるにあたっての就活においては
企業利益につながるような価値観のもとに
みずからを「高く売」らなければならないのが実際だ
じぶんさえ商品としなければならない

最近では大学も企業や行政とのむすびつきが強化され
卒業後どころか在学中から
お金もうけのための「経済人」であることが
目標として積極的に位置づけられ
そういう価値観に繋がらない人文学や教養的な要素が
ますます不要のものとされるようになっている

高校で学ぶ「国語」つまり母語としての日本語も
「実社会」なるものに特化した「論理国語」が
選択可能となっているのは
その動きに連動しているものだろう

「ホモ・エコノミクス」という人間像が
あまりにも自明視される現代の背景にあるのは
人間が科学のもとで抽象化・単純化され
多様性への視点が失われてきたことがあるのだろうが
そのおおもとにあるのは
(本書ではふれられてないが)
世界観と死生観の貧困があるのだろう

現代の科学(主義)はますます
世界観と死生観を
唯物論的なもののなかに閉じ込めてしまい
それを超えた霊性へ向かおうとする
ほんらいの性向をスポイルしつづけている

多くは宗教的な観点から教えられもしていた
「自利利他」ということが成立するのは
唯物論的な世界観が超えられたときでしかないからだ

現代は世の中すべてが企業化・学校化され
それ以外の価値観が捨象されつづけている時代だ
そんななかでじぶんを失わずに生きていくのは
地獄の三丁目であえて修行しているようなものだが
それはおそらくほんらいの宗教的な修行よりも
ずいぶん困難さを抱えているだろうことは言うまでもない

現代に暗雲を投げかけている戦争も
その多くは強き「ホモ・エコノミクス」が
お金を背景にした権力を得るために起こしているものだ
イラク戦争やリビア戦争の背景にもお金があり
戦争商人たちが「平和」を唱えながら武器を売っていた
平和のために戦えと

はたして最強の「ホモ・エコノミクス」の方々は
じぶんの商売の先にどんな理想を見ているのだろう
みずからが魔王とならんがための営為なのかそれとも・・・

■重田 園江
 『ホモ・エコノミクス /「利己的人間」の思想史』
 (ちくま新書 筑摩書房 2022/3)

(「はじめに「社会に出ること」のとまどい」より)

「どこに就職したいのか、どんな仕事をしたいのか、明確に定まっている学生は少ない。たいていは企業や業界の数が多すぎて、そこからどうやって業種を絞ったらいいか分からないという。「じゃあ何か仕事に希望とかあるの」と聞くと、意外な答えが返ってくる。それは「人の役に立つ仕事がしたい」というものだ。
 この答えはびっくりするほど多くの学生から返ってくる。最初は「奇特な人がいるもんだ」と思っていたが、途中で考えを改めざるを得なくなった。二〇歳前後の大学生の中に、人の役に立つ仕事をしたと思っている人がかなりの割合でいるのだ。彼らはやがて悩みつつも社会人になる。」

「学生たちが悩んでいるのは、一方でそうした道徳的にも首肯されるいわば慎ましい願いを持っているのに、就活で要求されるのがそれとはかなり異なった価値観に思えるからだろう。たとえばエントリーシートで「盛る」ことをはじめとして。「学生時代に力を入れたこと」をアピールするために、自分を実際以上に大きく見せなければならない。彼らは高く売れる人材でなければならないのだ。企業は利益を出さないと存続できないのだから、「使える」人材を採用したいのは当然だろう。だがここで、学生たちは突如として資本主義の荒波にもまれているような感覚に苛まれるのだ。自分の「売り」とはなんだろうか。そもそも自分を売るってどういうことなのだろう。」

「ではこの、まったくもって自明の存在とは言えない自己利益の主体はどこから出てきたものなのか。そしてどんな役割を、この社会で果たしてきたのか。」

(「第一章 富と特」より)

「自分の利益を第一に考えて行動することは、現在ではごく普通だ。」

「お金を目ざすこうしや行動様式は、経済行動としてはごく一般的なものだ。だがそれは、近代以前にはそれほど目立った人間像ではなかった。」

「いまの社会では、金持ちはなぜだか一段と高いところに位置している。金持ちは尊敬されたり、そうなりたいと思われたりする。ところがこれもまた、近代以前には一般的な価値観ではなかった。現代でも、金持ちであることは両義的な感情を呼び起こす。(・・・)
 ホモ・エコノミクスとは(・・・)行動のいちいちに経済的な無駄を省き、できるだけ儲かるように合理的計算に基づいて意思決定する主体である。これは自己利益の主体とも呼ばれるが、ここで金儲けは肯定的に捉えられている。肯定的というか、人間が生きていく上で当然の行動様式とされているということだ。そしてそれに成功した人は尊敬に値する。ホモ・エコノミクスの社会では皆が金持ちを目指し、その企てが成功すると多くの人に評価され羨ましがられるのだ。
 いまでは当たり前に思われるこの価値観は、実はそれほど古いものではない。しかもそれはかなりの抵抗に遭い、すんなりとは受け入れられなかった。(・・・)
 この時代に至るまで、ヨーロッパのモラルはキリスト教道徳に従ってきた。そしてこの道徳は、金儲け、とりわけ利子を取ることによって金銭を蓄積し、それを再投資して資本を殖やしていくような生の様式を非常に嫌っていた。ここでは、自己利益を目指して行動するのは、人としてよくない生き方、貪欲に従属する生ということになる。逆に言うと、厳然たる支配を保っていたキリスト教的価値観の中で、金儲けへの道徳的な抵抗感がなくならなければ。資本主義の利潤獲得が世界を席巻する現代に至る道は開けなかったのだ。」

(「おわりに 人間はどのような存在でありうるのか」より)

「富の追求はそう簡単に人間的価値として受容されたわけではなかった。それはいまでも同じだろう。ホモ・エコノミクスなど、ある意味ではオワコンの極みだ。富を追い求める人々は、貧困にあえぐ多数者、また未来世代や地球環境などお構いなしに、いまここで自分に富をもたらしてくれる相手と機会だけに関心を持つ。あるいは自分以外の存在を、そういう対象としてのみ扱う。(・・・)それなのに、相変わらずホモ・エコノミクスはじわじわといろいろな場所に浸透し、世界を動かす原動力となりつづけれいる。私たちは知らぬ間に、その人間像を前提とした社会の「構え」にがんじがらめにされている。なぜこんなことが起こるのか。(・・・)
 ホモ・エコノミクスについて、経済学を少しでもかじったことがある人なら「なにをいまさら」と思ったかもしれない。というのは、経済学においてホモ・エコノミクス批判はありふれたものだからだ。(・・・)
 たしかにホモ・エコノミクスはさまざまに批判されてきた。(・・・)
 だが、批判がひっきりなしになされているにもかかわらず、ホモ・エコノミクスはしぶとく生き残っている。」

「ホモ・エコノミクスはそれが人間の自然であるかのように見せるレトリックをしばしば利用する・だが実際には、ホモ・エコノミクスはしぶとく強いのは、「人間の自然をそのまま受け入れている」からではない。人間がホモ・エコノミクスのふるまいとは言えない行動をとる場合があることは、誰にでもわかる。そのうえ歴史を繙くなら、近代社会以外にホモ・エコノミクスを見出すことは難しい。だからそれを「人間の自然」というのは無理がある。
(・・・)
 ホモ・エコノミクスはある種の規範性、そうであるべきという道徳的要請を伴って擁護されつづけてきたことになる。ただしその規範性は、同時にいくつかの仕掛けをとおして隠されている。そうした隠蔽は、とりわけ経済学が欲求の体系としての功利主義的な人間理解と結びつき、また数学化・科学化を追求することで、あたかも人間の自然を記述しているかのように偽装することで果たされた。」

「人はホモ・エコノミクスなどではない。このことは経済学の内外からくり返し主張されてきた。ならばなぜ、ホモ・エコノミクスは執拗に私たちにつきまとうのか。そこにマルクスの価値法則のような解き明かすべき秘密はない。あるのは言説の政治であり、科学の装いで飾られたレトリックであり、考えてみれば小さな営みだけだ。だが結果は甚大である。新自由主義的価値に基づくグローバル化によって、払われた犠牲、流された絶望の涙、破壊された自然と傷つけられた地球が、決して取り返すことができないのだから。」

「ホモ・エコノミクスの思想は巧妙な作りをしている。人間は自己の利益を最大化しようとするので、市場こそ最も優れた資源配分のあり方だ。人はホモ・エコノミクスなのだから、市場以外に財の公正な分配を保つ方法はない。あるいは、官僚は狭い利害に囚われて自分が属する省庁の権益拡大を図る。だから彼らの権力肥大化に歯止めをかけるには政治領域の市場化=民営化しかない。これは、根拠もないままに自ら想定した人間像に基づいて、都合のいい市場礼賛や脱政治化を強要する、論点先取の議論になっている。だが実際に、一九八〇年代以降こうした主張はメインストリームでありつづけてきた。
 では、ホモ・エコノミクスが仮構され単純化された人間像にすぎないとするなら、人間とはいったいどんな存在なのだろう。どんな存在でありうるのだろう。この問いへの答えは、一つは過去にたずねるねき事柄である。人間はこれまでどんな存在であったおか。これを考える際、ひとりぼっちで野原をさまよい、偶然出会った見知らぬ人と突如として物々交換をはじめる主体など想像しないように気をつけよう。そんな空想にふけるのではなく、歴史に問いかけること、時代も場所も異なるさまざまな社会についての、記録され、口伝えされた生活に耳を澄まし、目を凝らすことが必要だ。
 そしてまた、人間はどのような存在であり、どんな存在でありうるのかについての、これまでに積み重ねられた哲学的・宗教的思索に問いかけるべきである。」

「経済学は人間を抽象化・単純化することで科学としての地位を築こうとした。そこで切り捨てられた人間の多様性とはどんなものなのか。そして、はじめに抽象化・単純化があったこと、それによって語りうることに当初は慎重な限定が付されてきたことを忘れて、経済学の前提と知見を拡張するのは危険であることを、いつも心に留めなければならない。」

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