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村澤和多里・村澤真保呂『中井久夫との対話』『異界の歩き方』/R.D.レイン『引き裂かれた自己』

☆mediopos3593(2024.9.20)

澤和多里・村澤真保呂
『異界の歩き方』をとりあげた
mediopos3585(2024.9.12)では
精神科医R・D・レインについて
ふれることができなかったので

同著者による『中井久夫との対話』からの紹介も含めながら
その「反精神医学」についてとりあげておくことにしたい

「反精神医学」は
「一言でいえば、伝統的正統的主流的精神医学の
狂気観に対する根本的な異議申し立て」(笠原嘉)であり

一九五〇年前後に流行した
電気ショック療法やロボトミー手術といった治療の根っこにある
「精神病は脳病である」(グリージンガー)という思想を批判し
統合失調症の社会的側面に光を当て
代替的な医療アプローチの可能性を示唆することになった

「反精神医学」という言葉は
アメリカのD・クーパーの著作からのものだが
その代表的な存在として挙げられるのが
イギリスの精神科医R・D・レインである

クーパーもそしてレインも
統合失調症について
「家族が患者を一種のスケープゴートに
仕立てることによって生み出されると論じ」

「精神医学はスケープゴートにされた患者に
「調合失調症」というレッテルを貼ることで、
社会的排除を推し進めていく統制システムである」
として批判を加えている

しかしレインたちは
実際の治療における方向性や手法を
明確に示すことはできず
レインの「キングスレイ・ホール」をはじめとした
「患者と医療者による治療的共同体の試みは、
結果として挫折」していくことになる

レインの処女作『引き裂かれた自己』は
「「存在論的な不安定」を抱える統合失調の人が
「統合失調症」に至るプロセスについて語ったもので
「私たちの誰がなってもおかしくないプロセスとして
現象学的観点から描写」されている

そのタイトルとなっている「引き裂かれた自己」には
ふたつの意味が込められている

ひとつは「脆い心をもった人々」が
「世界に飲み込まれたり、逆に世界が
内面に侵入してきたりうることへの恐怖のため、
世界との関わりが引き裂かれてしまっている」こと

もうひとつは「真の自己」の崩壊を防ぐために、
表面的に世界との関わりを維持していく
「にせ自己」を発展させるために、
自己がふたつに引き裂かれる」ことである

「そして追い詰められた「真の自己」は
最終的に自爆を余儀なくされてしまう」・・・

統合失調症に至るそのような「物語」が描かれているが
レインはその後
そうした統合失調症という経験の分析から
治癒のプロセスへと重心を移し
「「真の自己」のゆくえについて、
新たな視点からふたたび焦点」を当てるようになる

レインは「統合失調症は本来「自然な」プロセスであり、
それを「社会」が抑圧することが
「患者」と「症状」をつくりだし、
その状態を固定化するのであるから、
逆に患者を社会から解放して「自然」へと戻すなら
「症状」はおのずと治療に向かうはずだ」と主張する

そして治療共同体(キングスレイ・ホール)において
その実験的な取り組みを行うが挫折

その後東洋への旅に向かい「ヨガや禅に触れ、
しだいに神秘思想への関心を深めてい」くことになる

レインは「死と再生」という考え方を好み
統合失調症を「過去」そして「内面世界」への旅として
イメージしていたという

「内面の深奥へ、
生まれる以前へと退行していくことによって、
理性では理解しえない「生の事実」に触れ、
魂が浄化されていくようなビジョン」である

かつてトランスパーソナル心理学(ケン・ウィルバー)で
「プレ(前)」と「ポスト(後)」の錯誤が論じられていたが
まさに「退行」としての「プレ」へと遡ることを
「生の事実」に触れることだと錯誤していたのだろう
レインのヴィジョンは
「ポスト」として位置づけることはできないと思われる

ちなみに精神科医の中井久夫は
レインに対しその主張に深く共感しながらも
その「急進性と独善的態度に危機感を表明」している

さて「反精神医学」は挫折していったが
「既存の精神医学が内包する権力構造そのものが
「患者」をつくりだしている側面を批判し、そのような
精神医学のあり方から脱却することを主張」することで
「その後のさまざまな学術分野にも影響を与え」ていった

『異界の歩き方』の著者は
「社会的権力とペアになるもうひとつの問題」である
「社会的権力が「患者」をつくりだし、
その「狂気」を治療不能なものとして固定化するとしたら、
逆にその治癒を可能にするものは何なのか、という問題」が
重要だと示唆を加えている

以上今回はレインに代表される「反精神医学」について
その概略をまとめてみたが
ガタリおよび中井久夫のアプローチについては
あらためてその概略をとりあげてみることにしたい

■村澤和多里・村澤真保呂『中井久夫との対話——生命、こころ、世界』
 (河出書房新社 2018/8)
■村澤和多里・村澤真保呂『異界の歩き方――ガタリ・中井久夫・当事者研究』
 (シリーズケアをひらく  医学書院 2024/9)
■R.D.レイン(天野衛訳)『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(ちくま学芸文庫 2017/1)

**(『中井久夫との対話』〜「第一章「精神科医」の誕生」より)

・反精神医学

*「精神医学は、「試しに実施したら良くなった」という実績のみに依拠しつつ、はっきりした科学的根拠を欠いたまま、脳や神経系への介入を急速に進めていった。このような「正統精神医学」にたいして、一九六〇年頃には、欧米で「反精神医学 Anti-Psychiatry」という潮流が登場する。

 この潮流の代表的な論者の一人にイギリスの精神科医R・D・レインがいる。彼の著作を多く翻訳した笠原嘉によると、反精神医学は「一言でいえば、伝統的正統的主流的精神医学の狂気観に対する根本的な異議申し立て」である。ただし、「反精神医学」という言葉自体はアメリカのD・クーパーの著作に由来する。他にこの運動の代表的論者としてはT・サズ、M・マノーニなどが挙げられる。

 レインもクーパーも精神病(とくに統合失調症)を、家族が患者を一種のスケープゴートに仕立てることによって生み出されると論じており、また、精神医学はスケープゴートにされた患者に「調合失調症」というレッテルを貼ることで、社会的排除を推し進めていく統制システムであると批判している。つぎのレインの一文は、反精神医学の立場を明確に述べた有名なものである。

  (『経験の政治学』)
  「分裂病」という「状態」など存在しはしないのです。分裂病というレッテルを貼られることは、一つの社会的事実であり、この社会的事実とは一つの政治的出来事です。社会における市民的秩序の中でおこっている、この政治的出来事は、レッテルを貼られた人間の上に一定の定義と結論を押しつけます。分裂病というレッテルを貼られた人間は、彼に対して責任をもつべく監督下に。それも法律的に是認され医学的に権能を与えられ道義的に義務づけられた他者の監督下におかれますが、こうした一連の社会的行為を正当化しているのは社会の指令なのです。レッテルを貼られた人間は、家族、精神衛生関係者、精神科医、看護師、家庭医、ソーシャルワーカー、そうしてしばしば仲間の患者たちも加わっての一致した連携「共謀行為」によって、患者として人生の道程を歩みはじめさせられるのです。

 反精神医学運動は、一九五〇年前後の電気ショック療法やロボトミー手術が流行した時期に、それらの横暴な治療の根本にある思想——「精神病は脳病である」(グリージンガー)——を批判し、統合失調症の社会的側面に光を当てることで代替的な医療アプローチの可能性を示唆したという点で画期的であったといえるであろう。しかし、彼らはその方向性や手法を明確に示すことはできなかった。クーパーの「ヴィラ21」やレインの「キングスレイホール」をはじめとする患者と医療者による治療的共同体の試みは、結果として挫折していった。

 反精神医学の旗手としてのレインにたいする中井の態度は両義的である。中井は一方でレインの主張に深い共感を寄せながらも、他方ではレインの急進性と独善的態度に危機感を表明している。」

**(『異界の歩き方』〜「第4章 レインと「反精神医学」の試み」より)

・「反精神医学」の登場

*「「反精神医学」というのは1960年代に西側諸国を中心に展開された、当時の精神科医科に対する大規模な批判運動のことである。

 もともとは精神病院への非人道的な隔離に反対し、精神疾患をもつ人の地域移行を目指すものであったが。その過程で左翼運動と結びついて社会的な抑圧装置の代表として精神医学の大系そのものを批判するようになっていった。精神科医の笠原嘉は、反精神医学とは「一言でいえば、伝統的正統的主流的精神医学の狂気観に対する根本的な異議申し立て」であるとまとめている。

・R・D・レインの登場

*「(レイン)はもともと精神分析を基本にした精神療法を学んでおり、はじめから「反精神医学」の道を進んだわけではない。思索の過程で、徐々に反精神医学へと傾斜していき、最終的にそこからも逸脱していく。」

・引き裂かれた自己

*「(1960年ころ)にレインは、処女作『引き裂かれた自己』を発表したことにより華々しい思想界へのデビューを飾った。

 その内容は、「存在論的な不安定」を抱える統合失調症(スキゾイド)の人が「統合失調症(スキゾフレニー)」に至るプロセスについて語ったものである。しかし、この書物を大きく特徴づけるのは、それを「了解可能なもの」、つまり私たちの誰がなってもおかしくないプロセスとして現象学的観点から描写したところにあった。それゆえにこの書物は多くの人々の共感を呼んだ。

 この衝撃的なタイトル「引き裂かれた自己」には、ふたつ意味が込められている。ひとつは、先述のように脆い心をもった人々は、世界に飲み込まれたり、逆に世界が内面に侵入してきたりうることへの恐怖のため、世界との関わりが引き裂かれてしまっているということである。

 もうひとつは、「真の自己」の崩壊を防ぐために、表面的に世界との関わりを維持していく「にせ自己」を発展させるために、自己がふたつに引き裂かれるというものである。この分裂が進むと、体系化された「にせ自己」によって「真の自己」は制圧されて、やがて現実の身体的存在からは「気化」していく。そして追い詰められた「真の自己」は最終的に自爆を余儀なくされてしまう。レインによると、統合失調症への移行はこのように起こるのだという・

 なんとも痛ましい物語であるが、いまでは、統合失調症の病理についてレインの理論を支持する人はほとんどいないだろう。しかし、日本においては、(筆者も含めて)この書物に感銘を受けて精神医療の途を志した者も少なくないといわれている。」

・「真の自己」のゆくえ

*「『引き裂かれた自己』や家族のコミュニケーション研究においては、統合失調症という経験の分析に焦点があったが、そこから治癒のプロセスに重心が移っていく(・・・)。それと共に、処女作においては悲観的なヴィジョンしか語られなかった「真の自己」のゆくえについて、新たな視点からふたたび焦点が当てられるようになる。」

「レインによれば、統合失調症あるいは「狂気」は、個人が社会的に共有された客観的な「外的世界」から何らかの理由で一時的に離脱し、「内的世界」の旅路に入った後、ふたたび「外的世界」へと帰ってくるという「プロセス」である。また、それは非西欧的社会における「成人儀式(通過儀礼)」や近代以前の宗教的社会における人々の経験にみられたもので、「死や生を与えることや生を与えられることと同様に、自然なこと」だからである。

 しかし、精神医学がその人を「患者」として扱い、その「内面世界の旅」を薬や監禁(入院)」によって無理やりに止めてしまうと、その人はもはや「内的世界」に閉じ込められたまま「外的世界」へ戻ることができなくなり。その後の人生をずっと「患者」として過ごすことになる。

 このように自然のプロセスが中断されることで人為的に「患者」という状態や「症状」がつくりだされるのだとしたら、精神医学のこれまでの治療についての考え方は根底から見直されなければならないことになる。」

「レインの主張は、統合失調症は本来「自然な」プロセスであり、それを「社会」が抑圧することが「患者」と「症状」をつくりだし、その状態を固定化するのであるから、逆に患者を社会から解放して「自然」へと戻すなら「症状」はおのずと治療に向かうはずだ、というものである。

 しかし、具体的にそれはどのようにすればよいのか、本質的に社会的存在である人間にとって現実にそれは可能なのか・・・・・・。レインの実験的な治療共同体(キングスレイ・ホール)の取り組みはこの問いに答えようとする試みだったように思われる。

・キングスレイ・ホール

*「不思議なことに、レインはキングスレイ・ホールでの体験について、『家族の政治学』に収録されている簡単な報告をあげているのみで、他の著作ではほとんど触れていない。しかし、この5年間にレインが失ったものがあまりにも多かったことは事実である。同志だったエスターソンがレインのもとから去り、バーンズの伴奏者だったバーグも去っていった。1966年には妻と5人の子どもたちとも別れている。

 そしてキングスレイ・ホールの実践を終えてすぐに、レインは東洋へと旅立った。」

・時代の思想として

*「1970年代に入って、反精神医学の勢いは急速に鈍っていった。しかし、それは単純な敗北を意味しているのではなく、レインの主張は精神医学を超えてさまざまな領域に影響を与えた。」

「反精神医学は既存の精神医学が内包する権力構造そのものが「患者」をつくりだしている側面を批判し、そのような精神医学のあり方から脱却することを主張した。つまり既存の精神医学は、精神に不調をきたして社会適応が難しくなった人を「患者」とみなし、薬物の大量投与と監禁により収益を上げるばかりか。その「患者」の治療と社会復帰を不可能にする装置になっている、というわけである。

 反精神医学は、そのような主張をつうじて既存の精神医学界に反省を促すとともに、同時期の学術的潮流と結びついて、権力による抑圧からの解放を求める当時の労働運動や学生運動。さらにその後のさまざまな学術分野にも影響を与えることになった。」

*「筆者の観点からみて重要なのは、それ(社会的権力)とペアになるもうひとつの問題。すなわち社会的権力が「患者」をつくりだし、その「狂気」を治療不能なものとして固定化するとしたら、逆にその治癒を可能にするものは何なのか、という問題である。」

・「反精神医学」の終焉

*「レインたちは1970年5月までキングスレイ・ホールを借り受けるという契約を結んでいた。しかし契約期間中に契約者が死亡したためにそれ以上の更新ができなくなってしまい、3月の時点でキングスレイ・ホールでの治療共同体の実践は終了した。その後、レインは東洋の旅のなかで、ヨガや禅に触れ、しだいに神秘思想への関心を深めていった。

 レインはそれまでも「死と再生」という考え方を好んでいた。レインにとって、統合失調症は死と再生をめぐるイニシエーションを具体的に証明するような格好の例であったといえるだろう。

 東洋への旅を経て、レインは誕生以前の段階に「生」の真実があると確信した。1976年に出版された『生の真実』は、自伝的な文章、観察日記、会話などが入り混じった奇書であるといってよい。しかし、それは一貫したイメージに貫かれており、それは出産される時に傷ついた生が、再び主体的に生まれ直すことによってより十全なものになっていくというものである。そのようなプロセスをレインは夢想したようである。

 レインは「瞑想家的隠遁者」になったようにも見えるが、その基本的な思想の枠組みは大きくは変わっていない。レインは、統合失調症を旅のプロセスとしてとらえたが、それは一貫して「過去」そして「内面世界」への旅としてイメージされていた。

 内面の深奥へ、生まれる以前へと退行していくことによって、理性では理解しえない「生の事実」に触れ、魂が浄化されていくようなビジョンは、それこそがレインにとっての落とし穴であったのだろう。」

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