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『ヴィヨン全詩集』/中務鉄郎「宮下志朗訳『ヴィヨン全詩集』(国書刊行会)を読む」/太宰治『ヴィヨンの妻』

☆mediopos3185  2023.8.7

かつて「ヴィヨン」の名を
はじめて耳(目)にしたのは
太宰治の『ヴィヨンの妻』だが

そこで「ヴィヨン」の名がでてくるのは
無頼派詩人・大谷の妻が
電車の天井からぶらさがっている雑誌の広告に
「フランソワ・ヴィヨン」という題の論文に
夫の名を見つけたというところだけである

フランソワ・ヴィヨンのことを
知っていても知らずにいても
どうもヴィヨンが怪しそうな人物だということは
伝わってくる

ヴィヨンの生涯について知られているのはわずかで
一五世紀フランスの詩人(一四三一年生まれ)
パリ大学で学ぶが喧嘩で人を殺し各地を放浪
恩赦でパリに戻るが悪い仲間と盗みを働き
投獄と釈放を繰り返しながら
遂に絞首刑の判決を受けたが控訴して
命は助かったものの
「悪しき生きざまにより」パリ所払いを言い渡され
その後消息がわからなくなった

なおパリ所払いになったのが一四六三年で
その二〇年後の一四八三年に
あの『パンタグリュエル物語』の
ラブレーが生まれている
そんな時代の詩人で悪党がヴィヨンである

そのヴィヨンの「全詩」の訳が
宮下志朗によって刊行されたのを機に
これまで断片的にしか読んでいなかったヴィヨンの詩を
まとまって読んでみることにしたがこれが面白い

詩の代表作は『遺言書』で
じぶんが絞首刑になることを想定して
書かれた二千行を超える長編詩である

それ以前に「形見分け」という詩もあるが
「中世の人びとには、その所有物のいっさいを、
どんなにつまらぬものにいたるまでも、ひとつひとつ、
たんねんに、遺言書によって遺贈する習慣があった」
(ホイジンガ)ということで
そのパロディとして書かれているといえる

その詩の形式は
主に八音節八行詩のバラードで
それは当時においても古くさい形式だったという

「中世の秋」であるその時代は
「ルネサンス絵画」にみられるように
文化的な革新の時代ではあったが
詩の分野では「保守の時代」だった

ヴィヨンの詩は革新的な詩型ゆえに
偉大な詩とされたのではなく
もっとも古くさい形式を最大限に使いながら
「「わたし」の生の軌跡を詩の主題」にし
「優雅さや優美さとは無縁の地点に立って、
個人の声を響かせて、個人の生きざまを語」ったことが
現代にまで読み継がれている理由のようだ

中世ヨーロッパ最高の詩人といわれているヴィヨンは
「弱く、卑怯で、嘘つき」で
「背徳・退廃において巧み」だったが
「まさにこの背徳・退廃から、
彼のもっとも美しい詩の数々が生まれた」のだという
(マルセル・シュオッブ)

ヴィヨンは宗教家ではないのでおそらくは
「背徳・退廃」を悔い回心することはなかっただろうが
泥のなかから不思議な美しい花が咲くように
それらの生々しいまでの詩は生まれたのだ

さて太宰治の『ヴィヨンの妻』は死の前年の作品である
「ヴィヨン」にどんな意味こめられたのかわからないが
ヴィヨンの生きざまがなにがしか反映されてもいるだろう

ちなみに「形見分け」「遺言書」という発想を
あらためてじぶんごとのパロディとして
それをバラードにしてみるのも面白そうだ

ヴィヨンはずいぶんヘンテコな形見だらけだったが
じぶんはどんな「形見」が遺せるだろうか
「ご笑納ください」とか言いながら・・・

■フランソワ・ヴィヨン(宮下志朗訳)
 『ヴィヨン全詩集』(国書刊行会 2023/4)
■中務鉄郎「宮下志朗訳『ヴィヨン全詩集』(国書刊行会)を読む」
 (『図書新聞』2023年7月29日)
■太宰治『ヴィヨンの妻・人間失格』(文春文庫 2009/5)

(中務鉄郎(京都大学名誉教授)「宮下志朗訳『ヴィヨン全詩集』(国書刊行会)を読む」より)

「詩人の生涯は、当時の事件記録や尋問調書と作品を結びつけて、およそ次のように想像されている。フランソワ・ヴィヨンは一四三一年、パリに生まれた。これは英仏百年戦争の末期、ジャンヌ・ダルクがルーアンで火刑にされた年であるが、この頃のパリは、凶作と戦乱に苦しむ農民が流入して、市民の十人に一人以上が乞食・放浪者であったばかりか。森で飢えた狼までも出没する巷であった。ヴィヨンは父なし子で、司祭ギョーム・ド・ヴィヨンに育てられ、パリ大学学士号を得るまでになるが、喧嘩相手を殺してパリを出奔、恩赦を得てパリに戻るが、悪い仲間を語らってナヴァール学寮から大金を盗み出し、発覚するまで地方宮廷でも活動した。その後も投獄と釈放を繰り返し、遂には喧嘩に連座して絞首刑の判決を下されるが、控訴して命はとりとめるものの、「悪しき生きざまにより」十年間のパリ所払いを言い渡され、その後の消息はふつと途切れてしまう。」

「本書の内容であるが、伝統に従って『形見分け』『遺言書』『雑詩篇』の順で進む。『形見分け』は八音節八行の詩節が四〇篇。つれない女に死ねとまで言われた「わたし」は、愛の殉教者として愛の牢獄から遠くへ逃げ去ることを決心するが、生きて帰れるかどうかも分からぬ故、各方面に形見分けをしておく、という構想である。中世には貧しい人もつまらぬものでも一つ一つ遺贈する習慣があり、本作はそのパロディとされる。育ての親には「わが評判」を残すが、それは人殺しの評判ということになる。恋仇もしくは同性愛の相手には剣を遺贈するが、その剣は飲み屋の形に取られているから、借金を返してから請け出して欲しいと言い添える。行きつけの床屋には切った髪を残して行く、など人を食った形見分けをするうちに夜九時の金が鳴り、祈っていると意識朦朧となり、気がつけばインクは凍り、蝋燭も終わりかけていた、と詩は言う。時は一四五六年のクリスマスの頃、時刻はあたかもヴィヨンたち五人がナヴァール学寮に盗みに入った時に重なる。犯罪を犯した時刻に『形見分け』を書いているという設定は豪胆と言えば豪胆。ここでは心神喪失という陰画の形で犯罪が語られているのではないか、と訳者は推測する。」

「『遺言書』は八音節八行の詩節が一八六篇、随所にバラード等の定型詩が二〇篇ほど挟まれ、総数は二千行を超える。この作品は遺言という語に旧作のバラード群を嵌め込んでヴィヨンの詩業の集大成としたもので、『形見分け』がその発想の母型となっている、と訳者解説する。このような構想の長編詩から、私は『伊勢物語』を連想する。こちらは稀代の色好み在原業平の一代を歌と挿話で綴った作者不詳の歌物語であるが、『遺言書』は、マン=リュル=ロワール(オルレアンの西方)の過酷な牢獄を出たものの、もはや世にあることも長くないと感じたヴィヨンが、「わたし」を語り手にして愛の殉教者の晩年の思いを吐露させた歌物語、という風に考えられないであろうか。

 『遺言書』は「わたし」を投獄したオルレアン司教ティボー・ドシニーへの憎しみの表白で始まるが、一七詩節以下、アレクサンドロス大王とディオメデスの挿話でキーワードが提示される。大王がこの男を海族として処刑しようとすると、男は、小さな船で海を荒らせば海族、軍隊で世界を荒らせば大王、極貧ゆえに罪を犯すのも運命だと訴え、大王に悪運を幸運に変えてもらう。自分にも運命を変えてくれる大王のような人がいたらと回顧しながら、「それにしても、わたしは青春の日々を後悔している」(二二詩節)と青春ノスタルジーに移ってゆく。若い日々の遠く消え去るのは「織物職人が/布きれのはじっこに/火のついや藁をかざした時のよう。/はみ出た糸があると/あっという間に燃えてしまう」(二八詩節)、比喩の巧みも際立っている。

 そして、遊び仲間は今いずこの思いは、「それにしても、去年の雪はどこにある?」のルフランで名高い「その昔の女性たちのバラード」を導く。年老いて稼ぐに稼げなくなった女の、「わたしたちはなんのために、なぜ/早く生まれたのでしょう」(四六詩篇)という嘆きは倒錯していておかしい。四七詩節からは兜屋小町の老残の嘆きであるが、全ての男を手玉にとりながら一人の悪党に入れ上げた女の今は、「やだやだ!太ももなんて、/太ももじゃなくて細ももさ」(五五詩節)と訳も快調である。

 七八詩節からようやく遺言が始まるが、「わたしの肉体を/われらの偉大な母なる大地に贈る。/うじ虫には大したごちそうになりそうにないがね」(八六詩篇)といった具合。しかし、母親に贈る詩として挟まれる「聖母マリアに祈るためのバラード」は絶唱で、注解はゴーティエやヴァレリーの賛辞を紹介してくれる。

 遺言が終わると、ふざけた埋葬場所の指定があり、一七八詩節「墓碑銘」で、「ここ、上の部屋に眠るのは/愛の神の矢で殺された/貧しくも、しがない学生/その名はフランソワ・ヴィヨン」と、初めてフルネームが明かされる。「結びのバラード」では、「ヴィヨンの弔いの鐘が聞こえたら、「みんな、彼の葬式に来ておくれ」と呼びかける。この後に更に「友人たちへの手紙のバラード」と「運命のバラード」が置かれるのは本書の独特なところで、これは本書が底本としる写本に忠実に従う結果である。

 最後に私が深い印象を受けたのは、あの世からこちらを見るヴィヨンのまなざしでる。「絞首罪人のバラード」(『雑詩篇』の中)では、絞首台にぶら下がり雨に洗われ陽に焼かれる「おれたち」五、六人が、まだ生きている人間兄弟たちに語りかけるが、「おれたち」は『遺言書』の「わたし」でありヴィヨンその人でもある。死など恐れぬげに犯罪を重ねてきたヴィヨンが、死をいかに深く考えていたかがここから窺えるのではなかろうか。

 齢三〇にして見るべきほどのものは見尽くした詩人の、生のはかなさへの諦観と、なお残るこの世への恨みと愛情。そして後悔慚愧を詩に昇華する意志と言葉の巧み。そのようなことを本書を読みながら味わえたように思う。」

(『ヴィヨン全詩集』〜解説「Ⅰ ヴィヨン————その人生と伝説」より)

「フランソワ・ヴィヨンという詩人。その生涯についてわれわれが知りうることはまことに少ない。「ヴィヨン伝説」に比して、はななだ少ないのであるる。ヴァレリーの喩えを借用するならば、「レンブラントの絵」さながらで、「大部分が闇の中に沈み込み」ながらも、いくつかの断片が「異常な鮮明さと、ぞっとするほどくっきりとしたディテールでもって、ぬっと現れる」(ヴィヨンとヴェルレーヌ)といった体のものである。」

(『ヴィヨン全詩集』〜解説「Ⅱ−1『形見分け』」より)

「まずは「形見分け」である。ホイジンガが、「中世の人びとには、その所有物のいっさいを、どんなにつまらぬものにいたるまでも、ひとつひとつ、たんねんに、遺言書によって遺贈する習慣があった」(『中世の秋』[ホイジンガ])と語ってある貧しい女の例を挙げている。一見してつまらないものだって、その当人にとっては重要な意味を有しているのだし、つまらないものを贈ることが、深い意味や詩や心を秘めていることもある。ヴィヨンはこうした心性や習慣を逆手にとって、遺言書のユニークなパロディをものした。」

(『ヴィヨン全詩集』〜解説「Ⅱ−2『遺言書』」より)

「『遺言書』は優に二千行を超える長編詩にして、ヴィヨンの代表作である。」

「バラードなどの定型詩もまじえて展開される『遺言書』という長編詩を読んでいると、全編を通しての、「わたし」による「語り」という様相が立ち現れると同時に、こうした「語り」が、「叙情的(リリカル)」なものといかなる関係を取り結ぶのかといったことを漠然と考えさせられる。」

(『ヴィヨン全詩集』〜解説「*」より)

「ヴィヨンが駆け抜けた「中世の秋」は、文化的には大きな革新の時代の始まりで、このことは「ルネサンス絵画」を思い起こせば想像がつく。ところが、詩の分野は事情が異なり、どうやら保守の時代であったらしい。碩学ズムトールは、こう述べる。

  ヴィヨンは一見して、われわれにすごく近いから、その作品を読む現代の読者は思い違いしかねない。実際は。(「大押韻派」の詩人たちを除けば)、中世末の偉大な詩人たちは、みな保守的なのであった。(中略)詩においては、変化は緩慢であった。(中略)ヴィヨンは表面的な革新には興味がなかったのだ、(中略)だから、八音節の八行詩、バラードという、その時代の古臭い形式しか使わない。(「Zumthor」)。

 となると、詩人ヴィヨンは、古い皮袋に新しい酒を入れたのか。

(・・・)

 中世末の詩の小宇宙では、ホイジンガ流に言うならば、「新しい形式と新しい精神とは、たがいにしっくりと重なり合ってはいなかった」(『中世の秋』[ホイジンガ])らしい。では、このような状況————花田清輝の「転形期における分裂した魂の哀歌」とも少し重なるかもしれない。(「楕円幻想」)————にヴィヨンを置き直してみたとき、どうなるのか。彼は「大押韻派」ではない。ズムトールが述べたように、「八音節の八行詩、バラードという、その時代のもっとも古くさい形式」しか用いなかったのだ。しかしながら、これを最大限に活用して、「わたし」の生の軌跡を詩の主題と思い定めて、「フランソワ・ヴィヨン」という固有名の元に統合しようとしたのである。そればかりか、「隠語詩篇」にも手を染めて、折り句(アクロスティッシュ)で書名した。優雅さや優美さとは無縁の地点に立って、個人の声を響かせて、個人の生きざまを語るところ————これが詩人の目指すところであった。本人自身が、落魄の、ちょっと道化たインテリであったのかどうかまではわからないが。

(・・・)

 ズムトールは、「ヴィヨンはもはや詩を信じてはいない」とまで断定したが。それはどうなのだろうか。新しい世界の機序が生まれ、従来の機序に対応していた「詩」が、詩的言語の再編成を迫られていたことは疑いない。けれどもヴィヨンは、一九世紀における「散文詩」のような革新をなしたわけではなかった。既存のフォーマットを活用して、「わたし」を中心に据えて、ときには軽妙に、ときには苛烈に炸裂してみせたのである。その「わたし」がとても親しい存在に感じられる。」

(太宰治『ヴィヨンの妻・人間失格』〜「ヴィヨンの妻」より)

「どこへ行こうとあてもなく、駅のほうに歩いて行って、駅の前の露天で飴を買い、坊やにしゃぶらせて、それから、ふと思いついて吉祥寺までの切符を買って電車に乗り、吊革にぶらさがって何気なく電車の天井にぶらさがっているポスターを見ますと、夫の名が出ていました。それは雑誌の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」という題の長い論文を発表している様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンという題と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつらい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。」

○『ヴィヨン全詩集』【目次】

形見分け
遺言書
雑詩篇
 註解
 解説
 ヴィヨン年表
 詩篇詳細目次
 あとがき
 関連古地図/書誌/写本と古刊本

◎フランソワ・ヴィヨン(François Villon9
15世紀フランスの詩人、泥棒、殺人者。

◎宮下志朗
1947年生まれ。東京大学・放送大学名誉教授。著書に、「本の都市リヨン」(大仏次郎賞受賞)、「ラブレー周遊記」、「神をも騙す」ほか。訳書に、「ガルガンチュアとパンタグリュエル」(読売文学賞受賞)ほか。

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