ミヒャエル・エンデ「考えさせられる答え」「強制する思考」 (『エンデのメモ箱』 )
☆mediopos3430 2024.4.8
久々に読み返した『エンデのメモ箱』から
「考えさせられる答え」
そして「強制する思考」について
ランダムに並べられているだろう「メモ」なので
このふたつは関連づけられたものではないだろうが
どちらも「魂の自由」と関係していると思われる
メモの具体的な内容のおおよそは以下に引用しているので
インディオの話などエピソード等はあえて省略するが
次のような内容である
「魂の自由」のためには
魂の歩く速度で歩かなければならず
「早く歩きすぎた」ときには
「魂が追いつくまで、待たなければ」ならない
また便利さや快適さを求めるあまり
魂を損ねてしまうような「りこう」さには
注意深くなければならない
科学的な「因果論的論理」に囚われることで
創造的なものを可能にする
〝今〟と〝ここ〟を失くしてしまい
「過去の世界の虜囚」となってはならない
この「メモ」は1996年に訳されているが
二十一世紀に入り
時代の狂騒はますます激しくなってきている
さまざまな「技術」が
次々とめまぐるしく更新され
それに追いついていこうとすれば
いつでもどこでも
スマホの画面を見続けている風景が
典型的なかたちで象徴しているように
どこかで「魂」は置き去りにされてしまう
置き去りにされた「魂」は
いまやどこにあるのかさえ見定めるのが難しい
「強制する思考」を超え
ChatGPTのように
「代行する思考」にさえなりかけている
わたしたちの魂は
それぞれの魂の進む速さで
着実に進んでいく必要があるにもかかわらず
「一人が駆ける速度を高めると、
みんな速く走らなければならない」ように錯覚し
それが「進歩」だとされ
「魂の自由」は失われていくことになる
じぶんを過度に大きく見せようとしたり
逆に小さく卑下してしまったりと
みずからの等身大の「魂」がわからなくなったとき
その空虚さに「悪魔」がはいりこみ
「魂の時間」を奪っていくことにもなる
過去からの因果でも未来への狂騒でもなく
常に〝今〟と〝ここ〟にいることではじめて
「魂」は創造的であることができる
そしてそこにこそ
「自由」の可能性はひらかれている
■ミヒャエル・エンデ「考えさせられる答え」「強制する思考」
(ミヒャエル・エンデ(田村都志夫訳)『エンデのメモ箱』 岩波書店 1996/9)
**(ミヒャエル・エンデ「考えさせられる答え」より)
*「もう幾年もまえの話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検行した学術チームの報告を呼んだことがある。携行する荷物の運搬のために、幾人かのインディオを強力として雇った。この探検全体にはこまかな日程表が組まれていた。はじめの四日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。だが五日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物をまた担ごうとしなかった。学者たちは賃金を上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅しさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。そのとき————二日過ぎていた————突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから。白人の幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人は次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった。
わたしたち、つまり工業社会の〝文明〟人は、この〝未開〟なインディオから多くを、とても多くを学ばなければならないと思う。外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった。個々の現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。舌を垂らしながら、わたしたちは他の者を追いかけ、駆けているが、しかしそれは狂気と化した円舞なのだ。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩と呼んでいる。
しかし、そんなに急いでわたしたちはどこから去ろうとしているのか? わたしたちの魂からだろうか? 魂なら、わたしたちはもうずいぶん遠くに置き残してきた。だが、そのためにできた空虚さは、身体をもまた病気にする。麻薬薬物や騒音に、失ったものの代わりを求めるのだ。クリニックや精神病院はいっぱいになる。魂を失った世界、これがわたしたちの目標だったのか? みんなで力をあわせて、この狂気の円舞を止め、ともに円陣を組んで地面の座り、黙って待つことが、本当にできないのか?」
*「もうひとつの答えは、先頃、文化人類学者の友人が話したことだ。この答えもまた、インディオの女性からえたものである。数多い旅のひとつで、その友人はある山に行き当たった。山の頂にインディオの村落があった。しかし、あたりにただひとつの泉は、山のすそ野にあった。村の女たちは毎日半時間かけて山を下り、水を満たした瓶を持ち、また一時間、山を登らねばならなかった。友人は女性に、はじめから村をすそ野の泉のそばに建てたほうがりこうではないかとたずねた。女性はこう答えた。「りこうだとは思いますが、楽をする誘惑に負けるのではないかとこわいのです」
この答えは、前の話の答えよりもさらに私たち文明人を当惑させるかもしれない。」
「聖書に奇妙に同じような文章を見つけた。「世界を手に入れても、魂をきずつければ何の得だろう」(「マタイ福音書」十六章二十六節)。ああ、魂がなんだというのだ! 魂など、とうの昔に道すがらどこかで忘れてきてしまった。未来の世界は完璧に楽で、完璧に本質を喪失した世界になるだろう。そう思いませんか?」
**(ミヒャエル・エンデ「強制する思考」より)
*「因果論的論理は、その対象が自然であれ人文であれ、科学一般の基礎である。しかし。この論理は、常にわたしたちのまえにあるもの、すでにできあがったもの、つまり結局は過去に関係する。かえりみると、すべてが必然的に見えるのは、周知のことだ。創造的なことは、いつも現在のこの瞬間にだけ成就され、その本質において因果関係がなく————そうでなければ、それは創造的でない————そのままでは知覚できず、だから認められない。人間の自由はあきらかなことだが、証明ができない。そして、どの論理もわたしに〝生きている神〟を信じるよう〝強制〟はできない。人のなかに、そしてこの世界のなかに、創造的なものを見いだすことは、すでにそれ自体が創造的な、つまり因果関係がない行為なのである。これが見えないのは一つの欠陥であり、感覚や思考から〝今〟と〝ここ〟が失われる。そのため、われわれは過去の世界の虜囚となるのだ。
だが、どのようなかたちでも————内なるかたちでも、いや、そのときにこそ————とらわれの身であることは人を攻撃的にする。自我が牢獄の壁に向かって暴れるようになり、しかしその壁が見えない。そして、まさにそのために、囲む壁はますますその厚みを増すのである。現代社会で、暴力への欲求が増えているのは、この内なる情況のあらわれにほかならない。
カフカの日記に次のような、妙な記入がある。「キリスト————刹那」。これはパラドックスのように響く。〝今、ここ〟にだけ非時間的なもの、永遠に創造的なもの、唯一人間を真に自由にするものがあらわれる。」