多賀 茂『概念と生/ドゥルーズからアガンベンまで』
☆mediopos2926 2022.11.21
ドゥルーズが言うように
「概念(コンセプト)」は
「内在平面」と関わっている
そして哲学者はその「概念」の創造に深く関わり
またその「概念」を「友」として生きている
「内在平面」といえば
私たちの内的な知的世界でもあり
その世界はさまざまな「概念」によって構成され
それが創造され変化することで
私たちの内的世界もまたさまざまに変化する
著者・多賀茂は本書のはじめでこう問いかけている
「哲学者の書いたものを読んで本当に世界の見え方が変わり、
さらに言えば人生が変わることがあるのだろうか」
著者は「「概念」は「生」と直に関わっている。
さらに言えば「概念」は「生」を変える力を持っている、」
というのが本書の主張である」という
そしてさらにおそらくは本書の結論として
著者は「宇宙の中に人間がいる」ということの意味を問い
人間は宇宙の中で「知を持った生命」であり
「宇宙は〈人間という〉
知能と意識を持った空間へと変化した」のだという
著者はそれほどに「知」を
そしてその「知」に深く関わり
「概念」を創造しそれとともに生きる哲学と哲学者を熱く語り
それ故に「私たちは宇宙人にならなければならない」と言い
さらに「人類登場以来の「知の歴史」の全体を引き受ける」
という使命をも持っているのだという
さてあらためてじぶんに問いかけてみることにする
「哲学者の書いたものを読んで本当に世界の見え方が変わり、
さらに言えば人生が変わることがあ」っただろうか
答えはそう簡単ではない
むしろこう答える必要があるのかもしれない
わたしは世界の見方を学び
それを創造的に変える契機とし
「世界を違うように見、
これまでとは違う生を生きる」ために
哲学者の書いたものを読みこれからも読み続けるだろう
だが「宇宙人」としてのわたしは
「哲学」が事とする「知」を超えるもの
「生」を超えたものをも求め
またこれからも求め続けていくだろうと
「わたし」がそれまでの「わたし」を超え
「宇宙」がそれまでの「宇宙」を超えていくためにも
■多賀 茂『概念と生/ドゥルーズからアガンベンまで』
(名古屋大学出版会 2022/3)
(「はじめに」より)
「哲学者の書いたものを読んで本当に世界の見え方が変わり、さらに言えば人生が変わることがあるのだろうか。「概念と生」というタイトルを本書につけたが、ここで言う「生」とは「人生」という言葉が通常意味するような、ある職業を選択したり、結婚したりしなかったりというような、いわゆる「人の一生」のことではない。現実に日々暮らす中で自身の周囲に見出される物たちや者たちとどのような関係を持ち、その関係にどのような働きかけをしているかというような意味で使っている。動物的な次元での生である「ゾーエ」と、人間的な次元の生つまり社会的生としての「ビオス」という対比が古代ギリシアにはあったが————そしてそれをジョルジ・アガンベンがさらに繊細に区別したが————、私の言う「生」は両者の中間とも言えるだろう。そして哲学的「概念」はまさにそうした次元での「生」に影響を与えることができる、ということを本書は主張する。万人に向けて人生論を述べようなどとは毛頭思っていない。身の回りの世界がこれまでとは違って見え始め、そこから何らかの変化は私たちの生に生じることだけを本書は目指している。あるいはむしろこう言うべきかもしれない。その概念を理解するということが、世界を違うように見、これまでとは違う生を生きることになるような概念を本書を取り上げていると。私が選んだ概念の創造主は、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、フェリックス・ガタリ、そしてイタリアからアガンベンといった人たちである。」
(「序 章 概念とは何か」より)
「「概念」とは何か。この世の様々な事象について考えようとする時、普段の生活の中で使っている言葉ではどうしても表せないようなことを言う必要が生じることがある。例えば、「愛」という言葉はどうだろう。「好きです」とか「一緒にいたいです」とかいう気持ちの中にある何かとても重要な感情をどう表せば良いのか。「愛」という言葉がそれを表しているとしたら、それこそが「概念」ということである。「概念」は抽象的なものであると辞書的には説明されそうである。なるほど「抽象する」とは、現実の様々な事象から具体的な個別の特徴などを取り払ったあとに残るものを抽出することである。しかしその残ったものが「現実的ではない」ということはない。「概念」は「生」と直に関わっている。さらに言えば「概念」は「生」を変える力を持っている、というのが本書の主張である。すべての概念というわけではない。概念はあくまでも「哲学的にものを考える」ための道具である。しかし概念の中には、それを理解した途端、私たちの生に大きな影響を及ぼす力を持つ概念がある。」
(「終 章 新たな「絶対」としての宇宙の中で」より)
「「宇宙の中に人間がいる」という状況はいったいどういう意味を持つのか。このことを私は考えてみたい。それは、「宇宙は〈人間という〉知能と意識を持った空間へと変化した」ということではないだろうか。宇宙の中にほんの小さな一点に生じた知的生命(ここで私は、「知的」という言葉を、宇宙を宇宙として認識できるほどの知能と意識を持ったという意味で使っている————ある程度の知能や意識を持つ動物は人間以外にもいるのだから)が宇宙そのものを意識し、そしてついに宇宙へと進み出た時、宇宙全体の存在様態が変化する。たとえ宇宙の果てまで行っても、人間という知能と意識を持った存在が宇宙のどこかに存在することには変わりがない。こうした視点の変更はなかなか納得しにくいかもしれないが、人間が宇宙人として宇宙の中にいるということはそういうことである。」
「「宇宙人とは結局私たち自身のことでしかないという可能性に立って」と先ほど言った。これは単なる言葉遊びではない。それは、宇宙において唯一であると想定される知能としての人間が、宇宙の広さに相当するほどの大きな使命を帯びているという重大な帰結をもたらす。そしてそれこそが、万物の「代わり」として生きるということである。しかしそのためには、私たちは決して今のままで良いわけではない。ドゥルーズの「生成変化」という概念をもう一度参照すれば、私たちは宇宙の万物と「地球人」との「中間領域」へと一歩踏み出していかなければならないと言うことができるだろう。「宇宙人とは私たち自身のことだ」という言葉の真の意味はそこにある。私たちは宇宙人にならなければならない。もちろん私たち地球人が、現在の状態のまま「宇宙人」になれるわけではない。「中間領域」へ出ることは常に困難なことである。私たちは私たちの生を変えなければならない・
しかももう一つの「使命」が私たちに課されていることも忘れてはならない。人類登場以来の「知の歴史」の全体を引き受けるということである。「知を持った生命」としてこの宇宙の中にたったひとり存在するかもしれない私たちは、宇宙の万物の「代わり」をしなければならないのと同時に、私たちがこれまでに作り出した「知」の総体、壮大なエピステーメーを引き受けて生きなければならない。個々の文明や文化を統合するのではない。そのそれぞれの個別性をそのままに引き受けつつ、守り育てていくことが必要である。私たちはこれまでの人類の歴史から「残った者」として生きなければならないのである。」
【目 次】
はじめに
序 章 概念とは何か
第1章 生成変化(ドゥルーズ)
第2章 エピステーメー(フーコー)
第3章 ミクロ権力(フーコー)
第4章 シニフィアン(ラカン)
第5章 中立的なもの(バルト)
第6章 4つの言説(ラカン) —— ジャン・ウリの思い出に
第7章 リトルネッロ(ガタリ)
第8章 パレーシアと別の生(フーコー)
第9章 内在(ドゥルーズ)
第10章 残りの時(アガンベン)
終 章 新たな「絶対」としての宇宙の中で
あとがき
参考文献
事項索引
人名索引
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