アラン・ケンドル 『アファンタジア: イメージのない世界で生きる』
☆mediopos2695 2022.4.3
「アファンタジア」とは
心的イメージを形成できない状態のことである
アは「a-」で「否定」を表している
著者のアラン・ケンドルは比較的最近(2016年)
55歳のときじぶんがアファンタジアであることを知り
アファンタジアというテーマに光を当てるべく
その語りで2017年に本書を著している
アファンタジアはその現れ方に個人差があり
その境界ははっきりしないものの
人口の2〜3パーセントに影響を及ぼしているという
アファンタジアの傾向をもっている人は
生活するなかで大きな不便は感じないようだが
そうした傾向をもっていない人たちは
じぶんが心的イメージをもつことについて
意識することはほとんどないようだ
イメージを
表象ということもあり
それをドイツ語ではvorstellenというが
まさにvor(前に)stellen(置く)
目の前に置かれているように
心のなかで描くということである
アファンタジアは
心のなかに像を置くことができないが
イメージするということは
像を置くことだけではないことが
アファンタジアからはわかる
著者のアラン・ケンドルは
イメージすることも
心的に物事を再生することもできるが
その再生の仕方が心的な像ではなく
「物事の抽象的な性質や特徴」であり
そこに「感覚や感情は伴っていない」という
直接に見聞きしたりすることに難はないが
それを心的イメージとして再生することができないために
それを抽象的に再生する際には
抽象化された形としてしか現れない
じぶんの子どもの頃の写真を見ても
それが「記憶」としては現れないのだ
直接音楽を聞くことも
匂いを嗅ぐことも触れることもできるが
音楽を心のなかで思い浮かべたり
匂いや触感を再生することもできない
こうしたアファンタジアの傾向を持った人たちは
多くの人たちが心的イメージを再生しているのに比べて
ずいぶん異なった魂のあり方をしているようにも思うが
心的イメージを再生したり
記憶したりする魂のあり方というのは
人類の進化において少しずつ
獲得されてきた能力なのかもしれない
記憶がきわめて霊的な魂の能力であるというのも
そういうことなのではないか
そして私たちはじぶんたちが
「ふつう」だと思っているような魂のあり方も
決してみんな同じだというのではなさそうだ
五感もそれを拡張してとらえられた十二感覚も
決して多くのひとが同じような仕方で
それらの感覚を顕現させているわけではない
心的イメージを再生する力だけをとっても
その再生能力が一様ではないのも言うまでもない
しかしあらためて
じぶんが心的イメージを再生しているという
そのことがどういうことなのか考えてみると
よくわからなくなってくる
どうしてイメージが浮かぶのだろうか
記憶が甦ってくるのだろうか
もちろんそれそのものは
かつて起こったそのままの記録ではなく
心的にずいぶん編集されたものにすぎない
おそらくアファンタジアの傾向をもっていない人も
かつて直接得たイメージをある種のものに変換し
それにじぶんの感情や感覚を加え
編集しなおしたかたちで記憶としているのだろう
アファンタジアについて考えることは
そのようにじぶんがいま当たり前だと思っている
魂の力をあらためてとらえかえす重要な機会ともなる
■アラン・ケンドル(髙橋純一・行場次朗 訳)
『アファンタジア: イメージのない世界で生きる』
(北大路書房 2021/12)
(「まえがき」より)
「本書は「アファンタジア(Aphansaia)についてのものである。「アファンタジア」とは、心の目でイメージを見ることができない状態を指すために使われている名称である。私がアファンタジアに気づいたのはつい最近のことあるが、それは、私の人生において潜在的に最も大きな影響を与えてきたものである。」
(「第1章 アファンタジアとは何か?」より)
「必要に応じてイメージを思い出す人間の心の能力は、多くの人たちにとってごく当然のことと思われている。一般的には、たとえば、崖の上、ロンドンのオレンジ・スクエア公園、トースターや他の共通した物体や景色を心に留めておくように言われたならば、多くの人たちはかなり簡単に行うことができるだろう。
対照的に、アファンタジア傾向者はこれらの物体や景色を心に留めておくことができない。意識的な努力による「心の目」で特定のイメージを形成する能力が欠如している。逆に、睡眠時のような潜在意識の状態では、視覚イメージがときどき現れることもある。
アファンタジアの究明のためにいくつかの臨床的な試験が考案されてきたが、本質的に、その人がアファンタジア傾向者かどうかは「あなたは心でイメージを視覚化できますか?」という質問にピンとくるかどうかでわかるものである。
アファンタジアはスペクトラムであり、関連のある徴候に沿って、異なる程度で影響を及ぼしている。これらの関連のある徴候は、領域と重症度の観点で変容する。一つのキーポイントは、アファンタジア傾向者の経験は個人間で著しく変容し得ることである。
視覚イメージの欠如がアファンタジアを定義づける特徴である一方で、音楽を再生できないこと、匂いや触覚を再生できないことなど、他にも共通して報告されることもある。かなり多くのファンタジア傾向者も、相貌失認と呼ばれる状態であることを信じている。相貌失認とは、人の顔を認識することが難しい状態である。いく人かのアファンタジア傾向者が共通して詳細に話してくれる別のこととして、絵や言葉に応じて「触感」を感じられないことがある。」
「アファンタジア傾向者は意識的にイメージを形成することはできないが、経験を記憶して記述するという、他とは異なった方法を理解している。同様に、夢を見る場合は意識的な視覚イメージ形成能力とは異なる。多くのアファンタジア傾向者は、眠っている間に、鮮明なイメージや場面、さらには習慣化された内容とともに夢を見ているという。それゆえ、アファンタジアは、自発的なイメージの欠如であると考えられる。しかしながら、いくつかの報告では、アファンタジア傾向者のなかには視覚的な夢を見ず、文字や物語、または筋書きでしか夢を思い出せないという人もいる。
とはいえ、アファンタジア傾向者は、物体、場所、およぶ人を認識するために事実を利用するものの、視覚的な記憶はもっている。たとえば、教室にいる女子が静かで印象的な青い目をしていること、あるいは結婚式で出会ったいとこは濃い顔つきで肩までの長さの茶色の髪をしていることなどを覚えている。アファンタジア傾向者の世界は、イメージよりも記述に基づいている。」
「アラン/私は55歳になるが、他の人たちが異なった方法で世界や心的経験と邂逅していることを最近まで知らずに生活してきた。率直に、私は、みんなが私と同じ方法で、心のなかで見たり聞いたりすると考えていた。別に、みんなと同じかどうかを考えることもなかった。
私の出会いから、話をしたり手紙を書いたりしたほとんどの人たちについて、アファンタジアの現れ方は異なっている。みんなはユニークな心の見方をもっているし、私はアファンタジアの現れ方について、みんなとどこかしら異なると思い始めている。
(・・・)
「私には、アファンタジアの状態と矛盾していると思われる点がある。一つには、私は鮮明なイメージをもっている!(心に描くことができた物事を決して見ることはできないけれど)。私は、亡くなった、あるいはぞんめいの家族や友人を視覚的にイメージすることさえできない。その代わりとして、私のイメージは、概念と考えでプレイするような様式を採用している。そして、物事がどのようにして一致するのかを理解する。(・・・)
イメージとイメージ化だけが心の目から失った唯一のものではないかと言うべきだろう。音楽について、私はリアルタイムで頭の外の現実世界から聞こえるもの以外に、歌、音、あるいは他の音声について心で聴くことができない。
友人たちが知り合いを視覚的にイメージできるだけでなく、話をしているかのように(彼ら自身の声で、そしていつも話している声で)聞くことができることに、私はすっかり驚かされた。もちろん私は、周囲が聞いているように、自分自身の声で話すのを自分でも聞くことができる。だが、私は、自分に話しかけたり、話すことを聞いたりできるような内なる声を全くもっていない。私が何かを考えるとき、そこに声はない。それは、単に本質と言われるような言葉のイメージだけである。感情的ではないが、より現実に存在しているようである。それは、周辺視の隅っこで、何かの光景が目に入るときのようである。何かがそこにあることに気づいてはいるが、目の前で見るほど詳細ではない。
2016年、妻はラジオの議論を聴いて、私がアファンタジアであることを知った。ラジオのゲストは「心の目」でできることとできないことについて説明していた。妻が仕事から帰ってきたとき、「これを調べて聴いてみて。これが、あなただから!」と言った。
(・・・)
私はイメージすることもできるし、心的に物事を再生することもできるが、心のなかの絵や動画のイメージというよりも、それはイメージの本質である。私が思い出すのは、物事の抽象的な性質や特徴である。これらの再生に感覚や感情は伴っていない。私は、説明することは言うまでもなく、このことを理解しようともがいてきた。
もし、私の家や建物を想起するとき、あるいは車でさえ、大きさは制約的な要因となるようである。私の心は、フォーカスを当てられる領域と大きさを制限してしまう。(・・・)
私は、物事を思い出すことができるが、細部のレベルについては思い出せない。私は、両親の顔を思い出せない。両親をイメージしようとすると、実際の細部についてではなく、私が考えていることの本質が得られる。それでは、それが誰であるのかを知るには不十分である。(・・・)
もういない人や親しい人のことを思い出せないというのは、アファンタジアの状態の一番つらいところである。
既に述べたように、私は内なる声をもたない。私は、心のなかで言葉を話すことができるけれど、それらは形にならないし、物理的な実体があるわけでもない。私は、心によって作られた音楽や声などを聞くことはない。私は、同僚が内なる声について話してくれたとき、驚かされた。
私は、匂いや触感を再生することができない。五感をもっているし、匂いを嗅いだり、触ったりできる。しかし、私は。後になって思い出すために感覚的な出来事を保持しておくことができない。そうは言っても、適切な状況や正確なきっかけが与えられることで、いくつかの感覚を思い出せることを知っている。でも、それらが何であるのかはわからない。
まぶたを閉じても視覚イメージは見えない。私は、これが誰でもそうであるといつも思っていた。私は、以前なら決してそのことを疑問には思わなかったし、人々が視覚イメージについて述べているときには、彼らは単に表現力が豊かであり、実際の生活について話しているとは思わなかっただろうと推測する。まぶたを閉じたときは、ただ暗いだけである。見えるものは何もない。」
(「第4章 想像力」より)
「アラン/私には想像力があることを知っているが、心のなかで物事を視覚的にイメージできないということとは矛盾するのではないだろうか? 想像力は単なるイメージ以上のものであると思う。私の場合、それは複雑なシナリオを考えるための心的能力であると信じている。(・・・)
ある定義によると、想像力とは、「感覚には存在しない外界の対象物について、新しいアイディアやイメージ、概念を形成する能力や行為」である。(・・・)
私は、本当は、自分の趣味で読書を楽しみたいと思っていたが、現実には、なかなかできなかった。私はフィクションを読むのが好きだが、書かれた物語を視覚的にイメージできないので、いつもページ上の単語と格闘している、文字を読むだけでは、物語についていったり登場人物を理解したりするのに必要な視覚イメージが浮かばない。」
(「第7章 記憶」より)
「アラン/私にとって、記憶は常に難しいものである。私は、ほとんどのことを詳細に覚えていることができず、多くの場合は、冗談めかして自分の能力をごまかしている。「私の記憶は、まるでスイスチーズのよう。それは穴だらけ」
(・・・)
私は相対的な時間の概念に苦しんでいる。ある出来事が他の出来事と比較して、私の人生のなかでいつ生じたのか、判断することができない。それは、真実であることを知っているのに、他の人たちに見せるための証拠がない事実のようなものである。
この本を書いている間、子どもの頃の写真を見た。私には、写真を見ることを引き起こされる回想や感情以外のオリジナルな記憶がなく、自分が直接体験したはずのイメージや記憶を検索する能力もない。思い出を自分の目で見たことがない。
また、何らかの形で視覚イメージを形成できたという記憶がない。その頃の写真を見ても、子ども時代の記憶は甦らない。」
◆目次
日本語版刊行に寄せて
まえがき
本書について
序文
第1章 アファンタジアとは何か?
第2章 アファンタジアを他者に説明する
第3章 子どもの頃
第4章 想像力
第5章 視覚イメージ
第6章 睡眠と夢見
第7章 記 憶
第8章 アファンタジアと共に生きる――仕事と家庭
第9章 アファンタジアのマイナス面
第10章 アファンタジアのプラス面
あとがき
解説
訳者あとがき