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アダム・ベッカー『実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い』/市川 浩『身体論集成』

☆mediopos-2492  2021.9.12

今世紀初頭
私たちの世界の見方を
根幹から変えた二つの物理学理論である
相対性理論と量子力学が生まれた

量子力学をめぐってはさまざまな議論があるが
現在主流となっているのは
原子も電子も素粒子も「実在しない」という
「コペンハーゲン解釈」である

その解釈に意を唱えたのがアインシュタインで
ボーアとの論争が繰り広げられた

多くの解説書等では
「神はサイコロを振らない」という考えから
アインシュタインは量子力学を認めたくなかった
といった説明がなされることが多いようだが
実際はそれとはかなり異なっているようだ

アインシュタインは量子力学そのものは肯定したものの
その「解釈」に対する異論を提出したのだ
アインシュタインは実在論的な立場に立ってはいたが
古典力学に従う巨視的な観測者に依拠した観測論に固執した
ボーアの解釈の世界観を批判したということらしい

現在さまざまな技術に応用されている量子力学が
導き出す「結果」は「コペンハーゲン解釈」でも
その他の「解釈」でも同じ答えを出すことができるが
アインシュタインがこだわったのはその「世界観」のほうだ

最近日本ではアニメやゲームなどの作品の舞台設定という意味で
「世界観」という言葉が安易に使われることが多くなっているが
「世界観」は私たちの存在そのもののあり方を
既定するような重要なものだ

物質は実在するか実在しないか
「世界観」の根底にあるものをめぐって
アインシュタインは量子力学の「解釈」を問題にした

テーマは違うが仏教でも
実体はあるかないかということで
実体としての如来蔵的なものを認める大乗仏教を
仏教ではないとする原理主義的仏教論者がいるが
その論争にも似たところがあるのかもしれない

今回とりあげてみた
『実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い』
とあわせて市川浩の「身体論」関係のものを引いてみたのは
現代の「世界観」のありかたを
あらためてとらえなおしてみたかったからだ

かつてヘレニズム期からルネサンス期においては
マクロ・コスモス(大宇宙)と
ミクロ・コスモス(小宇宙としての人間)が照応して
世界秩序を形作っていると考えられていた
そしてそのなかに人間も位置づけられていたが
そうした世界観に準じたものは
世界各地のコスモロジーとして成立していた

そうした世界観は近代以降失われはじめ
人間は宇宙のなかで偶然に
そして孤独に存在しているという世界観へと変わっていく

芸術的創造も渾沌に秩序を与えようとするものから
「自立し完結した芸術特有の小宇宙をつくる」ものへと
変わってくるようになった
いまではアニメの世界観のようなかたちでしか
その創造の根拠をつくりだすことができなくなっている

量子力学論争に話をもどすと
アインシュタインがこだわったのは
まさにそうした「世界観」のなかにある
「実在」を認めるか認めないかということ
観測結果のみが実在であり
その背後に実在など存在しないという
実証できることだけを問題にする立場に対する異議だった

これは量子式学だけの問題ではなく
「答え」が正しく利用できればそれでいいのかどうか
ということでもある
科学と技術という問題にもつながってくるが
「答え」に至るまでの「世界観」を問わないとき
その「答え」には世界の根拠が存在しなくなる

根拠のない虚無的な世界を生きるのが現代人だ
といってしまうこともできるだろうが
それでは私たち人間はどこへも行けなくなる

■アダム・ベッカー(吉田三知世 訳)
 『実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い』
 (筑摩書房 2021/9)
■市川 浩(中村 雄二郎 編集)
 『身体論集成』
(岩波現代文庫 2001/10)

(アダム・ベッカー『実在とは何か』〜吉田三知世「訳者あとがき」より)

「二〇世紀の幕開けに萌芽した量子力学は、一九二五年に理論的に定式化され、はや一〇〇年になろうとしている。その応用は着々と進み、エレクトロニクスを生み出して、情報通信技術や医療その他の産業を成り立たせている。スマートフォンなど、日常生活で触れる器機をとおして暮らしにも浸透している。(・・・)今や量子力学は現代社会にとって不可欠だ。」
「量子力学には、その解釈を巡る問題がつきまとう。量子力学の正統的な解釈は、ボーアが提唱したコペハーゲン解釈である。観測結果のみが実在であり、その背後に実在など存在しないという、実証できることだけを問題にする立場だ。観測対象を記述する波動関数は、観測によって乱され、瞬時に「収縮」して一つの値に決定するという。
 本書は、コペンハーゲン解釈の問題点を取り上げ、それが初期から批判されてきたこと(特に、局所的な客観的実在を信じるアインシュタインによって)、代替解釈がいくつも提案されていること、そして実験によって局所実在論的な見方は否定されたものの、コペンハーゲン解釈の実在の捉え方にも問題があることを紹介し、このような状況に至った科学史的経緯を、多くの文献やインタビューを通して明らかにし、最後に今後物理学者はどのような姿勢で物理学に臨むべきかを提案する意欲的なものだ。」
「科学史においては、ボーアとアインシュタインの議論では、保守的な実在論に固執するアインシュタインが、進歩的なボーアに論駁されたとされることが多いようだが、じつのところ、古典力学に従う巨視的な観測者に依拠した観測論に固執したボーアのほうがむしろ保守的で、アインシュタインが行ったコペンハーゲン解釈批判こそ、ボーム。エヴェレット、ベルをはじめとする新しい考え方につながったように思われる。」
「波動関数の収縮と、たとえば多世界、どちらも直観的にはなじみにくく、どちらを好むかは人それぞれだろう。解釈は恣意的に選べるなら、既存のコペンハーゲン解釈を使い続ければいいという考え方もある。しかしベッカーは、どの解釈を採用するかは大きな問題だという。現状を打破し、新しい物理学を発見するには、解釈の選択は重要なのだ。ファインマンも、数学的に等価な二つの理論を実験によって区別することはできないが、どちらの理論を選ぶかは、その人の世界観に大きな違いをもたらすと指摘している。科学理論は実験結果だけかから構築することはできず、世界観を必ず伴っている。つまり、新しい物理学をもたらすには、新しい世界観が必要なのだ。
 ある科学理論が、進歩のために変化すべき時点に到達しているのに、特定の考え方に固執しつづければ、それは謬見・偏見となる。進歩するには、考え方の枠組みはシフトしなければならない。シフトの方向の導き手となるのが世界観であり、哲学はその源として頼れるだろう。シフトを妨げる、科学者個人や科学者コミュニティーに潜む偏見に常に注意を払い、理論にどんな解釈があり得るのか、どの解釈に発展性があるのかについて、オープンな心で探り続け、また、哲学や歴史を学んで、大局観を失わないようにしようと、ベッカーは呼びかける。」

(アダム・ベッカー『実在とは何か』〜本文より)

「では、何が実在するのだろう? パイロット波だろうか? 自発的収縮だろうか? 量子力学の解釈としては、どれが正しいのだろう? 私にはわからない。どの解釈にも批判者はおり(だが、基本的には、コペンハーゲン解釈ではない解釈の提唱者はほぼ全員、数あるもののなかでもコペンハーゲン解釈が最悪だという点では大抵一致する)、どういうわけかはわからないが、量子力学の数学に関係のある何かが、世界のなかで起こっている。正しい解釈は存在する。ただし、それは私たちがすでに手にしているどんな解釈でもないかもしれない。量子の世界を、便利な数学的虚構に過ぎないと軽んじるのは、世界に関する最善の理論を真剣に受け止めていないことになるし、新しい理論の探求において、自分たちの進行を妨害することになる。コペンハーゲン解釈の結論が「必然的だ」とか「理論の数学によって私たちに強制されている」などと言うことは、完全に間違っている。私たちの知覚とは無関係に存在する実在について話すことは無意味ではないし、世界を私たちが観察する対象物としてのみ考えるべきだというのは間違っている。唯我論と観念論は量子力学のメッセージではない。」
「私たちは素晴らしく成功している理論を手にしているが、解釈には厄介な問題があり、また、この理論を卒業して次の理論へ進む過程で大きな難問にぶつかっている。難問に直面している際に、解釈が複数並立していることは、もしかすると科学の実際の活動には、それは正解ということかもしれない。あるいは、複数並立は別としても、謙虚さは正解ではないか。量子力学は少なくとも近似的には正しい。世界には、何らかの点で量子に似た、何か実在するものがある。それは何を意味するのか、私たちにはまだわからない。そして、それを明らかにするのは、物理学者の仕事だ。」

(市川 浩『身体論集成』〜「可能世界への回路 三 像なしの時代と創造」」より)

「かつて、とくにヘレニズム期からルネサンス期に至る古典的な考え方では、マクロ・コスモス(大宇宙)と、ミクロ・コスモス(小宇宙としての人間)は、一つの照応した秩序を形づくっていると考えられていた。ルネサンス期には、人体が全宇宙に内接しているという絵が描かれたし、また大宇宙と都市−−−−中村雄二郎は都市をメディオ・コスモス(中宇宙)と名づけている−−−−あるいは都市と人間が互いに照応関係をなしていると考えられていた。
 このような照応体系の中にある場合には、(・・・)人間は宇宙の中でしかるべき位置、あるべき位置を占めている。つまり宇宙の中で自分の存在は、あるべきところにあるという形で根拠づけられている。マルティン・ブーバーが、「住処あり(ベハウスト)」と名づけた時代であり、また有限の天球がわれわれをとりまいているという、いわば「像あり」の時代である。この時代には像というものをはっきりもつことができ、自分の位置を確信することができた。われわれはそういう像を表現する記号体系としての芸術によって自分の位置を自覚することができる。像そのものを形成したり、あるいは像を形成するものを補助したり、あるいは像の中における人間の位置を表現したりすることによって、芸術は世界の表現であると同時に人間の位置の表現でもあり、人間がどのようにして世界に住みついているかということの表現でもあった。
 しかしコペルニクス革命とともに、こうした照応体系は崩壊しはじめる。それをいち早く予感して深い俯瞰を表現したのはパスカルである。有限の天球の中に人間が特定のあるべき位置を占めるのではなくて、無限に時空が拡がっている。そういう宇宙観があらわれる。もう人間は中の像をつくることができない。そういう無限の宇宙の中では、人間は孤独に見捨てられている。自分のあるべき位置は任意であり、偶然である。どこにでも座標軸をとることが可能だから、自分のある位置はまったくの偶然でしかない。つまりブーバーがいうところの「像なし(イマーゴ・ヌルラ)」の時代あるいは、「住処なし」の時代である。この時代の人間は、もはや自分のあるべき位置を確信することができない。根拠なき時代である。そこで人間は自分で自分の根拠を探し求めなければならなくなる。それまでの時代には、人間はとくに自分の根拠を探す必要はなかった。宇宙の中で小宇宙として確固とした位置を占め、根拠があった。像なしの世界での根拠探しは近代とともにはじまるが、パスカルが感じたような不安が大衆化してゆくのはだいたい一九世紀以降だろう。そこで一九世紀から二〇世紀にかけて、「自然の中での人間の位置」とか「宇宙の中での人間の位置」という標題の書物がよく書かれる。実存哲学もまたこの像なしの時代、根拠なき時代の不安を端的に表現しているということができよう。」
「像なしの時代に入るとともに、芸術はそういった存在根拠を明確にもつことができなくなる。そこで芸術の自立性が叫ばれるようになる。芸術作品は自分で自立的な完結した小宇宙をつくる−−−−完璧主義は、ある意味ではいつの時代にもあるが−−−−自立し完結した芸術特有の小宇宙をつくるという意味での完璧主義がこの時代にあらわれる。その行きつくところは「芸術のための芸術」という、きわめて倨傲な芸術家のあり方である。逆にいえばこれは、自分で完結した小宇宙をつくらなければならない、という根拠なしの時代の不安を表現しているといえよう。芸術が大衆かた離れ、孤立の栄光を誇るようになるのもこの時代である。あるいは逆に大衆芸術である映画が芸術性を誇称する。」
「創造というのは、多くの民族の創生神話にあるように、渾沌を秩序に変えることだが、芸術はそれを反復しようとする。芸術はすでに存在しているコスモス(・・・)を疑い、日常的秩序をカオスとしてとらえ直す。それによってコスモスを再創造しようとした。伝統的には、祭りではたえずそういう創造の反復、つまり神の創造行為の模倣とか反復が行われる。」
「創造者だけあって観客や聴衆や読者がいないという不健全な現象が現在、多くの芸術に見られる。そのもとには、失われた像を自分で回復しよう、あるいは自分で自分を根拠づけようとする、像なしの時代のあがきがあるといえよう。」

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