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石岡丈昇『エスノグラフィ入門』/対談:石岡丈昇×伊藤亜紗(Webちくま)「フィールドワークのからだ」(前編)「時間のフィールドワーク」(後編)
☆mediopos3636(2024.11.2.)
石岡丈昇『エスノグラフィ入門』の刊行を記念して
石岡丈昇と伊藤亜紗の対談がWebちくまに掲載されている
前編「フィールドワークのからだ」
後編「時間のフィールドワーク」
「エスノグラフィ」とは生活を書くこと
そのもっとも良質の成果は
「苦しみとともに生きる人びとが
直面している世界を表し出すところに宿る」という
対談の前半では
今夏いっしょにマニラに行ったことをふまえ
「エスノグラフィ」とはなにかについて
後半では
二人の関心の重なる「時間」の概念について語り合っている
まず前半から
エスのグラフィはほんらい人類学で
「異文化の世界に行って、そこでの人々の暮らし、
お祭りのやり方、家族や親族の体系、そういうものを調べる」
といったことだが
それだけではなく
記録されないけれど
「その世界とかその社会を知るうえで大切」な
「ふつうに人が焚き火しながら話してたり、
ちょっとした言い争いをしてたり、日常的なやりとり」のように
まさに「生活を書くこと」だという(石岡)
『エスノグラフィ入門』の最初に
「からだを動かしながら社会を調べる。それが私の仕事です」
とあるが
「からだを動かすと見える視点も変わる」ように
「動きを描きたい、動きを捉えたい。
動きは同時に時間でもあるから、
「からだと時間」が、根本的な関心としてあるのかもしれ」ない
(石岡)
『エスノグラフィ入門』には
フィリピンでのフィールドワークが描かれているが
フィリピンでは道が狭いためひととひとの距離が近く
「単純に、からだを触るコミュニケーションが多い」
そのことはケアの問題とも関わっていて
「他人が自分のパーソナルスペースに入ってくることに
抵抗がない」ように
ケアはフィジカルな部分とも連動している(石岡)
続いて後半から
「時間」についていえば
『エスノグラフィ入門』には
「生が生活になる」という表現がある
それは「食っていくということには、
たんに生きてるだけじゃなくて、
生きることを可能にするリズムのようなものがある」
ということで
「なんでリズムが生まれるかというと、
そこに一定程度のパターンがあるから」だという
「生は、時間的パターンという
型をともなうことで、はじめて生活になる。
そのパターンがあるから」「未来を展望できるようになる」
「型を持つがゆえにリズムが生まれる」
「だから貧困というのは、パターンの崩壊の問題である」
石岡氏はそのことと関連して
伊藤氏の著作『どもる体』のなかにある
「なぜ歌うときはどもらないのか」という話から
『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』にあるような
「ヴァレリーのリズムや韻の話とも
接続されてい」ることを引き合いにだしている
伊藤氏は石岡氏の示唆するリズムの分析について
「それぞれの人間に与えられている条件を考えていくような視点が、
社会学者だなと思うんですよね。
時間や予見可能性のパターンが、均等に与えられてない。
力を持ってる人が時間を支配していて、
力を持っていない人はそれに翻弄される側だと」
と応じている
さらにジェローム・エリスという
吃音で黒人のミュージシャンのアート作品の話がある
そこには
「stuttering can create time(吃音は時間をつくれる)」
と書かれているが
「それは、
時間に追われているように生きている現代人にとっては、
当たり前の時間の流れが止まるわけなので、
かえって相手の話をじっくり聞く機会になるかもしれ」ないが
「エリスは、時間の停止を、もっと長い射程でとらえ」ることで
「先祖たちと対話する時間」にもしている
「「吃音は時間をつくれる」っていうことで、
ある種のパターンから落ちちゃってるんだけれども、
同時に、反対側から見ると、
支配されてきた時間を取り戻していることでもある」
というのである
「時間」についての話はさらに
フィリピンで移動中の車の中での時間について・・・
石岡氏が「僕が前で、うしろに伊藤さんが座ってるんです。
うしろに振り向くような感じで会話してると、なんかまた違う。」
と言ったのに対して
伊藤氏はそれを「存在関係」からくるのだと言っている
「存在関係」とは
ふつういわれるような人間関係ではなく
「まさにどういう配置で人が座ったりとか、
体と体でどういう向きを取り合って、
どういう配置の中で人と人とが関係を取り合うかとか。
それは人間関係じゃなくて、存在と存在の関係」であり
「人と人との話っていうのは、話の中身だけじゃなくて、
まさに体の配置というか、そういうものの関係の中で
出されていく」ということにほかならない
また文学を読む時間についても示唆されている
石岡氏の『エスノグラフィ入門』には本を読む話があり
「引用では本の一部が抽出されているけど、
それを引用だけで読むのと、それを通して読むのは
全然違う経験」になるとある
文学は時間だということである
伊藤氏は「博論の研究が文学なのに、
アートの教員になった」というのは
非常勤で文学の授業していたとき
引用しか取り上げることができず
ほんとうには教えられないからだで
引用だけになった文学は
時間の異なった経験になってしまうという
「いわゆる知性が第一級の認識能力だとすると、
感性は第二級の認識能力だとされてい」るのだが
「言葉で変えられる部分は人間の上澄みの部分で、
下の感性の部分は、よくも悪くも保守的な部分」だが
「そこに手を突っ込んでものを考えていかないと、
すごく表面的にいろいろ終わってしまう」・・・
そのことから伊藤氏は
美学を専門とすることになったようだ
石岡氏との会話のなかで
伊藤氏は「本を信用してない」と言ったそうだが
それは上記のように
「上澄みの部分」である「言葉」よりも
「下」の保守的な感性の部分に目を向けることでしか
わからないところがあるからだろう
「議論」というのが
往々にして不毛になりがちなのも
そこでは「言葉」ではなく
その「下」にあるものが深く影響している
その意味でも石岡丈昇の「エスノグラフィ」の視点は
生きた「生活」の現場からのものであり
そこには感性やからだなどが深く関わってくる
知性が無意味なわけではないが
知性をたしかに機能できるようにするためにも
「下の感性の部分」に目を向ける必要があるのである
■対談:石岡丈昇×伊藤亜紗(Webちくま)
「フィールドワークのからだ」(前編)
「時間のフィールドワーク」(後編)
■石岡丈昇『エスノグラフィ入門』(ちくま新書 2024/9)
**(「対談:石岡丈昇×伊藤亜紗「フィールドワークのからだ」(前編)より)
*「伊藤/
今日お会いするのが、すごく変な感じなんですよ。というのは、7月に石岡さんにお願いして、石岡さんのフィールドであるフィリピンのマニラに一緒に行ったんですね。
事情としては、私がこの1年半ぐらい国際交流基金のお仕事で、東南アジアにおけるケアについて調査していることがあります。そのターゲットとして、フィリピンに行こうと。
マニラの石岡さんが、別人なんですよ(笑)。
石岡/
伊藤さんから見ると、日本の僕とは全然違うんですよね。
伊藤/
初めは、2017年の日本スポーツ社会学会(信州大学)でお会いしたんですよね。研究者らしい厳密さや細かさをお持ちの方だなと思っていたんですけど(笑)。
フィリピンの石岡さん、なんかずっと踊ってるみたいな感じなんですよね。
石岡/
そうそう。
伊藤/
石岡さんが踊ると、魔法みたいになるんです。いろんなことが起こる。そのミラクルを浴びた1週間でした。ほんとに、感謝しています。」
・世界の見え方に関する本
「伊藤/
今日は、フィリピンで話したことをもうちょっと深めたいね、ということなんですけど、そうすることでこの『エスノグラフィ入門』の魅力にも迫れる気がします。
大学生を基本的な対象として書かれているようでいて、じつは、世界の見え方に関する本でもある。社会学やエスノグラフィを勉強したいと思ってない人にとっても、すごく発見がある本だと思いました。
石岡/
ありがとうございます。
エスノグラフィって、小難しい言葉じゃないですか。でも実践記録でもルポルタージュでもなくて、エスノグラフィという営みの魅力を伝えたいなと思ったんです。
人類学が、エスノグラフィの本家なんですね。異文化の世界に行って、そこでの人々の暮らし、お祭りのやり方、家族や親族の体系、そういうものを調べる。
でも、そういうことだけじゃなくて、ふつうに人が焚き火しながら話してたり、ちょっとした言い争いをしてたり、日常的なやりとりがあるじゃないですか? なかなか記録されないけど、そのあたりの感覚は、その世界とかその社会を知るうえで大切だったりする。
質問項目を準備して、「これは聞いた。これも聞いた」というふうに、一問一答を埋めていけばいい、というわけではないんですよね。いっしょに時間を過ごして、そこでの様子を共有させてもらいながら、それを書きとめていく。書きとめたものを積みあげて、その社会やその世界が、こんなふうに成り立っていると調べる。これが、エスノグラフィなんです。生活を書くことです。
インターネットで、情報はすぐ手に入る時代です。手早くものを調べるうえでは重要だと思うんですけど、一方で、もうちょっと生活に触れるというか。そういうやり方もおもしろいし、こういう学問の仕方もある。そういうことを、自分で整理する意味もあって、書いたんです。」
・からだを動かしながら社会を調べる
「伊藤/
この本の最初の1行目に、「からだを動かしながら社会を調べる。それが私の仕事です。」って書いてあるんです。これ、すごく深い言葉だと思うんですよね。
「からだを動かしながら」という言葉を聞くと一瞬、現地に行くことかなと思うんだけど、そういう話じゃない。「からだを使って」じゃなくて「動かしながら」と書いてあることがポイントだと思います。「動かしながら」というのは、現在進行形じゃないですか。それはたぶん、私が「ずっと踊ってるみたい」というふうに感じたのと、つながっているような気がして。
石岡/
ここは、無意識にこう書いてるんですよね。
本を書いたのはこれで3冊目なんですけど、伊藤さん、序文は最後に書きますか?
伊藤/
最初ではないですね。途中か、最後ですね。
石岡/
僕の場合、必ず最後なんですよね。最後に序文を書くと、だいたい失敗するんですよ(笑)。『タイミングの社会学』という本のときも、序文を何回も書き直しました。
今回も終章までできあがって、序文を最後に出したんです。だけど、担当編集の柴山さんと書き出しについてお話しして、どうしようかなというときに、やっぱりこのフレーズだなと思って。
というのは、からだを動かすと見える視点も変わるわけです。多くの場合、日常生活では動いてる気がするんですよね。たとえば「家にいます」と言ったときに、じっさいは「洗濯物干してます」とか、「夕飯に使うジンギスカンの肉を解凍しはじめました」とか、「犬の水を変えました」とか。じっとしてるようで、家の中で動いてる。
動くというと、仕事に行くとか、大きい動きばかり見ちゃうんですけど。じっとしてると言いながら、人間は動いてる。動きの枠を小さくすると、常に動いている。そういうふうに見ると、いろんなものが動態的に見えてくる。
動きを描きたい、動きを捉えたい。動きは同時に時間でもあるから、「からだと時間」が、根本的な関心としてあるのかもしれません。」
・石岡さんは羊羹
「伊藤/
投票するとか、発言するみたいな、行為ではないんですよね。行為じゃなくて、からだの動きというのが、石岡さんを通して感じる印象で、しかも、「からだを動かす」イコール単純な労働でもない気がします。
石岡さんの「踊ってるような感じ」というのは、うまく言えないんですけど、媒質になってるというか。その場で起こってることに、なんか羊羹みたいに、揺らされている(笑)。
最終日の夜、一緒にフィリピンに行った方に、小さいお子さんがいたんですよね。その子のお土産を買いたいということになって。なんでしたっけ?
石岡/
ミニカーみたいな。
伊藤/
そうそう。そのミッションを得た私たちは、閉店10分前ぐらいのショッピングモールに行って。日本で想像するようなモールで、けっこう大きいところだったんです。閉店まで残り10分で、お土産を買うミッションがあった。
その状況で、石岡さんが急におかしくなっちゃった(笑)。そのおもちゃがどこに売ってるかをもう知ってるかのように、確信を持って、全力で走り出したんです。
石岡/
9時には閉まっちゃうし。
伊藤/
みんな「へ?」って言いながら、一所懸命走ってついていくんです。エスカレータも全力ダッシュ。
石岡/
「来たことあるんですか」って聞かれたんですけど、初めての場所です。だから、どこにどんなものが売ってるかわかんない。
フィリピンでフィードワークするのって、ああいう感じなんですよね。いちいち地図を調べたりしない。行動する前に組織立てたりしない。とりあえずガーッて、「こっち、ちがうちがう。こっちこっち」みたいな。
伊藤/
ドッグランみたいな感じ(笑)。
石岡/
みなさんを連れ回してしまった。
伊藤/
おもしろい時間でしたよね。でも、その場の媒質になってるっていうか、石岡さんがバイブレーションを起こしているし、みんなの気持ちを体現してる感じがして、すごく印象的でした。」
・22年分のフィリピン
「石岡/
それで、「そうか、フィリピンに行くとフィリピンモードになってるんだ」って気がついて。こういうことをしたのが、じつは人生で初めてなんです。日本や外国の研究者と、『エスノグラフィ入門』の主たる舞台になってる場に行ったことはあんまりなかった。それは、意図的にそうしたわけじゃないんですけど。
2000年代のあたま、僕が院生だったころはスマートフォンもなかったし、外国の調査に行くと、日本の情報は遮断されるような状況だったわけです。よく言われていたのが、仲の良い日本人と現地でつるむと、言葉が上達しなかったり、現地の情報が入らなかったりする。そこはまじめに守ろうと思って、フィリピンでは、いわゆる日本人コミュニティとそんなに付き合わなかった。
ひとりで、毎日ひたすらフィリピン生活を浴びる。朝から晩まで、ボクシングジムの音とタガログ語と英語を浴びる。気がついたら、日本語を聞いたのが3カ月ぶりだったりする。それぐらい没入して調査をしたんですよね。
自分が思った以上に、間合いだったり話し方だったり、何かを浴びてたんだなと思います。だから、伊藤さんと同じものを見ているときに、そこにいる自分の姿も映し出されるような、僕にとっても貴重な時間になったんですよね。
この話を帰ってきてから家族にしたら、「いやいや、いつも家だとフィリピンふうだよ」って言ってました(笑)。
伊藤/
おもしろいですよね。2002年でしたっけ、最初に行かれたの。
石岡/
ええ。
伊藤/
22年分の、どっぷり浸かってたものが。フィリピン人としては、22歳。
石岡/
22歳(笑)。」
・路上の客引き
「伊藤/
『エスノグラフィ入門』は、いままでの石岡さんの本に比べると、わりと「フィリピンの石岡さん」が出てる感じがします。「ちょっとこれ言い過ぎじゃない?」みたいな、計画になかったことを言ってるような。そういうふうに読める。
たとえば「はじめに」に、この本は「路上での客引きのようなものです」って書いてある。自分の本のこと、「路上での客引き」って言うの、初めて見た(笑)。これは、興味を持った人を引き込むという意味ですよね?
石岡/
エスノグラフィって、めんどくさいと言えばめんどくさいじゃないですか。時間もかかるし。生身の相手と会うので、尻込みしてしまう人もいるんですね。それよりは、「Googleフォームでアンケートとって終わらせます」みたいな(笑)。
それをなんとか、こっちのほうに引き込みたい。そのとき、「この店は一見さんお断りだ」と言うのもどうかなと。
伊藤/
でも、それを説明するのにふつうは客引きなんていかがわしい言い方はしないような(笑)。具体的に、どこの客引きなんですか?
石岡/
新宿あたり。
職場まで通勤するとき、新宿で乗り換えなんですよ。だから立ち寄ることが多いのだけど、あのあたりの飲み屋で客引きしてる人のイメージで書いたんです。編集さんに修正してもらえるかなと思ったら、何もコメントなかったから「OKなんだ」と思って。
客引きだと、動いてる感じもあるじゃないですか。
伊藤/
そうですね。だまされつつ、意識的にだまされるみたいな。
石岡/
そうそう。だまされたと思うけど、やってみるとスイッチが入る。そんな感じです。
伊藤/
読んでる人はメタファーとして読むけど、書いてる本人は具体的な経験や景色が、たぶん頭にあるんだと思うんですよね。だからここで「路上の客引き」と言ったときに、石岡さんの頭の中のデータベースが見える気がして。
そういう表現が、すごくいっぱいあった。決して万人にわかりやすいフレーズじゃないんだけれども、通じる通じない以前に、石岡さんが生っぽく出てくる文章がすごく多い。石岡さんとフィリピンに行ったときのジョークと似てるなと思いながら読みました。」
・ふつうにそこにいるのはむずかしい
「石岡/
フィールドワーカーにも、得意不得意があるんです。ノートを丁寧に取るのが得意な人だったり、溶け込むのが得意な人だったり、記憶力がよかったり。
重要だなと思うのは、「ふつうにそこにいる」こと。これが、けっこう難しいんです。
研究者でも、大げさにリアクションしちゃうんですよ。「おもしろーい!」みたいな。一方で、距離をとって、「すいません、ビデオを撮らせてください」みたいな形でもうまくいかないんですね。
伊藤さんは、スラムとかスクオッターの世界に入っても、ふつうに歩いてふつうに物を見てふつうに人の中にいる。それがほんとに新鮮でした。
伊藤/
基本、ぼーっとしてます(笑)。覚えてないかもしれない。
でも、石岡さんが通われてたジムに行かせてもらって、ぼーっとしながらも、いろんなことが入ってきたんです。日本の感覚だとおかしいと思うようなことでも、実際にみると、すごく合理性がある。「合理性」というと冷たい言葉に聞こえるけど、すべてがしっかりつながっている感じがしたんです。
おもしろいのが、ジムの建物は3階建てで、1階がジムで、2階が闘鶏場なんですよね。
石岡/
コック・ファイトですね。フィリピン、インドネシア、バリ島のも有名です。1階はボクサーが戦ってて、2階はチキンが戦ってる。そういう場所ですね。
伊藤/
3階が、社交ダンスみたいなダンスホール。紳士淑女の、リッチな感じ。「そのサンドイッチはおかしくない?」と思うんだけど。
石岡/
1階も2階も暑いんですけど、2階の闘鶏場は客がいっぱいいるから、もっと暑い。おっちゃんたちが短パンにスリッパを履いて、賭けをしてる。1試合だけ見ましたね。
伊藤/
賭けが成立まで待つから、なかなか試合が始まらないんですよね。
石岡/
闘鶏では鶏の足に刃をつけて殺し合うんで、闘ったら片っぽ死んじゃうんですよ。1回1回チキンが必要になるので、安易にチキンを使いたくないわけです。
「メロン」「ワラ」というのは、フィリピン語で「ある」と「ない」ですけど、メロンサイドとワラサイドがあるんです。赤コーナーと青コーナーのようなものです。「メロン」か「ワラ」かを賭ける。その「どっちだ?」がという時間が長いんですよね。
伊藤/
そうやってチキンがとっくみあっている上の階で、紳士と淑女が抱き合ってダンスを踊っている。「これとこれが隣に並ぶんだ」って、そこに異文化を感じますよね。ちょっとした食料品屋さんでも、日本とは、並べ方も売り方も違ったりする。そういう物理的な配置を見ることも、たぶん、フィールドワーカーの視点なのかなと思います。」
・それぞれが見てるもの
「石岡/
僕が見ないところを、伊藤さんは拾っていました。スクオッターのおうちにお邪魔したときでも、お皿の乾かし方だったり、収納だったり、物の配置だったり。「言われてみると、僕はそんなに見てなかった」ことがいろいろあって、その対比もおもしろかった。
伊藤/
ボクサーのおうちは、4畳半くらいの、とても狭いスペースなんです。食器とか食料品とか、必要なものはきれいに片付けてあるんだけど、冷蔵庫の上に金魚鉢があったり、壁紙もかわいいのにしてたりする。なんですかね、あの感覚の背後にあるのって。
石岡/
言われてみて思ったんですけど、たんに、機能的に生活で必要なものだからというだけでなく、うまくデコレーションして、自分の空間をつくるような感覚があるかもしれません。僕だと、ついつい空間づくりじゃなくて、雨をしのぐ機能とかばかり見てしまうんですけど。
伊藤/
石岡さん、スケッチとかされるんですか。
石岡/
絵は、むちゃくちゃ下手なんです。人類学者で絵の上手な人は、自分の作品に入れたりするんですけど、僕はそれができないので、代わりに写真を撮ります。」
・INAさんのイラストの効果
「伊藤/
『エスノグラフィ入門』は、絵が入ってるのも特徴ですよね。
石岡/
INAさんという、プロの漫画家の方によるイラストが20点入ってます。『牛乳配達DIARY』『つつがない生活』という、素晴らしい漫画をお書きになっている方です。
書いてる途中で、イラストと合わせる案が出てきて、「いいな」と。写真だと生々しいけど、イラストだと、ある部分が必然的に強調されたり消されたりする。それがおもしろい。それで、ぜひお願いしますと。
伊藤/
フィリピンに行ってるときに、イラストにけっこう調整が入ったっておっしゃってました。
石岡/
そうそう。ぜひ見ていただきたいんですけど、14ページに、スクウォッターの様子を描いた「フィールドに分け入る」って絵があります。
最初の案では、路上がもうちょっとだけ広かった。そのあと、『タイミングの社会学』に出てくる、ライアン・ビトさんっていうボクシングトレーナーの方に見せたんですよ。マクドナルドで朝食を食べてるときに、スマホで自慢するように見せたら、「いいね。いいけど、これもうちょっと狭くしろ」と。道路が広すぎるわけです。
あと、犬と人間を離せと言うんですよね。犬と人間が一緒にいるのは、日本だと。フィリピンだと、犬は犬、人間は人間。犬は勝手にそのへんにいる。そういうふうにしたほうが、お前のやりたい仕事には合ってると言ってくれて。
せっかく描いてくださったのに申し訳なかったんですけど、修正していただきました。それで、こういう1枚の素晴らしいイラストに仕上がってるんです。
絵にすると、自分でも何が見えてないのかわかる。生活してた人から見ると、「こうしたほうが自分たちの感覚に近い」というのが、すぐ言語化できるわけです。だから、自分たちが思ってることを絵にすることで、何が見えてなかったのかも自覚できる。
表すことと見ることの、深まりのようなものがあったんです。今後も、写真ではなく、イラストとテキストを合わせるようなやり方を考えていきたいなと思いました。」
・距離とケア
「伊藤/
道が狭いということは、ひととひとの距離が近いということですね。それは、フィリピンの一番の体感として残っています。単純に、からだを触るコミュニケーションが多い。
石岡/
そうそう、いま伊藤さんと並んでしゃべってる、この距離がたぶん遠いです。
伊藤/
もうひとり必要なんですよね。
石岡/
もうふたりぐらいかもしれない(笑)。公園のベンチを見ても、暑いから離れて座ったほうがいいのに、なんか、かたっぽによってるんですよね。
伊藤/
そういうのもおもしろいですよね。たぶん、ケアの問題とも関わってきます。
他人が自分のパーソナルスペースに入ってくることに抵抗がない。それは他人のちょっとした動作を観察することになるから、相手はどういう状況なのか、何を考えてるのか、自分のなかにどんどん入ってきちゃう状況だと思うんですよね。
相手がその場にかかわってくることを容認している社会。そこで成立するケアって、やっぱり、距離が遠いところのケアとちがう。
石岡/
ケアに関して僕はそれほど学術的に考えてきたわけではないですけど、ケアは、そういうフィジカルな部分とも連動しているんだと。僕にも、そういう気づきがあったんですよね。
伊藤/
関連して、みんな距離が近いから、フィリピンの人はすごい清潔だっていう話をしてくれたんですよね。石鹼があるんですけど、会場で回します。いい匂いですよね。
石岡/
『セーフガード』という石鹼は、メイドインフィリピンです。いなかでも、どこでも売ってる。フィリピンでのシェア、ナンバーワン。この石鹸の匂いって、現地に行かないと嗅げないんですよね。
向こうは、朝にシャワーを浴びます。熱帯だから、寝てるときにも汗をかく。夜ベタベタになるんで、朝出かける前に水浴びをする。この匂いは、フィリピンの僕の原風景で、ボクシングジムはこの『セーフガード』がデフォルトなんですよ。いまもこの石鹸を、僕は自宅では愛用してます。」
**(「対談:石岡丈昇×伊藤亜紗「時間のフィールドワーク」(後編)より)
*「伊藤/
ぜひお話ししたいのは、時間の話なんです。
『タイミングの社会学』でも「時間」がキーワードになっていましたし、『エスノグラフィ入門』でもオスカー・ルイスの「典型的な1日」の話がありました。やっぱり、時間を切り口に生活を見ていくのが、石岡さんのひとつの特徴だと思うんですよね。
私自身も時間はすごく大事だなと思っていて、博論(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』として書籍化)でポール・ヴァレリーっていう詩人の詩を分析したときに、私はそれを時間論として分析したんですよね。
ふつう、詩を言葉として分析すると思うんですけど、時間の設計だとして分析したんです。時間を通して、作者と読者の関係が生まれる。どういうふうにリズムをつくっていくと、相手が乗ってくれるか。
さっきの客引きじゃないですけど、詩は誘惑のひとつの装置でもあるので、そういう意味で、時間は私にとっても大事な視点なんです。」
・社会学的に時間をみる
「石岡/
時間について言うと、『エスノグラフィ入門』では「生が生活になる」(174ページ)という表現をしています。ボクサーであれば、試合をして、ファイトマネーもらって食っていってるわけです。食っていくということには、たんに生きてるだけじゃなくて、生きることを可能にするリズムのようなものがある。
なんでリズムが生まれるかというと、そこに一定程度のパターンがあるからですね。パターンがない生活を現代人は美しいと考えてしまうんだけれども、じつは、明日どうなるかわからないようなパターンがない生活はむしろ地獄なんだということを、フィリピンでの調査を通じて知りました。
貧困というのは、そのパターンがコロコロ変わることなんです。何かしようとしたら雇い止めになったり、お金が尽きてしまったり、家が立ち退きになったり。パターンが崩れていて、生の「いま」だけが登場しつづける。
だから、生は、時間的パターンという型をともなうことで、はじめて生活になる。そのパターンがあるから、人間はちょっとだけ先のことを考えることができるというか、未来を展望できるようになるわけです。
そのパターンが壊されて「明日どうしよう」って話になると、視点が目の前の現在のみに釘付けになってしまう。先を見通すことが、むずかしい。安定した生活を享受している人たちが、自分たちの生活の条件を暗黙のうちに前提にしてしまうと、「彼らは近視眼的に生きている」「その日暮らしを積極的にしてしまってる」という解釈をしてしまうんだけど、そうではないんですよね。
そもそも人間は、この型を持つがゆえに先を展望できる。あるいは型を持つがゆえにリズムが生まれる。だから貧困というのは、パターンの崩壊の問題である。「生が生活になる」というフレーズには、このような意味を込めました。
伊藤さんも、名著『どもる体』に書いてますね。第5章で、「なぜ歌うときはどもらないのか」という話があります。「ノる」というのは、自分の運動の主導権が、自分でないものに一部明け渡されていることだという議論が、展開されています。
伊藤さんは、その人に起きている世界をそのまま見ようとする。どういうふうに、その人が調整したり工夫したり、その場を乗り切ったりしてるのか。矯正の対象とか、直さなきゃいけない悪い何かとか、介入論的な感じじゃないわけです。
歌のケースでも、「どもる」がすごく丁寧に、具体的に書かれていく。どもるときに、カラオケで歌ってるときにはどもらない。それは、よく言われるじゃないですか。この点について、ヴァレリーのリズムや韻の話とも接続されていて刺激的です。伊藤さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』とつながってるんですよね。
陳腐な言い方だけど、さすがというか。『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』については、結章のすぐ前に置かれた重要な章のタイトルが「生理学」ですからね。詩の研究で、生理学で締めるとか、やはり伊藤さんはタダものではない。
ひとつ言っておくと、「いまを生きろ」って言いがちじゃないですか。僕も思わず言っちゃう。でも、いまの固有性を知るためには、過去のパターンとのすり合わせが必要なわけです。
ライアン・ガルシアっていう、体重オーバーで世界中からバッシングされたボクサーがいます。ガルシアの左フックは、ほかの人にはない角度とタイミングで来るんです。「こんなものを見たことがない」となるのは、過去にいろんなフックを見ているからなんです。過去のフックのパターンとの対比で、ガルシアのフックが見えてくる。パターンとかリズムとの関係が出てくる。
リズムの問題を考えてみると、過去がどういまと出会って、いまがどう過去に回収されているか、哲学的にも繋がってくるわけです。ここの問題を、たぶん『どもる体』のなかで、どもる人々がカラオケで歌うっていうことと、伊藤さんがずっと取り組んでこられたヴァレリーであったりとか、さまざまな哲学美学の研究とかと結びつけている。
こんな理解で、いいですか?
伊藤/
恐縮です。なんて言うんでしょう、石岡さんのリズムの分析を見て、それぞれの人間に与えられている条件を考えていくような視点が、社会学者だなと思うんですよね。時間や予見可能性のパターンが、均等に与えられてない。力を持ってる人が時間を支配していて、力を持っていない人はそれに翻弄される側だと。
それはボクサーの話でもそうですね。フィリピンのボクサーは「かませ犬」。
石岡/
100回の練習より1回の実戦のほうが学べたりしますよね。対人競技だと相手とのマッチアップもあるから、手塩にかけて育てたいボクサーがいると、大切に、プロモーターが相手を組んでいくわけです。その相手役として、フィリピンのボクサーが選ばれて、かませ犬的に使われる。
伊藤/
急にマッチが決まったりとか、向こうの理由で延期になったりとか。体重を落としていくのはすごい大変なことなんだけれど、ボクサーもやっぱり予見可能性に翻弄されているんですね。
日本とフィリピン、あるいは世界的なボクシングのヒエラルキーが、ボクサーが体重をコントロールする時間をコントロールできないっていうところに集約されてる。そう見出されたのは、社会学者だなって。そういうふうに時間が広がっていくんだなと思ったんです。
そういう視点をもらっていろいろなものを見ていくと、見落としていたけど、そういうことは私のまわりにもあるなって思いました。」
・時間を盗む
「伊藤/
ジェローム・エリス(JJJJJerome Ellis)という、吃音で黒人のミュージシャンがいるんです。かれがこの8月に、仲間と一緒に、ニューヨークのホイットニー美術館に大きい看板のアート作品を出したんです。3カ国語で、テキストが書いてあるんですよね。
英語で書いてあるのは、「stuttering can create time(吃音は時間をつくれる)」。どもるって、パターンから外れてしまうことなんです。聞いてる人からしたら、しゃべり言葉の文章はこう来るんだろうみたいな流れが止まっちゃう。
だから、よくもわるくも、現在形、いまを生きる状態になっちゃうんですよね。それは、時間に追われているように生きている現代人にとっては、当たり前の時間の流れが止まるわけなので、かえって相手の話をじっくり聞く機会になるかもしれません。でも、エリスは、時間の停止を、もっと長い射程でとらえます。彼にとっては、それは、先祖たちと対話する時間でもあるんです。
エリスの先祖は、奴隷としてアメリカにつれてこられた黒人です。黒人は、時間を奪われた存在だった。時間の自由がないから、どうやって主人から時間を盗むか常に考えていて、時間を盗んで恋人に会いに行くとか教会に行くとか、そうすることが抵抗だった。時間を盗むイコール自由を獲得する、というということだったんですよね。
石岡/
なるほど。
伊藤/
「過去の経験が現在まで」という話がありましたけど、エリスの場合は、それをさらに拡張して、先祖との対話を含めて、そういう時間感覚を持ってる黒人である自分が、どもる。
それも含めて、「吃音は時間をつくれる」っていうことで、ある種のパターンから落ちちゃってるんだけれども、同時に、反対側から見ると、支配されてきた時間を取り戻していることでもあるというふうに、ジェローム・エリスは言っているんですね。
そういうふうに考えると、社会学的な視点みたいなものも、やっぱりひとりの経験のなかに見えてくる。
石岡/
「時間泥棒」って、よく企業の上の人が労働者に向かって言いますよね。大学でも言われます(笑)。
でもたしかに、「時間をいかに主人から盗むか」という視点はありえますね。フィリピンでも、時間を盗むための人々のやり方というふうにみると、それはそれでおもしろいエスノグラフィが書けそうな気がします。」
・車のなかの不思議
「伊藤/
時間といえば、フィリピンを旅してる車の中の時間を思い出します。基本的にはマニラにいたんですけど、バギオという都市まで、往復10時間ぐらいの旅する時間がありました。あの時間は楽しかったですよね。
石岡/
車の時間、好きなんですよね。僕が前で、うしろに伊藤さんが座ってるんです。うしろに振り向くような感じで会話してると、なんかまた違う。
バギオという地方都市は、山の上にあって、ちょっと涼しい。それで、20世紀に入って避暑地として開発された場所ですね。最後は、そこに行きました。
山道をくねくね下りていくんですけど、そのときにまた会話を僕が伊藤さんと始めて。そのときに、伊藤さんが「存在関係」って言ったんですよね。覚えてます?」
伊藤/
覚えてます。
石岡/
その存在関係ってなんですかと聞いたら、映画監督の濱口竜介さんとの会話の中で出てきた言葉だと。人間関係というと、たとえば僕と○○さんは、どういうふうな形で出会って、現在はどんな関係にあるのかということなどを捉えますよね。
そうじゃなくて、存在関係は、まさにどういう配置で人が座ったりとか、体と体でどういう向きを取り合って、どういう配置の中で人と人とが関係を取り合うかとか。それは人間関係じゃなくて、存在と存在の関係だから。「伊藤語録」では、存在関係と呼ぶっていうことなんですよね。
濱口監督の『ドライブ・マイ・カー』もそうなんですけど、車の中だからこそ紡がれる語りがある気がします。インタビューって「interインター/viewビュー」だから、たがいに向き合うイメージがある。だけど、車のなかだと、同じ方向を向いているし、そういう感じのほうが話しやすいこともある。
新しい話が生まれるときの配置の問題を、存在関係というのが印象的だなと。
伊藤/
おもしろいですよね。車の中で前後に並んでると、独り言ぽくもあるじゃないですか。でも、けっこう、しっかり受け止められる感じもある。自分と対話しながら、石岡さんとも対話してる。すごい不思議な感覚になるんですよね。
石岡/
当然ほかのスタッフの方もいるので、会話も開かれてる。なんか人と人との話っていうのは、話の中身だけじゃなくて、まさに体の配置というか、そういうものの関係の中で出されていく。とても良い時間でしたね。」
・文学は時間
「伊藤/
『エスノグラフィ入門』に本を読む話がありますね。引用では本の一部が抽出されているけど、それを引用だけで読むのと、それを通して読むのは全然違う経験なんだと。ドライブしながら行くのと飛行機で行くのとでは、通る場所が違うみたいな。
石岡/
そうそう。今週の日曜日からトルコ経由でウィーンに行くんです。異国の街中で移動する場合、電車に乗ると早いんですけど、知らない街を自転車で移動するのが好きでして。駅と駅の点で移動して消えてるところが、つながってくるんですね。点じゃなくて線で見えるというか。
その線も、ひとりで移動するだけじゃなくて、たとえば伊藤さんとふたりで移動すると、またちがうものが見えてきたりして。なんていうかな、飛ばし読みも魅力があるし、飛ばさないでコツコツ読むのも、線であるがゆえにラインが開けてくるようなものとかもあって。そういうのも、おもしろいですよね。
伊藤/
石岡さん、小説は読まれるんですか?
石岡/
本を読むの遅いんですよ。とくに小説は、身体を入り込ませないと読めないじゃないですか。入り込むためには、入り込む呼吸が必要で(笑)。それまでに、時間がかかるんですよね。入って乗ったときにはもう一気に。
伊藤さんはどうですか?
伊藤/
博論の研究が文学なのに、アートの教員になった理由も、実はそこにあるんです。
最初、非常勤で文学の授業してたんですけど、引用しか取り上げられないので、ほんとに教えられないんですよね。この引用にたどりつくまでに10時間読んで、入り込んだ身体になって読まないと意味がないのに、どうしてもそこしか触れられない。
そのことに絶望して、文学のことを授業で取り上げるのはやめようと。それでアートの授業になったんです。文学って、時間だなと思います。
石岡/
飛ばし読みできないですもんね。」
・本を信用してない
「石岡/
一緒にいるとボロっとした会話がおもしろくて。これ、聞いてもいいのかな? 伊藤さんが、「本を信用してないんですよ」って言ったんです。
伊藤/
言いましたっけ?
石岡/
スクオッター地区にいたときのことかな。伊藤さんは、現場に行ったり実際に同じ活動をやらしてもらったり。あとは、『見えないスポーツ図鑑』で試みられているように、スポーツの体験を翻訳したり、そういうふうにからだを使ってますよね。たぶん、発想の足場みたいなものを、文字じゃないところに置かれようとしているのかなと。
伊藤/
どういう趣旨で、そのときに本を信用してないって言ったか、ちょっと覚えてないんですよね。石岡さん、記憶力がすごい。言ったことはぜんぶ「心のノート」に(笑)。
すこし説明してみると、自分の専門が美学という学問で、感性を扱うんですね。いわゆる知性が第一級の認識能力だとすると、感性は第二級の認識能力だとされていて。非言語的ということですね。
たとえば人に会って、その人にすごい魅力を感じるとか。なんでって言われると、理由は言えないんだけど、はっきりと感じている。そういうものによって人の身体が動くと思うんです。
言葉で変えられる部分は人間の上澄みの部分で、下の感性の部分は、よくも悪くも保守的な部分ですね。そこに手を突っ込んでものを考えていかないと、すごく表面的にいろいろ終わってしまう気がして。
洋服変えるんじゃなくて手術しろっていう、けっこう暴力的な欲望だと思いますけど。そういう、ちゃんと人間を考えたいっていうモチベーションはずっとあります。
石岡/
なるほど、聞けてよかったです。
あんまりからだのことばかり言うと、からだを本質化してしまうから僕なりに注意はしてるんですけど、たとえば味覚は保守的じゃないですか? もっといろんな国の料理を楽しめればいいのに、僕は、インド系のスパイスが駄目なんですよね。結局それで味噌汁を欲してしまう。
味噌汁を欲するのは、生物学云々というよりも、社会文化的にできあがった自然のような部分としてあって、そういうところに届くようなものを自分も描きたいなと思います。
伊藤/
それで言うと覚えてるのが、車に乗ってバギオに行く途中、1回ちょっと高速を降りて食べた夕飯。定食みたいな、自分が食べたい料理をとって食べるスタイルの。
あれ、なんだったのかな? 石岡さんが、料理についてきたピンクのソースを私にくれたんですよ。
石岡/
覚えてない(笑)。
伊藤/
ピンクのタルタルソースみたいな。私、「ありがとう」と言ったと思うんですけど、そのソースをもらうときに、プレートの、すごいはじっこに乗っけたんですよ。そしたら、「警戒してますね」っておっしゃった。
「このひと怖い」って(笑)。言葉よりも、その下のからだを見てる。
石岡/
ああ、そうかもしれない。おもしろいですね。
伊藤/
そろそろ時間ですかね。『エスノグラフィ入門』は、エスノグラフィの方法論について書かれた本でありながら、他のどんな石岡本よりも生々しくて、方法論を超えた言葉にできないもの、フィールドにいるときのモードといいますか、まさに「踊っている感じ」を体感できる本だと思います。
ということを、実際に「フィリピンバージョンの石岡さん」を見てきた私が証明します(笑)石岡さんとフィリピンですごした一週間は、本当に私にとって一生のよい思い出です。石岡さん、本当にありがとうございました。
石岡/
伊藤さん、ありがとうございました。今日の話の中でも出ましたが、伊藤さんは、人の中にすっと居られるところが、本当にフィリピンでの時間では印象的でした。たたずまい、ですね。普通に通りを歩いて、食事をして、闘鶏を見て、ボクサーのお宅にお邪魔する感じです。ふるまいに過剰さがないのが、僕はとても好きで。
過剰にならないというのは『エスノグラフィ入門』のひとつのテーマだなと、あらためて思いました。
伊藤/
ウィーンから帰られたら、またいろんなお話をしましょう。今日はどうもありがとうございました。
石岡/
ありがとうございました。」
□石岡丈昇『エスノグラフィ入門』【目次】
はじめに
エスノグラフィとは/本書の著者について/エスノグラフィの核心/本書のスタイル/あるひとつの入門書
第1章 エスノグラフィを体感する
通夜と賭けトランプ/センス・オブ・ワンダー/海の少年/場面と主題/二重写しに見る/フィールド調査の十戒/フィールドの人びととの関係のあり方/調査の進め方/社会学的に観察する/フィールド調査のねらい/本章のまとめ
コラム1 サイクリストの独自世界
第2章 フィールドに学ぶ
経験科学/フィールド科学/雪かきの現場から/モノグラフ/可量と不可量/不可量を書く/ボクサーの減量の事例/人びとの経験に迫る/身体でわかる/フィールドへのエントリー/漁民から見る/人びとの対峙する世界/本章のまとめ
コラム2 ペットによる社会的影響とその効果
第3章 生活を書く
シカゴ学派/生活を見る眼/アフリカの毒/同時代の人びとへ/地続きの人類学/生活実践へ/日常生活批判/差別の日常/「いま―ここ」の注視/「人びとの方法」への着目/遠近法的アプローチ/まひるのほし/本章のまとめ
コラム3 遊びとしての公的空間での眠り
第4章 時間に参与する
生活論/生活を読み取る/生活環境主義/「森林保護」による生活破壊/時間へ/ボクサーの「典型的な一日」/時間的単位を知る/周期性とリズム/時間をめぐる困難/生が「生活」になるとき/共に活動すること/私の失敗談/本章のまとめ
コラム4 手話サークルから見るろうコミュニティとコロナウイルス
第5章 対比的に読む
図書館の歩き方/探索することの魅力/「赤青」の色鉛筆/読みの体感/エスノグラフィを読む/裏舞台だけを読まない/着眼点の移植/対比的に発見する/データをつくる/本章のまとめ
コラム5 リスクから見るサブカルチャー
第6章 事例を通して説明する
フィリピンとの出会い/繰り返し通うこと/対比という方法/事例を通した説明/論理の解明へ/羅生門的手法/客観性から客観化へ/ミクロ・マクロ問題/バンコクのバイクタクシー/エスノグラフィとルポルタージュ/本章のまとめ
コラム6 部活動におけるケガの社会学
おわりに――次の一歩へ
学ぶこと/受苦を生きる/楽しみと苦しみ
あとがき――読書案内をかねて
参考文献
索引
○石岡 丈昇(いしおか とものり)
1977年、岡山市生まれ。専門は社会学/身体文化論。日本大学文理学部社会学科教授。フィリピン・マニラを主な事例地として、社会学/身体文化論の研究をおこなう。著作に『タイミングの社会学』、『ローカルボクサーと貧困世界』、共著に『質的社会調査の方法』など。
伊藤 亜紗(いとう あさ)
○伊藤 亜紗(いとう あさ)
1979年、東京生まれ。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院教授。専門は美学、現代アート。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)など。一連の体をめぐる著作で、2020年サントリー学芸賞を受賞。
◎フィールドワークのからだ(Webちくま)
石岡丈昇×伊藤亜紗 対談(前編)
◎時間のフィールドワーク(Webちくま)
石岡丈昇×伊藤亜紗 対談(後編)