今福龍太「仮面考11 ポスト・フェストゥムの仮面」 (「すばる」)/木村敏『時間と自己』
☆mediopos3236 2023.9.27
今福龍太の「仮面考」(「すばる」)の連載については
mediopos2669(2022.3.8)で
「仮面考2 顔、面、ペルソナ」をとりあげたが
今回のテーマは「ポスト・フェストゥムの仮面」
「ポスト・フェストゥム」とは「祭のあと」
私たち人間は「過ぎ去ったものを想う
懐旧的なメランコリーと対峙しつづけ」ながら
「そのなかで未来への展望を切り開いてゆくという、
屈折した時間意識のもとに置かれ」ている
たとえば
カーニヴァルにおいては
「仮面祝祭」の後に
日常へと立ち戻り「仮面不在」となっても
なおも祭(フェストゥム)の余韻を抱え
仮面は不在の仮面としてなおも働いている
日常はただの日常ではなく
「祭」不在のメランコリーとともにあるのだ
私たちは皆「ペルソナ/仮面」を生きている
それを時間意識のなかで
どのように生きていくか
それがひとの「生」の在りようを方向づける
「ポスト・フェストゥム」もそのひとつ
「フェストゥム(祭)」に関連した時間意識は
祭の前と後そして祭のさなかの3つに分けられる
木村敏は『時間と自己』において
精神医学の視点から
分裂病親和的な時間が「アンテ・フェストゥム」(祭の前)
鬱病親和的な的な時間が「ポスト・フェストゥム」(祭の後)
躁病親和的な時間が「イントラ・フェストゥム」(祭のさなか)
として示唆されていたが
それら3つの「祭の前・後・さなか」は
精神病理的な現場だけではなく
「ペルソナ/仮面」との関係で見ていくことができる
上記の祝祭的な場において支配的なのが
「ポスト・フェストゥム」(祭の後)だが
子どもが「躾や教育や社会化」を受けるということは
「アンテ・フェストゥム」(祭の前)にある者が
「ポスト・フェストゥム」(祭の後)を予感しながら
「大人にふさわしい「仮面」のなかに「住む」」ことを学ぶ
ということでもある
そんな「ポスト・フェストゥム」の土星的メランコリーは
「その支配下にあるものの魂に、
塞ぎ込みや無関心をもたらすとともに、
他方では繊細な知力と観想力を賦与する」
「土星は、そのメランコリーと緩慢さによって、
日常の反復的な「時間」と「歴史」の束縛から離脱し、
遊戯的・創造的な仮面をまとった別の人間へと
変容する機会を私たちにもたらし」得るのである
私たちは病的になるほどではないとしても
それぞれが少なからず「祭の前・後・さなか」的な
性向をもって生きている
その際ただ「躾や教育や社会化」を受け
その「仮面」を無自覚に生きるだけでは
「フェストゥム」を創造的に生きたとはいえないだろう
私たちは「ペルソナ/仮面」を生きているが
その形成にあたってじぶんが
どのように方向づけられているかを自覚しながら
それを「遊戯的・創造的な仮面」として
身につけるための力を育てなければならない
■今福龍太「仮面考11 ポスト・フェストゥムの仮面————セリエント、吉岡実、ベンヤミン」
(「すばる」2023年10月号 集英社 2023/9)
■木村敏『時間と自己』(中公新書 昭和57年11月)
(今福龍太「仮面考11 ポスト・フェストゥムの仮面」〜「」より)
「〈ポスト・フェストゥム〉post festumという喚起的な言葉がある。ラテン語で「祭のあと」を意味する語である。それは通常、未来を先取りして希求する民衆の昂揚感やユートピア志向性を呼ぶ〈アンテ・フェストゥム〉ante festum(=祭の前・祝祭前夜)に対し、現在をこれまでの出来事のただの延長として捉え、すでに終わってしまったことを懐旧するような保守的ブルジョワジーの「後ろ向き」の性向、そのメランコリー的な心理を呼ぶときに使われてきた概念である。
(・・・)
〈ポスト・フェストゥム〉の気分には、現在が過去によって規定されていることを諾うという意味で、強い懐旧の念とノスタルジーがたしかに含まれている。それは人間の心理に投影されれば、しばしばメランコリー(憂鬱症)として表出されるようなものとなる。だがある意味で歴史を生きる人間とは、つねにこの、過ぎ去ったものを想う懐旧的なメランコリーと対峙しつづけながら、そのなかで未来への展望を切り開いてゆくという、屈折した時間意識のもとに置かれた存在であるということもできるだろう。その意味では、私たちの生には〈ポスト・フェストゥム〉的な契機がいかなる瞬間にも宿されている。人間とは、たえず過去を振り向きながら未来へと進むことを宿命づけられた存在なのである。
だがこの概念を哲学や心理学や精神病理学的な概念に展開しながら議論するまえに、まずはその原義である「祭のあと」という意味に即物的に立ち戻ってみてもいいかもしれない。なぜなら、私自身がこれまで数多くの民俗的な祝祭や儀礼を体験するなかで、この「祭りのあと」に現れる〈ポスト・フェストゥム〉の時空間を、きわめてデリケートな陰鬱をもった、刺戟的な場としてつねに受けとめてきたからである。そしてそれはしばしば、「仮面のあと」とも呼ぶべき、仮面祝祭の華やぎのあとに訪れる、不思議に凝縮され、充満した「空白」の経験でもあった。祭のおわったあとの、仮面の不在の場にふたたび立って、私はそこにいわば「非−在」としての〈ポスト・フェストゥムの仮面〉が名残惜しそうに漂う姿を脳裏で幻のように見ていたのではなかったろうか? 仮面のこうした不思議なポスト・フェストゥム的「残影」もまた、もう一つの仮面のはたらきを促すものであることを、私はそうした機会に発見していったのである。」
「カーニヴァルの宴と放縦のあとに訪れる〈ポスト・フェストゥム〉の空気を、もっとも見事に描写している文章の一つは、ブラジル、リオのカーニヴァルを体験した真木悠介によるこの一節かもしれない。
炸裂する産婆の響きと雑踏のほこりにまみれて、踊りつかれた青年、少女、老人、子供、母親が死体のように眠る。そのいきつもはじっさい死んでいる。カルナバルの最後の夜が明け、リオデジャネイロの東の海が紫から朱、黄金色から緑へとうつり変わる時刻を、ファベーラに住む人びとは、とりわけ女たちはさめざめと泣く。(・・・・・・)やがて熱帯の白い日ざしがリオの石畳を焼きつける時刻、この歳の祭の中で死ぬことのできなかった男や女が、空腹と疲労をかかえて、魂をおいてきた肉体の陽炎のように、ゆらゆらとその労働の日々にたち上がる。
(真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房、一九七七、一六二頁。改行省略)
ポスト・フェストゥム。それはたしかに、生と死が接触し交合する祭の昂揚の極限を体験した者が、その余韻を体内のどこかに抱えながら、ルーティーンとしての日常へと立ち戻ってゆくときの深い喪失感と諦念の識閾に湧き上がる気配である。「祭の中で死ぬこと」とは、祝祭的昂揚の極地を意味しているが、その昂揚は刹那のものに過ぎず、終わってしまえばすべては日常の反復のなかに回収されてゆく。ユートピアにおいて死ぬことができないという事実が、日常のかけがえなき生をつなぎ止める。そして死もまた、現実の皮にしか起こらないのだ。祭の昂揚に終わりがあることは、人がかならず死すべきものとして誕生するという真理をまぐる民衆哲学的な発見をうながす。女たちがさめざめと泣く涙には、だから悲嘆とともに、永遠の生はないという、深い覚醒の智慧も宿されているのだろう。」
「〈ポスト・フェストゥムの仮面〉の多様な存在形態をさらに変奏しておくために、ヴァルター・ベンヤミンの『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』に登場する興味深い「仮面」について最後に触れておこう。そこでは、家のなかの事物、とりわけ家具が、それ自体に与えられた機能的な役割を剥奪され、子どもがある種の予感とともに、その事物性と神話性に充ちた「モノ」たちと戯れる様子が、みずからの幼少期の記憶の霧の中へと遡行するようにして美しく描かれている。
(・・・)
この、言葉でもあり家具でもあるような「仮面」のなかに「住む」ことを学ぶこと。それは、大人による躾や教育や社会化の抑圧から身を守り、子どもが、いや始まりの人間である存在が、自らの生の最初の「足場」をかためるために決定的に重要な手続きであった。その意味で、いかなる子どもの「可燃遊戯」も、けっして幼稚で他愛ない遊びなどではなく、大人の社会が後に失ってゆく直接的な世界感受性を身体の模倣の感覚として保持するための、秘密の、決定的な方法にほかならなかったのである。
(・・・)
歴史的経験を前成として準備しながら。その経験の途上でつみとられていった、モノへと擬態するような模倣的・遊戯的な生命−力(夢)の残滓を、幼年時代の身体はどこかで記憶している。であれば。家具としての仮面は、やがて零落してゆく社会的・歴史的身体の、言語化できない「原−史(ウアゲシヒテ)」を描き出すための、ほとんど唯一の手掛かりなのではないだろうか。
(・・・)
〈ポスト・フェストゥムの仮面〉に憑依する術をすでに身につけた子ども。復活祭の祭の世俗的昂揚の陰にある、躾という名の権力の気配をすでに予感し、それに抵抗しつつそれに敗北し、暦に訓化されることでのちの歴史の光と闇を「前成」している子ども。〈ポスト・フェストゥムの仮面〉は、ある意味で、〈アンテ・フェストゥム〉の幼児期においてすでに先取りされている、始原のメランコリーを宿しているのかもしれない。(・・・)
土星は長いあいだ、あらゆる惑星のなかでももっともゆっくり回る星であると考えられていた。古来の占星術では、土星の迂回と遅延と孤独とが、人間の憂愁にみちたメランコリー気質を象徴しているとされた。土星のようにゆっくりと宇宙を回りながら世俗的「時間」の逆説について深慮する者は。だからみな土星的気質の持ち主である。土星はポスト・フェストゥムの象徴であり、ヴァルター・ベンヤミンもその星の下に生きた一人だった。
この、土星的メランコリー気質につきまとう徹底した孤独と塞ぎの虫は、しかし時に精神の異様なる飛翔をもたらし、自己にも他者にも容赦しない、根源的な思想を生み出すエネルギー源となった。土星は、そのメランコリーと緩慢さによって、日常の反復的な「時間」と「歴史」の束縛から離脱し、遊戯的・創造的な仮面をまとった別の人間へと変容する機会を私たちにもたらした。
ベンヤミンはポスト・フェストゥムの性向としての土星的気質について、『ドイツ悲劇の根源』(一九二八)のなかでこんなふうに書いたことがある。土星は、その支配下にあるものの魂に、塞ぎ込みや無関心をもたらすとともに、他方では繊細な知力と観想力を賦与するのだ、と。この矛盾にも見える、深く陰翳ある生と死の循環宇宙の中で、メランコリックな知の輝きを伝える土星の小さな分身たちがいる。それこそが、私たちがここで考えて来た〈ポスト・フェストゥムの仮面〉たちにほかならない。」
(木村敏『時間と自己』〜「第二部 時間と精神病理 2 鬱病者の時間」より)
「われわれは分裂病親和的な時間をプロレタリアートの革命意識との類比から「前夜祭的(アンテ・フェストゥム)」と呼んでおいたが、鬱病親和的な時間については、ルカーチが資本主義の「現在が過去によって支配される」意識を形容して用いた「ポスト・フェストゥム」の規定をそのまま借用できるだろう。
ポスト・フェストゥムとは、ラテン語で「祭りのあと」の意味であるが、欧米各国語に外来語として取り入れられて、ふつうに「遅ればせ、手おくれ、事後的」などの意味で用いられている。日本語でいえば、むしろ「あとのまつり」という表現がふさわしいだろう。なにかが起こってしまってからそれを悔やんでみても「あとのまつり」だし、そんな事態にならないように用心してかかる意識も、一見将来に備えての先走った姿勢に見えるけれども、実は「あとのまつり」になることを予想しての保守的でポスト・フェストゥム的な意識なのである。
(・・・)
アンテ・フェストゥム意識における未来は、圧倒的に未知なるものとしての未来であった。しかも、未来だけではなく、過去も、そして当然のことながら現在も、それぞれ「過ぎ去った未知からなる未来」および「まだ来ていない未知なる未来」として、アンテ・フェストゥム的未知性によって深く浸食されていた。(・・・)
鬱病者のポスト・フェストゥム意識においては、過去も現在も未来も、これとは完全に様相を異にしている。彼らは未知なる未来を見ようとしない。「未知なる未来」という観念すた持ち合わせていないかに見える。彼らにとってあるべき未来とは、これまでのつつがない延長にほかならないのであって、彼らはときとしてあるべからざる未来に対して極端に用心深くなるのも、これまでの経験に照らして当然起こりうるかもしれない災厄を恐れるからである。
(・・・)
ポスト・フェストゥム的な過去も、アンテ・フェストゥム的な過去とは似ても似つかぬものである。それは決して過ぎ去って帰らぬものではなく、つねに現在の奥深くに蓄積されている。それは過去というよりは、つねに現在完了としてしか語れないものである。
(・・・)
鬱病の発病状況がすべて「所有の喪失」としても理解できるのは興味深い。メランコリー親和型の人が深刻な危機に直面して鬱病に陥るのは、つねに自己の存在をそれまでしっかりと支えてきた秩序が失われたときである。
(・・・)
鬱病者のポスト・フェストゥム意識がもっとも如実に表れるのは、「とりかえしのつかないことになった」という後悔の形においてだろう。」
(木村敏『時間と自己』〜「第二部 時間と精神病理 3 祝祭の精神病理」より)
「精神医学が扱う非日常性には、この二つの形態とは根本的に異なった意味をもつ、もうひとつの種類の非日常性がある。分裂病と鬱病が、ともに日常性の外部境界を異なった二つの方向に逸脱したところで成立する非日常性あるあるとするならば、第三の種類の狂気は、いわば日常性の内部構造それ自体の解体によって姿を現す非日常性であり、換言すれば、日常性の存立の基盤それ自体が解体するという形で顕現する非日常性である。第一と第二の狂気がいわば水平方向での日常性の危機であったとするならば、第三の狂気は垂直方向での日常性の危機だと言ってもよい第一と第二の狂気が、日常性一般を構成する二つの意味方向の極限への延長として、それぞれ単一の純粋形態をもちえたのに対して、第三の狂気はいわば日常性全体の基底面にかかわる「底抜け」の事態であって、一つの純粋形態に収斂しうるような単一の方向をもたない。」
「われわれは、分裂病者の未知なる未来との親近性を、「祭の前」を意味する「アンテ・フェストゥム」の概念で捉え、一方鬱病者における既存の役割的秩序との親近性を。「祭の後」を意味する「ポスト・フェストゥム」の概念で理解してきた。(・・・)われわれはこの第三の狂気に、「祭のさなか」を意味する「イントラ・フェストゥム」の形容を与えようと思う、イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である。」