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エドガール・モラン『百歳の哲学者が語る人生のこと』

☆mediopos-3093  2023.5.7

二〇二一年(七月八日)に百歳となった
(亡くなったという話はとくに聞かない)
哲学者エドガール・モランが
みずからの人生の経験(激動の一世紀!)から
じぶんなりの教訓を語っている一冊

とはいえ「まえがき」に記されているように
「この本で、私は教訓を与えるつもりは」ないとのこと
百歳を過ぎて現在進行中の生を
いまだ試行錯誤しつつ学びつけている

モランは一九二一年にパリでユダヤ人の両親のもとに生まれ
第二次大戦中は対ナチス・レジスタンスの一員として活動
「パリ解放」にも加わったというが

そうしたさまざまな経験を通じ
哲学・社会学・自然科学の垣根を軽々と乗り越える
モラン特有の「複雑性」の思考を深めていったようだ

モランとその思想が魅力的なのは
「愛という情熱がない人間は寂しすぎる」とも語るように
人間は理性と情熱の両輪を備え
常にそれが入れ替わりながら生きているとしているところだ

人間は知性的で理性的な存在であるだけではなく
同時にホモ・サピエンス・デメンス(錯乱し狂気に駆られた存在)
でもあるという

またモランはひとつだけのアイデンティティに還元されることを拒み
統一性/多数性つまり一でありながら多である
そんなアイデンティティを意識しながら生きている

モランの示唆する「再生した人文主義」は
「惑星規模」でのヒューマニズムであり
あらゆる人間に対し
出自・性別・年齢とは無関係な人間としての性質・権利を
認めることだとしているが
そこにも「複雑性」の思考が働いているといえる

「複雑性」を生きるということは
「個人や出来事や現象について、多元的で、
ときには対立なり矛盾を含んだ様相を認めること」であり

「常識なり自明だと思われることについても驚き、問い直すこと。
つまり、問題意識を持つこと」であり
それによって生み出される「懐疑」による批判精神を
とりわけ自らに向けることが重要だとしている

なにかを認識しようとししたとき
「誤りを犯すリスク」を伴うことになるが
自己批判という試行錯誤によって
誤りを誤りとして認識し分析することで
それを乗り越えていくことが可能となるからである

政治家や思想家たちの多くは
自己検証や自己批判のプロセスを行わないまま
「誤り」が生じたときでも
それを認めないでいることがあまりに多く見られるが
(従って「乗り越える」ということもありえない)
そこには理性もまた愛という情熱も存在しえない

そんななかで
二十世紀から二十一世紀への激動の百年を
誤りや矛盾を恐れない「複雑性」の思考のもとに
理性と愛の両輪で生きてきた哲学者モランの言葉は
真実の重みをもって確かにそして切実なまでに伝わってくる

■エドガール・モラン(澤田直訳)
 『百歳の哲学者が語る人生のこと』(河出書房新社 2022/6)

(「まえがき」より)

「この本で、私は教訓を与えるつもりはありません。一世紀にわたる経験、一世紀にわたる人生から、自分なりの教訓を引き出そうと試みました。みなさんが自分の人生について考え、自分の道を見出すのに役立てば幸いです。」

(「第一章 一であり多である私のアイデンティティ」より)

「私は、ある社会の極小の一部であり、過ぎゆく時間の流れのなかの儚い瞬間に過ぎません。それだけではありません。〈全体〉としての社会は、その言語、文化、慣習とともに私の内部にあります。私が生きた二十世紀と二十一世紀という時間は、私の内部にあります。人類は生物学的に云えば、私の内部にあります。哺乳類、脊椎動物、多細胞生物は私のうちにあります。
 地上の現象である生命は私のうちにあります。そして、あらゆる生命体は分子からできており、分子は原子の集まりで、原子は素粒子の結合したものですから、物理的世界の全体と宇宙の歴史が私のうちにあると言えます。
 自分にとっては私が一つの〈全体〉であり、このことはたとえ〈全体〉にとって私がほとんど無に等しいとしてもそうなのです。私は八十億人の人類のうちの一人で、特異であると同時にありふれた個人で、他の人とは異なるけれど、他の人と似た存在です。私という存在は、ありそうにない、偶然で、両義的で、驚くべき、予期せぬ出来事や出会いの産物です。それと同時に、私は〈私=自我〉であり、具体的な個人で身体組織はけっして単純な機械ではなく、自動−生態−組織的な極めて複雑な機械なのであり、予期せぬことに応え、予期せぬことを創造することができます。脳は各人に精神と魂を与えますが、この精神と魂は、脳を分析する神経科学には見えないもので、各人が他者た世界と関係する際に現れるものなのです。

 私たちのそれぞれは一つの小宇宙であり、〈私=自我〉という還元不可能な統一性のうちに、しばしば無意識的に、多数的な〈全体〉を持っています。そして、彼はさらに大きな〈全体〉のなかでは、このような多数的な〈全体〉の一部でもあります。この複数の〈全体〉は、自分の先祖や、社会的に帰属する集団の多様性などからなっています。
 何か一つのものに還元されたアイデンティティを拒否すること、アイデンティティの統一性/多数性(unitas multiplex)を意識することは、人間関係をよりよくするために、精神衛生上、必要なことです。」

(「第二章 不測と不確実」より)

「人間的なもののすべてから偶然の要素を排除することは不可能であり、我々の運命は不確実であり、思いがけないものを想定する必要がある。これが、私が人生の経験から学んだ主要な教えです。」

(「第三章 共に生きること」より)

「〈共に生きること〉は、「真の生」への渇望と、〈わたし〉と〈わたしたち〉の間の恒常的な関係における個人的な渇望を実現する欲求と、生の詩的性質、承認の欲望の満足を結びつけます。〈共に生きること〉のための絶対的処方箋はありません。それは幸福の処方箋がないのと同じです。それで、ときにモデルはあります。〈共に生きること〉の渇望は多少なりともそれぞれのうちで意識されているのです。」

(「第六章 わが政治的経験――新たな危難 」より)

「再生した人文主義(ヒューマニズム)の基盤は人間の複雑性を認めることです。出自、性別、年齢とは無関係に、あらゆる人間に対して、人間としての性質、十全な権利を認めることです。それは連帯と責任とう倫理に立脚し、〈祖国地球〉(複数の国が包まれ、それぞれ尊重されます)という惑星規模でのヒューマニズムを構成します。
 ですから、ヒューマニストであることは、危険、不確実性、危機(民主主義や政治思想の危機、利潤追求が引き起こす危機、生態系の危機、そしてパンデミックという複数領域の危機)が運命共同体として私たちを結びつけていると考えることにとどまりません。私たちがみな違っていながら同じ人間であることを知るだけのことでも、カタストロフを逃れ、よりよい世界を希求したいということだけでもありません。ヒューマニストであるということは、自己の最も奥深い部分で、自分がある途轍もない冒険のほんの一瞬にすぎないと感じることでもあります。この冒険とは生命の冒険のことであり、人類の冒険を誕生させたものなのですが、今やさまざまな創造、苦悩、災厄を通して、種の存亡に関わる巨大な危機状態に達しています。再生したヒューマニズムとは、人間共同体や人間の連帯の気持ちのみならず、未知で信じ難いこの冒険の内部にいるという感情、そしてそれが、そこから新たな生成が生まれる一つの変身の方へと続いていくことを願うことでもあります。

 ときとともに、ますますはっきり見えてきたことは、物理学や生物学の世界において、連合や統一の力が分散や破壊の力と結びついていることです。
 この弁証法は、エロス[愛]、ポレモス[戦い]、タナトス[死]の間の断ちがたい関係によって象徴できるでしょう。タナトスが最終的な勝者であるように思われますが、私にとっては、何が起ころうとも、エロスを選ぶことによってのみ人生に意義があることは明かだと思われます。」

(「第七章 誤りを過小評価するという誤り」より)

「生まれたときから、外部世界への適応は試行錯誤を通じて行われ、これは一生続きます。
 認識は誤りを犯すリスクなしでは成立しません。しかし、誤りは、それと認識され、分析され、乗り越えられたとき、ポジティヴな役割を演じます。「科学的精神は修正された誤りの総体の上に構築される」とガストン・バシュラールは言っています。
 誤りは、それを意識するとき、私たちを教育してくれますが、その多元的で恒常的な源については教えてくれませんし、その巨大で、しばしば有害な役割については告げることがありません。
 誤りは一般に過小評価されていますが、それは誤りが認識そのもののうちに端を発していること、誤りがあらゆる生において、また生全体に対して脅威であることを意識していないことに由来します。
 誤りは人間の認識と切り離すことができません。なぜかというと、認識はすべて再構成した後からの解釈だからです。そして、あらゆる解釈は、あらゆる再構成と同様、誤りのリスクを含んでいます。」

「情報を得ること、学習すること、自分の認識を定期的に検証し続ける必要があると私は考えています。絶えず変化する世界においては、十年ごとに自分の世界観を見直すことはたいせつです。」

「複雑さを周囲からすっかり捉えられないことも誤りの源です。この弱点は、我々の知が分離され、閉じた学問領域にタコツボ化されているためにより大きなものになります。」

「合理的な理論は、それを覆す新たな与件を無視したり、対立する論証を検討することなく拒否するとき、ドグマのうちに閉じこもる傾向があります。教条主義は、理性を硬直化させる病ですが、理性は可能な反駁に対して常に啓かれていなければなりません。」

「常識なり自明だと思われることについても驚き、問い直すこと。つまり、問題意識を持つこと。科学や哲学や思考の発展はルネサンス期に問題意識によってなされた。世界とは何か、人生とは何か、人間とは何か。神とは何か、神は存在するのか。問題意識は懐疑を生むが、懐疑とは精神の解毒剤であり、精神は懐疑をも懐疑しなければならない。懐疑は批判精神を生むが、それがほんとうの批判精神たりうるのは、自己批判ができるというときのみである。

 第一の命法
 あらゆる認識対象を文脈のうちにおくこと。現象も行動も文脈のうちでしか考えられない。多義的な言葉が意味を確定するのは文のうちにおいてであり、文はテクストのうちにおいてのみ意味を持つ。生きとし生けるものはすべて、生態系および社会の文脈のうちでエネルギーと情報を汲み取ることによって自律性を養うのであり、切り離して考察することはできない。

 第二の命法(より一般的なもの)
 複雑性を認めること。つまり、個人や出来事や現象について、多元的で、ときには対立なり矛盾を含んだ様相を認めること。

 第三も命法(さらに一般的なもの)
 自律的で独自なものを識別し、接続したり、組み合わせられたりしているものを結びつけること。小学校から始まるあらゆる教育の授業は、人生という誤りと真理からなるゲームに立ち向かうための準備を含んでいなければならない。

 それぞれの人生は不確実な冒険だ。選択を間違えることはありうる。友人、恋人、職業、政治、どの分野においても、誤りという亡霊が常に私たちの後ろをついてくる。一国の責任者の判断や決断の誤りの結果は国全体にとって災厄となり、死をもたらすこともありうる。
 じっさい、認識はきわめて困難な技術なのであり、補助として、何が誤りや幻影を引きおこすのかを認識することや、自己検証や自己批判は行われる必要がある。」
 
(「訳者あとがき」より)

「本書はフランスの哲学者・社会学者であるエドガール・モラン(Edgar Morin)のLeçons d'un siècle de vie,Denoël,2021の全訳である。原題を逐語訳すれば、「一世紀分の人生の教訓」となるが、著者モランは出版時ちょうど百歳、訳名は「百歳の哲学者が語る人生のこと」とした。」

「彼の研究のやり方は、原理から出発する演繹的なものではなく、出来事そのものに先入見なしに対峙しようとするもの。本書でも、歴史的な大事件かた、日常の小さな一コマ(・・・)まで、数多くの出来事が、あたかも映画の一場面のように示される。
 出来事の特徴こそ、彼が複雑性と呼ぶものに他ならない。サイバネティクス、情報理論、システム工学を援用し、自己組織化や自己生産(オートポイエーシス)などの観点から、既成のパラダイムから逃れようとするモランの考えは、『方法』の総序「谷間の精神」に高らかに宣言されている。それは一言で言えば、対立や矛盾を単純に解消するのを避ける姿勢だ。この立場をモランは、本書でも何度か引用する古代ギリシャのヘラクレイトスのうちに読み取る。思想系でいえば、パスカル、ヘーゲル、マルクス、自然科学で言えば、ニールス・ボーアやゲーデルなどのうちにもその系譜を見てとる、その一方で、科学の性質について哲学的に考察したフッサールやハイデガー、科学論的考察を展開したカール・ポパー、トマス・クーンなどの批判精神も参照しつつ、科学生態学、地球科学、宇宙論などと接続した人類学あるいは人間学を展開する。その試みは壮大で眩暈がしそうだが、本書ではその骨子がきわめて平易に語られている
 人間は知性的、理性的な存在であるだけでなく、錯乱し狂気に駆られた存在、つまりホモ・サピエンス・デメンスだ、とモランは言う。理性と情熱の両輪を備えているのが人間であり、それは常に入れ替わり、どちらかが一方的に支配するのではない。愛という情熱がない人間は寂しすぎる、とモランは考える。」

◎目次

まえがき
第一章 一であり多である私のアイデンティティ
第二章 不測と不確実
第三章 共に生きること
第四章 人間の複雑さ
第五章 わが政治的経験――一世紀にわたる激流のなかで
第六章 わが政治的経験――新たな危難
第七章 誤りを過小評価するという誤り
信条告白(クレド)
覚書

【目次】
まえがき
第一章 一であり多である私のアイデンティティ
第二章 不測と不確実
第三章 共に生きること
第四章 人間の複雑さ
第五章 わが政治的経験――一世紀にわたる激流のなかで
第六章 わが政治的経験――新たな危難
第七章 誤りを過小評価するという誤り
信条告白(クレド)
覚書

エドガール・モラン Edgar Morin
1921年、フランス・パリ生まれ。哲学者、社会学者。ユダヤ人の両親のもとに生まれ、第二次世界大戦中、対ナチス・レジスタンスの一員として活動し、「パリ解放」にも加わった。戦後にはマルグリット・デュラスなど作家や詩人とも盛んに交流しながら、その複雑性を持つ思考を深めていった。その仕事の特徴は、哲学、社会学、自然科学の垣根を軽々とのりこえる領域横断性にある。主著『方法』全6巻(法政大学出版局)の中核にあるのは認識問題の問い直しであり、「イデオロギー、政治、科学」がなす三角関係を「複雑性」と捉え、その再考を試みた。著書に、『ドイツ零年』『自己批評――スターリニズムと知識人』(ともに法政大学出版局)、『オルレアンのうわさ――女性誘拐のうわさとその神話作用』(みすず書房)ほか多数。

澤田直 (さわだ・なお)訳
1959年東京生まれ。立教大学文学部教授。著書に『<呼びかけ>の経験』『新・サルトル講義』、訳書にペソア『[新編]不穏の書、断章』、フォレスト『さりながら』『シュレーディンガーの猫を追って』など。

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