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『Sacred World 〜日本の古層 vol.2 〜』

☆mediopos-2430  2021.7.12

グラフィックマガジン『風の旅人』の
創刊号は2003年の4月
「ユーラシア旅行社」から発行・発売されている
編集長は佐伯剛
特集は「Find the root/森羅万象と人間」とあり
「天空の下」というテーマが記されている

いまでもよく覚えているが
広島駅前のジュンク堂書店で
偶然のようにそのタイトルが目に入ってきた

「KAZE」というハンドルネームを使っていて
「風のトポス」というHPを開いていたので
「風」という文字が目に止まったのかもしれないし
日野啓三の『ユーラシアの風景』が
「ユーラシア旅行社」からでていて
それを読んだということもあっただろうが

それよりもどこか
じぶんにだけ届けられたメッセージのような
そんな感覚を(勝手にだが)受けた記憶がある

それ以来その刊行を楽しみにするようになったが
2011年10月発行のvol.44で休刊
その後2012年12月発行のvol.45からは
「復刊」としてオンラインのみの販売となり
発行人・佐伯剛として
「かぜたび舎」から刊行され
第50号(復刊第6号)まで続いた

ちなみに「かぜたび舎」は編集・発行そして
ホームページの運営・管理、読者の管理なども
佐伯剛さんがお一人でされているとのこと

この「Sacred world 日本の古層」も
撮影から文章・編集まで
すべて佐伯剛さんによるもので
先日完成・発行されたのがVol.2
掲載されている写真はVol.1ものもすべて
ピンホールカメラで映したものだという

ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく
0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写すもので
その「ピンホールの眼は、忘れたもの、
見えないものを考えさせる古くて新しい扉」であり
「意識的に被写体を切り取るのではなく、
無意識のうちに何ものかを
招き入れるという感覚の写真行為」であるため
「フォトジェニックな人工的建物よりも、
岩や樹木や川の流れといった自然の方が、
自分の心の深いところに響くことが多」い画像となるという

今回この「Sacred world」をご紹介してみようと思ったのは
この「ピンホールカメラ」によって
映す方法でひらかれてくることになる
「見る」ということについて
考えてみたいと思ったからである

私は現在こうしてネットというメディアを使って
「水」「水面」の写真を中心に撮りながら
それに毎日言葉を付けるようになって7年めになる
(今日で2500回目・photopos-2500となる)

きっかけとなったのは
レオナルド・ダ・ヴィンチの水の素描だが
今回「Sacred world」の写真を見ているうちに
ある意味でじぶんがいま撮ろうとしているのは
「忘れたもの、見えないものを考えさせる古くて新しい扉」
としてのピンホールカメラ的な眼で
「見る」という試みだったのではなかったかと思い至った

撮影するといっても
安価なデジカメを片手に
野山や河川などを歩きながら
スナップ写真を撮るという簡易なものだが
「見る」ことそのものを
呼吸する感じでシャッターボタンをおしている

撮りはじめたころは
水の動きを撮ってみよう!
という意識が勝っていたけれど
次第に撮るというよりは見る
見るというよりはその場の空気となり
じぶんの意識というよりは
その場そのものの動きを
光と風のなかで感じるような
そんな感覚になってきている

そうすることで
じぶんの表面意識を包んでいる
またはその奥で働いている意識が
その場と共振することが
わずかでもできているのではないか

shootとしての撮るではなく
場を映す鏡としての写す/映すということ
言葉を換えていえば
主語的にではなく述語的に「見る」こと

そのように「見る」ことで開かれる
「Sacred World」もあるのではないか
そんなことを感じながら
「水」と「光」と「風」を呼吸している

■pinhole photography & text by Tsuyoshi Saeki
 『Sacred World 〜日本の古層 vol.2 〜』
 (かぜたび舎 2021/7)

※引用は、佐伯剛ブログより

(「第1159回 ピンホールの眼と、日本の古層」2021-07-08 より)

「 Sacred world 日本の古層」に掲載されている写真は、全てピンホールカメラで映したもの。
 一般的な写真撮影は、被写体を探して狙い撃つ性質があり、「撮影する」を英語にすると、shootとなる。カメラのシャッターは拳銃の引き金に等しい。
 しかし、私たちは、いつも獲物を狙うような目で風景と向き合っているわけではない。
 どちらかというと、私たちは、風景を見るのでなく眺めるように暮らしている。そして、無意識のうちに、そこに漂うものや蠢くものを感知して、記憶化している。
 フランス語のデジャ・ビュ(既視感)のように、わけもなく懐かしいと感じることについて、フロイトは、自分では実際に体験していなくても、夢の中ですでに観ているからだと説明した。しかし、理由はそれだけとは限らず、人生の中で、無意識のうちに記憶化している情景が膨大にあるからだとも言える。
 私たちの意識は、個人の自我や社会の常識と強く結びついているが、無意識は、自分個人の生涯には収まりきらない人類の潜在的記憶と呼ぶべきものと結びついて反応している。
 ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく、0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写す道具なので、意識的に何ものかを撃つのではなく、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となる。
 その結果、有名でフォトジェニックな歴史的建物ではない当たり前の自然物が、とても懐かしく、かけがえのないものだと実感される。
 水の流れ、岩、大樹、森、湖、山々、そして海。姦しい人の世よりも、悠久の時を刻む地球のリズムが、私たちの記憶に働きかける。
 ピンホールの眼は、忘れたもの、見えないものを考えさせる古くて新しい扉。
 現代社会で物事を判断する時、数かぎりない分別の尺度で選別するが、森羅万象は互いに優劣はなく、等価に連関して存在している。そして歴史は単なる過去の記録ではなく、私たちを育み、私たちが還っていくところである。そんな当たり前のことすら私たちは忘れているが、何かしらのきっかけで森羅万象の摂理と歴史の摂理が重なって見える時、私たちは、自分という存在もその一部であることを、それとなく察することができる。
 Sacred Worldというのは、天国のような特別な場を指すのではなく、世界の普遍性を反映する根源的な場のことであり、その根源性は、森羅万象の中を生きる全てのものに等価に行き渡っている。」

(「第1162回 ピンホール写真と、祈り。」2021-07-11 より)

「高性能のデジタルカメラは、撮影者が狙うような絵を作り出すために非常に有用なツールとなっている。
 それは、撮影者の満足度を高めるために適しているかもしれないが、そのアウトプットが、自分と世界のあいだの作法として相応しいものかどうかは別問題だ。
 世界には、自分の努力で何とかできることと、自分が努力したところでどうにもならないことがある。
 自分が努力したところでどうにもならないことに目をつぶって、それについて何も考えずにすめば心の安定を保てるかもしれないが、この世界で生きていくかぎり、そういうわけにはいかない。現在のコロナウィルスの問題もそうだし、近年、ますます酷くなっている自然災害においてもそうだ。
 自分が努力したところでどうにもならない試練が続く時の苦しみを、どう受け止めるべきなのか。この問いを、人類は、何千年も考え続けてきた。
 どれだけ便利な時代になったとしても、この問いから人間は自由になれない。
 そして、祈りというのは、その問いから生まれた。そして、祈りは宗教となった。
 世界には多くの宗教があり、その宗教を原因とする争いや残酷な事態も生じており、現代人は(とくに日本人は)、宗教に対してアレルギーを持っている人が多い。
 それでも日本人は、正月には神社や寺に初詣に出かけるし、旅先に神社があれば、ごく自然に参拝する。自分は無宗教だと言いながら、祈りを捨てていない日本人は多い。
 つまり、日本人は、宗教団体に所属していないというだけで、祈らない民族ということではない。
 気をつけねばならないことは、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならないことを受容できない心理に陥った時、邪悪なものに変容する可能性を秘めている。
 その時、宗教も祈りも、自分の願いの実現という欲の手段となってしまうからだ。
 本来は、宗教も祈りも、自分が努力したところでどうにもならない物事を受容するための、心を調える作法だった。
 芸術もまた、同じだった。
 努力しても思うようにならないのなら、努力する必要がないと考える人は、この世界を自分の欲の実現のための場と考えている。
 この世界を自分の欲の実現の場と考えない人にとって、努力することは祈ることと同じであり、それは、自分の心を調えるためのものだ。その努力や祈りは、欲の実現につながるのではなく、世界の理解と受容へとつながる。
 自分が努力したところでどうにもならない試練に満ち溢れた世界の中で生きていくうえで、本当の救いは、無聊の慰めで気を紛らわすことではなく、その世界を理解して受容することでしかない。
 世界を理解することは、科学的に証明されている事実を、いろいろ覚えるということではなく、世界を構成する様々な関わりを認識し、自分がその関わりの一つであることを納得することだろう。その関わりは、過去も未来も含め、どこまでも続いていく、目眩がしそうになるほどの連鎖だ。
 そして、受容というのは、その重さを受け止めて背負うことである。
 努力するところは精一杯の努力をするが、努力してもどうにもならないことは、その宿命を受容して、しっかりと備えをする。備えは、運命に翻弄されない確率を高めるためのもので、万全な状態を作るものではない。だから、備えをしてもダメならば仕方がない。生命の原理は、そうなっている。
 話が冒頭に戻るが、実は、高性能のデジタルカメラと違って、ピンホールカメラというのは、この生命原理と近いものがある。
 撮影するにあたって、光の状態とか、風の強さとかを読み取り、どこに三脚を立てるか、判断する。針穴を開いているあいだも、そろそろ穴を閉じるかどうか、集中して、葛藤する。
 暗いとまったく映らないとか、写っている範囲が明確にわからないとか、長時間露光なので、同じ場所で一回しか撮影しないなど制約が多いために、思うようにはならない。なので、ダメなら仕方がない、という気持ちを常に持っている。
 しかし、経験を重ねていくうちに、備え方が向上し、精度は高まってくる。
 この写真行為は、祈りと共通するところがある。根本のところにあるのは、自分を超えたものの受容である。
 ピンホールカメラで撮った聖域の写真は、遥かなる古代からつながる歴史の重みを受け止めて背負う気持ちを、自分の中に生じさせる。大それたことであるが、そういう感覚が自ずから生じる。
 私たちは、制約の多い肉体に縛られた存在であるが、「魂」という言葉でしか表現できない自分に働きかけてくる力を感じることがある。
 私は、幽霊とか霊魂などは実際に見たことがないので、それらのことについて詳しく知らないが、植物であれ、岩であれ、魂が宿っていると実感することはある。その魂は、具体的に取り出して科学的に分析できる物ではなく、交流もしくは往還するエネルギーのようなものであり、一方に備えがなければ、その交流や往還は起こらない。
 写真もまた、古代の宗教や芸術と同じように、自分と世界のあいだの敬虔なる作法であると考えて撮影行為をしている人がどれだけいるかは知らない。
 写真に限らず、「アート」が金融商品のようになっている現代社会において、「アート」の性質をそう捉えている人が、どれだけいるかは知らない。
 しかしながら、いくら世の中が変わろうとも、人間と世界の関係の本質は、古代から変わっていない。
 変わったのは、世界の理解と受容における人間の真摯さだけかもしれない。」

(「Sacred World〜日本の古層〜」2019.10.28 より)

「日本というのは、たぶん世界の中でも実に特殊な国で、一千年以上も前の歴史を探るために、文献の量が少なくても、古墳や神社が無数に存在していており、今日の我々に、重要な何かを伝えてきています。
  大陸の国々は、新しくやってきた侵略者によって、それ以前のものは徹底的に破壊されました。それに対して日本は、島国ということもあってか、一つの国を完全に支配できるような規模の侵略者はやってこなかった。だから、新しくやってきた先進技術や文化を持つ人たちは、日本にそれまで存在していた文化なり信仰を尊重しながら、新しい技術や知識を広めることに努めたようです。
 たとえば古墳などにおいても、古墳前期から後期まで何百年も異なる時代のものが存在していますが、後の時代の人たちは、前の時代の古墳を破壊したり再利用するということを、ほとんど行っていないのです。 そのため、日本には16万基もの古墳が残っており、盗掘されたものも多いですが、古代のタイムカプセルのように、石室内には様々な遺物が残され、当時の生活文化、世界観、宗教観などを今日に伝えるものも多いのです。
 欧米文明にすっかり覆い尽くされているように見える今日の日本社会ですが、表層の下、潜在的な場所では、過去と現在は断絶されていません。 新しいものに対する情報ばかり優先的に伝えられる現代社会ですが、丁寧に過去を点検することによって、新しい視点、洞察、発想が得られるということもあろうかと思います。
  ピンホールカメラは、ファインダーも絞りもシャッターもなく、ただ暗箱とフィルムがあるだけで、光を通す穴は、わずか0.2mm。露出時間は、光の状態を見て勘に頼るしかなく、写る範囲も、だいたいこのあたりと見当をつけるだけです。 そして対象の前で立ちすくんだまま、何分か、ひたすら待ち続けるのですが、その場ではフィルムに像が写っているかどうかはわかりません。だから、フィルムを持ち帰って、現像した後に何ものかが写っているのを確認できると、それだけでホッとします。そして、こんなシンプルな仕組みなのに何ものかが写ることが不思議でなりません。
 最新のデジタルカメラで撮影すると、自分の眼で実際に見ている時より細部まで鮮明に写りすぎています。他の人の目にはどう写っているのか私にはわかりませんが、私自身に関して言えば、どうも、目で見たものと写真になったものでは感覚が違う。ピンホールカメラは、レンズを使っていないので、デジタルカメラの画像のようにディティールの再現性はありませんが、自分が風景の中に立っている時の見え方は、むしろピンホールカメラで映し出されたものの方が近いという気がするのです。
 実際に、現場にいる時、風が吹いていれば枝や葉は揺れ動いていてデジタルカメラの写真のようにシャープに細部が見えるはずがなく、ただ周辺が揺れ動いているという気配だけが伝わってくるはずなのです。 高機能のデジタルカメラは高速シャッターで、揺れ動いているものを静止させてしまいます。そして薄暗い森の中も、高感度センサーで明るく鮮やかに処理をします。そうした処理によって、揺れ動くものの息吹や、闇に潜むものの息遣いは消えてしまいます。それが、現代の消費者のニーズになっています。しかし、消費者のニーズというのは、人々が意識できる範疇の欲求の反映にすぎず、世界は、自分では意識できていない物事との偶然の出会いに満ち溢れていて、その出会いが、人間を触発し続けます。
 意識によって限定された世界ではなく、無意識が感応する世界が、偶然と必然の組み合わせの中で写し出されることの驚き、それが私にとってピンホール写真の魅力です。何枚も撮って、その中の一枚だけかもしれないけれど、自分で恣意的に切り取った写真ではなく、偶然と必然が組みあわさった恩寵のような写真が受け取れるかもしれないという祈りのような心境で、暗箱に0.2mmの窓を開けて待っているのです。
  ピンホールカメラを抱えて、古くから人間が大切にしてきた場所を訪れていると、その地勢、山の形などからも、古代、人々がそこを聖地にした理由を、しみじみと感じる瞬間があります。 そして、古代の人たちが、先人から受け継いだものをとても大切にしていたということも感じられます。それは、現代社会に生きる私たちが失ってしまっている大事な感覚です。
 先人から受け継いだものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一でしょう。現代人は、今この瞬間の自分の周辺だけに世界が狭く限定されてしまっていて、過去や未来とのつながりや、同時代においても、所属先や趣味・関心の違いを超えた普遍的なつながりを、喪失してしまっています。自分と世界が断絶されてしまっており、現代人を蝕む孤独や不安の根元的な理由はそこにあるのではないかと思います。その不安や孤独を紛らすために、刹那的な快感、喜悦を求めたところで、本質的な解決とはならないでしょう。
 私たち現代人に染み付いている思考、感覚を変えることは簡単ではありません。しかし、物の見方、見え方というのは、世界観を形成するうえで、とても重要であることは間違いなく、視点に影響を与える表現が、鍵を握っているように思います。人間は、聞いたことよりも見たことの方を、より強く信じるようにできていますから。
  今、目にくっきりと見えているものに世界を限定してしまうのではなく、見えているか見えていないかわからない微妙な”あわい”に潜む何ものかに対する想像力を喚起する映像こそが、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がします。 そして、その委託の作法は、私にとって、ピンホールカメラの受容的な撮影方法が適しているのです。」

◎「かぜたび舎」サイト
https://www.kazetabi.jp

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