筒井功『日下を、なぜクサカと読むのか 地名と古代語』
☆mediopos3627(2024.10.24.)
縄文時代に日本列島で使われていた言葉を
地名から探り当てる試みである
筒井功の著書『縄文語への道』(2022/12発行)は
つい先ごろとりあげたばかりだが
(mediopos3589/2024.9.16)
筒井功『日下を、なぜクサカと読むのか』は
縄文語に溯るかどうかはわからないものの
日本の古地名の語源を
実地調査と聞き取りで実証することで
解読していこうという試みである
「あとがき」にも書かれてあるように
著者の意図は地名の由来を語ることで
「フィールドワークの実際を示すこと」にあったという
本書でとりあげられている地名の数は多くはないものの
「すべて現地取材をもとに」している
その結果や推測の過程が詳細にレポートされているのも
プロセスこそ重要だと考えてのことだと思われる
そのプロセスをとりあげることはできないが
全十章にわたるその地名解読のいくつかを
紹介しておくことにしたい
ちなみに地名のなかでも「大字(おおあざ)」という
幕末から明治時代初めにかけてつけられた村の名は
広域名すぎることから
その意味や由来を明らかにはしがたく
大字内の小地名である「小字」を多く探し出しながら
比較検討していくことを原則としているとのこと
さてまずは本書のタイトルにもなっている
「日下を、なぜクサカと読むのか」
日当たりの良し悪しで地名がつけられる場合
「常に日の出からの半日ほどが基準」となっていて
朝方に十分な日差しがあれば「日向」「日面」
日当たりのよくない場合「影」や「草」とか呼ばれる
そのことからすると
「クサカ」は「クサ(日陰)・カ(処)」の意
そして「日下」とは「日が(山の向こうに)下がっている」
という意味を込めた漢字だといえる
その関連でいえば
「カサギ(笠置)」とは
「カサ」(日の当たらないところ)
+「キ」(カサで囲まれた地域)で
「日陰地」を意味していた
続いて「鳥井(トリイ)」
「鳥居」のトリは「鳥坂」のそれとおなじく
「境」のことで「イ」は「所在するところ」を指す接尾語
鳥居が神社の入口に立っているのは
神の世界と人間の領域との結界として
「境」となっているからである
また「国(クニ)」は
「ある地域を取り囲んだ山々または、その中の土地」で
「小国(オグニ)」というのもそれに準じた地名
そして「賽の河原(サイノカワラ)」
「河原」といっても川べりにあるというのではなく
「大きめの石あるいは、ごつごつした岩の原」
そして「賽(サイ)」とは「サエ(境の義)」
つまり「死者の去り進む地」のこと
古代人は人が死ねば
人間が暮らすムラはずれ(境)にある
神の世界へ送り出したが
そうした場所は「大きな石や、ごつごつした岩が
敷き詰められたような場所」が多くあったことから
そうした場所が「賽の河原」と
名づけられるようになった・・・
最初にもふれたがこうした地名のフィールをワークを
行っていくにあたり参考にしたという「小字」だが
地図には記載されていないことも多く
調べるためには現地で情報を得る必要があるという
資料がなんらかの形で入手できればいいが
そうでない場合は現地で聞き取りしなければならない
こうしたフィールドワークが行われなければ
かつての地名は失われていくことになり
それがほんらいもっていた意味も失われてしい
古き名を知ることで得ることのできる知も
また失われてしまうことになる
■筒井功『日下を、なぜクサカと読むのか 地名と古代語』
(河出書房新社 2024/5/20)
**(「はじめに」より)
*「地名を扱った著述の中には、広域地名あるいは、それに準ずるような地名のみを対象としているものが少なくない。例えば、旧国名の武蔵、出雲、伊予とか那須野ヶ原のナス、能登半島のノト、屋久島のヤクなどである。
これをもっぱらにすると、どんな解釈を与えても、それに該当するところが、たいていどこかに見つかる。つまり、何でもいえることになる。わたしは、大字(おおあざ、幕末から明治時代初めにかけての村の名だと考えてよい)でさえ、地名研究の資料としては広すぎることが珍しくないと思っている。
次に指摘しておきたいのは、対象にしている一カ所の地名にしぼって意味や由来を求めようとする手法の危険についてである。これも恣意的な解釈に陥りやすい。得た結論が、そこにはぴたりとあてはまっても、それは偶然かもしれないからである。
この二つの落とし穴を避けるには、たとえ大地名の由来を問題にするときでも、これと同一または類似の小さな地名をできるだけたくさんさがし出し、それらとの比較が欠かせないことになる。本書では、しばしば各地の小字(こあざ)に不自然なほど言及しているが、それは右に挙げた理由によっている。」
**(「第一章「日下」と書いて、なぜ「くさか」と読むのか」より)
*「大字の語を付した方が丁寧になるが、表記が煩雑になることを避けるため本書では原則として「大字」の語は省略している。」
「小字はひとことでいえば、大字内の小地名だということになる。ただし現在、小字を行政事務では用いていない自治体もたくさんあって、たとえ五万図に載っていても、それがどこの大字に属するのか、すぐには確かめられないことも多い。」
「小字は本書では「字(あざ)○○」と表記している。」
*「日当たりの良し悪しによって地名が付けられる場合、常に日の出からの半日ほどが基準になっている。いいかえれば、朝方に十分な日差しがあれば、そこは日向(ひなた)、日面(ひおも)などといい、逆に午後だけいくら西日が照りつけても、そこは影とか草とか呼ばれるのである。」
*「卑見では、クサカは草地名の一つで「クサ(日陰)・カ(処)」の意だと思う。カは「在り処」「棲み処」などのカで、松岡静雄氏がクサカは「草処」すなわち「草生地」のことだとしているカと同語である。」
「現東大阪市の日下町も日陰地であり、ほかのクサカの名をもつ土地にも、日当たりのよくないところが多い。
そうだとするなら、「日下」は「日の下(真下)」のことではなく、「日が(山の向こうに)下がっている」の意を込めた漢字だといえる。これは、地形の特徴を的確にとらえた当て字で、この文字を用いた人物または集団は、どうも「クサカ」の語が何を意味するのか知っていたように思われる。」
「クサカ」の音をもつ地名は多くはないが、まれでもない。「クサカベ」を含めると、少なくとも十数カ所にはなるだろう。その文字には、しばしば「日下」が用いられている。これは、それぞれの土地で当てられた漢字ではなく、古文献に散見される「日下氏」や、その本貫の「河内国の日下」すなわち現東大阪市日下町を模倣した結果だと思われる。」
「要するに、在る時代までの日本人(にかぎらないかもしれないが)は、早朝の日の光を暮れ方のそれより、ずっと重視していたのであろう。できることは何によらず、そういう時間にする、これが生活の基本だったのではないか。」
**(「第二章 「笠置」は「日陰地」を意味していた」より)
*「わたしはもちろん、カサギとは日陰地のことだと考えている。記述のように、カサはコサ、クサと同語で、「日の光をさえぎるもの」「日の当たらないところ」の意である。ギは(・・・)奥津城(おくつき)などのキが連濁によって濁音化したものであり、「カサで囲まれた(・・・)地域」を指していると思われる。
そうだとするなら、「笠置」なる当て字が、なかなか意趣をつくしていることになる。」
**(「第四章 「鳥居」のトリとは境のことである」より)
*「本章では、神社の前に立つ鳥居が、もとはどんな目的をもち、その後の原義は何かについて考えてみることにしたい。」
*「鳥坂の「鳥」とは(・・・)「境、境界」を意味する言葉であり、空を飛ぶ鳥とは何らのかかわりもない。」
「神社の前の鳥居も、そのような言葉の一つだといえる。」
「鳥居のトリも、鳥坂のトリと同じで、「境」のことである。イは、「所在するところ」を指す接尾語だと考えられる。」
「つまり、トリイとは、「境があるところ」「境となっているところ」の意になる。鳥居が神社の入口に立っているのは、そこが神の世界と人間の領域との結界だからである。峠に、しばしば「鳥居(鳥井)」の名が付いているのも、同じ理由からにほかならない。」
**(「第六章 「国」は「山に囲まれた土地」のことだった」より)
*「わたしが取り上げたいのは、『倭人伝』が「国」という漢字で表記している、ある一定の広さをもった地域単位を日本語で何と呼んでいたのか、についてである。(・・・)とりあえクニであったおうとして、この表現を用いることにしたい。」
*「クニとクネとは音が、ごく近い。そうして、クネノウチとクニヤマとの地形が、ほとんど同じということであれば、クニとクネは元来は同語ではないかったかと推測しても、こじつけにはなるまい。」
「卑見では、これらは元来、「ある地域を取り囲んだ山々または、その中の土地」を指して使われる語だったことになる。」
*「クニ地名の中でもっとも多く、そうしてクニの語が何を意味するのかをもっともよく語っているのは、実は「小国(オグニ)」という地名である。」
「「小国」の名が付いているところが、ほとんど盆地であることは、右に挙げた二一カ所の地形から判断して、まず間違いないと思う。つまり、オグニとは「小さい盆地」のことであろう。小さいといっても、別に基準があったわけではないので、現実のオグニ地名には大小さまざまがあることになる。」
*「クニという言葉の本義は「山に囲まれた土地」にあったらしく、(・・・)いまの奈良県の奈良盆地もクニといわれていた可能性がある。」
**(「第十章 「賽の河原」とは、どんなところか」より)
*「「サイノカワラ」と呼ばれるところが、あちこちにあることに気づいている人は少なくあるまい。文字では「賽の河原」「賽ノ河原」と書くことが、もっとも多いようである。サイに「西」の漢字を宛てたり、片仮名を用いている場合も見られる。また、カワラを「磧」と表記する例もある。」
「一般に「賽の河原」と書く以上、そう呼ばれるところが川べりに多くあっても不思議ではないはずである。だが、それは案外に少ない。とくに、われわれが普通に「河原」と聞いたとき、まず思い浮かべる大きな川の広々とした石原または草原にサイノカワラが位置していることは、きわめてまれではないか。」
*「「サイノカワラ」という言葉が本来、何を意味していたのかは、柳田國男が「葬制の沿革について」(初出は一九二九年)そのほかの論文で明解な解釈を下している。
それによると、サイはサエ(境の義)のことであり、すなわち「死者の去り進む地」であった。カワラは「河原」ではなく、ゴウラを指すとするのが柳田の立場である。ゴウラ(またはゴロウとも)は、柳田の言い方にならえば「小石原」のことで、箱根(神奈川県足柄下郡箱根町)の強羅もこれになる。
要するに、柳田はサイノカワラはサエノゴウラの訛りだとしていたのである。(・・・)わたしは、これは卓見だご思う。ただし、ゴウラは小石原というよりは、かなり大きめの石あるいは、ごつごつした岩の原の場合が多いのではないか。」
*「古代人は、神の住む領域(あの世)と人間が暮らす場所(この世)とを、はっきりと区別していた。人が生活するムラの周囲は、原則として神が支配する空間であった。
現代人は、神といえば、もっぱら人が祈りをささげ、その庇護に頼るありがたい存在だと考えているだろうが、古代人にとって、神は一方でそのような尊崇の対象であるとともに、他方では人悪さをし、害をもたらす恐ろしい化け物でもあった、神には、そのような二つの種類があるだけでなく、一つの神が二つの面をそなえていたのである。
ムラを一歩出ると、そこには両方のカミが満ちみちていた。その境界がサカイ(境)である。境は、もとはサカと同じ意味の言葉であった。ところが、古代人にとって山がもっとも普通のあの世であったため、サト(里)とのあいだの傾斜地をサカと呼びならわしているうち、サカイ(サカであるところの意。境界)とサカ(坂)とは、いつの間にか別語になってしまったのである。」
「古代人は先祖が死ねば神になると信じていた。彼らは、その遺体をサカイまで運んで神の世界へ送り出した。そこは古くは、実際にムラのはずれに位置していたろう。そこが荒涼として、ゴウラ(ゴウロ)すなわち大きな石や、ごつごつした岩が敷き詰められたような場所に、しばしばサイノカワラの名が付いているのは、そのせいだと思われる。」
**(「おわりに」より)
*「本書で取り上げた地名の数は多くはないが、すべて現地取材をもとにしている。わたしが、この作業で指摘したかったのは、数少ない地名の由来を語ることにより、むしろフィールドワークの実際を示すことにあったと受け取っていただいてもよい。」
□目次
はじめに
第一章 「日下」と書いて、なぜ「くさか」と読むのか
第二章 「笠置」は「日陰地」を意味していた
第三章 『日本書紀』の「頰枕田(つらまきだ)」は円形の田を指す
第四章 「鳥居」のトリとは境のことである
第五章 卑弥呼のような女性のことを「大市(おおいち)」といった
第六章 「国」は「山に囲まれた土地」のことだった
第七章 「山中」と「中山」は同じか、違うか
第八章 「ツマ(妻)」の原義は「そば」「へり」である
第九章 「アオ」「イヤ」は葬地を指す言葉であった
第十章 「賽の河原」とは、どんなところか
おわりに
○筒井 功(つつい・いさお)
1944年生まれ。民俗研究家。 著書に『サンカの真実 三角寛の虚構』『葬儀の民俗学』『新・忘れられた日本人』『サンカの起源』『猿まわし 被差別の民俗学』など。
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