細川瑠璃「新たなる中世 ———— ロシア宇宙主義の過去へのまなざし」(未来哲学 第三号)
☆mediopos2764 2022.6.12
ロシア宇宙主義のフョードロフも
神名論のブルガーコフも興味深いけれど
今回はそんな同時代のロシア関係のなかから
細川瑠璃氏の紹介している
パーヴェル・フロレンスキイと
二〇世紀初頭に再発見・再評価された
「イコン」の「逆遠近法」について
線遠近法の最も典型的な視点が
「画家の目を起点にして
そこから見えている世界を描き」
「描く主体である画家に近いものほど大きく、
遠いものほど小さくなる」のに対して
逆遠近法では、その逆に
「遠くのものほど大きく描かれ」る
つまり画面の奥には見えない神がいて
そこから見た世界を描いているので
画面の奥に配置されている神に近いものほど
大きく描かれている
ということは
「イコンを見ている人間は、
同時にイコンの奥にいる神から見られてい」て
画家は描く主体でありながら
「イコンに描かれているのは
自分も含めて、神から見た世界」であるという
「双方向性」がそこでは成立している
また画家の目から見た世界でないこととも関係するが
ピカソやブラックによるキュービズムが
いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めたように
イコンにはもうひとつ
「多中心性」という特徴がある
「一つの画面上に複数の視点が存在する」のである
フロレンスキイはロシア正教の司祭でもあったが
科学や数学に強い関心をもっていて
それが「主体と客体の断絶」をもたらすがゆえに
「主体と客体の間にある境界そのものに着目する」ことで
メビウスの輪やクラインの壺のようなあり方によって
その断絶を解消しようとしたという
フロレンスキイは神をとらえようとするとき
集合論を援用しているが
神は無限性の中でも
最も超越的な無限としてとらえられるが
人間もまた無限的な集合の一つであるとしている
神と人間で異なっているのは「無限の濃度」であって
両者とも無限と無限である神と人間は
それぞれ開かれていて
「相互の投射、投影、対称といった関係」が
成立しているのだととらえている
先の遠近法と逆遠近法の視点の違いだが
ある意味天体における地動説と天動説と似ている
今話題の漫画のひとつに
魚豊『チ。』(ビッグコミックス)があり
それは地動説と天動説を巡って
異端審問官が地動説を説く者を迫害していく話だが
現在科学つまりは唯物論的な視点では
当然のごとく地動説が常識とされているが
シュタイナーによれば唯物論的には地動説だが
霊的な視点では天動説が成り立つのだという
この視点の違いはとても重要であり
どちらかが絶対的に正しいというわけではない
つまり視点が異なれば
世界は異なって捉えることができるということだ
それは「多中心性」であるということもでき
それぞれの視点において「無限」があるということでもある
私たちはともすれば
じぶんの見ている視点だけを正しいと考えがちだが
視点を変えてみるとまた別の世界の見方が成立する
ということは少なくとも踏まえておいたほうがいい
■細川瑠璃「新たなる中世 ———— ロシア宇宙主義の過去へのまなざし」
■討議「イコン・無限・光の壁」
(「未来哲学 第三号」二〇二一年後期 未来哲学研究所/ぷねうま舎 所収)
(細川瑠璃「新たなる中世」〜「ロシアの中世とイコン」より)
「宇宙主義の代表的人物であったニコライ・フョードロフは、地上にかつて存在したすべての先祖、すべての生命を生き返らせることを夢想し、計画していました。(・・・)今回取り上げたいのは、私が研究しているパーヴェル・フロレンスキイという思想家で、このフロレンスキイは、宇宙主義者の一人に数えられることが多い人物ではあります。しかし、フロレンスキイはこのフョードロフにおいて最も重要な概念である先祖たちの復活というテーマにはとりたてて関心を払っていませんでした。というよりも、否定的でさえありました。
(・・・)
今回中世というテーマでお話をさせていただくのは、(・・・)二〇世紀初頭のロシアにおける中世観というものがロシア思想史においても大変重要なテーマであって、かつこれまでほとんど研究がなされていないテーマでもあるという、そのためです。(・・・)
それでは、まず、なぜ二〇世紀初頭において中世が大事なのか。(・・・)
フロレンスキイは、二〇世紀の初めから一九二〇年代にかけて、「新たなる中世が幕を開ける。新たなる中世がやってくる」ということを繰り返し述べています。(・・・)
これにはおそらく西欧において二〇世紀に起こった中世への関心の向け方と共通する場合があると思いますが、フロレンスキイもやはり一九世紀までの西欧の合理主義を批判し、それを克服するための手がかりとして中世を見ていました。(・・・)
当然ながらロシアの中世と西欧の中世とは年代の幅だけでなく、思想的な意味でも大変に異なっているはずです。例えば、ロシアの中世にはスコラ哲学のような思想の体系と呼べるようなものは存在していません。ビザンツの神学や、もちろんギリシャ教父の影響は大いに受けていますけれども、ただし思想や信仰に関わることが基本的には文学作品の体裁で叙述されていました。(・・・)
二〇世紀初頭の思想家たちが中世について語るときには、どうもロシアの中世と西欧の中世とを混同しているような、場合にょってはあえて混同しているような、どういう部分も多くあります。(・・・)
二〇世紀初頭というのは、ロシアにおいてイコンが再発見、再評価された時代でした(・・・)
イコンの再発見、再評価によって、中世の世界観、宇宙観、人間観といったものがイコンの神学的意義であるところの受肉と神化という重要な概念をともなって、物質的にアクセスできる対象としてこの二〇世紀に立ち現れたわけです。つまり、二〇世紀初頭という時代は、イコンを通じてロシアの中世というものが急速に現実的な感触のある対象として立ち上がってきた時代であるというふうに言えます。」
(細川瑠璃「新たなる中世」〜「ロシアの中世とイコン」より)
「フロレンスキイは、モスクワ大学の物理数学部というところで一九世紀ロシアを代表する数学者ニコライ・ブガーエフに師事して数学の研究をしておりました。ただし、そのときに当時のモスクワの数学会、モスクワ大学の数学者たちを中心とするグループですが、そこではやっていた不連続関数と集合論に、フロレンスキイは強い影響を受けます。彼は、不連続関数と集合論を単に数学的に議論するだけではなく、その後の思想的な著作でもこの概念、あるいはアイデアを多用しています。(・・・)
ただ、その後、フロレンスキイは数学の研究を続けるかといえばそうではなく、神学アカデミーに進み、司祭となります。」
(細川瑠璃「新たなる中世」〜「逆遠近法」より)
「フロレンスキイも、やはりイコンは中世への関心のきっかけの一つになっており、フロレンスキイはいイコンに、中世の世界観を、すなわち人間を世界の観察者の一に留め置かず、むしろ人間を世界の参加者とするような在り方を見ておりました。(・・・)
おそらく、当時の非ユークリッド幾何学の受容、あるいはこれよりさらに直接的に関わるのは射影幾何学の発展だと思いますが、数学者アンリ・ポアンカレや、物理学者であり哲学者でもあったエルンスト・マッハの記述などが、フロレンスキイにかなり影響を与えておりました。(・・・)
パノフスキーとフロレンスキイは、遠近法への評価においておおむね一致しているのですが、異なっている点は、フロレンスキイはイコンで使われている遠近法ではない技法・画法————これをフロレンスキイは逆遠近法と呼びますが————、逆遠近法の方にかなり踏み込み、そちらに肩入れして議論しているということです。人間を世界の観察者に留め置かず、世界の参加者とみなすという世界観の根拠を、フロレンスキイはイコンに使われた逆遠近法の画法に見いだしています。ちなみにイコンの画法を逆遠近法と呼ぶこと自体は、ロシア美術史においては用語としてある程度定着しています。ロシアにおいては、「逆遠近法」という言葉(・・・)、その重要性を最初に指摘し、世に広めた人物はフロレンスキイであるとされています。この逆遠近法の特徴には、大きく分けて二つあります。まず、文字通りの逆の遠近法であるという点。逆とはどういうことか。(・・・)とりわけ線遠近法の最もシンプルなケースでは、画家の目を起点にしてそこから見えている世界を描くので、描く主体である画家に近いものほど大きく、遠いものほど小さくなるはずです。では、逆遠近法はどうかといえば、それが逆になるのです。遠くのものほど大きく描かれます。(・・・)
この手法を、当時の画家たちがどこまで意図的に採用していたかはわかりませんが、フロレンスキイはこのように解釈しています。こうした描き方のイコンは、画家たちが遠近法を知らなかったがゆえの誤りではなく、意図的に採用した手法なのだ、と。つまり、遠近法では手前にいる画家から見た世界を描くわけですが、逆遠近法においては、画面の奥に見えないけれども存在しているであろう神から見た世界を描いていると解釈するのです。神から見た世界ですので、神に近いもの、つまりこの画面の奥に配置されているものほど大きく描かれている、と。
つまり、逆遠近法をこう解釈することによって、イコンを見ている人間は、同時にイコンの奥にいる神から見られているということになります。逆遠近法の下では人間は観察者ではなく、参加者になるということです。
なぜ、イコンの奥に見えない神を想定しうるのかといえば、本来イコンとは独立して描かれる作品ではなく、ロシア正教の聖堂内部にある至聖所という天上世界とされる場所、これを覆い隠すためのイコノスタスという壁に張り巡らすための絵なのです。ということは、イコンはそれがイコンであるという時点で、すでにそのイコンという壁の奥に神と天上世界が広がっていることを前提にしているわけです。ということは、イコンを見る人間は、見えないけれどもその奥に神がいて、イコンに描かれているのは自分も含めて、神から見た世界なのであって、画家の側からいえば、描く主体でありつつ同時に画家自身もまた神に見られているという双方向性が、イコンにおいては成り立っている、逆遠近法によって成立するのだ、とフロレンスキイは考えたのです。
もう一つの特徴としてあげるべきは、多中心性です。つまり、遠近法では一点透視が基本になりますが、イコンにおいては一つの画面上に複数の視点が存在するのです。」
(細川瑠璃「新たなる中世」〜「境界の幾何学」より)
「フロレンスキイは科学にも数学にも強い関心を抱いていましたが、科学において人間が観察者の側に安住することを危惧してもいました。それは世界との有機的な結びつきを失うことであり、そのことは最終的には、逆遠近法によって構造的に捉えられるような、神との一体的な関わりを失うことにつながってしまうからです。フロレンスキイにおいて世界への参加とは、主体と客体の断絶の克服というかたちをとります。つまりそれは、人間を観察における主体の位置にとどめない、あるいはそもそも主体のままではいられないということの自覚ですが、フロレンスキイはこれを主体と客体の間にある境界そのものに着目することにとって解決しようとします。この主体と客体の境界への着目によって、対をなす両項である主体と客体の役割を相互に入れ替え可能なものにすること————イメージとしては、メビウスの輪、クラインの壺に近いものですが————、どちらも絶対かつ恒常的に表と裏が確定できるものではありません。ただ、そのつどのそれぞれの地点・時点における暫定的な表と暫定的な裏があるにすぎません。(・・・)
すぐさま捨象されてしまいそう狭間、境界に着目することによって、その境界をある意味で実体的なものとすることによって、稜線としてのそれ二つの方向になだれていく斜面と斜面、主体と客体と捉え、相互に入れ替え可能であるけれども、融合はしない、混在はしないけれども、境界としてのそれを差し挟むことによって、そこに交流、あるいは対称性、さらには相互の投影といった関係性が成立可能になる。そして、その境界を挟む双方があることによって、主体単独、客体単独では別になにもなさない、動きが起こらないけれども、両者の間にある境界、ないしは稜線をたどっていくことで————メビウスの輪、クラインの壺がそれ自体一個の形であるように————、その境界をたどっていくことで一個の形なる世界と呼べるものとして現象しているのではないか、とフロレンスキイは考えていました。」
(討議「イコン・無限・光の壁」より)
「細川/フロレンスキイが神を考えるときに下敷きになっているのは、集合論です。さきほどのイコンの話とは少しずれますが、フロレンスキイのいう神は、すべてを束ねてしまう神ではないけれども、しかし間違いなく超越的なものではあります。フロレンスキイの神は、数学的な概念としての、超越的なものとしての神と、フロレンスキイ自身はロシア正教の司祭でもありましたので、宗教上、正統よりの、つまりあまりラディカルではない伝統的な神というものの両方の見方を受け継いでしまっています。そんなこともあって、フロレンスキイ自身の捉え方がどの程度までラディカルかどうかというのはわかりません。ただ、その神がすべてを束ねているのではなく、人間もまたある種の無限であって、現在ただ今は無限ではなくても、無限性へと開かれいている存在だ、とフロレンスキイは捉えています。神の無限性を語る際に、フロレンスキイが用いるロジックは(・・・)、この時代の数学の集合論として、無限における階層ということを認めています。例えば、有理数全体のような無限、有理数と無理数とを合わせた無限、無限集合の中にもさまざまな段階があり、人間もまた無限的な集合の一つであって、この世界にはさまざまな無限性を有する集合があります。ただ、それらとは別個に、「無限の最たる無限」、無限性の中でも最も超越的な無限としての神が存在します。しかし、その神の無限性というものと人間との間には何の接触もないのかといえば、そうではない。ここで登場するのが数学における無限の濃度という考え方————無限における無限性がその程度のレベルなのかということを著す尺度としての濃度という概念————です。その濃度を手がかりにして、集合の中にある別の集合、そのまた別の集合というように、限りない入れ子状態というのをイメージしていただくと、そこには無限の要素が互いに包摂し合いながら収まっているわけですが、単に収まっているだけではなく、要素はそれを束ねる大枠としての集合とのある種の対応関係、相互に入れ替え可能な関係性が成り立つという考え方を、フロレンスキイは用いています。ということは、神と人間とは、断絶しているのではなく、それぞれが無限と無限であるけれども、そこには相互の投射、投影、対称といった関係が成り立ちうる、少なくともそう考えることは可能であると捉えていました。ということは、フロレンスキイの考える無限性は開かれていると言えるのかもしれません。」
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