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加藤拓也「まなざしの持つ時間」 (『群像 2022年2月号 講談社 所収)

☆mediopos2611  2022.1.9

じぶんを見る
ということは
言葉でいうほど
簡単なことではない

しかしだからといって
ひとを見る
ということも
じつのところむずかしい

その両者はおそらく
メビウスの環のように
捻れながらつながっていて
ぐるぐると
なにやらわからないままに
堂々めぐりしたりする

今回の引用の冒頭にあるように
「見る」ということは
「見えている」と「見えていない」で
構成されているわけだけれど
意識的に「見る」ことも
「見ない」こともできるし
無意識に「見ている」ことも
「見ていない」こともある

ほとんどのばあい事実上
じぶんに「見えている」ものしか見ていないから
「見えていない」ものに気づくことはむずかしい

だからあるものが「見えている」ひとと
「見えていない」人が会話などをすると
まったく話がかみあわなくなってしまう

とはいえ「見えている」といっても
「見えていると思っている」だけのこともあり
じぶんが「見ている」という
そのことについてどれほど意識的かはわからない

多くの場合たしかに「多数派は
多数派に所属している自覚は無く生きている」わけで
その「多数派」が見てないものを
言挙げしてみたりしたくもなるけれど
じぶんが「見ている」ということのなかに
意識されない「見えていないもの」もある
ということも自覚されるに越したことはない

「人の振り見て我が振り直せ」
という言葉があるが
ひとを見るときそこには
自分の無意識の部分も投影されていることもあるから
相手の気になるところがあるとすれば
それを「じぶんを見る」ということに
応用してみるきっかけにするのがいいのではないか

その意味において
「じぶんを見る」と
「ひとを見る」という
メビウスの環を
ぐるぐるとたどりながら

安易な結論を「見る」のではなく
そのなかで浮かび上がってくるだろう
「わからなさ」につきあってみると
「見えていない」なにかが
見えてくるところもあるのかもしれない

■加藤拓也「まなざしの持つ時間」
(『群像 2022年2月号 講談社 所収)

「「見る」という事はおおよそ、意識的に選択した「見る」と「見ない」、無意識的に「見ている」、「見ていない」、そして「見えている」、「見えていない」で構成されている。この「見る」構成上の配分バランスは世代や人それぞれ、国の環境でも随分と偏りが見られると思っている。例えば私の友人である韓国人は意識的に見てこない事が多く、イギリス出身、中国育ちの友人は見たのち、見えなくしていた。日本で育ったのち中学生でアメリカに渡った友人は見えていないことに気付いていない。この見るという事について、前提として「何を」の部分が抜けてしまうと、何の話だとなってしまうだろうが、何に当てはめてもらってもかまわない。日本人で見ないを選択すると書いてしまえば嫌な事と限定されるだろうが、そうだとは限らないまま続ける。例えば恋人のスマホを見るか見ないか、見えない方が善いのは、見えてしまった事にしたいのか等、我々いはどのようなまなざしを向けるべきかという意識的な選択を迫られる場面がある。その意識的な選択の背景には何があるのかという事に私は興味がある。そこへ向けるまなざしに、私が演劇を続ける理由が一つばかりあると思っている。」

「「見る」という言葉より「まなざし」という言葉の方が個人的に好みである。辞書を引けばニュアンスの違いがあれど、世間的に使われているニュアンスは「見る」という行為についてを指しているのであろう。「まなざし」という響きには感情が含まれると思っている。前後のコンテクストから汲み取る、汲み取らなければいけなほどの微量ではあるが、些細な、水面が揺れないように手を浸らせてゆくような匂いを感じる。小川洋子の『博士の愛した数式』という小説を劇団で演劇化させてもらった事がある。私がこの小説を好んだのは、博士を取り巻く人物たちが博士に向けるまなざしに、その水面を決して揺らさない優しさと強さを感じたからである。彼らのまなざしには社会が学ぶべき匂いが溢れている。社会が向けてこなかったまなざしに、弱者へのまなざしというものがある。この弱者というものはいわゆる社会的弱者と定義される人でも、されない人でも、インターネット弱者や、会社にいる人や身近な人に居ると思う。老いた人、引きこもり、虐待されている人、病気になった人、大きな事故を起こしてしまった人、なんでも構わない。周りに一切居ないというケースはかなり珍しいだろう。他者を弱者と定義するのは難しいが、弱者は弱者であらんとする事も多々だ。そしてやがて誰でも弱者になりうる。先は「まなざし」という言葉を好むと述べたが、弱者へ向けると書くと「まなざし」より弱者を見つめる、と書いたほうがしっくりとくる。「まなざし」に含まれるニュアンスが同じ苦しみをまるで理解できる距離だと、個人的に感じているように聞こえるからだ。言葉は自分の考えを伝える手段としていかに不完全かと度々感じる。弱者を見つめてこなかった原因の一つにはまず他者を想像していないという事があるだろう。我々は産まれながら決める事のできない運の要素によって、今後の人生を大きく左右されるし、多数派は多数派に所属している自覚は無く生きている。いくら想像してもわからない事だらけではあるが、わからない他の何かを見つめる時間を長く持ち、まなざしを持ち時間がゆっくりと流れ始めると、私は再び、自分にまなざしを向ける事が出来る。」

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