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竹下節子『オカルト2.0 西洋エゾテリスム史と霊性の民主化』/「科学はフェイクで、魔術がリアル? 大学で「魔術とオカルト科学」を学ぶ意義」((「WORKSIGHT」)

☆mediopos3494  2024.6.11

昨今「Web 2.0」という言葉が
使われたりもするように
「オカルト」も
これまでとは異なったあり方
認識のされ方が求められるのではないか
というところから
竹下節子『オカルト2.0』という著作が書かれている

副題に「西洋エゾテリスム史と霊性の民主化」とあるように
秘められた高次の智慧のようなものとして
限られた人間だけに可能な「霊性」をとらえるというよりも
これまでのエゾテリスムの歴史を踏まえながら
「民主化」されたなかでその可能性を見ていく
ということでもあるようだ

『オカルト2.0』は
「「オカルティズム」と括られてきた
さまざまな流れを文化現象として解明しながら、
時として終末論的不安が煽られる二一世紀の情報社会において、
過去のオカルトの進化系であるオカルト2.0を
新しい視点に立った新しい方法論として
提示するために書かれた」という

そして「オカルトの世界に迷い込んで取り込まれるのとは反対に、
一人ひとりの「試みる精神」に同行してくれる
最適のものを豊穣なオカルト世界に
探し求める営みが始まっている」と示唆されるなかで

ちょうど折良く「WORKSIGHT」(MAR 25, 2024)において
「科学はフェイクで、魔術がリアル?
 大学で「魔術とオカルト科学」を学ぶ意義」
という記事が掲載されているのを見つけた

2023年8月からアメリカ・サウスカロライナ大学で
そして2024年9月からはイギリス・エクセター大学で
「魔術とオカルト科学」(Magic and Occult Science)の
修士・博士課程が設けられることになったそうだが

そのサウスカロライナ大学で教鞭をとる
マシュー・メルヴィン=クーシュキー准教授に
「現代社会でオカルトを学ぶ意義」について
話を聞いた記録である

マシュー氏は
「プログラムに「魔術」という言葉を使ってはいるものの」
「その言葉自体あまり好きでは」なく
「より正確に表現するとすれば
精神物理学(Psychophysics)だと考えて」いるという
つまり「精神と身体との相互作用(Mind-Matter Interaction)」

「オカルト」という言葉は英語圏では
「魔術」と同じような意味で理解されるが
「オカルトとは単に「目に見えない」ということ」であり
「そもそも科学とは可視情報だけでなく、
可視情報/不可視情報のどちらも扱うもの」であって

「目に見えるもの、目には見えないものが存在し、
それらが相互に影響し合っている。
この考えは単に、わたしたちがこの世界をどのように認識しているか、
そして、人びとがどのように世界に存在しているのか
ということに過ぎ」ない

「オカルト」は「目に見えるデータから
目に見えないものを推定する学問といえる」のだという

大学で「魔術とオカルト科学」のプログラムが創設されたのは
パンデミックが科学に対する信頼の低下を招いたことが
きっかけとなっているようだ

今日の科学には「政治や大金が絡んでいることで
多くのフェイクが生まれてい」て「7割ほどは怪し」く
「人びとはもはや科学を信じなくなってい」るという

「パンデミックが発生したとき、
医療関係者やその他の科学者たちは、
かつてないほどの権力を与えられ」
「アンソニー・ファウチのような
選挙で選ばれたわけでもない役人たちが、
公共政策に対する支配権を与えられ、
アメリカ社会に損害を与えるような変更を実施した」

さらに「一般の人びとがニュースや情報を収集するにあたり、
ソーシャルメディアに依存していることにも起因している」

「このようなフェイクニュース、あるいはディープフェイクが
つくり出すイメージに操られないためにも、
「魔術」を勉強することは有益だ」という

こうしたマシュー氏の視点は
「オカルト2.0」の視点であるともいえそうである

かつてオカルトの世界においては
秘儀が公開されることが禁じられていたが
たとえばシュタイナーは現代においては
秘儀の多くは公開される必要があることを示唆している
まさに「オカルト2.0」でもある

オカルトの世界もその現実は玉石混淆で
怪しげなものも数多くあるが
むしろ現代において
科学が「政治や大金が絡んで」いることが
多いことを踏まえれば
科学/宗教/オカルトの境を超える
「オカルト2.0」がまさに必要とされているともいえる

『オカルト2.0』の最後に竹下節子はこう記している

「カオスの時代に「真の多様性」とは何かを示唆する
オカルトの使命に期待したい」

オカルトを怪しげなカルトのようなかたちで
秘められたものとするのではなく
オープンにされた探求のなかで
むしろ科学を拡張するものとしての「オカルト」に
「喜ばしき知恵」を見出すこともできるのではないか

■竹下節子『オカルト2.0 西洋エゾテリスム史と霊性の民主化』
 (創元社 2024/4)
■「科学はフェイクで、魔術がリアル?
  大学で「魔術とオカルト科学」を学ぶ意義」
 (「WORKSIGHT」MAR 25, 2024 より)

**(竹下節子『オカルト2.0』〜「まえがき」より)

*「オカルトの世界はすでにゲームやアニメやライトノベルなどで消費されていたが、パンデミーの先の見えない闇の中で一筋の光を求めて手探りをしようとする人々にとっては、オカルトこそが、「忘れられた宗教」、「失われた精神世界」への無意識の郷愁と穴を埋めるものとなっていった。それが「オカルト2・0」だ。

 時代の空気が、富と力による支配か、逃避・省略・回避・無関心か、という二つに分かれつつある中で、オカルトへの感性は単なる非合理生への回帰ではない。液状化する足場にしがみつくのではなく、共に見上げることのできる空、個人の枠を超えた居場所を「神秘」に求める動きだ。平時に「共通の大義」を模索するのは容易ではない。パンデミーという「共通の不安」から出発して初めて他者と協働する可能性が探られたことになる。

 それだけではない。パンデミー下で孤独や鬱や葬儀、法事の欠如など、さまざまな問題が出てくることで、霊性の欠如が意識されるようになった。家族に会えぬまま亡くなった高齢者や家族を看取ることができなかった人たちが、今まで忘れていた「死」を前に、古来続いていた霊的な直観、「あの世」とのつながりを新たに取り戻そうとしている。

 若者のオカルト2・0だけではなく、順境においては「健康長寿」や「遺産相続」などの「終活」ばかりに目が向いていた高齢者自身の意識も変わらざるを得なくなった。一人ひとりが時間と金をかけて「心と体」をマネージメントすればいいと信じていた人々に、「魂」のレトロピアが見えてきた。

 ヴァーチャルなメタバースの中でだけ完結するオカルトではなく、魂のレトロピアを通じて実存的な不安から抜け出さない限り、本当の平和は訪れない。どんなに「科学や合理主義」が進歩しても、争いはなくならないしエスカレートさえすると歴史が教えてくれる。

 そこから逃避するためにスポーツや暴力やアルコールやドラッグなどへと向かうのが一時的であり解決にならないこともわかっている。既成の宗教や哲学の歴史を敢えて迂回することで、今のオカルトの可能性を問う意義は看過できない。

 本書ではその可能性を探るために、秘伝的・難解・深淵だと思われてきた秘教エソテリズムの歴史を紐解く。」

*「今のオカルトが秘めているのは「可塑性」だ。一時はカルトやオカルト、超常現象という扱いを受けていた心霊現象なども、二一世紀の最新科学ではすべて「あり得る」ことだとされつつある(・・・)。オカルトからいったん「離陸」したはずの近代科学が自らの「知の限界」を知ってから。再びオカルトに接近したり、オカルトにインスパイアされたり、オカルトと協議したりする経過を概観する。

 また、西洋キリスト教文化圏といっても、ローマ・ギリシャ文化圏に生まれたカトリック世界と、宗教改革で分離したプロテスタント世界、新大陸に渡ったピューリタン世界、共和国主義と政教分離の国、立憲君主国など多様な歴史と文化がある。そこで、それぞれの中でオカルトがどのように醸成したかを観察する。それを踏まえることで、日本の伝統文化とサブカルチャーの間でオカルトがどのように受容され変化したのかが見えてくるだろう。

 複眼的な視点なしには、オカルト2・0を「希望」に結びつけて語ることは不可能だ。それは「今、ここ」の不安の解消でもないし、線的な「未来」における欲望達成の「期待」でもない。個々の時や空間を超えて、人と自然が共に育んでいる「全体」を内的に生きる「希望」こそを、オカルト2・0に託してみたい。」

**(竹下節子『オカルト2.0』〜「終章 オカルト2・0総論」より)

*「この本は、「オカルティズム」と括られてきたさまざまな流れを文化現象として解明しながら、時として終末論的不安が煽られる二一世紀の情報社会において、過去のオカルトの進化系であるオカルト2・0を新しい視点に立った新しい方法論として提示するために書かれた。

 カタカナの「オカルト」は、日本のサブカルチャーの中で定着してきたが、一神教的文化圏においての認識と多神教的・アニミズム的文化圏とでは、まったく異なる受け取り方と発展の仕方を見せた。また、一神教的文化圏内部にあっても、特に「近代世界」を科学技術的に牽引した「西洋」のキリスト教文化圏においては、ローマ・カトリック文化圏とプロテスタント文化圏では異なる理解、異なる展開を見せてきた。」

*「今や、覇権的秩序も、共産的秩序も、宗教的秩序も、近代ヒューマニズムさえも崩れてしまった世界には、多様性というカオスが渦巻いている。そんな多様性の極みに現れた現象がオカルト2・0だが、見方によっては、ばらばらの個人が端末などを通して接触できるようになった「超越への扉」ともいえるのではないだろうか。」

「オカルト2・0は多様であるし、さまざな変種がひしめいている。そのうちのどれにどのようにどの程度アプローチするかというのも多様だ。膨大なデジタル空間に膨大な情報があふれているのでヴァーチャルな「仲間」ができることもあるだろうし、自分から何かを発信することもできるだろう。(・・・)

 誰もが「自分」のことに関心を持ってばらばらのように見えるけれど、共通点はある。今ここでは見えていないけれど、見えない世界に何かが隠れているという直感と無縁ではないということだ。その直感は「希望」につながらないだろうか。」

「大きなモザイク画の一つのピースかもしれないし、実は大きな一つの「普遍」の体のいろいろな部分で生き、生かしている、細胞やら分子や量子のような立場なのかもしれない。

「普遍」を見渡すことはできないけれど、境界ゾーンに漂いながらさまざまな動き、波動、色や熱を感じたりすることで、「大きな命」に参入することはできる。それを果たした無数の優れたアーティストの足跡が、絵画に、オブジェに、建築に、音楽に、文学に残って居る。

 オカルト2・0はアートである。」

**(竹下節子『オカルト2.0』〜「あとがき」より)

*「もう誰も「宗教」や「科学」をほんとういは信じていない世界で、その両方を融合しながら、「恐怖」や「不安」の解消をビジネスにするオカルト=カルトが現れる。その「オカルト」はもはや「秘術」でなく、隠れているのは監視の目からだけだ。

「宗教」も「科学」も「政治」も「秘儀としてのオカルト」も、その根源においては、人間のサバイバルに必要な進化から生まれた。一神教の場合は、創造神が、原初の「カオス(渾沌)」から天と地を。闇と光と、陸と海を分けたとされている。「コスモス」は「秩序」として現れたわけだ。

 その後、人間は、自らの生と死という実存的な問題についても、さまざまな教えや儀礼によって秩序立てて組み立てた歴史がある。いや、宗教も科学も政治も、人間が、まるで神のように、現実世界のカオスをコスモスの中に位置づけるために創ったという見方さえできるだろう。とはいっても、神ならぬ人間は、自分たちの手に負えるカオスだけを切り取って都合のよいことを正当化できる小コスモスを提供したに過ぎない。

 ところが、ある時代のある地域の「権威」が提供する「コスモス」だけでは対応できない現実は存在し続ける。キリスト教文化圏においては、権威やシステムが切り捨てた部分を拾い上げて裏から「コスモス化」することで、結果的に権威を安定させてきたのがエゾテリスム、オカルトの伝統だた。それが、隠れた平行コスモスとして実は、表向きのコスモスをしっかり裏打ちしてきたのだ。」

*「実存的な悲劇と心理的葛藤とを分けなくてはいけない。葛藤を一つひとつ解決する「治療」を求めるのではなく、それらを抱えたままで「大いなる健康」に向かう一つの方法がオカルト2・0であるかもしれない。

 歴史の中でオカルトは、隠れた場所で自己満足して現実の苦しみを忘れる手段であったり、都合のいい現実だけを都合よく切り取る道具であったりもした。けれども使いようによって、カオスの濾過装置になるかもしれない。

 苦しみに対処する「最適解」が見つかるまで、何度も何度もカードを並べ替えてもいい。無論、時宇都場合によって「最適解」も変化するだろう。「希望」も「愛」も、一方的に与えられるものではなく、見つけ、育て、学ぶものなのだ。

 ある音楽を愛し、メロディーを口ずさんだり、頭の中で全オーケストラを想起することができたりするためには。「音」の連なりをリズム。メロディー、ハーモニーと共に再構成しなければならない。脳内での「学習」が前提になっている。ニーチェは、音楽だけでなく私たちが愛するものすべては、同じように、未知だったものを知ることを学んだことに結果としてあるのだと言っている(『喜ばしき知恵』§334)

 オカルトの世界に迷い込んで取り込まれるのとは反対に、一人ひとりの「試みる精神」に同行してくれる最適のものを豊穣なオカルト世界に探し求める営みが始まっている。長い歴史に培われて登場したオカルト2・0は、それに応えることができるのだろうか。カオスの時代に「真の多様性」とは何かを示唆するオカルトの使命に期待したい。」

**(WORKSIGHT「「科学はフェイクで、魔術がリアル?」より)

*「2023年8月よりアメリカ・サウスカロライナ大学で、今年9月からはイギリス・エクセター大学でもスタートする「魔術とオカルト科学」(Magic and Occult Science)の学位プログラム。超自然科学的なものとして敬遠されがちなものでもある「魔術」「オカルト」の本来の定義、そして現代にこれを学ぶ意義について、サウスカロライナ大学で教鞭をとるマシュー・メルヴィン=クーシュキー准教授に尋ねた。(MAR 25, 2024)」

*「『RITUAL:人類を幸福に導く「最古の科学」』(ディミトリス・クシガラタス著、晶文社)によれば、人類が定住したのは農耕を始めたからではなく、大規模な儀式を行うためであったという説があるという。現代でも、多くの一流のアスリートは「儀式」を好み、迷信的な行為を自身のパフォーマンスを引き出すために行っていることが知られる。このように半ば非合理的に思える、いわばオカルト的な営為は古代からわたしたちの生活のあちこちに見られるものだ。

 The New York Timesの記事によれば、コロナ禍で超常現象を信じる人が増えたという。また、日本では疫病を鎮める力をもつ江戸時代の妖怪「アマビエ」が流行したことも記憶に新しい。経験したことのないような事象に遭遇した人びとは、世界を見る視点のひとつとしてオカルトの存在を強く感じるようになるのかもしれない。

 そんななか、2023年8月よりアメリカ・サウスカロライナ大学、2024年9月からはイギリス・エクセター大学でも「魔術とオカルト科学」(Magic and Occult Science)の修士・博士課程が設けられることになった。現代社会でオカルトを学ぶ意義とは。サウスカロライナ大学で同プログラムを受けもつマシュー・メルヴィン=クーシュキー氏に話を聞いた。」

*「マシュー・メルヴィン=クーシュキー|Matthew Melvin-Koushki
サウスカロライナ大学准教授。現在のイラン周辺で14世紀に栄えていたティムール朝、その後に勃興したサファヴィー朝と19世紀までのペルシアにおけるオカルト科学に焦点を当てた、近世イスラム文化の歴史を専門とする。」

・「魔術という言葉は好きじゃない」

「”魔術”の修士号がほしい? それならサウスカロライナ大学へ!」──コロナ禍の2022年11月、北米初となる「魔術とオカルト科学」(Magic and Occult Science)の修士課程プログラムの開講がX(旧Twitter)で告知された。

 世界史、宗教史、科学史などの歴史的観点から、魔術がこれまでどのように社会や科学に影響を与えてきたかを学ぶ本プログラム。教鞭をとるのは、近世イスラムの帝国史およびインテレクチュアル・ヒストリー(人文学の用語で「知の営み」についての歴史学を指す)を専門分野とし、オカルト科学やオカルト人文主義、近世ペルシャ世界、科学と帝国の脱植民地史などを研究してきたマシュー・メルヴィン=クーシュキー准教授だ。プログラムを告知した当時の心境についてこのように振り返る。

*(マシュー氏)「魔術とオカルト科学はもともと研究テーマとして掲げていた内容だったものの、このプログラムをアナウンスしたときは非常に驚きました。瞬く間にバイラルとなり、TikTokでも拡散されたのですから。そのおかげでプログラムを実現することができました。いまは8人の大学院生が在籍し、魔術について学んでいます。

当時、SNSでバイラルになったことだけではなく、世界中から出願があったことにも非常に驚きました。学生たちのなかには、シベリアのシャーマニズム、日本のお参りや巡礼、ヨーロッパに伝わる魔術、イスラム教やユダヤ教などの宗教、AIのような現代技術などのテーマに取り組んできた学生もいました。プログラムには科学史、宗教史、世界史などが含まれ、これらを組み合わせることが可能なのですが、そもそも『魔術とオカルト科学』というテーマは、学生らが研究したいと考える多様なテーマを包括するようなものなのです。まるで傘のようにね」

*「同様のプログラムはイギリスのエクセター大学でも2024年9月より開講される予定で、 20名ほどの学生が入学を控えているという。また、アメリカやヨーロッパを中心として国際的なネットワークの構築・拡大を目指しているほか、修士にとどまらず博士課程、そして博士研究員(ポストドクター)のポジションも提供できるよう計画中とのことだ。

 このような人気の背景には、コロナ禍の不安定な社会情勢を起因とするオカルトブームがあるとの見方が強い。2021年4月6日付のFinancial Timesの記事「WitchTok: how the occult became big online」(ウィッチトック:オカルトはいかにしてネット上で大流行したか)では、TikTokで「#witchtok」のハッシュタグが付いた動画が110億回以上視聴されていることを伝えたほか、2023年10月13日付のThe New York Timesの記事「A U.K. University Will Confer a New Title: A Master’s Degree in the Occult」(イギリスの大学が新たな学位を授与:オカルト学の修士号)では、魔術やスピリチュアリズムの文献を専門に扱うロンドンの書店「Treadwell's」の創業者が「知り合いの魔女の多くが(エクセター大学への)入学を考えている」と語ったことを報じている。

 とはいえ、大学におけるアカデミックな学びと、「魔術」「オカルト」といった言葉がもつ一般的なイメージが結びつかない人も多いのではないだろうか。魔術(あるいは魔法や呪術など)は超自然的な能力として、オカルトもまた心霊現象や未確認生物などの超自然的な体験として、近代の自然科学と対抗するものと捉える人も多く、「疑わしい」「胡散臭い」といったネガティブなイメージをもつ人もいる。

このプログラムにおける「魔術」「オカルト」とはいったい何を指すのか。マシュー氏に尋ねたところ、少し意外な答えが返ってきた。」

*(マシュー氏)「まず前提として、プログラムに”魔術”という言葉を使ってはいるものの、実はわたしはその言葉自体あまり好きではありません。大学や科学史ではネガティブな意味合いで使われることが多いですし、ヨーロッパでは魔女狩りを連想させるような言葉でもあります。非常に難しい言葉だということは、みなさんもおわかりになると思います。

 これはわたしの理解ではありますが、このプログラムにおける”魔術”をより正確に表現するとすれば精神物理学(Psychophysics)だと考えています。つまり精神と身体との相互作用(Mind-Matter Interaction)ですね。そして、それが精神と身体が相互に影響し合うものである以上、物理学に限らず医学や数学、建築学や情報工学など多くの分野が包括されるものであると考えています。

 また、”オカルト”という言葉に関して言えば、日本ではどうかわかりませんが、少なくとも英語圏でそれは”魔術”と同じような意味に捉えられます。でも、オカルトとは単に”目に見えない”ということなのです。そもそも科学とは可視情報だけでなく、可視情報/不可視情報のどちらも扱うものです」

*「例えば宇宙物理学では、仮説上の物質である「ダークマター」「ダークエネルギー」といった、現代の技術ではまだ直接観察できていない不可視情報を扱っている。また、医学では、いまでこそX線装置のように不可視情報を可視化する技術が普及しているものの、従来は可視な情報、つまり顕在化している症状から不可視な病気・疾患を診断してきた。心因性の病についてはいまなお同様だ。心理学についても「潜在意識という、意識の奥底にあるものを取り扱うという意味ではオカルトといえる」とマシュー氏は述べる。

 そこでマシュー氏が言及した「精神物理学」(認知科学や工学の分野では「心理物理学」とも呼ばれる)は、ドイツの物理学者/心理学者であるグスタフ・フェヒナーが創始した学問で、物理的事象と精神的事象、つまり外的刺激と内的感覚の間の定量的関係を研究するものだ。測定法として「丁度可知差異法」「当否法」「平均誤差法」などが創案され、のちの実験心理学の成立に多大な影響を及ぼした。

 このように精神と身体、心と物が相互作用するという点で、マシュー氏は「オカルト」についてこのように続ける。

*(マシュー氏)「目に見えるもの、目には見えないものが存在し、それらが相互に影響し合っている。この考えは単に、わたしたちがこの世界をどのように認識しているか、そして、人びとがどのように世界に存在しているのかということに過ぎません。ですので、”オカルト”は一般的なイメージとしての魔術的なものではなく、わたしからすると普通の科学なのです。オカルトは、目に見えるデータから目に見えないものを推定する学問といえるでしょう」

・心と体をつなぐ技術としての「魔術」

*「歴史的に見ても、「魔術」は秘教の信仰など限定されたテーマを取り扱うものではなく、例えば「科学」「宗教」などの二面性を引き受けてきた。19世紀のオカルティストにして元聖職者であるエリファス・レヴィは著書『The History of Magic』のなかでこのように記している。

  魔術とは、哲学におけるもっとも確実なるものと宗教における永遠にして無謬なものを結合し、単一の学問としたものである。それは一見すると対立するもの、たとえば信仰と理性、科学と信仰、権威と自由などを完全かつ疑問の余地なく和解させる。魔術によって人間精神は哲学的宗教的確実をもたらす器具を与えられる。その確実は数学がもたらす確実と同じ、数学ゆえの無謬と同じとさえいえる。
(『[黄金の夜明け団]入門:現代魔術の源流』チック・シセロ/サンドラ・タバサ・シセロ著, 江口之隆訳,ヒカルランド, p108)

  エリファス・レヴィ(1810〜1875)は、魔術を高く評価した人物のひとりだ。カトリック教会の聖職者としての道を歩んでいたが、20代半ばで神職を辞し、儀式魔術師となった。40歳ごろからオカルトについて公言し始め、魔術、カバラ、錬金術、オカルティズムに関する著書を20冊以上残した。Photo by Culture Club/Getty Images

 このような歴史を踏まえると、マシュー氏が先に述べた「精神物理学」的な性質、つまり、精神と物理という一見相対するものが互いに影響しながら存在しているという考え方は、決して新しい解釈ではなく、むしろ本来の魔術=科学の解釈ということになる。

*(マシュー氏)「そもそも、科学と宗教が別のものとしてカテゴライズされるのは20世紀以降の動きなのです。これは現代で”魔術”を学ぶ重要性にもつながるところですが、”魔術”は、それが精神や心への作用も含まれるという点では、プロパガンダやマインドコントロールと密接につながっており、特にヨーロッパ諸国が世界を植民地化し、それを正当化するための武器として使われてきました。植民地開発において、科学知は支配・権力と強いつながりをもってきましたから。彼らは『わたしたちには科学がある』と言いながら、科学こそが現代的なもので、宗教は時代遅れのものだというイメージを伝えてきました。でも、それは言葉遊びのようなものに過ぎません。

 今日の科学においてもまた、政治や大金が絡んでいることで多くのフェイクが生まれています。科学のすべてが間違っているとはいいませんが、7割ほどは怪しいのではないでしょうか。社会はおかしな方向に進んでいると思います。そして、人びとはもはや科学を信じなくなっています」

*「特にパンデミックは、科学に対する信頼の低下を招いた。The Wall Street Journalは2023年11月21日付で「Why We Don’t Trust Science Anymore」(科学が信用されなくなった理由)という記事を公開。これによると、科学者を「大いに信頼する」と答えたアメリカ人の割合は、2020年から23年にかけて16%減少した。その理由として、コロナ禍で起きた以下のような状況を挙げている。

 アメリカ人が科学者を信頼しなくなった最も大きな理由は、権力の乱用である。パンデミックが発生したとき、医療関係者やその他の科学者たちは、かつてないほどの権力を与えられた。アンソニー・ファウチのような選挙で選ばれたわけでもない役人たちが、公共政策に対する支配権を与えられ、アメリカ社会に損害を与えるような変更を実施したのである。アメリカ国民は、この権力の掌握が何であるかを認識し、その結果、科学界は苦境に立たされた。

 さらに、一般の人びとがニュースや情報を収集するにあたり、ソーシャルメディアに依存していることにも起因しているという。コロナ禍で「インフォデミック」という言葉が広まったのも記憶に新しい。

 このようなフェイクニュース、あるいはディープフェイクがつくり出すイメージに操られないためにも、「魔術」を勉強することは有益だとマシュー氏は話す。」

*(マシュー氏)「この場合、魔術は”IT(情報技術)”という言葉に置き換えられると思いますが、言葉やイメージを自分でちゃんとコントロールするためにも魔術の歴史、過去そして現在における精神と身体の関係を理解・研究することには意味があると思います。それは先ほども申し上げたように、人びとがこの世界にどのように存在しているかということであって、信仰とはまったく関係がないのです。今日では科学がフェイクで、魔術がリアルとさえ言えると思います」

*「最後に改めて、卒業生の進路を含め、「魔術とオカルト科学」プログラムに参加することの意義を尋ねてみた。

*(マシュー氏)「”魔術”に関するアカデミックな仕事はほとんど存在しないのが実情で、学生たちがどのようなキャリアを積むことになるかはわかりませんが、サウスカロライナ大学では史学の学位が与えられますので、研究者や教員はもちろん、一般職に就くことも可能でしょう。エクセター大学では演劇の学位を取得することができるので、ダンスや演劇の道へ進むことも可能です。どんなキャリアに進むのかは、何をしたいかによって人それぞれですが、どんな分野であれ、魔術を研究することは世界について新しいことを考えるきっかけになるはずだと信じています。」

□竹下節子『オカルト2.0』【主要目次】
まえがき
プロローグ SBNRとエコフェミニズム
第1章 フランス型個人主義とエゾテリズム
(コラム1 フランスのオカルト事情の定点観測を始めた理由)
第2章 メスメルの磁気療法とオカルトの転換点
(コラム2 占い師のセラピー効果)
第3章 西洋オカルト史とオカルト2・0
(コラム3 コーチングから霊媒へ――パラプシーの最新状況)
第4章 科学史・科学哲学とオカルト
終章 オカルト2・0総論
あとがき

□竹下節子
比較文化史家・バロック音楽奏者。東京大学大学院比較文学比較文化専攻修士課程修了。同博士課程、パリ大学比較文学博士課程を経て、高等研究所でカトリック史、エゾテリスム史を修める。著書に『陰謀論にダマされるな!』(ベスト新書)、『大人のためのスピリチュアル「超」入門』(中央公論新社)、『フリーメイスン もうひとつの近代史』(講談社)、共著に『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人は陰謀論を信じやすいか』など多数。

◎「科学はフェイクで、魔術がリアル?:大学で「魔術とオカルト科学」を学ぶ意義」(「WORKSIGHT」MAR 25, 2024)


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