見出し画像

石井 光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

☆mediopos2891  2022.10.17

本書には養老孟司のこんな言葉が寄せられている

「〈バカの壁〉はここから始まっていたか。
子供たちの国語力をめぐる実情から、
日本社会の根底に横たわる問題まで
掘り起こした必読の書。」

本書のいちばん最初で紹介されている
小学校四年生の
新美南吉の児童文学『ごんぎつね』を
班にわかれて読む授業での
生徒たちの発言には
著者同様驚きを禁じ得なかった

葬儀のシーンで村の女たちが
大きな鍋で料理をしているところだが
「大きななべの中では、
何かぐずぐずにえていました」
とあるその「何か」について
生徒たちの多くが
「母親の死体を煮ている」
と答えていたというのだ

「おそらく私にとって始めてのことなら、
苦笑いして流していただろう。
だが、似たような場面に出くわしたのは
一度や二度ではなかった。」
というのだ

これは「誤読」ではなく
「読む力」さらにいえば
感受性そのものが壊れているといったほうがいい

小中学でこのように
「国語力が弱まったように感じる」ようになったのは
二〇〇〇年前後を境にした時代だというが
その後SNSなどもふくめたインターネットが
おそらくはその傾向を助長してきたところもあるだろう

本書でも紹介されているが
そうした「国語力」ついての問題意識は
「比較的家庭格差の上層」にいる子供たちの通う
学校では危機感のもとにさまざまな取り組みが
なされてきているようだが
そうでない場合上記で紹介したような
「国語力」のもとになっている力が
すでにスポイルされてしまっている状況が
現象化しているとみるのが現実なのだろう

しかしおそらく問題は子供たち以前に
大人の「国語力」とそれをつくりだしている
感受性や思考力・メンタリティ等のアウトプットとして
現象化していると捉えた方がいいのかもしれない

それを如実に表しているのは
政治の言葉であり
メディアの言葉だともいえる
それらもまた「国語力」以前の段階で
ほとんど壊れている
そしてその状況に対して
疑いさえもつことができない大人たちの姿である

その意味で上記の最初に紹介した
養老孟司の言葉に深く頷かざるをえない

ほんとうは学校とかに頼らず
「読み書き算盤」の力をなんとか身につけ
じぶんで生き抜く力を育てるのがいいと思うのだが
現代のような実質的な「階層社会」のなかで
すべてのひとにそれを求めるものは困難なことでもある

本書のいちばん最後にこんな言葉が記されている

「日本の未来を生かすか殺すか、
私たちは今、その岐路に立っているのである」

まず大人が〈バカの壁〉を超えられるかどうかだろう

■石井 光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
 (文藝春秋 2022/7)

(「序章」より)

「都内のある公立小学校から講演会に招かれた時のことだ。校長先生が学校の空気を感じてほしいと国語の授業見学をさせてくれた。小学四年生の教室の後方から授業を見ていたところ、生徒の間から耳を疑うような発言が飛び交いだした。
「この話の場面は、死んだお母さんをお鍋に入れて消毒しているところだと思います」
「私たちの班の意見は違います。もう死んでいるお母さんを消毒しても意味がないです。それより、昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたんだと思います」
「昔もお墓はあったはずです。だって、うちのおばあちゃんのお墓はあるから。でも、昔は焼くところ(火葬場)がないから、お湯で溶かして骨にしてから、お墓に埋めなければならなかったんだと思います」
「うちの班も同じです。死体をそのままにしたらばい菌とかすごいから、煮て骨にして土に埋めたんだと思います」
 生徒たちが開いていたのは国語の教科書の『ごんぎつね』だ。

(・・・)

「当初、私は生徒たちがふざけて答えているのだと思っていた・だが、八つの班のうち五つの班は、三、四人で話し合った結論として、「死体を煮る」と答えているのだ。みんな真剣な表情で、冗談めかした様子は微塵もない。この学校は一学年四クラスの、学力レベルとしてはごく普通の小学校だ。
 おそらく私にとって始めてのことなら、苦笑いして流していただろう。だが、似たような場面に出くわしたのは一度や二度ではなかった。」

「校長はつづける。
「学校は学力を育てる場なので、子供たちが誤読をするのは悪いことではありません。そこで教員に正してもらうことで、読解力を高めていけばいい。でも私は。こうした子たちの反応は単なる読み違いではないと考えています。
 もし『ごんぎつね』の鍋のシーンを、家が食堂を経営しているとか、喪服を消毒しているとか読んだのだとしたら、誤読と言えるでしょう。ありえないことではないからです。しかし、母親の死体を煮ているというのは、常識に照らし合わせれば明らかにおかしいとわかるはずで、平気でそう解釈してしまうのは単なる読み違えではありません。
 こうした子たちに何が欠けているのかといえば、読解力以前の基礎的な能力なのです。登場人物の気持ちを想像する力とか、別の事を結び付けて考える力とか、物語の背景を思い描く力などです。自分の考えを客観視する批判的思考もそうでしょう。それらの力が不足しているから、常識に照らし合わせればとんでもないような発想をしているのに気づかず、手を挙げて平然と答えられてしまう。読解力の有無で済ましてはいけないことだと思うのです。
 校長がそう語る背景にあるのは、近年教育業界を中心に沸き起こっている「読解力の低下」の議論だ。」

「今回、校長が指摘しているのは、こうした教育界を主導する人たちの間で行われている議論への違和感だ。つまり、そもそも学校現場で見られる子供たちの想像力の欠如や珍妙な解釈を、「読解力の低下」という問題だけに留めて考えていいのかということである。文章を正確に読んで理解する以前のところで、子供たちは何か大きなものにつまづいているのではないか。」

「「国語力」とは何なのだろう。文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。
(・・・)
 文科省が国語力を高めることがより良く生きる力を育むとしているのは、将来的にそれが全人的な力となるからだ。だが、先ほどの校長の指摘は、今の学校の教育や社会の在り方が、本当に子供たちが必要としている国語力を上げるためのものになっているかというものだ。もし適切に機能していなければ、子供たちは生きていくために必要な力を得られないまま成長していっていることになる。」

「子供たちの国語力は本当に失われているのか。
 だとしたら一体、誰が、何が、なぜ、国語力を殺したのか。
 子供たちの国語力を回復させるには、どのような取り組みが必要なのか。」

(「第一章 誰が殺されているのか————格差と国語力」より)

「多くの教員によれば、今の学校はそれをするための環境が整っていないという。いつから、なぜ学校は子供たちの生きる力を育むことができなくなってしまったのか。」

(「第二章 学校が殺したのか————教育崩壊)

「一九九〇年代以前から教鞭をとっていた小中学校の教員たちに話を聞くと、二〇〇〇年前後を境に子供たちの国語力が弱まったように感じるという意見でほとんど一致する。」

「インタビューを終えた後、私はある言葉を思い出さずにいられなかった。一章に登場した元教員の末次則子のつぶやきだ。
「文科省も、学校も、親も、みんな結局は成果主義なんですよ。すぐに形として表れる結果ばかりを追い求めつづけている。だから、もっともっとという具合に新しいことをやろうとする。
 国語力を育てることって成果主義とは真逆で、目に見えないものなんです。一つの詩を丹念に読み込んで感動の涙を流しても、テストの点数に結びつかないし、資格を取得できるわけでもない。でも、そうやって内面で育ててきたものがあるからこそ、何十年か先に誰も想像しなかったような素晴らしい人間性を持てるようになるんです。
 私は、人にとって本当に大切なものって不可視なものだと思っています。その子のやさしさを育てる、その子の勇気を育てる、その子の誠意を育てる。どれも明確な方法論があって、数日後に点数化されて見えるものじゃなありませんよね。
 それでも、その子の未来のために毎日水をやり、丁寧に語りかけ、手を汚しながら土を取り換えて育てていく。家庭でも、学校でも、地域でもそれをやっていく。これが本来の教育だと思うのです」
 今の教育の世界に、こうしたことを実行できる余地はどれだけあるだろうか。」

(「第三章 ネットが悪いのか————SNS言語の侵略)

「現在の子供たちの国語力は、SNSの短文テキストコミュニケーションによって根底から揺さぶりをかけられている。元来、言葉は自己肯定感を育み、世界のあらゆることを思いやりでつなぎ、未来を切り開いていくためのものだった。それが無思慮に感情を吐き捨てるだけのものに取って代わられた時、子供は、世界は、未来はどうなってしまうのだ。
 私たちは目を向けなければならないのは、そんな世界の危機的な一側面なのである。」

(「第六章 非行少年の心に色彩を与える————少年院の言語回復プログラム」より)

「四章から六章にわたって、社会の底辺からの国語力再生の取り組みを見てきた。不登校、ゲーム依存、非常と形はちがえど、ここから脱するために必要なプロセスに共通するものがあるのに気がついただろうか。いずれも次のようなステップで回復支援が行われているのだ。
1,劣悪な環境で言葉を失う。
2,子供を安全地帯(心理的安全性)に置く。
3、そこで五感を刺激しながら言葉と思考のリハビリを行う。
4、言葉による成功体験をつみ重ね、自己肯定感を高める。
5、実社会での生きがいや希望を見いださせる。
 こうしたプロセスは、家庭格差の上層にいる子供たちであれば、親や友人と接する中で自然と経験するものだ。しかし、家庭格差によってその機会を奪われた子供たちは、人生の困難にぶつかった後、フリースクール、病院、少年院などである種の保護下に置かれ、それを回復プログラムとして行うことになる。いわば〝育て直し〟のような形で国語力をつけてくのだ。」

(「第七章 小学校はいかに子供を救うのか————国語力育成の最前線1)

「なぎさ公園小学校の教育が示しているのは、現代の子供に必要なことを考えた上で創意工夫によって五感に刺激を与え、思考や表現の機会を用意すれば、彼らの国語力を確実に伸ばしていけるということだ。さらに授業によって関心を縦に横にと広げれば、自ずと自分の好きなことを見つけ、それに向かって進んでいくようになる。
 こうしたことが数年後に子供たちの生きる力となり、自らの人生と社会を輝かせていくことにつながっていくのだろう。」

(「第八章 中学校はいかに子供を救うのか————国語力育成の最前線2)

「附属高校で国語科を担当する田尾澄子は言う。
「高校でも、中学と同じように、勉強は大学に入るためにあるのではなく、心を成長させるためにあるものだという理念で授業を進めています。たまに「私はその立場になったことがないのでわかりません」という人がいますが、それを言ってしまったら社会は成り立ちません。世界のことだってわかるわけがない。他人の気持ちを想像した上で自分が何をすべきかを考え、行動していく力は、大学に入ってから習得するのではなく、中学、高校の段階で確実に自分のものにしておかなければならないものです。」

「国際化の尖端を走る同校(開智日本橋中学校・高等学校)は、一風変わった授業を取り入れている。中学三年間を通して道徳の授業をつかって「哲学対話」を行っているのだ。
 (・・・)哲学対話とは答えのない問い(テーマ)に対して、クラスのみんなが意見を出し合うというものだ。テーマは「友達がいる意味は何か」「魚は何を思っているのか」「言葉と感情はどうつながっているのか」「いいことをしても報われないのはなぜか」など自由であり、生徒たちは多様な意見をつみ重ねることで思考を深めていく。世界各国でこの対話を取り入れる学校が増えてきており、ここ一〇年ほどは日本でも少しずつ広まりだしている。」

「これらの学校に通うのは比較的家庭格差の上層で育ってきた生徒たちだ。それでも両校が総力を挙げて取り組んでいるのが、ともすれば時代遅れで実利とは無縁に思われているような文学作品や哲学を用いて、愚直なまでに人間にとて根源的な力をつけさえていく教育なのだ。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?