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山本貴光「記憶という庭を世話する」/柴崎友香×山本貴光「記憶をめぐるトーク」(DISTANCE media〔記憶のケア〕)

☆mediopos3531  2024.7.18

私が私であること
そこには
記憶が深く関わっている

ある意味で
私は記憶でできているともいえる

その記憶がすべて事実に基づいているとは限らないし
ときにさまざまにデフォルメされ改変されたりもするが
私である記憶を失ってしまえば
私は私という物語のない存在となってしまう・・・

そんな記憶を「ケア(世話)」する
「記憶のケア」というシリーズが
DISTANCE.mediaではじまっているが

(DISTANCE.mediaとはwebで購読・視聴できる
「人/自然/テクノロジーのあいだの
新たな距離とコミュニケーションを考えるメディア」)

編集委員である山本貴光による
シリーズの緒言「記憶という庭を世話する」と
柴崎友香との対談「記憶をめぐるトーク#1
――記憶と場所をめぐって、行ったり来たり」が
現在掲載されているのでそれをとりあげる

かつてインターネットは
「図書館や博物館のメタファー」で語られ
「無限に記録と記憶が可能な開かれた情報環境が実現し、
世界の共通のインフラが生まれる」
そんな「夢」が描かれていたが
現状のような「めまぐるしく押し寄せる情報の波」による
「記録も記憶もおぼつかない情報環境」を問い直す必要がある

この「記憶のケア」シリーズの緒言(山本貴光)では
「記憶はどこか庭に似ている」という

「ネットを中心とした情報環境」のなかで
「私たち人間の記憶もまた、
意図した状態と意図せざる状態とが混ざり合ってできている」
そんななかで
「記憶をどんなふうに世話するとよい」のか
その「手がかりを探ってみたい」というのである

「記憶のケア」シリーズにともない
「記憶のデザイン」をテーマにしたトークイベントとして
柴崎友香×山本貴光による「記憶をめぐるトーク」が行われ
その模様がTouTubeで視聴できる

トークは2023年12月に刊行された
柴崎友香の小説『続きと始まり』の話題から始まっている

この小説は「2020年3月から2022年2月までの
2年間にわたる男女3人の日常を通して、日本に生きる私たちが
ともに経験した出来事に光を当て」ているが

そのなかには「当時の時間が文章というかたちで保存され」
「そうした「時間の再体験」こそが、
小説にしかできない表現なのだ」と柴崎氏は語る

そうした小説にしかできない体験について山本氏は
小説とは「「他人シュミレーター」であり
「記憶保存装置」でもある」
「100年後の歴史学者たちは、もしかしたら
柴崎さんの小説を読むことで2020年代の人々の生活を
学ぼうとするのかもしれない」とも言う

またトークの後半では
「かつて圧倒的大多数の人が見ていたテレビ」は
「現在圧倒的大多数の人が見ているスマートフォン」とは異なり
そこにはまだ「場所と記憶を結びつけ」るような
いわば「動物的記憶」があったということから

「オフラインとオンラインの境界がますます曖昧になるなかで、
私たちはいかに動物的記憶を働かせ、
過去をよりよく記憶することができるのか」が問われている

現在のようなデジタル環境において
「場所」と切り離されがちな「記憶」の在りようが
どのように変わっていくのか
そしてそんななかで「記憶」が
どのように「ケア」される必要があるのか

「記憶」はまさに「私であること」と深く関わっている
そんな「記憶」が生きた「場所」から切り離されていくとき
「考える」ことさえAIまかせになるといったことを思えば
「私であること」そのものが空疎になっていくことになる

「記憶」が「場所」と結びついているということは
その「場所」にじぶんが生きていたというリアルである
そのリアルがヴァーチャルになっていくとき
「私であること」もまたヴァーチャルになっていく・・・

■DISTANCE media(F6 記憶のケア)
 山本貴光「記憶という庭を世話する」(12 Jul.2024)
 【対談】柴崎友香×山本貴光「記憶をめぐるトーク#1」
     ――記憶と場所をめぐって、行ったり来たり(12 Jul.2024)

**(山本貴光「記憶という庭を世話する」より)

・「記憶のケア」シリーズ(山本貴光・緒言)について

*「インターネットは、かつて図書館や博物館のメタファーで語られていました。記録メディアの飛躍的な向上、さらにはオープンで集合知的なその性質によって、無限に記録と記憶が可能な開かれた情報環境が実現し、世界の共通のインフラが生まれる、かつてそんな夢が描かれていました。
 しかしながら、めまぐるしく押し寄せる情報の波は、過去をまたたくまに押し流し、私たちの足場を時々刻々と組み替えています。さらには、精度の低い情報、偏った情報、誤った情報が流通し、情報環境の劣化、タコツボ化、汚染にもさらされています。いわば、記録も記憶もおぼつかない情報環境のなかで、私たちはこれからどのように、記憶を共有し、共同体を形成してゆけばいいのでしょうか?
 本シリーズでは、「記憶のケア」というテーマのもと、わたしたちの情報環境を見つめ直します。最初に、記憶やアーカイブにかんする著書もある、編集委員の山本貴光さんに、シリーズの緒言をいただきました。」

*******

*「記憶はどこか庭に似ている。庭では、放っておいてもいろいろな植物が生え育ち、その様子は季節とともに変わってゆく。そこに人が、土を耕したり草を抜いたり種を蒔いたり苗を植えたりと手を加える。庭には、自然に変わってゆく要素と人為で手を加える要素とが混ざり合い、人が意図した状態と意図せざる状態とが生じては移ろってゆく。意図しない植物はしばしば「雑草」と呼ばれるわけだが、なにもせずにおけば、雑草だらけの草茫茫にもなるし、こまめに手を入れれば整った状態にもなる。そうかと思えば、あれこれ世話を焼いても、思い通りになるとは限らず、時とともに崩れたり変わったりして留まることがない。

 私たち人間の記憶もまた、意図した状態と意図せざる状態とが混ざり合ってできている。仕事の必要や試験前のように努めてものを覚えることもあれば、放っておいても日々の経験を通じてその気がなくてもなにかが記憶に残り忘れ去られていったりもする。加えてスマートフォンを通じたネット接続が日常となったいま、朝から晩まで各種のウェブやアプリを通じて、次々となにかしらが目や耳から入る。このとき、私たちの記憶にはなにが起きているのか。

「あのいい感じのシャツはどこで見たんだっけ。たしかInstagramだったけど、どこだったかな……」といいながら、タイムラインを遡る。いくつもの投稿を画面の外へと見送って、「うーん、記憶違いかな」と覚束なくなり、そう思いながらなおも画面のスワイプを続けると、やがて「あった!」と再会できたりできなかったりする。なにかを目にして気になったことは覚えていても、それを目にしたメディアのどこにあったのかとなるとぼんやりしてしまうことも多い。

 加えていえば、以前ウェブで見たものがいまでも残っているとも限らない。ある調査によれば、2013年前に存在したウェブページの38%は存在せず、2023年のウェブページのうち8%が削除されているという。少し前に読んだニュースを見直そうと思って再訪したら削除済みだったとか、サブスクしている音楽や映画サイトで気に入っていた曲や映画が利用不可になった、という経験がある向きも少なくないのではないか。

 ところで、私は数日前にこの「ある調査」についての記事を読み、概要だけを覚えていた。いまお読みのこの文章を書くにあたって、正確を期すために読み直そうと思ったのだが、どこで読んだのかを覚えていない。閲覧してから今日までのあいだに何百というページ、何千という画像を目にしている。かといって購読している新聞やニュースのサイトを回って探すのは数も多いので現実的ではない。うーん、たしかTwitter(現X)かBlueskyで「いいね」をしたような気がする。というので探しても見つからない。結果的にはBlueskyでBookness and Therenessというアカウントによる投稿をリポストしていたことが分かった。その投稿は、COURRiER Japonに掲載された記事「10年前のウェブの約40%は「すでに存在しない」」(2024.05.29)という記事へのリンクを示したものだった。

 と、この経緯自体がややこしく、読むのも面倒なくらいだ。ややこしいついでにいえば、COURRiER Japon掲載のその記事は、Independent紙によるものである。そもそもネット上で目にするものには、どのアプリか、どのサイトか、どのページか、どのアカウントか、どの投稿か、どのリンクか、といった複数の要素が絡んでおり、少なくとも私の頭はこの絡みあった状態をそのまま記憶して「ここ」と覚えておくようにできていない。そこでたいていの場合、ネットで気になるものを見かけると、スクリーンショットを撮るかPDFでファイルにして手元に保存するようにしている。

 もちろんなんでもかんでも見聞きしたものを覚えておくのがよい、という話ではない。ネット閲覧を含む日々の生活のなかで、ぜひとも覚えておきたいと思うものがどれくらいあるか分からないが、それにしても庭でいうところの雑草の勢いがものすごい。ちょっとネットを眺めて歩くだけで、覚えておきたいものがわさわさと草の向こうに隠れてしまう。

 それでもいいではないかといえばそうかもしれない。他方で、目下私たちが使い、作り続けているネットを中心とした情報環境を前提として、自分の庭をもう少し思うように造りたいと思う場合、どうしたらよいのだろうか。一言でいえば、記憶をどんなふうに世話するとよいだろうか。この特集では、そうした問題を頭の片隅に置いてあれこれと考えたり試してみたりするための手がかりを探ってみたい。」

**(【対談】柴崎友香×山本貴光「記憶をめぐるトーク#1」より)

・対談について

*「テクノロジーによって便利に情報や記録にアクセスできるようになったにもかかわらず、本当に大切なことが思い出せない。そんな経験はないでしょうか。
 インターネットの誕生以降、人類が生み出すデータ量は指数関数的に増加してきました。SNSによって日々ますます多くの情報が「記録」されるようになっているものの、それにともない私たちがよりよく「記憶」できるようになったかといえば、そうではないのかもしれません。
 毎日あてもなくSNSをスクロールするものの、次の日に覚えているものがどれくらいあるだろう? 偏った情報、誤った情報がとめどなく流れるなかで、私たちはどのように自分の記憶を世話していけばいいのだろう? そのような問題意識から、DISTANCE.mediaは3月に「記憶のデザイン」をテーマにトークイベントを行いました。
 全3部で構成されたイベントの第1部のテーマは、「記憶と場所」。文筆家・ゲーム作家の山本貴光さんと、場所と記憶をモチーフに小説を書き続けてきた作家の柴崎友香さんが、「記憶」をキーワードに、柴崎さんの最新作から幼少の思い出、小説にしかできない役割までを語りました。」

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・「他人シミュレーター」としての小説

「ふたりのトークは、2023年12月に刊行された柴崎さんの最新長編『続きと始まり』(集英社)の話題から始まりました。阪神淡路大震災、東日本大震災、そして新型コロナウイルス感染症。柴崎さんは本作で、2020年3月から2022年2月までの2年間にわたる男女3人の日常を通して、日本に生きる私たちがともに経験した出来事に光を当てていきます。

 ある日突然マスクをする生活が当たり前になり、飲食店にはアクリル板が設置され、リモートワークが日常化する──物語が始まるのと同じ2020年に書き始められた『続きと始まり』には、そんな当時の時間が文章というかたちで保存されているように見えます。そうした「時間の再体験」こそが、小説にしかできない表現なのだと柴崎さんは語ります。

「小説が、ただ情報を並べていくことと何が違うかというと、小説っていうのはやっぱり、ある人間を通して世界を体験し直すことができる。私たちは、普段は自分の身体を通してしか世界を体験できないですけど、小説は別の人間に入っていくことを可能にしてくれる。人の内側の、体感的な表現が、やっぱり小説にはできると思うんです。
 2020年の何月にこういうことがあった、というのはみんな知っていると思うんですけど、でも小説ではもう1回その時間を体験し直すことが可能だから、読まれた方が『こんなことを思い出した』『そういえばこういうことがあった』みたいなことを、感想として言ってくださるのかなっていうふうに思っています」

 すなわち小説とは、山本さんの言葉を借りれば「他人シュミレーター」であり「記憶保存装置」でもある。100年後の歴史学者たちは、もしかしたら柴崎さんの小説を読むことで2020年代の人々の生活を学ぼうとするのかもしれない、と山本さんは言います。」

・テレビと動物的記憶

*「トークの後半では、子どもの頃は1日に8時間はテレビを見ていた「大のテレビっ子」だったという柴崎さんの経験から、「テレビと記憶」について語られました。

 かつて圧倒的大多数の人が見ていたテレビと、現在圧倒的大多数の人が見ているスマートフォン。両者の違いは、それが移動できるかどうかと、コントロール可能かどうかの2点が大きいといえるでしょう。テレビはテレビの置かれているお茶の間でしか見れなかったのに対し、スマートフォンはどこにでも持ち運んでいける。テレビは放映時間が決まっているのに対して、YouTubeもNetflixも、スマートフォンのコンテンツはユーザー側が「いつ見るか」を決めることができる。

 スマートフォンでいつでも、どこでも情報を得られるようになり便利になった一方で、記憶に残りやすいのはどちらだろうか?とふたりは問います。「この場所でエサにありつけた」「ここで危険な目に遭った」というふうに、動物たちは場所と記憶を結びつけながら生きていると柴崎さんは言いますが、そんな「動物的記憶」は、メディア環境が変化するなかでますます薄れているのかもしれません。

 オフラインとオンラインの境界がますます曖昧になるなかで、私たちはいかに動物的記憶を働かせ、過去をよりよく記憶することができるのか。そのときに小説や物語は、私たちの記憶をどのように助けてくれるのか。トークの最後には、柴崎さんが「小説にしかできないこと」を言い得たイタリア人作家アントニオ・タブッキの言葉を朗読しました。」

○山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家、ゲーム作家。1971年生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に、『文学のエコロジー』(講談社)『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社)など多数。

○柴崎友香(しばさき・ともか)
作家。1973年大阪府生まれ、東京都在住。大阪府立大学卒業。1999年「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」が文藝別冊に掲載されデビュー。2007年『その街の今は』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞を受賞。2010年『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞、2014年『春の庭』で芥川賞を受賞。2024年『続きと始まり』で、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。その他に『パノララ』『千の扉』『百年と一日』ほか、エッセイに『よう知らんけど日記』、『あらゆることは今起こる』など、著書多数。

□山本貴光「記憶という庭を世話する」

□【対談】柴崎友香×山本貴光「記憶をめぐるトーク#1」
     ――記憶と場所をめぐって、行ったり来たり

□【対談】【記憶をめぐるトーク①】
 柴崎友香×山本貴光ーー記憶と場所をめぐって、行ったり来たり


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