
『ユリイカ 1973.9 特集 吉岡実』
☆mediopos-3026 2023.3.1
いまではもう吉岡実の詩集を
書店で見つけることはできなくなっている
(ほかの数多くの重要な詩人たちの詩も)
吉岡実の詩を読んで「驚いた」のは
一九七七年頃のことだ
(吉岡実の亡くなったのは一九九〇年(七一歳))
はじめて買った吉岡実の詩集は
現代詩文庫14(思潮社)の『吉岡実詩集』だったが
いまではそれも増刷されていないようだ
先日古書店で吉岡実を特集した『ユリイカ』を見つけた
一九七三年の九月号である
表紙にも吉岡実の顔/眼のイラストが使われているが
その特集のなかでも
「グラビア 吉岡実の眼」(撮影 金井塚一男 1973.3)として
八ページにわたって掲載されている
吉岡実の「眼」「眼」「眼」「眼」の貴重な写真である
当時『ユリイカ』の編集者だった
三浦雅士の「編集後記」には吉岡実の
「いつでも驚いているような眼」について書かれている
「驚くという言葉は、このように考えるならば、
世界に対する詩人の関係を端的に表しているのであり、
彼にとって世界はおそらく、つねに未知であり、
無気味であり、不条理である。
彼は、驚くまいことか、
世界との関係を言葉によってごまかすことをしない。」
吉岡実の詩の言葉は
「驚き」に満ち(未知)ている
吉岡実の詩を読むということは
その詩人の「眼」のように
つねに世界を「未知であり、無気味であり、不条理である」
として「驚く」ということに他ならない
いまでもおりにふれ
その詩の言葉を欲してしまうのは
どこか「驚く」感受性が
いまでもじぶんのなかにあるのかどうか
そのことを確かめるためでもあるのかもしれない
この『ユリイカ』の特集では
この特集の翌年一九七四年に刊行された
『神秘的な時代の詩』から九篇が
「神秘的な時代の詩・抄」として掲載されている
(実際の詩集には一八の詩が収められている)
久しぶりにその詩集を手にとって
その言葉をはじめて読むように読み返してみて
はじめて読んだときにもまして
驚いているじぶんを見つけることができた
やはりいまでも
世界はそして言葉は
未知のまま驚きに満ちている
いうまでもなくこのじぶんもまた・・・
■『ユリイカ 1973.9 特集 吉岡実』(青土社 1973.9)
■吉岡実『神秘的な時代の詩』(湯川書房 昭和四十九年十月)
(『ユリイカ 1973.9 特集 吉岡実』〜「編集後記(三浦雅士)」より)
「飯島耕一氏によると、朔太郎とキートンの容貌が似ていることは誰もがよく認めることで、しかも、朔太郎はキートンに少なからぬ愛着を抱いていたことのことである。確かに、あのいつでも驚いているような眼は、他のどんな特徴をも凌いで、両者を本質的に結びつけているように見える。川端康成氏の眼もまたそのような印象を与える。そしてまた、吉岡実氏の眼もまたそのような印象を与える。
日記をはじめとする吉岡氏の散文を読んで気付くことは驚く、驚嘆する、という言葉が少なくないことである。それらの言葉はなぜ美しい、すぐれている、印象的である等々ではないのか。彼はなぜ驚くのか。
誰もが世界にはじめて触れるときには驚くのだ。しかし瞬時に彼は、その対象をそれまでの価値体系のなかに挿入し、それにふさわしい形容詞を探し出す。言葉、すなわち距離が与えられ、こうして世界は再び安定する。したがって、驚くという言葉が素裸のままで発せられるということは、発する主体がほとんど無防備のままで世界という荒々しく新鮮な波につぎつぎに呑み込まれてゆく、ということなのだ。幼児はつねに驚いている。
驚くという言葉は、このように考えるならば、世界に対する詩人の関係を端的に表しているのであり、彼にとって世界はおそらく、つねに未知であり、無気味であり、不条理である。彼は、驚くまいことか、世界との関係を言葉によってごまかすことをしない。」