大西克智『『エセー』読解入門/モンテーニュと西洋の精神史』/モンテーニュ『エセー1〜6』
☆mediopos3359 2024.1.28
ク・セ・ジュ(フランス語: Que sais-je?
「わたしは何を知っているか?」)という言葉は
ミシェル・ド・モンテーニュの
『エセー』から引かれている有名な言葉である
ここしばらくその『エセー』とともに
ずいぶんと歩き(岩波文庫全六冊)
少しばかり迷路に入りそうになったところ
おりよく大西克智『『エセー』読解入門』と出会い
ようやくなぜク・セ・ジュなのかが少しばかり腑に落ちてきた
モンテーニュのク・セ・ジュは
「私」が「自分」を見いだすという
「自己知」のことであり
近世の黎明期である十六世紀においてそのアポリアを
まさに出口のない迷路のように歩き続けた
唯一の存在がモンテーニュなのである
その「自己知」のアポリアは
まさに現代においてようやく
気づかれ始めているところだともいえる
そしてその地点から
さらに歩んでいかなければならない段階にあるようだ
モンテーニュはその「自己知」から
「「何者かとして」という条件を撤廃し、
あるがままの自己をあるがままに知ろうとした、
そうでなければ自己知ではないと考えた」
モンテーニュは学問や学識を批判するのだがそれは
「観念のヴェールによってあるがままの現実を
覆い隠す機能が学問や学識にはそなわっているため」であり
それは「生きた思索のいとなみを特定の「型」
つまり主義=イズムの枠組みにはめ込んで、
窒息させる効果を発揮しかねないため」だった
「私が、ミシェルであるという事実」
「世界にただひとつしかないこの事実を見失わないためには、
あらゆるカテゴリーを拒む必要がある」と考えたのである
モンテーニュは「生きることの意味」を
明確に提示した「最初の人間」だったというが
(そうした言葉が広く認知されるようになったのは
二十世紀に入ってからのこと)
当時多くの人たちは
「新旧のキリスト教、古代の知恵に依存する自分主義、
あるいは富の蓄積と立身出世、各人が置かれた状況のなかで
与えられうるなにかを与えられるがままに
「そのためにこそ、この世に生きている」と信じ、
その信に安んじていることができ」たという
モンテーニュは
カトリックとプロテスタントが激しく対立する
フランスの政治において
「敵対する国王双方の侍従武官として、要衝ボルドーの市長として、
家族と領民の命を預かる家長として」果たしている役割や
思想家や哲学者から与えられた類型的な概念などに
「「自分」を託し、その「自分」がすなわち「私」である」
などと考えることなく
「「私」は「自分」というものを「知り・導き・示」そうとし
「何者でもない者」になろうとする
そしてやがて「裸形のあるがままに対する羨望と
自己了解の可能性をめぐって〈魂〉の内部」で抗争し
「確定解」を見いだせないまま
その先へは行けなくなってしまう・・・
「モンテーニュは、生きることの意味は
生きることそれ自体にあるというひとつの真実に、
思索を収斂させて終えることができない人」だったが
それは「生をみずから統御し、
みずらか導き、生にみずから耐える」
その「みずから」を知ることが、
彼にはどうしても必要だったから」なのだという
モンテーニュにとっては
まさに自己知のク・セ・ジュの迷宮から
離れて生きるわけにはいかなかったのである
それはある意味で
矛盾のなかで矛盾を超えようとする
禅の公案にも似ている
そして結局のところ公案は解けないままでいる・・・
モンテーニュが「民衆」や「百姓」といった存在を
「裸形のあるがままを象徴する
記号的存在として、肯定」しようとしたのも
「愚」ゆえにこそ拓かれる知識からの自由に
目を向けていたからなのかもしれない
■大西克智『『エセー』読解入門/モンテーニュと西洋の精神史』
(講談社学術文庫 2022/6)
■モンテーニュ(原二郎訳)『エセー1〜6』
(岩波文庫 1965/5-1967/10)
*注)『エセー』からの引用箇所(A)(B)(C)の記号が賦されている。
「第一〜二巻当初のテクスト(A)に対して(B)さらに(C)が、第三巻当初の(B)に対して(C)が、順次追加されたというかたちです。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「はじめに————四百年の時が流れて」より)
「壊滅の危機に瀕する十六世紀後半のフランスを生きたミシェル・ド・モンテーニュ。彼が遺したゆいつの著作『エセー』には、著者の〈魂〉によって描かれた一条の軌跡が刻まれています。その軌跡をたどってゆけば、ひとつの壮大な物語が姿をあらわします・しかも、近世の黎明期に生まれたその物語を、私たちもまた再開しようと思えば再開することができる。ただ繰り返すのではなく。モンテーニュが行き着いた地点からさらに遠くへ軌跡を伸ばしてゆくこともできる。『エセー』は、そんなポテンシャルに恵まれた著作です。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「プロローグ」より)
「モンテーニュが二十年にわたって書き継いだ『エセー』には、類書と呼びうるものがありません。文学書なのか、思想書なのか、それとも、まさしく『エセー』を語源とするエッセーなのか。どのカテゴリーにも収まらないということです。文学作品を読む、あるいは哲学・思想の著述として読む等々のつもりでは汲み尽くしがたいものを湛える一方で、一貫性に乏しい————ように見える————その内容じゃ、素手で立ち向かう読者を煙に巻くかのごとく。しかも原著で千三百ページを上回る大著です。
(・・・)
執筆開始から相当の年月を経て、モンテーニュはみずからの意図を、あらためてつぎのような言葉で宣言しています。彼の執筆精神を宣言する文字どおりのマニフェストであり、『エセー』の支点の役目を担うこといのある言葉です。
(C)私は、人々に向けて自分というものの全存在を示す、つまり文法家や、詩人や、法律家などとしてではなく。ミシェル・ド・モンテーニュとして示す、最初の人間である。(第三巻第二章「後悔について」)
『エセー』の執筆に手を染めた当初から、「自分というものの全存在」を示すことを心に決めた「私」がいたわけではありません。示すに値する唯一無二の対照として「私」が「自分」を見いだすまでに、困惑と焦りに支配された数年間をモンテーニュはすごしています。しかも、ようやく定まったはずの意図には、意図して招いたわけではないアポリアが、すなわち解き明かそうとすればするほど逆に深まってゆくひとつの謎が埋め込まれていました。そのことを察知したモンテーニュは謎をそれでも解消するべく、さきの見えない「試み」に乗り出します。そうしてさまよいつづける彼を、あるとき、まったく予期していなかったひとつの危機が見舞います。
意図の形成を果てアポリアと遭遇し、その不可解さに翻弄されつづけるさなか、危機の瞬間が訪れる。著者自身が歩んだこのような階梯の軌跡が『エセー』には埋め込まれています。『エセー』の生成過程にそくしてこの軌跡を掘り起こせば、古代から近世にいたる西欧精神の歴史全体を書き割りとする大きな物語が立ち上がってくるでしょう。主人公はもちろんモンテーニュ。正確にいえば、意図せぬままに駆動する意志のはたらきを感知しながら思索と言葉を紡ぐ。彼の〈魂〉です。
人には、ときとして、意図せざる意志のはたらきに導かれ、自分が意図していたよりもはるかに遠くまでゆくことがある。モンテーニュはまさしくそういう人でした。みずからの内なる〈魂〉の声を聴かないでいるふりのできない人でした。そのような著者の手になる著作を読むためには、読む側も、著者が歩んだ経験の階梯を、その最初から最後まで歩みなおさなければなりません・そのようにしてモンテーニュが到達した最前線に立ったとき、彼自身が赴くことのなかったその向こう側に新たな精神風景を見る可能性が、そうして十六世紀に描かれたひとつの〈魂〉の物語を新たなしかたで再開する可能性が、拓けてくるでしょう。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「第II部 「自分」・「私」・〈魂〉/第6章 だれが?――〈魂〉が」より)
「モンテーニュが学問や学識を批判するのは。観念のヴェールによってあるがままの現実を覆い隠す機能が学問や学識にはそなわっているためでした。あるいは、同じことになりますが、生きた思索のいとなみを特定の「型」つまり主義=イズムの枠組みにはめ込んで、窒息させる効果を発揮しかねないためでした。「型」にはめ込むというのは、本来は個々別々の事実を「一般的な事実」としてカテゴリー化することです。カテゴリー化され、一般化されてしまえば、「私が、ミシェルであるという事実」は消失してしまう。世界にただひとつしかないこの事実を見失わないためには、あらゆるカテゴリーを拒む必要がある。およそ一般化されたものも、一般化することも、拒みつづける必要がある。およそ一般化されたものも、一般化することも、拒むつづける必要がある・モンテーニュはかたくななまでにそう考えます。」
*****
「「私」は「自分」というものを「知り・導き・示す」のだというモンテーニュの意図。(・・・)この意図は、人が生きてゆくなかで無数に抱く意図のひとつ、実現されて、あるいは実現されないまま、いずれにしても過ぎ去ってゆく意図のひとつではありません。「(B)われわれがになっている第一の責務は、各人がみずからを導くことである。(C)われわれは、そのためにこそ、この世に生きているのだから」。そして「(B)そのためには、自分に本当に関係のあるもの、自分の本当にもっているもの、そして自分の実質に属するものを、知らなければならない」。彼の意図は、思索のいとなみそのものの核をなす意図であり。自分は何者としてこの世に生きているのかという自己了解に直結している意図でした。それだけに、意図の意味するところを摑むことがぜひとも必要であり、にもかかわらず、その意味はモンテーニュのもとから逃げ去ってゆく・・・・・・。
追えば追うほど正体がわからなくなってゆくこの意味は、後世、生きることの意味と呼ばれることになるでしょう。(・・・)時代の流れのなかで求めはじめられていた生きることの意味というものを、ひとつの問題として明確に提示した「最初の人間」が、ほかならぬモンテーニュでした。
意外に思われるかもしれませんが。ラテン語にも、十六世紀から十七世紀の各国語にも、「生きることの意味」に直接対応する表現はありません。近世はおろか、《sens de la vie》(仏)、《meaning of life》(英)、《Sinn des Lebens》(独)といった成句が広く認知されるようになるのは、おそらく二十世紀に入って以降です。とはいえ、表現の成立と一般化はしばしば、表現されることがらの現出に短くても数十年、長ければ数百年、遅れます。目下の場合、三百年以上の遅れです。ことがらが現実に動き始めた近世黎明期、人々は、新旧のキリスト教、古代の知恵に依存する自分主義、あるいは富の蓄積と立身出世、各人が置かれた状況のなかで与えられうるなにかを与えられるがままに「そのためにこそ、この世に生きている」のそれとして信じ、その信に安んじていることができました。それによって、生きることの意味が問題として露わになる事態に直面しないでいることができました。
ところが、モンテーニュには、彼らのように安んじていることがどうしてもできなかった。自分の希求が「自分の外へ」さまよいでてゆくことが許せなかった。自分が何者であり、何を求めているのかは。あくまでもみずから見さだめる。そのために、現実社会の価値基準であれ、学問世界の教説や概念であれ、自分のなかから生まれたのではないもの、「ミシェル・ド・モンテーニュ」の単独性を損なう一般的なものはこtごとく退ける。こうして、無数の希求が時代の空気のなかを四散する渦中、ひとりモンテーニュの希求だけが、彼みずからへと向かいます。行くさきを知らない希求の群れが、モンテーニュの内部で、世界にただひとつのみずからへとチューニングされることになったといってもよいでしょう。そうして希求の焦点がひとつに絞り込まれたとき、意図することの意味は、そして生きることの意味も、自己充足を禁じられた終わりなき問題であることが明らかになる。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「第III部 〈魂〉の軌跡/第7章 もうひとつの背景」より)
「人は神学者として、あるいは哲学者として、自己知を語るようになってゆく。精神史の趨勢となったこの傾向そのものに抗い、自己知から「何者かとして」という条件を撤廃し、あるがままの自己をあるがままに知ろうとした、そうでなければ自己知ではないと考えたのが、ソクラテスから二千年後のモンテーニュでした。」
「なにを考え、知るのであれ、人は何者かとして考え、知ろうとします。だから自分を知るということに関しても、何者かとしての自分を知ろうとすることになります。現実世界に生きる人間は望むの否とにかかわらず何者かとして生きるのであり、この基本的な条件が、人それぞれが知り、考える方向性を規定します。不可避とも見えるこの条件を、しかしモンテーニュは全力で破棄しようと試みます・何者かとしてというのは、たとえば神学者や哲学者として、あるいは「文法家や、詩人や、法律家などとして」ということです。何者かとして生きるというのは、その何者かを何者かとして同定する一般規定を背負って生きることであり、ところがモンテーニュにとっては、それこそがなによりも受け入れがたいことでした。およそ一般規定は、私という全一なる存在のあるがままを、ありのままを、損なうものだからです。「私は、あるがままに自分を歩ませる」。
モンテーニュについては、穏健で、中道的で、上記から外れないといった人間像がしばしば語られます。なるほど政治の裏舞台を奔走する彼には、たしかにそういえる側面がありました。それは、敵対する国王双方の侍従武官として、要衝ボルドーの市長として、家族と領民の命を預かる家長として、政治と自然の災厄を生き延びるために、そうあらざるをえなかったからです。しかし、忸怩たる沈黙を頻繁に強いられる現実世界をあとにして精神の探求に乗り出したモンテーニュ、思索する人としての彼は、まったくちがいます。一般に、人がその人自身を理解し、了解しようとするさいに、いっさいの一般規定を拒むことなどまずありません。家族や社会のなかで自分が果たすべきだと考える役割であれ、人生のなかで実現したいと願う目標であれ、どこかに一般的な性格を帯びたものに「自分」を託し、その「自分」がすなわち「私」であると、考えるまでもなく考えます。このさい、思想家や哲学者あるかどうかは関係ありません。モンテーニュにいわせれば、かえって思想家や哲学者たちのほうこそ、概念化による一般的類型化に依存することのもっともはなはだしい人々であり、狡猾な抽象化にもっとも長けた人種だということになるでしょう。
何者かとして生き、そして考える。この場合、考えるというのは、当の何者かが帰属する領域で用いられる思考の枠組みに依拠して考えることを意味します。(・・・)そのような枠組みこそ、しかしモンテーニュにとっては強行にでも突破をはかるべき対象でした。理由は単純明快で、宗教のであれ、哲学のであれ、すでにある思考の枠組みを、モンテーニュの言葉でいえば「型」を作り出したのが彼自身ではないからです。他人の手になる思考の枠組みに従っているかぎり、いくた自己知といってもしょせんは似非自己知、実質的には空語にしかならないという確信が、彼に強行突破を指示します。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「第III部 〈魂〉の軌跡/第8章 ソクラテスへの視線」より)
「モンテーニュのまさしく「全存在」を根底から揺るがす、裸形のあるまがままに対する羨望。その発出源となり、あるいは羨望の本体をなしているのが、(・・・)何者でもない者であろうとする意志の働きです。かりに、言葉をもたないこの意志に言葉を操ることができたなら、「私」に対してこう告げるでしょう。————おまえの意図は中途半端だった。思索が技巧に陥っていないかどうか。観念性と思弁性を帯びていないかどうか、そんなことが最終的な問題なのではない。こうした線引きはどのみち相対的であり、事実、思索にもとづく「全存在」としてのあるがままといったところで、おまえはまさしくその思索によって、「素朴は愚昧の近親であり」うんぬんと、現実の人間を思弁的にカテゴリー化しているではないか。わたしは、そのような自家撞着そのものを廃棄するところまで、つまり、おまえ自身の拠り所である意図と理性そのものを断念するところまで、向かおうとしているのだ。みずからのすべてを賭してきたものの限界に直面したそのとき、人は、端的に、〈何者でもない者〉と化す。わたしは、おまえ自身を。おまえの意図を徹底すれば最終的に行き着くはずの〈何者でもない者〉にしようとしているのだよ。
みずからの根拠としている意図を断念し、理性を放棄し、それによって、おまえ自身が〈何者でもない者〉となれ。モンテーニュにとっては、しかし、無理な注文です。何者でもない者であろうとする意志がもたらしアポリアのアポリアたるゆえんは。まちがいなくみずからの内部にはたらいている意志であるにもかかわらず、モンテーニュには、その意志が志向する対象を是認することができず、さりとて、否定もまたできない、という点にあったのです。」
「裸形のあるがままへの羨望が、何者でもない者であろうとする意志と実質にひとつであり、したがって、羨望を消すことはできない。しかし承認するわけにもゆかない。すなわち、みずからの内なる抗争=アンビヴァレンツをみずから終わらせる方途がモンテーニュにはもはやない、よいうことです。じっさい、抗争は(・・・)古来の一対である「自然」と「理性」の関係に転移してつづきます。」
「裸形のあるがままに対する羨望と自己了解の可能性をめぐって〈魂〉の内部に生じた抗争は、最終的に、どこへ向かうのか。状況を打開するために、モンテーニュがみずからの言葉によって打てる策はすでに尽きています。十六世紀という時代の条件を引き受けた彼には、ソクラテスとの系譜も役に立ちません。それでもなお、『エセー』に遺された〈魂〉の軌跡は途絶えない。途絶えないのだとすれば、その軌跡はどこへ向かうのか。
「百姓(paysans)」、「俗衆(vulgaire)」、「民衆(peuple)」、「下層の者たち(gens de basse condition)」などと呼ばれる人々————人間の徳の最下位類型として無知無学を体現するとみなされていた人々————が、ここからさきの立会人となるでしょう。」
(大西克智『『エセー』読解入門』〜「第III部 〈魂〉の軌跡/終 章 百姓のかたわらで」より)
「後期の『エセー』には、「民衆」や「百姓」について肯定的に語る言葉があちこちに残されています。しかし、肯定されているのは、現実に生き、そして死んでゆく人間としての彼らではありません。あくまでも、裸形のあるがままを象徴する記号的存在として、肯定されているのです。一連の肯定的発言は、裸形のあるがままに対する羨望の産物にほかならず。抑えなくてはならない羨望に対する警戒心がふと緩んだおりに生まれたものでした。」
*****
「モンテーニュは、生きることの意味は生きることそれ自体にあるというひとつの真実に、思索を収斂させて終えることができない人でした。なぜかといえば、「生をみずから統御し、みずらか導き、生にみずから耐える」その「みずから」を知ることが、彼にはどうしても必要だったからです。最後は、自己知。これこそが、彼にとっては絶対に譲れないロジックの最終的にして必然的な帰結だったからです。このロジックに従って、第三巻第一〇章の右の言葉(「生にとっては生それ自体が目指すべきものである。」「あなたは生きたではないか。それこそがあなたにとっては根本の、そしてもっとも輝かしい仕事ではないか。」)は、「そのためには、自分に本当に関係のあるもの、自分が本当にもっているもの、そして自分の実質に属するものを。知らなければならない」と。つづく必要がある。たとえ、自己知の自己をあるがままの自己に絞り込もうとするかぎり、その自己を経めぐる知の探求は迷宮の奥深くへ引き込まれてゆかざるをえなくなるとしても。並行して、生きることの意味もまた。確定解への固着を精神に許さない問題として残りつづけるのだとしても。
〈魂〉に語らせてみます。————たとえ、「生にとっては生それ自体が目指すべきものである」のだとしても。その生を生きる「私」自身が何者であるのかを摑まないうちは、この世に生きることの意味を最終的に摑んだことにはならない。だから、たとえ真実は最前線の向こう側にいた「あの人たち」のもとにあるのだとしても、わたし————〈魂〉————は、「私」を、『エセー』の思索空間に帰還させなければならない。たとえ、そこが、われわれ————「私」と〈魂〉————の根拠である意図そのものを断念せよというアポリアによって、出口を封じられた空間であるとしても。すなわち、生きることの意味を最終的に自得する可能性は断念せざるをえなくなるのだとしても。」
○大西克智『『エセー』読解入門』目次
はじめに————四百年の時が流れて
プロローグ
第I部 若すぎた世紀
第1章 宗教戦争
第2章 十六世紀ルネサンス
第3章 モンテーニュのほうへ
モンテーニュ略年譜
第II部 「自分」・「私」・〈魂〉
第4章 執筆開始
第5章 マニフェスト
第6章 だれが?――〈魂〉が
第III部 〈魂〉の軌跡
第7章 もうひとつの背景
第8章 ソクラテスへの視線
終 章 百姓のかたわらで
あとがき
人名・著作名索引
□大西 克智
1970年生まれ。東京大学大学院博士課程を経て、パリ第1大学で博士号(哲学)取得。現在、九州大学人文科学研究院教授。専門は、西洋哲学・倫理学。
著書に『意志と自由』(知泉書館)、『西洋哲学史III』(共著、講談社選書メチエ)、『世界哲学史5』(共著、ちくま新書)ほか。