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『記憶の図書館/ボルヘス対話集成』/対談=垂野創一郎・西野憲「〈人間〉ボルヘスの声を聴く」

☆mediopos-2550  2021.11.9

ボルヘスの対話集成が刊行されたのを記念して
訳者の垂野創一郎と
作家の西野憲が「週刊読書人」で対談している

「たくさん本を読んで、迷宮世界を作った人」
というイメージとは異なって
ボルヘスはずいぶんユーモアにも長けた
人間味あふれる方のようだ

この対談でも紹介されているが
たとえばボルヘスはこんな冗談を言っている
「八五歳になるというのは危険なことです。
いつなんどき八六歳になってもおかしくありません」
ぼくも同様だが西崎氏も言っているように
「一生かかっても、ぼくには思いつかない冗談」だ

ボルヘスのような博覧強記というのは
それそのものは魅力的ではないが
それを超えたところで
はじめて可能になる人間性や知恵こそが
わたしたちへの得がたい宝物にもなってくれる

ボルヘスをはじめて読んだのは
西崎氏と同じく一九七八年刊行の
集英社版世界の文学のボルヘスの巻で
最初はずいぶん読むのに苦労した記憶があるが
その後年を経るごとに少しずつ
その世界に魅せられるようになり
いまでは一連のボルヘスが
座右の書の一角を占めるようにさえなっている
そしていつ読み返しても古びることなく新しい

さて今回の対談から
二つほどテーマを引用してみた

まずボルヘスと永遠
ボルヘスは仏教思想に惹かれ
無と永遠を志向していた

ここで紹介されている短編「神の書跡」にも
永遠を得るための我の否定による
個の喪失が描かれている
垂野氏のことばでいえば
「個を失うことで、永遠と繋がることができる」
というのがボルヘスが永遠との関係で辿り着いた
答えの一つだったのでないか・・・

また詩について
ボルヘスは詩の独創性を
重んじてはいなかったという
興味深いのは澁澤龍彦とくらべているとこだ
澁澤も「詩は書くものではなく、
持ってくるもの」だといっていたように

これはとても興味深い視点でもあって
個人的にいっても
むしろ言葉はほんらいすべて詩であって
あえて詩を独創的だという必要はないのかもしれない
多くの言葉にはポエジーが欠如しているけれど
それはおそらく言葉の堕落でしかないように

さてさて
ボルヘスはボルヘス以外にはまずみつからない
「ボルヘスを読むということは危険なことです。
いつなんどきボルヘスもどきになっても
おかしくありません」とでもいいたくなるほど

■ホルヘ・ルイス・ボルヘス/オスバルド・フェラーリ(垂野創一郎訳)
 『記憶の図書館/ボルヘス対話集成』
 (国書刊行会 2021/9)
■対談=垂野創一郎・西野憲「〈人間〉ボルヘスの声を聴く」
 (『週刊読書人』2021年11月5日号(3414号)所収)

(対談=垂野創一郎・西野憲「〈人間〉ボルヘスの声を聴く」より)

「国書刊行会より、ホルヘ・ルイス・ボルヘス/オスバルド・フェラーリ著『記憶の図書館/ボルヘス対話集成 』(垂野創一郎訳)は上梓された。二〇世紀を代表する作家ボルヘスが、世界文学から哲学、映画、宗教など多彩なテーマを語った一一八の対話が収録されている。観光を機に、訳者の垂野さんと翻訳家・作家の西野憲さんに対談をお願いした。(編集部)」

「垂野/ボルヘスが後世に与えた影響は、表面的には見えない気がします。なぜなら彼の個性は、無と永遠を志向しているからです。ボルヘスは、仏教思想に惹かれていました。永遠との関係を、彼がずっと考えていたからでしょう。「我」を否定する仏教思想は、別の見方をするならば、個性を消失させることに繋がります。個の喪失に関するボルヘスの考え方は、短編「神の書跡」に反映されています。地下牢に閉じ込めれらた神官が、アステカの神がジャガーの文様に遺した魔法の呪文を読み解き、脱出を図る。呪文を唱えれば、全能となって牢を抜け出ることができます。しかし、呪文を読み解いた神官は全能になってしまったがゆえに、地下牢からの脱出も、自分のことさえどうでもよくなってしまう。
 永遠との関係を考えていたボルヘスが辿り着いた答えの一つは、「個を失うことで、永遠と繋がることができる」だったのではないか。私はボルヘスではないので真偽は分かりませんが、そういう風に思えて仕方がありません。
西崎/個と永遠は、ボルヘスが生涯考え続けていたテーマだったかもしれないですね。それは作品からも、この本の対話からも透けてみえます。」

「西崎/この本でも詩については何度もテーマに挙げて、フェラーリと議論しています。ボルヘスは詩の独創性をあまり重んじていません。最終的には詩をどう考えていたのか、とても気になります。そういえば澁澤龍彦も、「詩は書くものではなく、持ってくるもの」だと言っていましたね。詩の独創性に懐疑的であった二人ですが、ボルヘスは詩を書き、澁澤龍彦は書かなかった。この違いも、調べていくと面白そうです。
垂野/そうそう。「電気カミソリをコンセントにつなげば電気が流れ込むように、ポエジーはどこからでも持ってこられる」とか書いていましたね。澁澤さんは、訳詩のかたちで詩を書いたといえるかもしれません。」

「西崎/あとはこの時代において博覧強記とはどういうことなのか、その意味は考えたいですね。でたらめが多いけれど、ウィキペディアのように、ネットにはたくさんの知識が並べられている。そんな現代で、ボルヘスのように膨大な知識を保有することは、何を意味するのでしょう。
垂野/「この時代に博識というのは、一つのファンタジーである」。誰が言っていたのか、忘れてしまいましたが、納得してしまう部分はあります。ファンタジーになりつつある〈博識〉の、代表者のようなボルヘスですが、彼は知識を詰め込もうとしたというより、自然に記憶してしまったのだと思います。これこそが、ボルヘス特有の博覧強記性です。読書家のそのまた飢えをいくボルヘスですから、広範囲どころか片っ端から、驚くべき量の本を読んでいた。そして、覚えるべきところは、当たり前のように覚えてしまった。興味深いのは、必ずしも原典のまま覚えているわけではなく、重要な「表現」として覚えているところです。ネットであれば、検索して探さなければ情報としてでてこないので、ボルヘスのような覚え方はできないと思います。彼の知識の収集方法は、まさに「バベルの図書館」を探検していくようなものだったのでしょう。上限に無限に続く六角形の部屋に置かれた書棚を、一つずつ手にとって読む。そんなボルヘスの姿は、容易に想像できます。」

「垂野/作品が難解なので、本人に対しても気むずかしそうな印象を抱くかもしれません。でも、そんなことはまったくありません。「たくさん本を読んで、迷宮世界を作った人」という世間一般のイメージに、ボルヘス自身が抵抗しているところがあります。この本に収録された対話からは、生身の、人間味あるボルヘスが立ち上がってくる。ボルヘスの作品に挫折してしまった人も中にはいるかもしれませんが、ぜひ、本書で〈人間ボルヘス〉を知ってほしい。そしてもう一度、彼の世界に挑んでほしいと思います。」

「西崎/何よりも先に逝っていきたいのは、ボルヘスの冗談の切れ味の鋭さですね。言うまでもなく、ボルヘスが想像もできないほど、膨大な知識を備えている。同時に、人間として非常に面白い人だったということを再確認しました。たとえばこんな冗談を言っていますね。「八五歳になるというのは危険なことです。いつなんどき八六歳になってもおかしくありません」。一生かかっても、ぼくには思いつかない冗談です(笑)。一〇回人生をやり直しても、ボルヘスにはたどり着けない気がします。
垂野/思わず笑ってしまうシーンが、数頁に一回は出てきますよね。対話が放送されるのを知りながら、「ここだけの話ですが」と秘密めかした話をするとか。笑わずにはいられませんでした。」

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