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四方田犬彦「零落の賦 第二回 神々の流竄」(文學界/脇坂真弥『人間の生のありえなさ』/沖田瑞穂『すごい神話』/シモーヌ・ヴェイユ『科学について』

☆mediopos3278  2023.11.8

神々は次々と流竄し
人間界に降臨するが
今度は神々に成り代わった
人間たちが地上で零落することになるのか

かつてある意味で人間たちは
神々に与えられた知恵とともに生きてきたが
現代では「科学」が
神または神々の代わりに信仰を集め

「神秘」や「叡智」へと通じていた世界を
「確率的なものと見なし」
「有用であれば後はどうでもよい」という形で
その扉を閉める態度をとるようになっている

科学のほんらいはそうではないはずだが
技術や政治と強固に結びついた現代の科学は
表面上は「主観」を排し
「客観的」な観点に立つものの
実際的にはその技術を利用する者の求める
目的を遂行するための観点に立っている
そのため「科学論文」などもその観点から審査され
目的に反するものは排されることになる

科学だけでなく
いうまでもなく政治も
ある目的のためには手段は問われない

流竄した神々に成り代わり
地上を支配しようとする人間は
さまざまな詭弁を弄しながら
環境の破壊や戦争なども積極的に活用する

さて世界の神話を見てみると
たとえばかつて神々は
人口過剰を解消するために
洪水や戦争を起こしたという

ある意味で現代は
人口過剰や環境破壊などの問題を
その神話の神々に成り代わった気でいる
人類の一部がなにがしかの理由で
実行しようとしているのかもしれない
そしておそらくは彼らも
零落していくことは避けられないだろう

まさに現在進行中の
メディア統制による洗脳も行いながらの
積極的な人口削減策や
戦争によるジェノサイドなども
みずからを神々のような存在だと
みなしている者たちによるものだろうが

もし彼らが存在していないだろう場合にも
環境破壊や人口過剰の問題は
別の仕方で解決されていく必要がある

少なくとも人類そのもののある一定数が
ある種の叡智を得
ほんらいの科学による技術を行使しながら
果敢に取り組んではじめて
解決へと向かい得る問題である

■四方田犬彦「零落の賦 第二回 神々の流竄」(文學界 2023年11月号)
■脇坂真弥『人間の生のありえなさ』(青土社 2021.4)
■沖田瑞穂『すごい神話』(新潮選書 2022/3)
■シモーヌ・ヴェイユ(福居純・中田光雄訳)『科学について』(みすず書房 1998)

(四方田犬彦「零落の賦 第二回 神々の流竄」より)

「本稿では十九世紀のニーチェに始まり、ハイネ、ハウプトマンといった神々の零落の系譜を辿り、その物語が日本に飛び火して、柳田国男以降の幻想的想像力のあり方にどのような範例を示してきたかを追ってみた。神の死とは数なす神々の受難に他ならない。彼らは西洋社会において周縁へと排除され、長きにわたって教義的な寓意表象として生き延びてきた。また、極北の漁師やグロテスクな深山の精霊に身を窶しつつ、一神教の抑圧的支配に対し、つねに「まつろわぬ者」としてみずからを主張してきた。近代日本で民俗学を提唱するにあたって柳田国男が借り受けたのが、そうした神々の流竄の物語であった。今日の民俗学は柳田説を謬見として批判する傾向にある。とはいえ、妖怪こそは零落した神々の裔であるとするその立場は、特異な漫画家水木しげるによって継承され、今日の日本の漫画・アニメを代表する作品のひとつと化している。
 以上が神々の落ちぶれ方である。では彼らの流落をかたわらで見つめてきた人間たちはどうだったのか。」

(脇坂真弥『人間の生のありえなさ』〜「第四章 私はなぜこの私なのか 第一節 神秘の喪失 シモーヌ・ヴェイユの科学論 5 現代科学批判————神秘の喪失」より)

「ヴェイユの現代科学批判は、「科学とは何か」をめぐる彼女の洞察と密接に関わっていた。科学とは無限の誤差(世界そのもの)と引き換えに数学を世界に適用し、その「無償の報酬」として「実在との接触」を手に入れること、手放したはずの世界をなぜか「いわばおまけで」与えられるという神秘である。しかし、この神秘を持ち堪えることはむずかしく、古典科学がむしろ自分の中からこの神秘や対立するものの相関を消そうと試みる。ヴェイユの古典科学に対するアンビバレンツな評価は、古典科学の中に真理を支える神秘や矛盾がなお残存し、しかし同時にほぼ消えかけている————〈二重の無視〉はそれを示している————という複雑な状況に由来している。
 このように、彼女にとって古典科学は「真理」となお結びついてはいるが、その結びつきはきわめて部分的で、自分の中にある暗さに目を瞑った奥行きのないものでしかなかった。一方、古典科学にかろうじて潜在するこの暗さから生まれたはずの現代科学は、神秘に通じる閉じかけた扉を再び開くどころか、ヴェイユが必然的とみなす世界を確率的なものと見なして逆に扉を閉めてしまう。彼女の激しい批判は、神秘や矛盾を持ち堪えるのではなく、それらに直面して混乱するのでもなく、もはや気にしない(有用であれば後はどうでもよい)という形でみずから扉を閉める現代科学の確信犯的な態度に向けられるのである。」

「ヴェイユによれば、現代科学はそのような危機的状況にある。しかし、あえてもう一度問うならば、有限性を忘れることの何が問題なのだろうか。ヴェイユが神秘の次元と考えるものが失われ、世界が奥行きを失って平坦になることの、いったい何が悪いのだろう。ヴェイユは端的に「人間はそれを失っては生きていけなくなる」と言うが、それはなぜなのだろうか。人間はこのとき何に行き詰まるというのか。」

(沖田瑞穂『すごい神話』〜「第一章 神話で世界を旅する 9 人口過剰は洪水で解決する————インドネシアの「洪水」伝説」より)

「現代日本は少子高齢化が進み、多方面に課題が噴出しているが、どうやら神話では、「人口」についてまったく別の心配をしていたようだ。インドネシアのスラウェシ島の神話を見てみよう。」

「世界の各地で、人口過剰が実際に問題となった時期があったのだろう。人類は少子高齢化のように減少していくのも問題であるが、増加に関してもまた生死に関わる重大問題であったのだ。」

(沖田瑞穂『すごい神話』〜「第一章 神話で世界を旅する 10 「ノアの箱舟」は二次創作?————『ギルガメッシュ叙事詩』の「洪水」神話」より)

「洪水神話は世界中にあるが、メソポタミアからギリシア、インドにかけて分布している洪水神話は起原が同じで、メソポタミアの『ギルガメッシュ叙事詩』がもとになっている。」

「この話の基本的な筋は、神が人類を滅ぼす目的で洪水を起こすこと、その洪水によって旧い世界が滅び、助かった一つの家族から新たな人類が生まれるということだ。」

「これらの洪水神話は。メソポタミア系のものも、中国のものも、全て「世界をいったんリセットし、新たな世界を創り出す」という構造をもっている。旧い世界は多くの場合神の怒りで洪水による滅ぼされる。しかし一人か一組が生き残り、新たな世界が始まるのだ。」

(沖田瑞穂『すごい神話』〜「第一章 神話で世界を旅する 11 人口過剰は戦争で調整することも————インド神話「大地の重荷」」より)

「9、10講で紹介したように、神話では増えすぎた人類を洪水でいったん滅ぼしてやり直す、という話があるが、別の話では、増えすぎた人類を戦争で減らす、というものもある。インドの叙事詩『マハーバーラタ』の主題である大戦争がまさにそれだ。」

「大地の重み、すなわち増えすぎた人類は、戦争によっても滅ぼされるというのだ。つくづく、人口の調整は人類の最重要課題であるのか。」

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