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田島樹里奈「多様な「生(life)」と未来の倫理——〈多様性〉のパラドックス」(『未来哲学別冊 哲学の未来/未知なる哲学』
☆mediopos3750(2025.2.24.)
前回のmediopos3749(2025.2.23.)でとりあげた
『個性幻想』における「個性の尊重」である
「多様性」の問題について考えるにあたり
『未来哲学別冊』に掲載されている
田島樹里奈「多様な「生(life)」と未来の倫理
————〈多様性〉のパラドックス」をとりあげる
本論の紹介に移る前に
本論を読みながら合点のいった重要ポイント
なぜ今強引なまでに「多様性」が
啓蒙されようとしているのかについて
本論の趣旨からは少しばかり離れるが
あらかじめふれておきたい
本論でもふれられているが
日本において多様性(ダイバーシティ)についての
議論がはじまったのは
「日経連ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会」
(二〇〇一)である
これは人権における多様性のためのものではなく
「『攻めの戦略』」として活用すること
(ダイバーシティ・マネジメント)を促進するために
行われたもの」であり
経営戦略としての多様性の推進である
そしてこれは中央省庁再編がなされた際
財務省が設立された二〇〇一年と軌を一にしている
(財務省については先日亡くなった森永卓郎が
『ザイム真理教』でその闇が開陳されている
アメリカでいえばUSAIDである)
そして人権に関する倫理ではなく
経営戦略としての〈多様性〉から
あるいはむしろ隠された人権問題を糊塗するために
とくに「性の〈多様性〉」に関し
「二〇二〇年前後を境にこれまでにない頻度で
テレビや新聞などのマスメディアにおいて
語られるように」なり
SDGsでは目標達成の年限としても
「2030アジェンダ」が掲げられている
「『誰一人取り残さない』
持続可能で多様性と包摂性のある社会」というのも
今から一〇年前に国連サミットで
採択されたフレーズである
表面的には異議を表明しがたい
キレイゴトを絵に描いたようなこうした表現こそ
その「裏」を見ておく必要があるという典型だろう
さて本論についてだが
著者がここで目的としているのは
「近年の日本社会で積極的に推進される
〈多様性〉の認識が広まれば広まるほど、
「生(life)」に関する「倫理」が
語りづらくなっている(ように感じる)のは
なぜかという問いを考察すること」である
著者は「この何とも言えない奇妙な違和感を
大学の教育現場で感じている」という
「単純に考えれば、
多様性を認め合うという考えが
社会全体に浸透することは
倫理学的な観点からも望ましいことであり、
教育現場においても積極的に語ることのできる
テーマのはず」なのにである
〈多様性〉が強引なまでに浸透されてきている今
わたしたちがそれをどのように捉え
未来へと「倫理」を繋いで行けば良いのか
檜垣良成は
「『多様性』を叫ぶことの問題」について
「価値観は人それぞれ」といいながら
「空気を読み、それに合わせていくことが
「何より大事」な現代社会の行き着く先は、
「広い意味での権威主義」」であり
「現代の空気社会の一番の問題点は、
流動的であるという点」であると示唆しているが
著者はそのことを受けながら
「「流動的である」こと以上に、
その流動的な社会の中で流されたままになり、
自分にとって都合よく解釈しながら、
それも〈多様性〉だと主張してしまう思考こそ
本当に問題であると考える」
そして「無意識的にであれ〈多様性〉は
リスクマネジメントで捉えられ、
既存の言葉の意義や定義の重みが
希薄化する危険性も否定できない」という
倫理学は「個人の自由を尊重しながら
社会的な平等をどのように確保することができるのか」
という問いとともにあるが
「「倫理」の語源エートスには
「慣習」や「習俗」などの意味があるように、
人々の倫理感は社会の潮流とも密接な関係がある」
「ダイバーシティ・マネジメント」や
「2030アジェンダ」に応じるかたちで
行政や教育などにおいて
強引なまでに推進される「多様性」
「区別」と「差別」が混同されたまま
「公的施設などにおいては、
区別していたことで守られていたものが
危険に晒される可能性」さえあるように
それはほんらいの意味での「倫理」感からは
乖離したところで
さまざまな混乱をもたらすことにもなる
まずは著者も感じているという
「奇妙な違和感」としての
「〈多様性〉のパラドックス」がどこからくるのか
またそれを超えて「より良い「生(life)」を
送るためにはなにが必要なのかについて
時代とともに問いつづける必要があるだろう
■田島樹里奈「多様な「生(life)」と未来の倫理
————〈多様性〉のパラドックス」
(『未来哲学別冊 哲学の未来/未知なる哲学』
未来哲学研究所 2024/9)
・はじめに————〈多様性〉社会で倫理を語ることの違和感
「本稿の目的は、近年の日本社会で積極的に推進される〈多様性〉の認識が広まれば広まるほど、「生(life)」に関する「倫理」が語りづらくなっている(ように感じる)のはなぜかという問いを考察することである。ここではこの違和感を「〈多様性〉のパラドックス」と呼ぶことにする。なお本稿では、日本政府が国民の意識改革のために推進している〈多様性〉概念の場合には、山カッコを付して表記する。」
「ここ数年、筆者はこの何とも言えない奇妙な違和感を大学の教育現場で感じている。それが「奇妙な違和感」である理由は、本来〈多様性〉を推進することは、字義的にはすべての人々の「自由」や「人権」、「平等」の確保、並びに「幸福追求」の実現を目指すものであり、長いあいだ倫理学の主題として論じられてきた問題だからである。つまり単純に考えれば、多様性を認め合うという考えが社会全体に浸透することは倫理学的な観点からも望ましいことであり、教育現場においても積極的に語ることのできるテーマのはずである。しかしここ数年、学生を前に倫理学(特に生命倫理)の授業で「性」や「生」を語ろうとすると、どうにも言葉を選びすぎてしまう表現に困ることがある。
それは学生たちの言葉に対する感覚や反応が変化したことも理由の一つとして考えられる。例えば数年前、生命倫理の授業で体外受精など生殖補助医療の説明を行ったさいに。ある学生から「子宮があるからと言ってその人を女性と呼ぶのはやめた方が良いと思う」(二〇一九年)というコメントをもらったことがあった。もちろん学生の言いたいことは理解できる。当時はちょうど日本でもLGBTQ+など性に関する概念が話題になり、人々がジェンダーの話題に対して敏感になり始めた頃であった。しかし生殖医療の問題で男女の性差用語を使わずに説明することはなかなか難しい。不可能ではないにせよ、説明しようとする度に何かしらの用語に引っかかり、聞いている方も混乱することが想定される、結局は注釈を入れて便宜的に使わざるを得ないのだが、こうしたことが少しずつ出てくるようになった。当時はなんとなくモヤモヤした気持ちが残ったが、今思えばそれは「ある変化」の始まりを気づかせてくれていたのかもしれない。本稿ではその違和感を探る手がかりとして〈多様性〉概念に注目したい。」
・一 政策としての〈多様性〉
「ここ数年の日本社会においては、メディアと教育を通じてかなり強引に〈多様性〉概念を普及させようと躍起になっているように感じる。特に「性の〈多様性〉」に関しては、二〇二〇年前後を境にこれまでにない頻度でテレビや新聞などのマスメディアにおいて語られるようになり、性的少数者に関する映画やドラマが次々と放送されるようになっている。」
「ここで筆者が注目したいのは、先にあげた二〇二〇年という年が、実はSDGsで掲げられている「2030アジェンダ」の目標達成の年限まで残り一〇年であることを示している点である。誰もがどこかで耳にしたことのある「『誰一人取り残さない』持続可能で多様性と包摂性のある社会」というフレーズは、今からおよそ一〇年前に国連サミットで全会一致で採択された国際目標である。そしてこの目標の年限が二〇三〇年とされている。つまり筆者が無意識のうちに感じていた〈多様性〉を強引に推進する空気は、ちょうど目標達成の年々まで残り一〇年という時から沸き起こっていたということになる。」
「〈多様性〉概念の推進は、なんとかして国民に浸透させようと躍起になっているように見えてならない。学生からは、「多様性は、自由のため、生きやすい社会のための推し進めあっれているはずなのに、賛同しない自由を奪い、賛成しかできない不自由な社会になりつつあるところに矛盾を感じる」(二〇二四年)という声もある。このような声が出てしまうのは、一部の国民にとってはプロパガンダのように聞こえるということであり、それこそ思想の刷り込みのように感じている人々が少なからずいるということである。なぜこのようになってしまったのか。日本ではどのように多様性の概念が受容されたのだろうか。ここではアメリカとの比較で概観したい。
まず日本社会で多様性(ダイバーシティ)の議論が開始されたのは「日経連ダイバーシティ・ワーク・ルール研究会」(二〇〇一)とされており、それは四半世紀近く前に溯る。本研究会はダイバーシティと称されているものの、日本経済団体連合会という名からも想像できるように、ビジネス環境の変化に即して経営方針を転換させ、新たな経営戦略を立てることを目的として提起されたものであり。したがって、いわゆる多様性そのものに焦点を当てた立場とは異なる。別言すれば、この政策は、企業が従来の社内風土や価値観にとらわれずに経営環境を革新させ、経済成長を目指すために「ダイバーシティを『攻めの戦略』」として活用すること(ダイバーシティ・マネジメント)を促進するために行われたものである。したがって本研究会の報告書では、「ダイバーシティの本質」が「異質・多様を受け入れ、違いを認め合うこと」であると説明されているものの、人権そのものを重視するという観点から述べられているわけではない。あくまで経済成長を目的とした経営戦略であり。企業や経営者が伝統に固執せずに経営方針の意識転換をする必要があるとううメッセージになっている。それゆえこの政策自体が直接的に現在の〈多様性〉概念の普及につながったとは考えにくい。
それに対してアメリカは。1960年代に見られる公民権運動や、七〇年代のアファーマティブ・アクション(少数派優遇策)の拡充とそれに対す反発として、八〇年代に多様性の重視が社会全体を巻き込む積極的な運動として起こった。」
・三 社会の変容と言葉の多義化
「冒頭で述べた、学生とのやりとりの問題と筆者が感じる「奇妙な違和感」について、多様な生(life)ち未来の倫理という観点からあらためて考察したい。
まず基本的な前提として、生命倫理(学)や環境倫理(学)など、「倫理」の前に特定の分野が加えられて「○○倫理(学)」と呼ばれる分野は、いわゆる応用倫理学に属する。これらは当然のことながら、基礎的な「倫理(学)」が理解されていることの上に成り立っている。言い換えれば「倫理とは何か」について、ある程度共通の認識や学問的な枠組を理解しておく必要がある。そうでなければ学問としての「応用」の意味を成さず、経験的な判断や社会の風潮に左右されるような判断になりかねないし、その都合の良い解釈で空疎になりかねない。そして応用倫理学の場合には、それぞれの分野が成立した背景も知っておく必要がある。(・・・)だからこそ、本稿で論じてきた「多様性」や「ハラスメント」という言葉においても、「人権」や「自由」概念の歴史的な背景を大まかにでも理解しておくことが大切である。そのように考えて、筆者はこれまで授業を行っていた。しかし、最近ふと、いつまでそれを素朴に信じても良いのだろうかと疑問に思うことがある。
というのも、昨今の生命倫理に関する話題は、明らかに別次元の問題に食い込んできており、人間や生死など「生(life)」に関わる概念そのものの定義が脅かされているように感じるからだ。新聞の見出しには、「SNSで精子取引 急増」(読売新聞・二〇二二年)、「『男性同士で子』倫理に課題————雄マウスから卵子」(読売新聞・二〇二三)、「精子や卵子使わず『胚モデル』作製成功」(読売新聞・二〇二三)、「うちのパパは3人 助け合って愛情注ぐ」(朝日新聞・二〇二三)、「10代の妊婦 200人に1人梅毒」(朝日新聞・二〇二四)など、筆者自身どのように捉えるべきか苦慮する記事が散見される。そしてマスメディアの情報だけでなく、学生たちのコメントに対しても、なんとも表現し難い複雑な思いを抱くことが増えてきた。」
「単なるジェネレーション・ギャップと言えばそれまでのように聞こえるが、事態はそれほど単純ではないのではないか。筆者は、〈多様性〉が多義的に捉えられてしまっている社会においては、深刻な問題であると考えている。「中絶」という言葉にせよ、「ハラスメント」や「多様性」という言葉にせよ、どのように理解され解釈されているかで議論全体の意味も変わってくる。これらを考える上でヒントとなるのが、檜垣良成による「『多様性』を叫ぶことの問題」という論考である。檜垣は、学生からのコメントを多数引用しながら日本の教育を分析している。
その中に、「自由」の解釈をめぐる興味深い考察がある。檜垣は、学生のコメントの中から、今現在の世間で言われる「自由」というのは、「自分の思想が侵されることなく、ありのままの自分が認められるという意味での自由」であると述べたコメントを紹介している。檜垣の引用によると、その学生は「個人の持つ思想はその人がそう思ったというだけで反論できなくなるような空気感が支配していた」という。また価値観に問題に関して、「価値観は人それぞれ」とは言われたが、「その価値に責任を持て」と言われたことはないという報告が続出したとも述べバレている。もしもこの感覚が珍しいものではないとすると、かなり恐ろしい状況である。そしてこのことは〈多様性〉の理解とも大きく関わってくる。というのも、もしも各自の思想がそのまま認められることを自由とするならば、どれだけ自分とは異なる考えであろうと他者の自由も尊重しなければならないことになる。そして責任とは別問題として捉えられた自由を〈多様な〉価値観として捉え、それらを包摂する必要があると捉えていたらどうだろう。
一つの問題として檜垣が指摘しているのは、各々が「ありのままの」自由や価値観を主張しただけの状態では、承認欲求が満たされない点である。それが問題であるのは、他者の承認を得るためには自らの価値観を「みなに承認してもらえるものへと変容させていかなければならない」からである。とりわけSNSが生活の一部になっている世代にとっては、他者評価を意識し過ぎている傾向があるため、みずからの行動や価値観が他者評価に依存すている傾向にある。そうすると、結局のところ「主体的には空虚であり、いつもみずからが従属すべき価値を探し続けなければならない」ことになってしまう。それゆえ檜垣は、「空気を読み、それに合わせていくことが「何より大事」な現代社会の行き着く先は、「広い意味での権威主義」であると主張する。」
「〈多様性〉という概念が現在進行形で勢いよく浸透してきている今、われわれはどのように捉え、未来へと「倫理」を繋いで行けば良いのだろうか。檜垣は「現代の空気社会の一番の問題点は、流動的であるという点」であると指摘し、それゆえ「そこに示された価値を自分のものとして引き受け、責任を持って遵守してゆくことができない」と主張する。確かに檜垣の述べるように、流動的な社会は価値が定まらない。しかし筆者は「流動的である」こと以上に、その流動的な社会の中で流されたままになり、自分にとって都合よく解釈しながら、それも〈多様性〉だと主張してしまう思考こそ本当に問題であると考える、加えて、〈多様性〉という言葉を盾に自己主張を展開し、人の揚げ足を取ったり過度な非難をしたりする人が少数であれメディア空間で流出することにより、全体として言葉を発しにくい風潮ができてしまうことである。そもそも人間が多様である以上、受け入れられる考えとそうでない考えがあって当然なのではないか。誰であれ人を傷つけることがあってはならないが、だからと行ってすべてを受け入れることを強要するのも何か違うような気がしてならない。」
・おわりに————意識の変化と未来の倫理
「古来より倫理学では、「よく生きる」とはどういうことかを問い、個人の幸福と社会の幸福とをどのように両立させ、実現することが可能かを考えてきた。そこには個人の自由を尊重しながら社会的な平等をどのように確保することができるのかという大きな問題が潜んでいる。〈多様性〉への理解が強調される今日、この問いに立ち向かう術はあるのか。」
「2030アジェンダ」の年限を前に、さらなる〈多様性〉と包摂性の実現に向けた社会変革を試みようとした場合、われわれの未来はどうなるだろうか。もちろん、社会全体の意識は何らかの仕方で変わっていくだろう。しかしそれは本来政府が目指した〈多様性〉と包摂性の社会とは異なったものになるのではないか。誰にも未来のことは分からないが、これまでの議論を踏まえて考えてみると、無意識的にであれ〈多様性〉はリスクマネジメントで捉えられ、既存の言葉の意義や定義の重みが希薄化する危険性も否定できない。この問題は冒頭でも紹介した。「対象を名付けること」(「子宮があるからと言ってその人を女性と呼ぶのはやめた方が良い」という指摘に関わる)の問題でもある。つまり、今後「生(life)」の〈多様性〉を認める運動が促進された場合、たとえば男女を示す「夫婦」という語や、「世帯主」という言葉(「主」という語が主従関係を想起される)など議論の対象となる言葉が増える可能性が考えられる。もちろん、それらを気にする必要がないと言いたいのではない。あまりにも言葉(特に日本語の場合は漢字)に反応し過ぎてしまうことで、逆に言葉の差別性を積極的に探すような意識を生じさせかねないのではないかという点を危惧している。その場合、会話の内容そのものよりも、そこで使用される言葉の適切性をチェックしたり、話し手の潜在的な差別性を暴いたりすることばかりに意識を働かせるような風潮を意味だしかねない。あるいは公的施設などにおいては、区別していたことで守られていたものが危険に晒される可能性もある。区別していることと、差別を混同してしまうと、話の論点がずれてしまう。
新しい概念を作ることは、人々の思考の仕方や枠組をも変える力を持つ。それがより多くの人々の幸福を促すものであれば、大いに望ましいことであるが、今の事態はあまりにも渾沌としている。「倫理」の語源エートスには「慣習」や「習俗」などの意味があるように、人々の倫理感は社会の潮流とも密接な関係がある。
人を傷つけずに平和に暮らしことがなぜこんなにも難しいのか。言語・制度・技術など、すべてはわれわれ人間がより良い「生(life)」のために知恵を出し合い、作り上げた産物であるが、それに振り回されているのもまた人間である。筆者からすれば、自分のことすら理解するのが難しいのに、他者を理解するなど至難の業である。それでも他者への配慮と寛恕、そして感謝があれば、もう少し希望を感じる未来になるのではないか。」
○田島樹里奈
1983年 生まれ
2017年 法政大学大学院国際文化研究科 博士後期課程修了 博士(国際文化)
現 在 法政大学・法政大学大学院兼任講師/神奈川工科大学非常勤講師/日本女子大学非常勤講師