平岡聡『禅と念仏』/鈴木大拙『仏教の大意』
☆mediopos3358 2024.1.27
日本の仏教において対極に見える
「禅と念仏」という二つの行がある
平岡聡『禅と念仏』は
本家 vs. 分家
保守 vs. 革新
出家 vs. 在家
悟り vs. 救い
内向 vs. 外向
引算 vs. 足算
個人 vs. 集団
坐禅 vs. 念仏
という8つの視点から
同じ仏教でも目指す最終到達点が異なるという
二つの行を比較検証し
その両者の「自覚的双修」による
「智慧と慈悲の両面をかねそなえた、
宗教的人格の形成をめざした〝新しい念仏禅〟」
あるいは「念仏→坐禅→念仏→を繰り返す
「禅念仏」を示唆しているのだが
あえていえばこのように
「禅仏教」と「念仏仏教」を対照させた解説は
「自覚的双修」や「禅念仏」が示唆されたとしても
二つが統合されなければならない
というような誤解を生んでしまうかもしれない
両者の方向性はほんらい
「この二つがそのままに一つ」なのだから
その意味でいえば
鈴木大拙によって『仏教の大意』として起稿された
二つの講演録でわかりやすく説かれているように
「仏教という大建築を載せている二つの大支柱」としての
般若または大智を代表する禅と
大悲または大慈を代表する浄土系が
「智は悲から出るし、悲は智から出」るように
「元来は一つ物でありますが、分別知の上で話するとき
二つの物であるように分かれる」
ということが理解される必要がある
いうまでもなくこうした「分別」は
禅仏教と念仏仏教の区別以前に
感性と知性の世界
霊性の世界
という二つの世界においてなされがちで
「この世界とあの世界と、二つの世界が
対立するように考えますが、事実は一世界だけ」で
「二つと思われるのは、一つの世界の、
人間の対する現れ方」によるものである
禅では野狐禅における
不落因果と不昧因果の話がよく語られる
感性と知性の世界における「因果」のように
「自分と因果とが離れ離れになっている」
つまり「行為の外に因果があって、
それが行為の上に加わる」不落因果ではなく
霊性の世界における「因果」のように
「因果を自分の外に見ないで
自分と因果を一つのものに」するという不昧因果
が説かれているのである
禅仏教と念仏仏教が「離れ離れになっている」と
それぞれの世界における
野狐禅のようになりかねない
如何に「分別智」を離れられるか
それはいわゆる宗教者としての問いにとどまらず
すべての人間にとって不可欠な
霊性の問題として問われる必要がある
■平岡聡『禅と念仏』(角川新書 2024/1)
■鈴木大拙『仏教の大意』(角川ソフィア文庫 2017/1)
(平岡聡『禅と念仏』〜「第八章 坐禅vs.念仏————心理学的考察」より)
「禅仏教の強みは本来の仏教に近い点だ。中国的あるいは日本的に変容したとはいえ、坐禅はインド以来、悟りのための中心的な修行法であった。また仏教は基本的に現世における苦の克服を目指すので、実にわかりやすい。我々の通常の認識を超えた阿弥陀仏や極楽浄土も持ち出さず、己の心と向き合って心を整え、苦を克服する教えは、仏教徒のみならず、キリスト教徒もイスラム教徒も実践可能な普遍性を持つ。」
「一方、禅仏教の弱みは、その崇高さにある。(・・・)禅仏教は出家者のための仏教であり、エリートのための教えであるため、難易度の高い宗教となっている。もともとインドでは出家者と在家者とは厳密に区別され、基本的に出家者しか悟ることはできなかった。その伝統を継承する禅仏教であるから、万人に開かれた宗教とは言いがたい面がある。」
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「一方の念仏仏教はどうか。その強みは、何と言っても庶民性だ。法然の出現により、念仏は称名念仏が中心となり。ただ声に出して南無阿弥陀仏と称えれば極楽往生できるので、これ以上の易行はない。誰でも実践できる。法然による念仏仏教の革新性は、出家者と在家者との垣根を取り払い、念仏する者をすべて往生させ、悟りに向かわせる道を拓いた。これは大乗仏教の極致であり、禅仏教にはマネのできない特徴である。
しかし、念仏仏教の弱みは現世と来世の隔絶にある。念仏を称えれば極楽往生できるが、それは来世のことであり、現世において残された時間をどう過ごすかは積極的に説かない。」
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「この両者のそれぞれの溝を同時に埋める有効な手段を一つ考えてみよう。それが(・・・)坐禅と念仏の双修だ。(・・・)心理経験として坐禅と念仏が根本的に同一であるとするならば。それは双方の溝を埋める機能を持つ。禅仏教に関しては最近、マインドフルネスという流れがあり、それほどハードルの高い実践としては位置づけられていない。これは悟りを目指しているわけではないが、禅仏教にアクセスする〝方便〟としては有効だろう。
一方の念仏にも坐禅と同様に心理的効果があるなら、往生の方法という本来の木的ないったん脇に置き。星辰を安定させ、毎日の生活を充実させるために念仏を活用するのである。」
「藤吉[1974]は「学行一如的な禅と念仏との統一的な自覚的双修によって、智慧と慈悲の両面をかねそなえた、宗教的人格の形成をめざした〝新しい念仏禅〟」を、また恩田[1974]は念仏→坐禅→念仏→を繰り返す「禅念仏」を提唱している。」
(鈴木大拙『仏教の大意』〜「第一講 大智」より)
「普通われらの生活で気のつかぬことがあります。それはわれらの世界は一つでなくて、二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということです。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊性の世界です。これら二つの世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主義者の頭の中だけにあるものだときめているのです。しかし宗教的立場から見ますと、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。それは感性的世界のに比すべくもないのです。一般的には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうではなくて、それはわれらの頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。
(・・・)
霊性的世界を実際に把握するとき、————あるいはこういってもよい、霊性的世界が実際にこのわれらの感性的世界へ割り込んで来るとき、日常一般の経験世界が全く逆になるのです。実が非実になり、真が非真になる、橋は流れて水は流れず、花は呉れないならず、柳は緑ならずということになります。普通では、如何にも奇怪千万と思われることですが、霊性的直覚の立場から見ると、そういうことになるのです。それはこの霊性的世界が一般の感性的・知性的世界へ割り込んでくるとき、われらの今までの経験をみな否定するからです。しかし間違ってはならぬのですが、これらの経験はそれにもかかわらず、ことごとく今までの感性的分別的特性を失ってはいないということです。差別の世界は今もなお差別の世界ですが、ただ一つの相違がある。それはこの千差万別がそのままで霊性的世界の消息であるという超分別識的直覚であります。換言すればわれらはここで今まで非真実の夢幻性だと思いすてたものが、畢竟ずるに、また必ずしもそうでなかったということになるのです。無限はその後に真実なるものを持っているということに気づくのです。それは何故かというに、霊性は一方において感性的経験を否定してしまいますけれども、感性的世界はこの否定の故に、その千差万別な知性的分別を、霊性の中に、そのままに、保存して行くのです。
霊性的世界というと、多くの人々は何かそのようなものがこの世界のほかにあって、この世界とあの世界と、二つの世界が対立するように考えますが、事実は一世界だけなのです。二つと思われるのは、一つの世界の、人間の対する現れ方だといってよいのです。すなわち人間が一つを二つに見るのです。これがわからぬときに、実際二個の対立せる世界があると盲信するのです。われらの生活しているという相対的世界と、その背後にある(仮にそういっておく)のとは、つ唯一不二の全を形成するものです。」
「知性的自覚と霊性的自覚との相違は、(・・・)一方では対象的・分別的・能所的であるが、他方では即非の論理の上に立つのである。同じ鐘の音をきいてこれを鐘の音であると意識するとき、知性的でも感性的でも。対象的世界観以上に出ないのですが、霊性的面にそれが映ってくると、宇宙が直ちに一つの鐘の音となるのです。(・・・)雨は誰の上にも降る、禍は、悲は、誰の上にも襲ってくる。達人は不昧因果で、それに徹底する、しかしてその徹底の事実を霊性的に自覚し得るのである。これが不昧因果の不落因果である。彼は宇宙を通じて現れる神意の認覚者となったのです。」
「大修行底のひとすなわち悟った人は因果の運行に随順してその身を任せます。因果を自分の外に見ないで自分と因果を一つのものにします。因果を昧まさずというのはこの義です。野狐の老人の場合では、因果を外において、その中に自分が這入るか這入らぬかということを気にしているのです。自分と因果とが離れ離れになっているので、その間に落不落の問題が出てきます。人間は道徳的行為の主体であるが、それと同時に因果の法則のそのものでもあるのです。行為の外に因果があって、それが行為の上に加わるのではない。それ故、人間として生活している限り、業は人間につきものである。修行の有無、悟道の如何などによって、因果が外に離れるべき性質のものではないのです。因果は元来不落も不昧もないのです。因果は知性面の事象である、霊性的自覚の上では因果はないのであるから、老人の野狐禅のように二元的観察をやってはいけないのです。」
(鈴木大拙『仏教の大意』〜「第二講 大悲」より)
「仏教という大建築を載せている二つの大支柱がある、一を般若または大智といい、今一を大悲または大慈といいます。智は悲から出るし、悲は智から出ます。元来は一つ物でありますが、分別知の上で話するとき二つの物であるように分かれるのです。智即非、悲即智の体は単なる幾何学的な点でもなく、また数学上の一でもありません。これを人格性といってよいと思います。大智大悲は生きたものです。特に大悲というときは生きた人格を考えなければならぬ。しかしこれは分別智上でいう人格ではないことはいうまでもない。霊性的自覚の上に現れるものであるから、これを神格と見てもよい。いずれにしても誤解を生じ易いので用心が必要です。即非の論理を生きているもの、これを絶対の一者としておきます。この一者の上に無分別の分別、分別の無分別があるのです。これを「不可思議体(アチンチヤ・カーヤ)」(または不可思議身)といいます。この身(カーヤ)が不可思議であるから、知性的分別の世界にいろいろの形で自らを顕現するのです。
この不可思議身が仏教という殿堂の奥に据えられているのです。一面は智でありますが、他面は悲です。そうしてこの智と悲とが一丸となっているので、見る人の目にあるいは智とのみ映ることもり、また悲とのみ映ることがあります。しかしその故に不可思議身は双身であると考えてはならぬ。智と悲とが機械的に融合したものなら、そのようなこともあろうが、これはもともと融合体ではないのです。そう見るのは見る人の分別智によるのです。」
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「日本の仏教では、禅は大智の面、浄土系は大悲の面を代表するといってよかろうと思います。禅は動(やや)もすると羅漢の独善性・逃避性に傾かんとするが、浄土系は菩薩と共に五濁の巷に彷徨するを厭わないのです。場合によると、禅はただの自然神秘主義だとか、自然に対する美的観照だとか、または禅に対する理性的愛だなどと評せられることもあります。しかしそれは誤っているということは今さら繰り返すまでもないと信じます。浄土系は現在日本で行われているところでは、「愚痴文盲」の大衆を目標としているとも申されましょうが、すべて宗教などものは智慧才覚を嫌うものです。それはいうまでもなく。宗教は知性的分別の領域ではないからです。衒学とか物知りとか慧敏とかいうことは、人間をしてかえって霊性的直覚から遠ざからしめるという事実は、われらのいずれも日常見聞するところです。が、禅にあっては、一方ではもとより学問の渉猟を厭いますが、また他方ではいくらかの文学を知っていなくてはならぬ。それは何故かというに、禅は唐宋の間で完成したものであるから、自ら漢文学の素養を要求するのです。事実、今日の日本では禅はむしろ知識人の間で修せられます。これに反して浄土系————ことに真宗は、日本で完成したのです、そうしてその頃は政治的権力の萎縮した下層の人達は、自ら人生の慰藉をあの世に求めんとする傾向を示したこともあったと信ぜられます。しかし宗教としての本質から見れば、浄土系仏教といえども、政治に聯関を持つものではありません。直ちに人間性の本拠に迫って来るものです。浄土系には社会的人道主義的要素があるが、禅はむしろ高踏的であるということが、日本における両者の現状であろう。」