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山口貴史「〇〇×シンリガク――小さな日常を〈心理学〉する」 第1回 「食べ物の好き嫌い」の呪い  第7回 忘れられない言葉からこころの扉を開く(創元社note部)

☆mediopos3654(2024.11.20.)

山口貴史「〇〇×シンリガク
――小さな日常を〈心理学〉する」が連載されている
(創元社note部)

「日常生活の小さな一コマを臨床心理学の視点から考え」
「人間のこころのメカニズムを解き明か」す
というのがテーマである

そうすることで
「私たちが気づかないうちに囚われている
「そういうものだ」という意識に気づいたり、
日常のモヤモヤの「背景にあるもの」を
発見できたりするかもしれ」ないという

mediopos36452(2024.11.18.)で
戸井田道三『忘れの構造』をとりあげた際
「言葉以前」の領域で刷り込まれているために
それを意識することも
そこから脱することも難しくなる
ということについてふれたように

難しい内容が難しい言葉で説明されたものを
解読することを試みるのは思いのほかカンタンなのに対して

身近なところでの囚われや思い込みは
シンプルすぎて意識されにくい刷りこみであるために
それに気づくほうがおそらくはずっと難しい
気づいたとしてもそれにうまく対応できなかったりする

そのなかから今回は
第1回 「食べ物の好き嫌い」の呪い
第7回 忘れられない言葉からこころの扉を開く
をとりあげる

まず「食べ物の好き嫌い」について

山口貴史氏は小学3年生のときの給食に
「エビチリ」がでてきたとき以来
「エビチリどころかエビが食べられなくな」る

二十歳のとき
「大人たる者、好き嫌いをしていてはいかん、と思」い
「好き嫌いをなくそうキャンペーン」をはじめるが
「常識的なルールは理由を突き詰めると案外重要ではない」

問題は「「食べ物の好き嫌い」そのものではなく、
好き嫌いについての「そういうものだ」から
来ているのかもしれ」ないと気づく

「友達は多い方がいい」
「みんなに合わせることが大切」
「苦手は克服したほうが良い」
といったような
「学校で学ぶ大部屋主義的(「みんな一緒」)な考え方に、
私たちは知らず知らずのうちに苦し」んだりもするが

「まずは前提となっている「常識的なルール」(=そういうものだ)
を疑ってみることが大切なのではない」かというのである

個人的なことをいえば小さい頃から
半ば本能的?に「常識的なルール」(=そういうものだ)に
疑いを持ち続けながら今まできているのだけれど
学校をはじめとして周りで理解されることは稀である

周りのみんなの従っている「そういうものだ」を
受けいれないまま生きていくのは
実際のところかなりむずかしいけれど
いちどそうしたことに気づいたら
その生きがたさとともに生きていかざるをえないので
少なくともその覚悟は必要になるのだが・・・

なぜ多くのひとは「みんな一緒」を
疑いもなく受けいれるのだろう
謎は思いのほか深い

次に「忘れられない言葉」について

山口貴史氏は10年ほど前北欧を一人旅したとき
ホテルのフロントスタッフの男性が
チェックアウト時
かすかに笑みを浮かべながら「enjoy」言った言葉が
「長いあいだ心に残るもの」になった

「忘れられない言葉を聞いたとき、
その言葉は私たちのこころに残り続け」るが
「そこで止まってしまうと、もったいない」

「ある言葉がこころに残ったのは、
その言葉はその人にとって
「何らかの」意味があることを示してい」るからであり

「この「何らかの」について深めてみて、
その手触りを明らかにすることは、
自分自身の心の一部を知るということ」にもなる

「enjoy」というのは
「単なる接客用語ではなく、
私自身の心の状態を映し出す「鏡」のようなもの」で
「自分のこころに触れることで、
私は新たな視点を得ることができ、
自己理解が深ま」ったという

「忘れられない言葉に出会ったとき、
私たちは自分のこころを知るための「扉」の前にいる」

「ときにその扉を開けてみると、忘れかけていた自分、
苦しんでいる自分、自分の知らなかった自分に
出会うことができるかもしれ」ない

「忘れられない言葉」に限らず
おりにふれて
「私自身の心の状態を映し出す「鏡」のようなもの」が
おとづれることがある

鏡(かがみ)とは「か(我)み」
「かみ(神)」のなかにみずからを映し出すもの
「自分のこころを知るための「扉」」であるといえる

これらのことは
あたりまえすぎるくらいあたりまえのことだけれど
じぶんを縛りつけていたり
縛りからじぶんをひらいたりするための気づきを
「小さな日常」において見出すための重要な契機となる

■山口貴史「〇〇×シンリガク――小さな日常を〈心理学〉する」
 第1回 エビチリ×心理学――「食べ物の好き嫌い」の呪い
 第7回 ストックホルム×心理学――忘れられない言葉からこころの扉を開く
 (創元社note部 2024年6月11日/2024年10月31日)

**(「第1回 エビチリ×心理学」より)

*「突然ですが、みなさんの嫌いな食べ物は何でしょうか?

 私が“あいつ”と出会ったのは、小学3年生の時でした。」

「「なんだこれ…」

思わず声が出る。食べられたものじゃない。でも、残したら、昼休みに外で遊べない。必死に飲み込もうとする。ああ、ダメだ。あまりに気持ち悪くて吐きそうになる。

 これが、私と「エビチリ」の出会いです。それ以来、私はエビチリどころかエビが食べられなくなりました。」

・「好き嫌いは良くありません」

*「髪を伸ばした“のび太のママ”にそっくりなその担任は、「好き嫌いは良くありません」とよく言いました。「残さずに全部食べなさい!」も口癖でした。

 私は給食で出されたエビチリを、毎回吐きそうになりながら食べました(なぜかその小学校の給食にはエビチリがよく出ました)。その後も同じような言葉を何度も聞くうちに、「好き嫌いをする=悪いことをしている」という感じがしてきました。」

*「20歳のとき、私は突如キャンペーンをはじめてみました。その名も「好き嫌いをなくそうキャンペーン」です。

 大人たる者、好き嫌いをしていてはいかん、と思ったからです」

「でも、結果は惨敗でした。嫌いなものはどうしたって嫌いなのです。

 段々とめんどくさくなって、「甲殻類アレルギーなんで」という便利な言葉を開発しました。そのセリフは、「ああ、そうなんだ、じゃあ仕方ないね」と相手から言ってもらえるマジックワードでした。

 けれど、心の中にはごまかしに伴う小さな罪悪感と「好き嫌いをする自分は未熟」という感覚が残り続けました。」

・好き嫌いは良くないのか?

*「生きる上で大きな問題はないし、人に相談しても「へー、そうなんだ、みんな好き嫌いってあるよね」で終わっちゃうような些細な悩み。でも、小さなトゲのように疼き続ける「食べ物の好き嫌い」。」

「数年前、“給食は残してはいけません文化”を問題視する報道がありました(2024年4月7日付の朝日新聞にも載っていたので、定期的に取り上げられるテーマなのでしょう)。完食の強要や、行き過ぎた指導が問題になったのです。」

「「栄養が偏る」
「食べ物がもったいない」

 これまで何度も言われてきた言葉です。どれももっともらしいけれど、よくよく考えてみれば理に適ったものではありません。」

「…と考えていくと、私の心にあった小さなトゲは、「食べ物の好き嫌い」そのものではなく、好き嫌いについての「そういうものだ」から来ているのかもしれません。

 善意から発せられる大人の言葉は、小さな呪いになることがあります。

 大切なのは、「なぜ、そうなのか」を説明することです。理由や目的を説明できない大人の話は聞かなくていい、と吐きそうになりながらエビチリを食べていた小3の私に言ってあげたい気分です。」

・「好き嫌い」から学んだこと

*「私が「エビチリ」から学んだことは、「好き嫌いは良くない」という常識的なルールは理由を突き詰めると案外重要ではないということです。」

「自分の中で常識的なルールと思っていたものは、大した根拠がないのに守らなければならないと思い込んでいた呪いなのかもしれません。特に食べ物のように嗅覚や味覚といった身体感覚が伴う場合、心の奥深くまで刻まれやすいと言われています。

 このことは好き嫌いに限りません。

「友達は多い方がいい」
「みんなに合わせることが大切」
「苦手は克服したほうが良い」

 学校で学ぶ大部屋主義的(「みんな一緒」)な考え方に、私たちは知らず知らずのうちに苦しみます。だから、まずは前提となっている「常識的なルール」(=そういうものだ)を疑ってみることが大切なのではないでしょうか。」

**(「第7回 ストックホルム×心理学」より)

・忘れられない言葉

*「ふとした時に言われた言葉が、その後も忘れられないことがあります。

 今から10年ほど前、私は北欧を一人旅しました。」

「ストックホルムで泊まったおんぼろホテルのフロントスタッフの男性は、超がつくほど不愛想でした(私も人のことを言えませんが……)。

 チェックイン時は仏頂面でにこりともせず、「yes」とか「yeah」でごまかす私の英語力に嫌気が指しているようにも見えました。

 しかし、翌朝のチェックアウト時、かすかに笑みを浮かべながらこう言ったのです。

「enjoy」

 欧米ではよく使われる接客用語なので、誰に対しても言うものなのかもしれません。実際、彼にとってはそうだった可能性は高いでしょう。

 けれど、私にとっては、なぜだか長いあいだ心に残るものになりました。

「楽しむか……。人に『楽しんで』って言うのって素敵だな」と思ったのです。」

・言葉がこころに響く瞬間

*「忘れられない言葉を聞いたとき、その言葉は私たちのこころに残り続けます。

 良い言葉だなあとか、なんてひどい言葉なんだ、と、こころに刻まれるのです。

 しかし、そこで止まってしまうと、もったいないかもしれません。」

「こころに残る言葉に出会ったとき、私たちは自分のこころに触れるチャンスを得ていると思うのです。

 ある言葉がこころに残ったのは、その言葉はその人にとって「何らかの」意味があることを示しています。この「何らかの」について深めてみて、その手触りを明らかにすることは、自分自身の心の一部を知るということです。

 ただし、一つ注意点があります。

 いくらこころに残ったとしても、こころを深く傷つけるような言葉を深めるのは止めましょう。怒りや憎しみが傷跡から噴き出てきて、自分自身を知るよりも、壊してしまう可能性の方が高いからです。」

・「enjoy」を深めてみる

*「「enjoy」という言葉を聞いた瞬間、私はこころに小さな波紋が広がるのを感じました。その一言は、まるで凍りついたこころの表面に温かな手を差し伸べられたような感覚でした。」

「ホテルを出て、「enjoy」という言葉を反芻しながらストックホルム郊外の「森の墓地」と呼ばれる世界遺産を散歩していると、森を掃除しているおじさんに声をかけられました。

 彼は片言の英語で「俺はこの墓地に30年勤めているんだ。この墓地はな、とんでもなく素晴らしい場所で……」と、まくし立てるように墓地の歴史と素晴らしさを語り始めました。

 彼のくしゃくしゃの笑顔は、こころからの喜びと誇りに満ちていました。

 その瞬間、私は「enjoy」という言葉の本当の意味を理解した気がしました。墓地を守るという道を極めている彼は、たしかに「楽しんで」いました。それは単なる娯楽ではなく、彼の人生の一部であり、こころからの満足感を感じるものだったのです。

 対照的に、私はこころの底から楽しめていない自分がいることを確信し、自分のこころの不自由さを感じるようになりました(しばらく落ち込みもしましたが)。

 そして日本に帰国してから義務感で出ていた研修会を全てやめ、数年間遠ざかっていた趣味を再開させました。少しずつこころが蘇ってきた気がしました。」

*「心理学的には、言葉がこころに響くプロセスは大変興味深いものです。

 言葉が脳に与える影響についての研究によれば、ポジティブな言葉は脳内でドーパミンの分泌を促進し、幸福感や満足感を引き起こすと言われています(もちろん、その反対も起こります)。また、自己理解や感情の処理においても、言葉が重要な役割を果たします。言葉を通じて自己を見つめ直すことで、こころの奥深くに隠れている感情や思いを解放することができるのです。

 この経験を通じて、私は「enjoy」という言葉が自分のこころに響いた理由を深く理解することができました。

 それは単なる接客用語ではなく、私自身の心の状態を映し出す「鏡」のようなものだったのです。自分のこころに触れることで、私は新たな視点を得ることができ、自己理解が深まりました。」

・歌詞でも、本でも

*「ここでは人から言われた言葉を取り上げましたが、似たようなことは歌を聞いたり、本を読んだりしても起こります。

「あの本のあの場面」だったり、「あの歌の歌い出し」が忘れられない言葉かもしれません。

 面白いのは、その言葉を見つけようと本や歌詞を探してみても見つからないことがある、ということです。「あれ、確かにこの本にあったはずなのに」「この歌詞、思ってたのと全然違くない?」と、戸惑った経験がある方もいるのではないでしょうか。」

「評論家の小林秀雄はこう書いています。

「すべての書物は伝説である。定かなものは何物も記されてはいない。
俺達が刻々に変っていくにつれて刻々に育って行く生き物だ。」(『Xへの手紙』)

 つまるところ、書いてある言葉や言われた言葉そのものではなく、自分のこころの中に残っているという事実こそが重要ということです。ホテルマンの彼が言った言葉は、もしかしたら「good trip」だったのかもしれません。

 でも、「enjoy」でいいのです。」

・こころの中の扉を開く

*「批評家の若松英輔は読書について語るなかで「読むということは言葉を扉にしながら、その奥に触れることだ」と述べています。

 それは読書に限らないと思います。私も、若松の言葉のように、この『enjoy』という一言が、その場での意味以上のものを含んでいると感じました。日常のささいな言葉でも、自己理解に繋がる大切な要素となるのです

 忘れられない言葉に出会ったとき、私たちは自分のこころを知るための「扉」の前にいるのでしょう。

 ときにその扉を開けてみると、忘れかけていた自分、苦しんでいる自分、自分の知らなかった自分に出会うことができるかもしれません。」

・【文】山口貴史(やまぐち・たかし)
臨床心理士・公認心理師。東京生まれ、大阪・福岡育ち。
2009年、上智大学大学院総合人間科学研究科博士前期課程修了。その後、精神科クリニック、総合病院精神科、単科精神病院など、医療現場を中心にさまざまな現場で臨床経験を積み、現在は児童精神科と開業オフィスにて臨床を行っている。日本心理臨床学会奨励賞受賞(2023年)
著書『サイコセラピーを独学する』(金剛出版)、『精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門』(金剛出版、共著)

・【イラスト】楠木雪野(くすき・きよの)
イラストレーター。京都在住。主な仕事に『阿佐ヶ谷姉妹のおおむね良好手帳』のイラスト、web連載『楠木雪野のマイルームシネマ』など。猫とビールが好き。

◎山口貴史「〇〇×シンリガク――小さな日常を〈心理学〉する」


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