『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』
☆mediopos-2433 2021.7.15
ボリス・ヴィアンといえば
小説家としての『日々の泡』のイメージが強く
それ以外のことをあまり知らずにいたが
なんとヴィアンは400曲以上も
シャンソンの作詞や作曲を手掛けている
ヴィアンの小説は
偽名で書いた『墓に唾をかけろ』が
風俗壊乱罪で実刑になったこともあり
長い裁判のあいだのあれこれで
小説家としてのヴィアンは
あまり評価された存在とはならなかったが
死後ジャン・コクトーやサルトル
ヴォーヴォワールなどによって評価され
またパリの五月革命による
カウンターカルチャーが注目されるようになって
とくに若者たちから支持を受けるようになった
またヴィアンはジャズ通で
しかもトランペッターでもあり
みずからシャンソンを歌っていたりもしたことや
レコード会社の経営者であり音楽ディレクターでもあった
ジャック・カネッティの知己を得たこともあり
ボリス・ヴィアンの《シャンソン時代》が始まっていった
そしてシャンソンの世界から新たな世界へと
向かおうとした矢先の一九五九年
裁判沙汰になった小説『墓に唾をかけろ』が映画化された
その試写会の会場で突然死してしまうことになる
三九歳の若さだった
ボリス・ヴィアンのシャンソンで
もっとも有名になったのは
『脱走兵(Le déserteur)』だが
これも小説がスキャンダルになったように
放送禁止処分を受けることになったものの
反戦歌としてフランスの人々に広く愛唱されることに
この歌がつくられたのは
フランスの第1次インドシナ戦争(1946-1954)の終盤の時期で
アルジェリア戦争が勃発した時期に
ムルージによって歌われたレコードが発売になったもので
放送禁止となったものの愛唱されつづけ
70年代になってベトナム戦争の反対運動とむすびついて
いろんなミュージシャンによって各国で
プロテスト・ソングとして歌われ広まっていった
日本では高石友也がまず日本語詞をつけ
それが加藤和彦や高田渡らに歌い継がれることで
フォークソングとして知られていったが
ずっと後にの1990年になって
沢田研二が
演劇の専門劇場だった東京グローブ座で
「ACT BOLIS VIAN」という
演劇的な舞台活動ACTシリーズのなかで
オリジナルの歌詞に忠実な日本語で
「脱走兵」というタイトルで歌われることになった
こんな歌詞である
大統領閣下 手紙を書きます
もしお暇があれば 読んでください
僕は今戦争に行くようにとの 令状を受け取りました
いわゆる赤紙です
大統領閣下 僕は嫌です
戦争するため 生まれたのではありません
勇気を出してあえて言います
僕は決めました 逃げ出すことを
沢田研二のこうした活動については
今回ヴィアンを調べてはじめて知ったのだが
沢田研二は「沢田研二ACT…」という
一人芝居と歌を組み合わせた新しい表現で
このボリス・ヴィアンのほかに
クルト・ワイル、ニーノ・ロータ、サルバドール・ダリ、
シェークスピア、エディット・ピアフ、
バスター・キートン、エルヴィス・プレスリー、
宮沢賢治をとりあげているという
YouTubeにその沢田研二の「脱走兵」の
映像があったので興味のあるかたは
ボリス・ヴィアンのものとあわせてご覧ください
■ボリス・ヴィアン(浜本正文訳)
『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』
( 国書刊行会 2021/4)
(「訳者あとがき」より)
「本書『ボリス・ヴィアン シャンソン全集』は、一九九四年クリスチャン・ブルゴワ社刊の《Boris Vian:Chansons》(Chiritian Bourgois Èditeur)に依拠しながら構成した、ヴィアンの訳詞集である。」
「小説家を志したボリス・ヴィアンは、代表作『日々の泡』(…)と、偽名で書いた『墓に唾をかけろ』(…)で華々しくデビューするはずだった。しかし、『日々の泡』は年長の審査員たちからプレイヤッド賞受賞を約束されて三ヶ月で書き上げたものの、ナチスのパリ占拠中に親独派の編集長を受け入れざるを得なかったガリマール社の名誉回復の意を体した審査員たちに裏切られて、アンドレ・マルローの推すレジスタンスの同志グロジャン師の詩集『時の大地』に8:3の大差で賞を横取りされてしまったし(…)、『日々の泡』や『北京の秋』の執筆と同時並行的に、友人の版元に頼まれて休暇中の二週間で書き上げたアメリカ的暴力サディズム小説『墓に唾をかけろ』は、目論見通りベストセラーになったものの(…)、出来がよすぎたために愛人絞殺事件のスキャンダルに巻き込まれた上、ヘンリー・ミラーを槍玉に上げた社会道徳行動カルテルの格好の標的にされ、風俗壊乱罪で追訴されることになった。特に、社会道徳カルテルを率いるピューリタン建築家ダニエル・パルケールの追求は執拗で、一九四九年七月に発禁処分、一九五〇年五月には有罪判決で罰金一〇万フラン、さらに裁判は一九五三年一〇月まで続き、禁固一五日の有罪を宣告されたのち、大赦で解放された。当時、ボリス・ヴィアンはサルトルの雑誌『レ・タンモデルヌ』誌の《嘘つき時評》を担当していたこともあって、気づけば六年間裁判を戦っている間に、作家ボリス・ヴィアンをめぐる状況は当人の意図とは真逆の《真摯さを欠く人物》としてイメージが定着し、心をこめて書いた小説までもがまともに評価してもらえないという事態に陥っていた。書評家は書評家で、作者が陰で舌を出すかもしれないヴィアンの作品を真面目に論じる度胸はなかった。すべては《墓唾の祟り》だったのである。しかもこの祟りには、意に沿わないまま映画化された『墓に唾をかけろ』の試写会会場で作者本人が突然死するという《おまけ》までついた。もちろん、ヴィアン自身にも多少若気の至りがなかったとは言えない。しかし、彼はそれを認めなかった。」
「彼は、ある種挑戦的な態度で短期間に長編・短編・戯曲を量産したあとで(…)、小説に見切りをつけ、シャンソンに向かって大きく舵を切ったのである。」
「小説家ボリス・ヴィアンはシャンソンへと転向する。第一の理由は小説に行き詰まったからだが、クロード・アバディ楽団のトランペッターとして、また若い頃かたパーティ好きダンス好きで、音楽的環境はつねに彼の身近にあった。それに、最初の妻ミシェルと別れたあと、第二のパートナーとなるユルシュラは、バレエダンサーであり、ダンスだけでなく、うたうことを夢見てボリスとミュージックホール巡りをしたり、いっしょに歌のレッスンを受けている。また、アパルトマンの隣人イヴ・ジポーは新聞記者で作家だが、キャバレーの風刺作詞家でもあった。しかし特筆すべきは、ジャック・カネッティの知己を得たことだろう。カネッティはミュージックホール「トロワ・ボーデ」とレコード会社を経営し、ポリドール、フィリップスのアートディレクターであり、ラジオ=シテの音楽担当ディレクターでもあった。(…)ジャズ通のボリス・ヴィアンに惚れ込んでフィリップスおよびフォンタナのディレクターに推挙したのもカネッティであるし、歌手として「トロワ・ボーデ」出演を進言したのもカネッティなのだ。最後に、役所勤めを辞めたヴィアンには日々の暮らしの糧を稼ぐ必要があった。(…)
満を持してというか切羽詰まってというか、燃焼しきれなかった散文表現への無念を晴らすかのように、こうしてボリス・ヴィアンの《シャンソン時代》は始まる。」
「一九五九年、彼は音楽の悦楽と毒とを味わい尽くして、そこから足を洗い、再び新たな活動に踏み出そうとしていたのだが、急死してしまった。」
《脱走兵》
作詞・ボリス・ヴィアン
作曲:ハロルド・バーグ
大統領閣下
お手紙を差し上げます
お暇があれば
たぶん読んでくださるでしょう
私はただいま受け取りました
水曜日の晩までに
戦場に発てという
召集令状を
大統領閣下
私は戦争をしたくありません
私は哀れな人々を殺すために
生まれてきたのではありません
あなたを怒らせるつもりはありませんが
あなたに申し上げねばなりません
私は覚悟を決めました
私は脱走します
この世に生を受けて以来
私は父が死ぬのを見ました
兄弟が出征して行くのを見ました
そして 私の子供たちが泣き叫ぶのを
私の母はあまりにも苦しんだために
いまは墓の下で眠っています
そして 爆弾にも平気です
私が捕虜だったとき
私は妻を奪われました
私は魂を奪われました
そして 私の大切な過去のすべてを
明日の朝早く
私は失われた歳月に向かって
決然と別れを告げ
流浪の旅に出ます
私はブルターニュからプロヴァンスまで
フランス各地の路上で
物乞いをしながら暮らすでしょう
そして 人々に訴えるつもりです
服従を拒否するんだ
戦争を拒め
戦争に行ってはいけない
出征を拒否するんだと
どうしても人の血を捧げなければならないのなら
あなた自身の血を捧げたらよろしいのでは
大統領閣下
あなたは偽善者だ
私に追っ手をかけるときは
前もって憲兵に伝えてください
私は武器を持っていない
だから いつでも撃つことができると
Les déserteur(1954)
注 ボリス・ヴィアンを代表するシャンソンである。
(…)
『脱走兵』は無条件の国営ラジオ放送禁止処分を受けた。ラジオ・フランスの中央レコードライブラリーでは常時「貸出禁止」の印が押されていた……。ところが、一九五五年にムルージがムルージ・バージョンを録音する一方で、ヴィアンも自分のヴァージョンを一九五六年に45回転の『不可能なシャンソン』として出版する。ただし、最終節は次のように改変されていた。
……もしもあなたがぼくに追っ手をかけるのであれば
あなたの憲兵たちに前もって伝えておいてください
ぼくは武器を持っていない
彼らは撃つこともできるのだと
外的な圧力に屈して最終節をこのように変えざるをえなかったことは、おそらくヴィアンには耐え難いことだったろう。しかし結局、彼はすでに伝えたいメッセージの一部は伝えてあるのだし、これでよしとしなければならなかった。彼がハロルド・バーグに自分の歌詞を渡したとき、彼はそれが秩序破壊的なシャンソンだとはおそらく思っておらず、むしろ一九〇〇年代の伝統に繋がる嘆き節の類いだと思っていた。だが、戦争が日常茶飯事だった歴史的な背景がこの歌を反戦のシンボルに祭り上げ、後世に手渡されることとなった。ヴィアンはこのシャンソンの出版を諦めず、一九五七年には、この作品を擁護するスウェーデンの出版社のオファーを受け、あの旅行ぎらいの彼がストックホルムまで行き、ハーレクイン社とスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランドでの出版権にかかわる象徴的な契約に調印している。歌詞は自由に書き換えられたとしても、シャンソンの精神は守られたのである。こうした出来事があったのちも、彼のマルチな活動は平然と続いたし、自分が考えたいように考える、つまり自由人として考えるスタイルも続いたのである。彼が『脱走兵』は反軍的ではなく、むしろ《親市民派》だと言い続けたのはそのためである。このシャンソンは一九五五年以降も頻繁に歌われ、録音され続けた。
◎ボリス・ヴィアン(Boris Vian)- Le déserteur(脱走兵)
https://www.youtube.com/watch?v=gjndTXyk3mw
Monsieur le Président
Je vous fais une lettre
Que vous lirez peut-être
Si vous avez le temps
Je viens de recevoir
Mes papiers militaires
Pour partir à la guerre
Avant mercredi soir
Monsieur le Président
Je ne veux pas la faire
Je ne suis pas sur terre
Pour tuer des pauvres gens
C'est pas pour vous fâcher
Il faut que je vous dise
Ma décision est prise
Je m'en vais déserter
◎沢田研二 ACT Boris Vian「脱走兵」
https://www.youtube.com/watch?v=wkn8mbTju7U
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