保阪正康「ネット時代の「戦陣訓」」(『群像』2023年9月号/特集 戦場の_ライフ)/保阪正康『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』
☆mediopos3203 2023.8.25
日本が終わろうとしている
ほとんど自裁死である
直接的な原因はその多くが政治(家)だが
その政治の背景をつくっているのは
わたしたち日本人の大多数である
第二次世界大戦後
実質的に米軍による植民地化がはじまってから
一見「戦後民主主義」の名のもとでの
経済的繁栄のような平和な風景に見える陰で
死のロードははじまっていたが
おそらくこの2023年は
そのピークに達したように見える
はたしてその「先」には
どんな光景が待っているのだろうか
陰が極まれば陽となり
陽が極まれば陰となるように
「反転」が起こればいいのだが・・・
西部邁は五年ほどまえに
自裁死を遂げているが
ある意味でその死は
そんな日本の死を
予感したものだったのかもしれない
西部邁と保阪正康は敗戦後
教師に引率された集団映画鑑賞があった際
多くの日本兵が殺されるところで
教師の拍手をきっかけに
生徒たちの拍手が起こったことに対して
反発や不信感を感じたことを共有し得たことで
通じあうところがあったという
今春刊行された保阪正康『Nの回廊』は
中学生の頃に西部邁と出会ってからの
約六十年にわたる交流について書かれているが
それは西部邁の「精神の原像」を追おうとしたものだ
「あとがき」に書かれているように
「その原像は、生を維持せしめる愛であったり、
連帯であったり、使命感として焼き付けられた。
Nは家族愛や郷土愛、さらにはもっと根源的な
人類愛などをずっと凝視していたのだ。」という
その『Nの回廊』を受け
『群像』の9月号に書かれている
「ネット時代の「戦陣訓」」というエッセイには
かつて戦時中に兵士たちの士気高揚のために
作られた「戦陣訓」で
死ぬまで戦い抜くよう教育された言辞は
「神社の境内を徴兵逃れの祈願の場所ではなく、
旗や幟を立て、村民総出で出征兵士を送り出す
空間に変えてゆこうとする試み」で
「生きて虜囚の辱を受けず、
死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と
「軍紀を強制、維持するための恫喝」を
行ったものだが
兵士たちが実際に恐れたのは
それに反することで
農村共同体から「村八分」になることだったという
つまり家族愛や郷土愛を背景にしてなされる
強力な「同調圧力」である
戦後そうした「同調圧力」は
「農村共同体」の崩壊とともに
消えていったのかといえはそうではない
戦後すぐに教師やその指導を受けた生徒たちが
自国の兵士たちの死に拍手さえするような
驚くべき「反転」は
同じ「同調圧力」のもとにある
現在さまざまな地域で組織でメディアで
強力に現象化している「同調圧力」も同様である
そしてそれらを「同調圧力」だと
とらえることさえできず従っている多くの人たち・・・・
しかし戦前と戦後でいきなり起こった「反転」は
たとえそれがリバースのコマの白と黒を
簡単に裏返すように起こったのだとしても
それはおそらくどこかで魂に
軋轢を生んでいかざるをえないはずだ
ダブルバインド的な闇なのに
それと気づかずになされる同調のように
西部邁の自裁死も
そうしたことが通奏低音となりながら
家族愛や郷土愛や日本や世界などへの愛と
それが抱えているさまざまな矛盾が
臨界を超えて奏でられ
それに耐えきれなくなったためなのかもしれない
2023年の今
日本はもちろん世界中が戦場の様相を呈している
そんな戦場をどう生きるか生き抜くかは
人それぞれではあるだろうが
同調圧力をでき得るかぎりかわしながら
この機会から学べることを確かに学ぶのが得策だろう
■保阪正康「ネット時代の「戦陣訓」」
(『群像』2023年9月号/特集 戦場の_ライフ)
■保阪正康『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』
(講談社 2023/3)
(保阪正康「ネット時代の「戦陣訓」」より)
「大日本帝国がポツダム宣言を受諾してから七十八年が経とうとしている。
その事実を、かろうじて「国体護持」に成功したと考えるにせよ、あるいは「民主化」や「解放」の始まりとしてとらえるにせよ、敗戦と占領を経験した者たちにとって昭和二十年(一九四五)の敗北は、立場の違いを越えて、実質的には帝国の滅亡といってよかった。
そして、人びとに共有されたいわゆる「戦後民主主義」を支える価値観は、天皇の名のもとに「本土決戦」を呼号し、「一億総特攻」などの言辞を弄して国が滅びるまで戦おうとした軍事指導者たちを否定し、残存する多くの事象は封建的、軍国的、反動的として克服すべき対象としてきた。満六歳になる年に敗戦を迎えた私などは、そうした価値観に浸かってきたともいえようか。
しかし、人はそう簡単に基本的な考えかたまで変えることはできない。」
「私は今年(二〇二三)の二月末に、講談社から『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』を刊行した、
この本は、私と西部邁との、中学生のときに出会ってからの約六十年にわたり交流について綴ったものだが(もっとも西部の名が出てくるのは注記の一カ所だけで、あとはすべて、あえて「N]「すすむさん」と記している)、最後に私はこう書いた。
小学校五年生か六年生のとき、教師に引率されての集団映画鑑賞の時間があり、僕らがアメリカの映画を見せられた。
日本の特攻隊の隊員が乗った攻撃機がアメリカ軍の艦隊からの砲撃で微塵になっての墜落シーンがあった。すると映画館の一角から拍手が起こり、やがてそれが館内の生徒たちの拍手を促すことになった。のちに知ったのだが、若い女性教師の拍手がきっかけであった。僕も拍手をした。そしてこれは後々まで僕の気持ちを挫けさせた。
その話をすすむさんに伝えた。すると、すすむさんも同じように教師に引率されて、「硫黄島の砂」という映画を見せられたときに、摺鉢山に星条旗が立ったシーンで館内に拍手の波が起こったというのだ。
「多くの日本の兵隊が殺されたというのに、なぜ拍手するのか」
とすすむさんは言い、同級生や教師たちへの反撥を口にした。もちろんその苛立ちは表立っては口にしてはいけないことであり、それはお互いよくわかっていたことであった。
Nが私を信用したのは、あのときのことを忘れず、そして長じてもそれを元に、愚直に昭和史を検証していることがわかったからだと言ったことがある。再開した後の二人の思想や価値観は、「戦後」という時空間の積み重なりとともにしだいに離れていったが、この一点にこだわっていることに世代の約束事ともいうべきルールがあると私たちは確認していた。
私は『Nの廻廊』のなかで、何人かの教師についての不信感を記している。それは、先に触れた日本社会党書記局の活動家にたいして感じた種類の嫌悪感の萌芽ともいうべきものでもあった。そして中学生の西部はそれを共有していた。」
「西部も私も、北海道という「内国植民地」に身を置いた者たちの末裔である。北海道人には特有の屈辱や怒り、そして哀しみがある。単純なものとしての郷土愛を口にすることはなかなかできない。西部はそれをもどかしく思い、苛立ちを隠さなかった。
むろん内地においても明治以降の近代化、資本主義の進展で、中世から江戸時代を通じて形成された農村共同体は徐々に解体してゆく。その状況にたいする危機感から生まれたのが柳田國男の民俗学であった。」
「日中戦争が泥沼化するなかで、兵士たちの道義的な士気が著しく低下していた。さらに昭和十四年(一九三九)のノモンハン事件で予想外に捕虜が出ており、軍事指導者たちは不安に思い、死ぬまで戦い抜くよう教育しなければならないと考えた。以来、農村共同体の死生観を「故郷の名誉のために武勲を立てよ」「天皇陛下の赤子として七生報国の精神で奮闘せよ」といった言辞で押し潰し、神社の境内を徴兵逃れの祈願の場所ではなく、旗や幟を立て、村民総出で出征兵士を送り出す空間に変えてゆこうとする試みがなされてゆくのである。
こうして作られたのは、かの「戦陣訓」である。」
「戦争とは軍事的合理性の下に戦われるべき政治行為である。少なくとも二十世紀の近代国家間の戦争にはルールがあり、どの国もそのルールに基づいて戦闘を続けるものと考えられていた。戦争といえどもできるだけ命を大切にするのは当然である。
戦後、GHQで情報将校を務め、のちに国務省入りしたウルリック・ストラウスによれば西欧では兵士の損耗率が二五パーセントほどに至れば投降し捕虜になるのが一般化していたという。
(・・・)
ところが、「戦陣訓」はそうした司令官の判断や責任については頬被りを決めこみ、「悠久の大義」などという美辞麗句で、いわば兵士たちにすべてを丸投げしているのである。
そして、「本訓 其の二 名を惜しむ」に、あの有名な文言が出てくる。
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
けっきょくのところ、「死生観」と「名を惜しむ」は軍紀を強制、維持するための恫喝そのものでしかない。
しかし、兵士たちは軍官僚の作文や文豪の添削で動いたのではなかった。彼らは、もし自分が捕虜になることがあれば、故郷の村で家族が白眼視されるのではないかと脅え、投降を拒んだ。村八分とは村の掟、空気に従わぬ者を排除する、農村共同体の現実である。兵士たちはみずからの共同体の記憶のなかに身を置いていたのであり、死に際してもそれを恐れた。一片の示達で死をも恐れぬ皇軍兵士が生まれるなどという、軍事指導者たちの傲慢な妄言とはまったく別の次元に生きていたのである。」
「戦後生まれの人口が戦前生まれのそれを上回ったのは、敗戦から三十年後の昭和五十一年(一九七六)である。それから半世紀近く、いまやその比率は総人口の八割以上に達している。高度経済成長以降の都市の過密化と地方の過疎化で農村共同体は実質的には崩壊した。「墓じまい」が多くの人のあいだで話題とされる現在、柳田國男の危惧は的中したといえるだろう。
ならば同時に「村八分」的な感性、いわゆる同調圧力も生滅したのだろうか・・・・・・。現実の社会においては、そうではなさそうである。
少子高齢化と格差社会の進展は、孤独で絶望にとらわれた若者と老人を量産しつつある。インターネット上ではフェイクニュースが垂れ流され、特定の人物や事象にたいするバッシングが横行し、韓国に向けての嫌悪、中国の脅威を煽る言説が飛び交っている。こうしたなかで、かつて「戦陣訓」が兵士に押しつけようとしていた心構えだけがグロテスクなかたちで残存し、息を吹き返そうとしているのではないか。」
「終戦記念日が旧盆のさなかの八月十五日であるという事実には、歴史の偶然とはいえ深い意味があると思う。死者はこのとき、それぞれの家に帰ってきているのである。
あえて西部邁もそんなに遠いところにいるのではなく、お盆には家族のもとに帰ってくる、と私は心のどこかでそう思っている。私は西部に問いたい。「すすむさんは北海道人として近代をどう考えていたの?」「すすむさんは、ほんとうに近代日本に絶望したの?」と。
西部はいつものように眼を細めて。「なんだ保坂、おまえ、まだそんなこと言っているのか」と言うだろうか。」
(保阪正康『Nの廻廊 ある友をめぐるきれぎれの回想』〜「あとがき」より)
「あと十日ほどで、Nは自裁死を選んでから五年になろうとしている。晩年は直接に対面で詳しい会話を交わすことはなくなっていたのだが、それでも電話などで話したこともあり、その心中については思い当たる節もあった。
もちろん、いくつも推測できるにせよ、自裁の理由など確たるところは他人に理解できるべくもない。ありきたりの物言いになってしまうが、Nの心中の底には余人には窺い知れない闇があったと思う。それを別な表現で語るなら、闇のなかに光輝いている一点があると言えようか。その死から一定の時間が経ったいま、その闇について、私なりに合点がゆくのだ。Nはその一点を常に見つめながら生きてきたのではなかったか。
その一点こそ、私はNの精神の原像だと思う。
その原像は、生を維持せしめる愛であったり、連帯であったり、使命感として焼き付けられた。Nは家族愛や郷土愛、さらにはもっと根源的な人類愛などをずっと凝視していたのだ。
すすむさんと汽車通学の折々に、ふと会話を止めて長い沈黙が続くときがあった、それは心中に光る一点を見つめていたのだ。私は老いを増すにつれ、その視線に気がついた。この人は人生を貫く姿勢をもっていると感じたのである。」
◎保阪正康 (ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。現代史研究家、ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒業。1972年『死なう団事件』で作家デビュー。2004年個人誌『昭和史講座』の刊行により菊池寛賞受賞。2017年『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞を受賞。近現代史の実証的研究をつづけ、これまで約4000人から証言を得ている。『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)、『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)、『昭和史の大河を往く』シリーズ(毎日新聞社)など著書多数。
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