池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』/アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』/シュタイナー『色彩の本質・色彩の秘密』
☆mediopos3645(2024.11.11.)
『進化しすぎた脳』
『単純な脳、複雑な「私」』に続く
池谷裕二の三作目は『夢を叶えるために脳はある』
高校生たちへの連続講義を下地にしながら
再構成されたものだという
池谷裕二は脳科学の研究者で
やはり基本的に「唯脳論」の視点をとっているようだ
池谷裕二の研究室のホームページに掲げている
本書のタイトルと同じ標語
「夢を叶えるために脳はある」というのは
脳における「ピピピ信号」から
仮想世界(夢/虚構)が生じるように
「現実とは、夢そのものだ」という
「「私」という体験の不思議さ、滑稽さ、
そして崇高さを」表しているという
個人的な見解としていえば
「唯脳論」は「唯物論」とおなじく
それがどんなに精緻な理論を展開し得たとしても
『ほら吹き男爵の冒険』の主人公ミュンヒハウゼン男爵が
自分の髪を引っ張りあげることで底なし沼から脱出するように
ぞれぞれの前提において捨象されているものが度外視されている
つまり唯脳論は脳そのものの存在を絶対化することで
唯物論は物そのものの存在を絶対化することで
その「外部」が捨象されているということである
しかしそれはそれとして
それぞれの探求から得られるものは
それなりに大変興味深く貴重な示唆も多い
以上のことをふまえたうえで
『夢を叶えるために脳はある』から
「見る」ということ
そしてさらに「色を見る」ということについて
見ていきながら
その視点をシュタイナーの精神科学的な視点を
少しばかり加えておくことにしたい
まず「見る」ということについて
「見る」ためには「目」が必要だが
「目さえあれば、ものが見えるようになるわけではない」
「自分の身体の経験を通じて、手間暇をかけて吟味しながら、
光情報の解釈の仕方を学習し」ていく必要がある
赤ちゃんも生まれたときから目の機能はもっているが
身体を使いながら見ることを学んでいく必要がある
この「身体」ということが極めて重要になる
そしてその経験=記憶プロセスを経ることによって
「経験知を獲得し、世界を世界として
意味あるように感じ取って」いく必要がある
「見る」というとき
「網膜が光の刺激を受け、その光を映し取」り
「電気信号に変換して、電気パルスとして、
ピピピと大脳皮質に送」っているのだが
網膜にある色のセンサがあり
それによって世界を色として見ている
人間は「Red(赤)、Green(緑)、Blue(青)」という
3つの色のセンサ(RGB)を持っているのだが
RGBのモニターが3原色で構成されながら
さまざまな色を現象させているように
3つしか持っていないにもかかわらず
それ以外のさまざまな色も見ている
現象としては当たり前のようにも思えるが
実際のところかなり謎のような現象である
たとえば「黄」のセンサはもっていないにもかかわらず
黄色を見ることができるが
その黄色は実在してはいないように
「世の中に見えている黄色は、すべて幻覚」なのだ
そうした実在していない色は
「非スペクトル色」と呼ばれ
センサをもって見ている色とは原則として異なっている
しかしたとえばシャコは色のセンサを
12持っているというのだが
「実験の結果、まったく色の識別ができなかった」という
実在している機能があってもそれを使って経験ができるとは
かぎらないということだ
さらにいえば色のセンサがあり
そのセンサを使って見ている色にしても
電磁波がじっさいに光っているわけではなく
ましてそこに現実の色がついているわけではない
そこにあるのは
「脳が注釈を加えてできあがった
「疑似カラー表示」の世界」なのだ
池谷裕二はそうした脳の働きについて
それがどんな原理で働いているのか
「この世界をどう受け取って、どんなふうに感じている」のか
「感じ取ったことを、どう補完して記憶を作っている」のか
「そんな疑問を解決することで、世界の実態、精神の有り様、
脳の存在意義、そして何より、
「私」の本質についてもっと理解を深め」るための
研究をつづけているのだというが
おそらくそうしたことは
閉じた脳内現象だけで説明することはできないだろう
脳は身体と深くかかわりながら
経験=記憶を蓄積していくが
それらは狭義の科学では捨象されている
心魂的なものや精神(霊)的なものなしでは成立しえない
パソコンはパソコンだけで成立しているわけではなく
それをキーボードなりで操作する者が存在して
はじめて意味があるように
「見る」というのは脳内だけの現象ではないからだ
「精神的なものと物理的なものを分離する」ことはできない
シュタイナーはこう示唆している
「私たちは今日まわりに光の世界を見る」が
「何百万年か前、それは精神世界だった。
私たちは自らの内に精神世界を抱えており、
これが何百万年か後に光の世界になる」のだという
光はかつて高次存在における内なるものだったものが
外なるものとなっているというのである
そしてその光を見るためには
目という「器官」や脳の働きだけではなく
「内なる道具」としての心魂そして経験=記憶が必要となる
色を見るときにも同様だが
ひとは目だけで色を知覚するわけではない
光のなかに色があるわけではないからだ
「すべてを目との関連において、
人間の生全体との関連において、
考察しなければ」ならないのである
「夢を叶えるために脳はある」というときにも
「夢を叶える」のは「脳」ではない
「脳」は道具であって
身体をもったわたしたちは
それを使って「夢」を見ているのだから
■池谷裕二『夢を叶えるために脳はある
「私という現象」、高校生と脳を語り尽くす』(講談社 2024/3)
■アーサー ザイエンス(林大訳)
『光と視覚の科学: 神話・哲学・芸術と現代科学の融合』(白揚社 1997/9)
■ルドルフ シュタイナー(西川隆範訳)
『色彩の本質・色彩の秘密』(イザラ書房 2005/12)
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜
「一日目 脳は夢と現実を行き来する/記憶の呪縛」より)
*「目はものを見るために発達したと思っていたかもしれない。たしかにそういう側面はあるけれど、目さえあれば、ものが見えるようになるわけではない。網膜からあがってくるピピピ信号を、自分の身体の経験を通じて、手間暇をかけて吟味しながら、光情報の解釈の仕方を学習しなければ、「見える」ようにならない。じっくりと時間をかけて自発的な経験が必要なんだ。」
「これは赤ちゃんも同じだ。赤ちゃんは、生まれたその日から目は機能している。光を感じている。しかし、自分の力で身体を移動させることができない。寝返りやハイハイができないうちは、経験不足だかた、見えるにしても、視覚の認知機能としては不十分だ。」
*「感受性期というものがあってね、発達の過程の、ある一定期間に資格経験をしなければ、一生見えない。それが視覚障害者の開眼手術において、大きな問題となる。大人になってから開眼手術をしても、完全な「見え」を手にすることはできない。相当にトレーニングしても、やはりむずかしい。」
「————じゃあ、逆に、視覚を失うことはあるんですか。たとえば、いまから僕の身体がまったく動かなくなるとする。それで、見えなくなることはない?
大丈夫だよ。感受性期を過ぎると、新たな能力を獲得するのがむずかしくなるだけではなくて、一度獲得した能力を失うこともまたむずかしいんだ。」
*「すべては記憶なんだ。経験と記憶は、ここでは同義として用いている。記憶の蓄積が経験。この世界を「いま僕らが感じている」ように脳内で認識できているのは、生まれてこのかた、何年もかけてじっくりと感覚器から脳に上がってくるピピピ信号を味わってきた経験があるから、そうした過去の記憶に準拠しながら物事を感じている。いま生き生きと感じているこの世界は、過去の自分から派生したものだ。だから、人間の成長とは、経験知を獲得し、世界を世界として意味あるように感じ取っていく解釈史。そんなプロセスだと言える。」
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜
「三日目 脳はなんのためにあるのだろう/自由は錯覚」より)
*「視覚について改めて考えてみたい。ものを見るのは、どうして可能なのだろうか。僕らはどんなふうにこの世界を見ているのか、世界のなにを見ているのだろう、という問いだ。
網膜が光の刺激を受け、その光を映し取る。光をそのまま伝達するのではなく、電気信号に変換して、電気パルスとして、ピピピと大脳皮質に送る。これが「見る」ために僕らがやっていること。「見る」の略図を描写すれば、まあ、そういうことになる。」
「信号のコンバーターの役割をしているのが、網膜だ。そこには色のセンサがあって、それによって、僕らは世界をカラフルに見ている。さて、この色のセンサは何種類あるか知っているかな。動物種によって異なるのだけれど、ヒトの網膜は?
————三つ。
そう。光の三原色だね。ヒトは色のセンサを三つ持っている。つまり、Red(赤)、Green(緑)、Blue(青)の頭文字を取って、RGBと呼ばれる。(・・・)
でも、改めて考えると、これはすごいことじゃないかな? わずか3色ですべての色の描写が可能なんだよ。一方で、なぜ、わずか3色のセンサしか持っていないのか、という問いもできるよね。実際。3色以上のセンサを持っている動物がいる。
————チョウとか。
そう。チョウは4色だね。青よりも、さらに波長が短い色、いわゆる紫外線のセンサを持っているから。ヒトとは違って紫外線が見える。(・・・)
ともあれ、チョウは四原色の色彩世界に生きている。昆虫だけではない。爬虫類だって、魚類だって、鳥類だって、その多くが紫外線を感じている。世の中の多くの生物は四原色。それが自然界の大多数。つまり標準仕様。その基準からすれば、ヒトは色覚異常だ。(・・・)
では、いま知られている範囲で、飛び抜けて、たくさんの色のセンサを持っている動物って何だろう? いくつかあるけれど、たとえばシャコなんかがそうだ。」
*「ヒトには黄色のセンサがない。ところが、不思議なことに、黄色が見える。変だよね。」
「色は、決して波長の平均値ではない。黄色は、たまたま赤と緑の中間の色だった。だから「平均値を見ている」と主張しても、あまり不自然には思わなかったけれど、それは黄色が、例としては不適切だっただけの話で、紫の例でわかるように、「平均波長の色」という仮説は、詭弁にすぎない。」
「モニター上の色はあくまでも赤と緑だ。そこに黄色はない。黄色は、このモニター上に実在していない。しかし、実在していないはずの黄色が見える。存在していないものが見えることを、世間ではなんというか知っている?
————幻覚。
そのとおり。(・・・)世の中に見えている黄色は、すべて幻覚だ。だって、僕らは黄色のセンサを持たないんだから。生物学的に見て、黄色を見る手段を持っていない。シャコならば話は別だ。でも、ヒトには黄色のセンサはない。本来、見えてはいけないものを、君らは見てしまった。幽霊を見ているのと、ほとんど同じことだ。禁断の黄色が見えている。幻覚は一部のヒトにだけ生じる病的な症状ではなくて、僕らは普段から幻覚を見ている、ということだ。いや、黄色だけではない。(・・・)
赤と緑と青の3原色以外のすべての色は、幻の色だ。赤と緑の色のセンサが同時に刺激されると、黄という幻色になる。赤と青のセンサが同時に刺激されると、紫という幻覚が脳内に浮かび上がる。
ちなみに、赤と青を混ぜた紫と、紫外線近くに見える純色としての紫では、質感が異なる。プリズムを通してみればすぐにわかるよ。明らかに違う色だ。実はね、赤と青を混ぜて見える紫は、太陽光には存在しない色なんだ。太陽光のスペクトルにある紫ろは違う。それは、そうだによね。赤と青を混ぜて見える「紫」は、そもそも幻覚なんだから、実在するものと同じである必然性はない。
赤と青を混ぜて見えるような実在しない色のことを、「非スペクトル色」と言う。幻覚の色ってことね。英語では、光を混ぜて作った非スペクトル色の紫はマゼンタ(magenta)、光スペクトル状の紫はバイオレット(violet)と呼んで区別している。
もちろん、黄色も非スペクトル色の典型例だ。太陽光に含まれる黄色とは本質的に異なる色だ。いや、待てよ。この言い方はよくない。厳密に言えば、太陽光の黄色が、実際にどんな色なのかを、ヒトは知らない。だって、ヒトは赤と緑と青の色センサしか持っていないから、太陽光に含まれる黄色を感じることができない。ずばり黄色に相当するセンサがないのだから仕方がない。
つまり、僕らが感じる非スペクトル色としての黄色と、太陽から発せられる黄色が同じ色かなんて、僕らには比較することができない。というか、比較という行為が、概念的に成立しえない。そうした問い自体、本来は議論してはならない次元の話題だ。どうあがいても、ヒトには理解しえない領域だからね。」
*{ちなみに、(・・・)「白」というのも不思議な色だよね。「いや、白は色ではない。何も色がついていない状態だ」と反論したいヒトはいるかな。でも、白は明らかに色の一種だよね。色がついていないというのは「透明」という状態を指す。白は透明ではない。有色だ。白も、赤や黄や緑と並び、多種多様な非スペクトル色のうちの一つだ。(・・・)
白というのは、赤と緑と青の三つのセンサが、一斉に刺激されたときに感じる非スペクトル色。赤と緑が刺激されたら、赤や緑とは無関係な、黄色という、まったく別のカテゴリーの色が見えた。それと同じで、三つのセンサが一斉に刺激されると、赤でも緑でも青でもない、あの独自な色である「白:が見える。
白は、その定義として、「センサがすべて均等に刺激された状態」を指す。だから、これは色覚に限らない。音だって、白色がある。つまり、耳の音程センサが、低い音から高い音まで、一斉に刺激されたときに聞こえる音が、それに相当する。この音を色になぞらえて「白色雑音」という。ホワイトノイズともいうな。ラジオの周波数があっていないときに聞こえてくる、あの「ザーッ」という音。あれがホワイトノイズ。つまり、白い音だ。」
*「黄色のセンサなんてなくても、幻覚として黄色を感じることができる、ここが実におもしろいポイントだ。なぜなら、逆の質問がありえるからだ。「黄色のセンサがあれば黄色が見えるのか」という問題だ。(・・・)
シャコはたくさんの色センサ、つまり、多数のパレットを持っている。だから、きっと、さまざまな色を細かく見分けられるはずだ。
ところが。実験の結果、まったく色の識別ができなかった。赤と青のように、波長のずいぶん違う色ですら、シャコは見分けることができない。(・・・)実は、シャコは色が見えていないようなんだ。」
*「たぶん、ここにどうしてものを見ることができるかの大きなヒントがある。」
「赤緑青の三原色以外はすべて幻覚だ、と僕が言ったのは、絶妙な嘘だ。明確に間違っている。赤、緑、青だって、幻覚だ。だって、この世界は、さまざまな波長の、さまざまな振幅をもった光が、ピュンピュン、ピュンピュン、あちこち飛びまわっているだけのこと。電磁波は、光っているわけではない。ましてや色なんてついていない。(・・・)
その電磁波という純粋な物理現象を、網膜が捉え、網膜からピピピ信号が脳へと送られる。脳は一生懸命に、そこに彩色している。僕らが見ているのは、電磁波がアノテーション(注釈)された世界。脳が注釈を加えてできあがった「疑似カラー表示」の世界なんだ。
「見える」というのは、そういうことだ。
————光は光っているわけではない。
そうそう。まさにそれ。僕らの常識的な日常感覚からは、ずいぶんと話が乖離しているけれど、僕が伝えたいことは、まさにその方向にある。」
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜
「三日目 脳はなんのためにあるのだろう/脳の無限ループ」より)
*「僕らは、脳という閉じた中にいる、という話を繰り返ししてきたね。自分が中心にあって、世界を対象化していると思っているけれど、実際には、脳は外界からの刺激を受容しているにすぎない。視覚、聴覚、触覚を含めて、どれもね。たとえば、視覚に限っても、網膜に映った風景は、最終的に脳内のピピピ信号の集積に帰着する。発火、つまりピピピという電気パルスがその実体だ。
そこで大胆な過程だけど、自分が「脳」になったら、どういう感じがするか、どんなふうに外の世界が見えるか、を考えてみよう。」
「脳の中に身を置けば、ひたすらピピピ信号の世界に浮かぶ自分に気づくだろう。どこからともなく、信号がピピピと届く。たくさん入力されてくる。ピピピの情報は手に入るけれど、よくよく考えれば、脳にとって、そのピピピ信号の由来はわからない。ただ、ひたすらに、ピピピの純世界だ。」
「もちろん、脳の外から外に出て眺めれば話は変わるよ。外部から見れば、ピピピ信号の由来はわかる。「ああ、指に針が刺さって痛いのか」とね。でも、脳には脳の外に出るという裏技が許されていない。脳は常に頭蓋骨の中に閉じ込められている。生まれてこのかた外に出たことがない。ずっと頭部の奥に鎮座している。脳は井の中の蛙だ。無知という条件のなかで、「おや、これは手が痛がっている」というピピピ信号だぞ、と解読しなければならないんだ。
どうしてそんな曲芸ができるのだろう。本来できるはずがないよね。でも実際には、脳はピピピを解釈している。」
*「脳がやっているのは、次のような具合だろう。つまり、あるピピピを発生させてみると、いつも特定のピピピが還ってくる。脳がわかるのはこれだけだ。外部から見れば「手を動かしたら自分の手が動くのが見える」ということだとわかるのだけれど、脳は、手も視覚も、知識としては持ち合わせていない。単に、あるピピピを起こしてみる(=手を動かす)という試みを繰り返すと、いつも決まったピピピを感じる(=手が動くのが見える)という経験を何度もすることになる。そうした経験の繰り返しを通じて、「手を動かそうと筋肉に指令を出すと手が動く」という因果関係を学習していくんだ。」
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜
「三日目 脳はなんのためにあるのだろう/私という現象」より)
*「この世に生を受けて、身体を通じてさまざまな経験をしながら、ピピピ信号にアノテーション(注釈)を続けていくうちに、いつしか、自分とそれを取り巻く「世界」が誕生する。それとともに、「私」という現象が生まれる。ヒトの幼児は、1歳半くらいになると、鏡に映った自分の姿がわかる。それが自分の像だと理解できる。これは結構高度なんだ。(・・・)
さらに写真に写ったお父さんやお母さんがわかるようになる。実物ではない。写真の父と母の姿だ。それを認識できる。(・・・)でも、そのニセの像から「親」という現象が、確かに立ち上がるんだ。
おそらく、「私」というものも、これと同じだろうね。私は実体というより現象なんだろうと思う。」
「ヒトという生物は、誕生が区切る「生」のはじまりという虚構を作り上げ、せっせと「人生」という物語を紡いでいる。そうして、僕らは今日ある「私」までたどり着いた。その人生は徹頭徹尾、アノテーション(注釈)によって浮かび上がった物語だ。」
*「初日に僕の研究室のホームページに掲げている標語を話題にしたことが覚えている?」
「この標語は「将来の夢を抱き、それを実現させる」という血気盛んな精神論を説いているわけではない。ピピピ信号から仮想世界が生じる。仮想世界とは、つまり「夢」のことだね。そんな虚構を脳はでっちあげている。現実とは、夢そのものだ。そんな「私」という体験の不思議さ、滑稽さ、そして崇高さを、この標語は言わんとしている。」
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜
「三日目 脳はなんのためにあるのだろう/仮想と現実」より)
*「僕らの理解が追いついていないだけなのか、言い換えると、ヒトの脳には本当は理解できるのだけど、まだヒトの理解力が未熟なのか、そもそもヒトの脳では絶対に理解できないレベルなのか、ということの区別は、残念ながら、いまの僕らにはわかたない。それがわかる権利を持つのは未来人のみだ。
もう一つ、解決方法がある。「科学」の定義を変えることだ。「ヒトにわからなくてもよい」と諦めること。」
「でも、そうしたヒトが無理解ながらも活用できるものを、僕は、科学ではなく、「技術」と呼んで。厳密に区別している。(・・・)それが、あくまでもヒトが使う「道具」であって、僕にとっては「科学」ではない。原理がわからないからね。」
「科学と技術の境界が、だんだんと曖昧になり、もはや、これを区別することの意味が薄れつつある。そんな現在において、私のような「科学」への信念は独善的で、実のところ、醜い化石となってしまったのかもしれない、とね。そんなふうに考え始めると、科学者としての僕の立ち居振る舞いに、微妙な違和感が出て来る。
というわけで、これは先ほどの私の決意にもつながるわけだ。こうしたモヤモヤした思考ループから脱却して、いさぎよく、いまの僕たちのレベルでもわかる範囲内で、神経細胞のピュアな原理にのみ着目しよう、とね。」
**(池谷裕二『夢を叶えるために脳はある』〜「おわりに」より)
*「脳はどんな原理で作動しているのでしょう。脳はこの世界をどう受け取って、どんなふうに感じているのでしょう。脳は感じ取ったことを、どう補完して記憶を作っているのでしょう。そんな疑問を解決することで、世界の実態、精神の有り様、脳の存在意義、そして何より、「私」の本質についてもっと理解を深めたい。そんな思いで、日々研究を進めています。
その思いを、この連続講義で高校生たちに披露しました。」
「私たちが自分の生き方に対して問うべきは「人生にどんな意味があるのか」ではなく、「どんな意味のある人生にしたいか」です。意味を訊くのではなく、意味を創り出す。外部に答えを求めるのではなくて、自分の内側に答えをこしらえる、このプロセスにこそ、ヒトが生きる意味があります。現実と虚構を往来することは、この問いを究める切符を手にするようなものです。」
**(アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』〜「8 光を見る」より)
*「一九二〇年の暮れ、シュタイナーは、その霊的な世界概念によく通じている聴衆を対象にした講演で、光の本性と歴史に対する注目すべき展望を提示した。古代の光の起源に関する一種の霊的考古学をやってみせたのである。そこで述べた説明は、その広がりと言い回しの点で神話的ではあったが、光の生成と本質の緻密なイメージとなるよう意図したものだった。またしてもゲーテが、考える入口を提供してくれる。ゲーテは言った。「色とは、光の功績と苦難である」的確なメタファーである。」
「私たちを取り巻く実際の物理的光は、天使が生きた古代の精神世界が残した化石のようなものである。内なるものが外なるものになったのである。
さらにシュタイナーは(・・・)私たちが今、魂の中で養っている精神世界も、同じようにいつの日かコスモスの未来の進化のある局面の光、あるいは闇になると言う。「私たちは今日まわりに光の世界を見る。何百万年か前、それは精神世界だった。私たちは自らの内に精神世界を抱えており、これが何百万年か後に光の世界になるだろう。・・・・・・そして、世界になろうとしているものに対する大きな責任感が私たちの中に湧き上がる。なぜなら、私たちの精神的衝動が後にさまざまな耀く世界になるからである。
このような見方をすると、精神的なものと物理的なものを分離するということにはどうしてもなりようがない。」
「精神界が崩れれば、光も未来永劫暗くなる。したがってシュタイナーは、科学的な知識と宗教的な知識を切り離すのは、光を包括的に理解する妨げになるだけではなく、私たちの未来をも脅かすとみた。シュタイナーにとって私たちを取り巻く自然界は精神界から生まれる。チョウがイモムシから現れるのとちょうど同じように。そして、その姿形は、私たちがサナギの中にどんなイモムシを入れるかにかかっている。」
**(アーサー ザイエンス『光と視覚の科学』〜「12 光を見る」より)
*「将来、私たちはどのように光を見るのだろうか。これまでの話から、実り多い道が一つ、はっきりと見えるように思われる。何よりまず、それは、私たちはみな部分的にしかものが見えない生物であり、したがって自然の一部しか知らないという謙虚な認識を要求するものになるだろう。ノヴァーリス————詩人であるとともに鉱山技師だった————が書いたように。「しかし、自然について教え、説こうと試みても無駄である。生まれつき目が見えない者は、色や光が離れたところにある物の形についていくら教えても、見ることができるようにはならない。ちょうど同じように、必要な器官、内なる道具、特殊な創造の道具をもっていない者は誰も自然を理解しない」。
ノヴァーリスの言う「必要な器官、内なる道具」がないのなら、それを養わなければならないだろう。」
**(シュタイナー『色彩の本質・色彩の秘密』〜「第二部 色彩の秘密/4色彩と健康」より)
*「人間の目を理解しないと、色彩を理解することはできません。人間は目をとおして色を知覚するからです。しかし、人間は目だけで色を知覚するのではありません。」
「科学者は、なにかのなかにすべてが含まれているという、最も簡単な説明をします。」
「ニュートンは、「太陽はあらゆる色彩を含んでいる。我々はそれらの色彩を取り出しさえすればよいのだ」と、言います。」
「すべてを目との関連において、人間の生全体との関連において、考察しなければなりません。」
「ニュートンの色彩論とゲーテの色彩論には違いがあります。人々は、そのことにあまり気づいていません。人々は物理学者の見解に目を向けています。ニュートン色彩論については、いろんな本が解説しています。賢い人々は、虹の赤・橙・黄・緑などの色を思い描きます。しかし、プリズムをとおして見た場合、そのようには見えません。ニュートン主義者も、そのことを知っています。知ってはいるのですが、認めはしないのです。
虹を見てみましょう。一方には、太陽に照らされた雨をとおして闇が見えます。虹の青色が見えるのです。反対側では、暗さをとおして光を見ることになります。赤色が見えます。すべては、「暗さをとおした光は赤。光をとおした闇は青」という原則によって説明できるのです。」
**(シュタイナー『色彩の本質・色彩の秘密』〜「第三部 補遺/色彩の創造的世界」より)
*「ある形態が目のまえにあるとき、その形態は、もちろん停止したものです。しかし、その形態が色彩を持った瞬間、色彩の内的な動きをとおして、形態は休止から立ち上がり、宇宙の渦巻き、精神性の渦巻きはその形態を貫きます。形態を彩色するとき、私たちは宇宙の心魂によって形態を生気づけるのである。色彩は形態にだけ属しているのではありません。私たちが個々の形態に与える色彩は、その形態を周囲・宇宙と関連させます。形態を彩色するとき、「いま、私は形態に心魂を与える」と言わねばならないでしょう。色彩によって形態を生気づけるとき、私たちは死せる姿形のなかに心魂を吹きこむのです。」
○池谷 裕二(いけがや・ゆうじ)
1970年、静岡県藤枝市生まれ。薬学博士。現在、東京大学薬学部教授。脳研究者。海馬の研究を通じ、脳の健康や老化について探究を続ける。文部科学大臣表彰(若手科学者賞)、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞などを受賞。「ERATO 池谷脳AI融合プロジェクト」の研究総括も務める。本書が完結編となる高校生への脳講義シリーズは、他に『進化しすぎた脳』『単純な脳、複雑な「私」』(ともに朝日出版社/講談社ブルーバックス)がある。その他の著書に『記憶力を強くする』(講談社ブルーバックス)、『脳には妙なクセがある』(扶桑社/新潮文庫)、『パパは脳研究者』(クレヨンハウス/扶桑社新書)など、共著に『海馬』(朝日出版社/新潮文庫)、『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか』(講談社)などがある。