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戸井田道三『忘れの構造 新版』/今福龍太『言葉以前の哲学―戸井田道三論』

☆mediopos36452(2024.11.18.)

戸井田道三『忘れの構造 新版』が文庫化されている

戸井田道三については
戸井田道三『生きることに○×はない』
今福龍太『言葉以前の哲学―戸井田道三論』を
mediopos-3145/2023.6.28
mediopos-3159/2023.7.12
でとりあげたことがある

今回はとくに『言葉以前の哲学―戸井田道三論』をふまえながら
「忘れる」ということについて考えていければと思う

忘れてはいけないことがあるのはいうまでもないし
記憶力がいいのはひとつの能力であり
また美徳でもあるだろうが

戸井田氏は『忘れの構造』の最初のエッセイ
「記憶とブラック・ホール」で
「忘れることはいいことで、
ありがたいことなのだと思わなければならない。」
そう語っている

個人的にいっても
忘れるのは得意中の得意なので異論はない
なんでも忘れないでいるのはカラダにも悪いからだ

ということでここではまず
忘れることとカラダとの関係を考えていきたい

忘れるといっても
おそらく記憶がまったく失われてしまうわけではない

思い出せる記憶もあれば
忘れなければ生きていけないような切実な記憶や
思い出せないとしても
潜在意識の領域にある記憶もあり
ふとしたことから記憶が甦ってくることもある

そんななかで
頭で覚えた記憶は忘れやすいが
泳ぐことを覚えたり
自転車に乗ったりすることができるようになると
たとえ表面的な記憶が失われてしまったとしても
カラダは忘れることがない

戸井田氏はこう語っている

「カラダは私の宇宙のブラック・ホールかもしれない。
ブラック・ホールは光より速い速度で
万物をひきよせているから見えないのだそうだ。
言葉以上の速さで思考が突入する地点、それがカラダであり、
思考の言葉にとってそれはナイというほかない。
つまり「忘れ哲学」の到達点でしか、それはない。」

戸井田氏は一九八八年に七十八歳で亡くなるまで
療養のために転居した湘南辻堂で約五三年間暮らし
その場所で「非土着のネイティヴ」として
自己のからだを見つめながら
「深層の歴史」つまり
「言葉以前」の無意識領域の歴史を
探究した思想家である

カラダが覚えているというのも
そうした「言葉以前」の無意識領域での記憶にほかならない

そのひとつに「刷りこみ」がある

たとえば「アヒルのひよこ」が
生まれてはじめて見たものを母親(?)だと思いこみ
あとで変えることはできなくなるというものだ

戸井田氏は「このことは人間にもまた
言葉以前の刷りこみがあったと考えていいことを
示しているのではないだろうか。」と示唆している

それは「言葉以前」の領域に溯ることで
言葉によって失われたものを
見出すことができるかもしれないということでもあるが

刷り込まれてしまって
変えることができなくなっていたり
変えることなど思いもよらなかったりするものであり
それは根源的な思い込みとして否応なく
さまざまなかたちでわたしたちを縛っている

そしておそらくそのことを
私たちは記憶として意識することができず
「言葉以前」の領域ですでに刷り込まれた状態で
感じ考え行動せざるをえないということだ

そうした「言葉以前」の領域で刷り込まれているために
それから脱することは非常に困難な状態となっている
「洗脳」のように

そもそも変わろうという衝動が起こらない
あるいは変わろうとしても変われない状態になっている

おそらくだれにでもそういう刷りこみは
多かれ少なかれないとはいえないだろう
それに気づくことができればいいのだが
その前に立つとそこにヴェールが降りてきて
その向こうが見えなくなってしまうのである
そこに自由は失われている

■戸井田道三『忘れの構造 新版』 (ちくま文庫 2024/11)
■今福龍太『言葉以前の哲学―戸井田道三論』(新泉社 2023/6)

 **(戸井田道三『忘れの構造 新版』より)

・記憶とブラック・ホール

*「忘れることはいいことで、ありがたいことなのだと思わなければならない。」

*「「粗忽の使者」という落語がある。至極忘れっぽい武士が他家の殿様へ口上をいう使者になってゆく。いざ口上をいう段になって、いくら述べようとしても思い出せない、こまりはてなのち、実は自分の尻をつねってもらえば思い出す癖がござるといって、つねってもらうが思い出せない。もう少し強く、もうちっと強く、一層強くとだんだん指に力をいれてつねってもらうがだめで、しまいには釘抜きをつかってやっとこさつねられる。
「思い出してござる」
「なんと」
「口上をうかがってまいるのを忘れたのでござった」
 つまり粗忽な使者は、忘れたこと自体を忘れていたのであった。聞いていると、尻をつねられるおかしさに、なんということもなく笑ってしまうが、あとで考えるとこれも何やら深刻なところがある。私も忘れたこと自体を忘れてしまったのではないかという不安は、裏から示唆するためにできた落語のように思えてくるのである。尻をつねられるのがいかに痛い滑稽であろうとも、それで思い出せるものなら、ひとつ誰かにひねってもらおうかとさえ考えてしまう。
 記憶することを正、忘れることを負とすると、忘れたことを忘れているのは負の負だから数学的には正になるといっていいのかもしれない。ところが、忘れたのを忘れていると思いはじめると、負の中へ負がめりこんでいるだけで、いっこうに正のほうへかえってこない。地球重力の圏外へとびだした人工衛星が戻れないで永久にどこかわからぬ空間へとび去っていくようなものだ。虚無の中をどこまでもどこまでもとびつづけなければならない。
 そこでブラック・ホールという宇宙の穴が「忘れる」という現象によく似ていると考えてはどうだろう。」

*「イメージとしてえがけないブラック・ホールをなんとかして精神作用におきかえることはできないだろうかと考えたとき、ハタと思いあたったのが忘れたことを忘れているというあのことであった。えたいの知れない底深さをもち、すべてを呑みこんで、呑みこんだ痕跡も、呑みこまなかった痕跡も残さない。それでいて記憶されているすべての配置と秩序の背後にあって記憶を記憶たらしめるあれだ。」

・刷りこみ

*「面白い動物実験がある。心理学で刷りこみという。言葉以前の記憶である。」

「アヒルのひよこが動くものを「母親と思って」と書いたのは、もちろん人間化して比喩的にいったまでである。アヒルのひよこは思うも思わないもない。本能の銘ずるままに生きるにすぎない。けれど、このことは人間にもまた言葉以前の刷りこみがあったと考えていいことを示しているのではないだろうか。」

・空間感覚の成り立ちかた

*「人間のからだは、左右はシンメトリックだが、前後・上下はそうではない。だから空間構造も、そのような構造で思考している。」

「人間は前方へ歩くがうしろへ進むことはできない。進歩と退歩とを前向きうしろ向きで意味させるのである。また背骨がからだの中央にまっすぐ立っていると安定感があるので左右に傾斜することにあやうさを感じる。中道が安全だというのは、そのような生理的な感覚を社会的なものに流用するごまかしにすぎない。ごまかしが有効な理由は、空間感覚の主体的構造を人びとが忘れているからにほかならない。
 空間感覚が価値観とむすびついていて明瞭なのは上下である。上はよりよく下はよりわるい。天国は決して下にはなく、地獄は決して上にはない。価値をあらわす言葉は上下・高低と関連していることが多い。それを除外しては価値について考えることも表現することもできない。」

・〈忘れ〉と自由な構想

*「コンピューターというのは、ひどく不自由なものらしい。一度入れたデータを忘れることがない。入れるデータの精密度とか重要度とかいうものは、求める応答の種類によってちがうから、その調節をうまくやらないと、その調節をうまくやらないと、かならずしも適切であるとはかぎらない。
 人間は、忘れるという無意識の選択でデータを廃棄するから、かえって危険がなくてすむのかもしれない。人間にとって必要なのはつねにデジタルな精確さではない。求めている応答のあるべきオーダーによって漠然としたことの方が精確だということもあるのだ。でなければパターン認識ということ自体が成り立たなかったはずである。」

・置き忘れる眼鏡

*「たとえば忘れるということは、記憶があった意識の残像が欠落することだったとすれば過去としか関係がない。時間の様態を過去・現在・未来の三つに考えるとすれば、忘れるは過去としての時間である。前向きを未来とすれば、後ろ向きでしかありえない。しかし、過去は記憶に対応するように、現在は直観に、未来は想像に対応する。そして前向き、後ろ向きという主体の姿勢によって変換したから未来も過去も時間を空間化していることになる。
 ややこしい考えをとびこして結論をいえば忘れるというのは、過去に属しながら、過去からぬけだして自由になることである。目がからだからぬけだせないのに、眼鏡は置き忘れられて主体から自由な位置にいられる。だが主体と何かでつながれているから眼鏡というからだの一部でとどまっており、ただの物ではない。あるいは身体をからだと別のものだとすれば眼鏡のからだとのつながりは身体的なるものだといえるのかもしれない。目と眼鏡との関係は、からだと身体との関係を示唆しているらしいのである。」

・カラダがおぼえる

*「不思議なのはおよぐのを一度おぼえたらけっして忘れないということである。子供のころおよげたが五十歳になったらおよぐのを忘れていたというようなことはおこらない。おそらく記憶喪失になった人でも、もとおよげた人は見ずに投げ入れたらおよぐだろう。記憶は喪失することができる。しかし、およぐことを忘れることはできない。するとおぼえるということがらは胆汁ではなく幾とおりもおぼえかたがあるのであろう。」

「これは俗にカラダがおぼえるのだといっている。重力・慣性・摩擦といったような物理を知っていてもそれだけでは自転車に のれない。理論が頭でおぼえるだけだからだ。そして忘れることができる。自転車にのること自体は忘れることはできないとすれば、やはりカラダがおぼえるとしかいいようがないだろう。つまり、おぼえかたを大雑把にわけると頭でおぼえるのとカラダでおぼえるのとにわけられるらしい。」

*「カラダは私の宇宙のブラック・ホールかもしれない。ブラック・ホールは光より速い速度で万物をひきよせているから見えないのだそうだ。言葉以上の速さで思考が突入する地点、それがカラダであり、思考の言葉にとってそれはナイというほかない。つまり「忘れ哲学」の到達点でしか、それはない。」

・仮面の内と外

*「いったい仮面はそれをかけた人の外にあるのだろうか、内にあるのだろうか。地の顔を自分のものとすれば仮面は、その上をおおうもの、外からくわわったものである。しかし、むりにはがすと肉が裏側についてはげるということからいえば仮面は顔面そのものである。顔面だから自分の心のあらわれるところであり、仮面によって自分の心が生きるということになる。外か内かときけば、外でも内でもない地帯、領域がそこにはある。
 てっとり早くいってしまえば、さきに縄張りは動物の身体だといったように。仮面は、それをつけた人間の肉体ではないが身体だとはいえる。」

*「仮面を仮面として人に押しあてる視線とまなざしもまた相手の仮面を忘れて、そこに人を見なければならない。そのような特殊な空間を成り立たせるのは仮面のつくりだす外でも内でもない領域があるからである。」

・無意識へ押込む

*「生命に別状があるような大事なことは忘れないと、ひとはいう。おそれくそうだろう。私は自分が忘れっぽくなって、ますますそう思う。いくら忘れても、生命に別状をおこすような大事なことは忘れないから、毎日を平気で生きている。しかし、おぼえていると生命に別状がおこりそうな大変なこともたまにはあるものだ。このほうはかえって忘れるほうが身の安全である。自己防衛上、忘れないわけにゆかぬ。この種のことはあまりに重大だからこそ忘れたということもおこりうるのである。」

*「無意識の忘れにも幾種類かの別があることはわかる。(・・・)個人の自己防衛的記憶末梢とちがって、集団的な無意識の忘れもある。」

□戸井田道三『忘れの構造 新版』【目次】

序章 記憶のヒキダシ型とマリモ型   

1
記憶とブラック・ホール
刷りこみ
風車と舌
忘却の空白と糸
空間感覚の成り立ちかた
夢も歴史のうち
喪失した自分
〈忘れ〉と自由な構想
アイマイの効用
共同の原型
〈だろう派〉の主張
置き忘れる眼鏡
内と外の間の漠然とした領域


カラダがおぼえる
洒脱な病人   
ぎごちない演技
忘れた何かが呼んでいる
からだの操作ミス
身中の虫
縄張り
仮面の内と外
〈眼鏡は顔の一部です〉
顔とそこに表れるもの
身のたけにあった言葉で
牡蠣とカキとoyster
おいしい仔犬
こぶとり爺さん
表現を妨害するいたずらもの


熱湯好き
丈夫すぎるのもよくない
〈ひとの噂も七十五日〉
忘れぬことの災害
墓石は忘れるため
傘を忘れること
郵便配達夫ルーラン
〈ぼくちゃん〉
風情の底の忘れもの
祭りのしきたりを忘れても 
発掘された安万侶墓誌
無意識へ押込む
山の神まつりのひながた
医師の手
同期のクラス会
思い出は身に残り

終章 あるかなきかの煙

あとがき   

解説 忘却の波をくぐり抜けてよみがえる言葉  若松英輔 

○戸井田 道三(といた・みちぞう):1909-88 東京都生まれ。早稲田大学卒業。天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。著書に『日本人のかみさま』、『観阿弥と世阿弥』、『きものの思想』(第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞)などがある。

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