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桑木野幸司 「庭をつくるように、記憶を育む 記憶のデザインとメンテナンス」(DISTANCE media)/桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』

☆mediopos3622(2024.10.19.)

DISTANCE mediaの
「F6 記憶のケア」の「F6-6」に
桑木野幸司「庭をつくるように、記憶を育む」
「前篇・後編」が掲載されている(2024/10/18)

桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』は
mediopos-1494(2018.12.18)及び
mediopos-3210(2023.9.1)でとりあげているが
今回の記事はそれに関連した内容となっている

プラトンの『パイドロス』には
「文字で出来た庭」という比喩が語られている

そこには
「文字(書き言葉)には対話能力が欠けているから、
文筆などしょせん遊びにすぎ」ないという
半ば否定的なニュアンスがありはするのだが

「文字で出来た庭」には
「記憶のリザーブとしての文字(の庭)という、
メディアの問題(文字=庭=記憶)」と
「言語による魂の成長を園芸と重ねる、
教育哲学的な視点(魂=庭)」
という二つの重要な観点が凝縮されている

「加えて、プラトンの思想を継承した西欧哲学の伝統では、
心/魂(animus)は、しばしば記憶と同一視された」
ことから考えれば
「文字=庭=魂(心)=記憶」ともいえる

そして魂や記憶が「庭」に類比されるならば
その「庭」には「メンテナンスが不可欠」であり
「入念な手入れとケアによって、人の内面は涵養され、
豊かな記憶が育ってゆく」場所ともなる

西欧には古来から
そのための「記憶術」というメソッドが存在した

それは古代ギリシア・ローマの弁論術に起源をもち
以下の基本原理をもっている

 1.情報の器となる建築・空間を心の中に設定する
  (この器のことを「ロクス」と呼ぶ)
 2.憶えたい情報をイメージ群に変換する
 3.それらのイメージを先の仮想建築の中に順番に配置する
 4.思い出したいときに心の中の空間を巡回し、
   配置画像からお目当ての情報を取り出してゆく。
 5.データが不要になったら、イメージのみ消去して、
   建築の器は再利用する

こうした記憶術は中世には下火になったが
西欧のルネサンス期に復活し大流行する

ルネサンス期の人々は当時においてもすでに
「知的化石」ともなっていた記憶術を
「膨大な蔵書を丸ごと頭にしまいこむ」
「記憶の図書館」の構築のために活用した

基本は上記の基本原理と同じだが
「学問分野別に分かれたロクスの中に、
書物から学んだことをイメージ化して、配置してゆく」

しかし「記憶術を用いて作りあげた「記憶の庭」」には
「日々のケア/メンテナンスを欠くことができない」
「記憶は世話するほど育つが、
放っておけばたちまち衰退する」からである

重要なのは「常に学習意欲を保って己の力で思考し、
獲得した知識を丹念に育てること」である

さらには「記憶の庭の秩序を保ち、
健全な情報の育成を守るため」の「忘却術」も必要となる

「時間の経過とともにイメージが
ロクスから消えてゆくのを待つ」だけではなく
「ロクス上から消去しようとしても、容易に消せない」ときは
「積極的な措置」も必要となる

そんな面倒極まりないともいえる「記憶術」が
ルネサンス時代に流行したのは
それが「場所とイメージの組み合わせという
認知科学的に有効な手法に加えて、
記憶データのケアをも有機的に組み込んだシステムであった」ため
魂=庭の成長に効果的であったからではないかと
桑木野氏は述べている

こうした記憶術は
現代の読書や情報摂取とは
ずいぶんその様態を異にしているが
わたしたちはだれでも生得の能力として
心の中に「奇跡の庭園」をもっているという

そして現代においても
「自分にとって意味のある情報を選び、
それを徹底的に咀嚼しつづけ」
「庭をつくるように、記憶を育」んでいくことが
重要なのではないかというのである

個人的なことになるが
正直なところ単純記憶を苦手とし
忘れるのを得意としている

記憶の庭の一次的な容量はきわめて小さく
そのためある程度の秩序は保たれているが
決して大庭園などにはなりようがなく
あたまのなかはいつもからっぽに近い

できるのは関心のあるテーマについての考え方を
ある種のまとまりとして植えて育てることくらいだ
そしてその小さな庭に植えたひとつひとつを
考えるたびごとに展開させ
二次的な形に成長させていく感じだろうか
そして用が済んだらまたあたまをからっぽにする(忘れる)

そんな魂=庭でも
おそらくなんとかなってきているようなので
そのスタイルはたぶん変わらないだろうと思っている

■DISTANCE media(F6 記憶のケア)
 F6-6 桑木野幸司
「庭をつくるように、記憶を育む」
    記憶のデザインとメンテナンス
F6-6-1(前篇)/F6-6-2(後篇)2024/10/18
■桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』
 (講談社選書メチエ 2018.12)

**(DISTANCE media F6-6 桑木野幸司「庭をつくるように、記憶を育む」より)

「インターネットは、かつて図書館や博物館のメタファーで語られていました。記録メディアの飛躍的な向上、さらにはオープンで集合知的なその性質によって、無限に記録と記憶が可能な開かれた情報環境が実現し、世界の共通のインフラが生まれる、かつてそんな夢が描かれていました。

しかしながら、めまぐるしく押し寄せる情報の波は、過去をまたたくまに押し流し、私たちの足場を時々刻々と組み替えています。さらには、精度の低い情報、偏った情報、誤った情報が流通し、情報環境の劣化、タコツボ化、汚染にもさらされています。いわば、記録も記憶もおぼつかない情報環境の中で、私たちはこれからどのように、記憶を共有し、共同体を形成してゆけばいいのでしょうか?」

「未曽有の情報洪水に見舞われ、中世からの知のフレームの変更を余儀なくされたルネサンス。この時代に脚光を浴びた「記憶術」を研究する、大阪大学の桑木野幸司さんに、ケアという観点から、育むものとしての「記憶」と「心」と「庭」の深い関係について語っていただきました。」

**(DISTANCE media 6-6 桑木野幸司「庭をつくるように、記憶を育む」/前篇 より)

・庭を耕すように、心/魂を耕す

「ソクラテス「だけど文字で出来た庭には、当然その人は、遊びのために種を蒔き、書くだろう。(…)」
(プラトン『パイドロス』、脇篠靖弘訳、京都大学学術出版会、128頁)

「文字で出来た庭」(文字という園)──この風雅な比喩が語られるのは、プラトン中期対話篇の傑作『パイドロス』だ。ただし、いくぶん否定的なニュアンスを帯びている。要するに、文字(書き言葉)には対話能力が欠けているから、文筆などしょせん遊びにすぎず、よくて備忘の役に立つぐらい。では言語の最良の使い方は何かといえば、「ふさわしい魂」を相手に、問答法の技術(対話)を用いて、「知識とともに言論を蒔き、植え付けるとき」だとする。そこから新たな言葉の実がなり、不滅の命をたもつだろう、と。

 いきなり古典の引用からはじめたのは、この箇所に、本稿で考えてみたい二つのポイントが凝縮されているからだ。
 一つは、記憶のリザーブとしての文字(の庭)という、メディアの問題(文字=庭=記憶)。
 もうひとつは、言語による魂の成長を園芸と重ねる、教育哲学的な視点(魂=庭)。

 加えて、プラトンの思想を継承した西欧哲学の伝統では、心/魂(animus)は、しばしば記憶と同一視された。であるならば、カッコで示した上の等式は、次のように統合できよう――文字=庭=魂(心)=記憶。」

「魂にせよ、記憶にせよ、それが庭園に類比しうるのなら、メンテナンスが不可欠であろう。入念な手入れとケアによって、人の内面は涵養され、豊かな記憶が育ってゆく。

 西欧には古来、まさにそのような心と記憶のケアに特化した大変魅惑的なメソッドが存在した。その名も「記憶術」。それはまさに園芸術のごとく、手間暇かけて心の中に記憶の園林を造りあげ、それを丹精込めて育ててゆくテクニックであった。

 本稿ではこの記憶術なる、一見古めかしくて実は新しい知的メソッドを、ケアという視点から眺めることで、現代の記憶と情報文化の問題を考えるヒントを探してみたいと思う。」

・「記憶術」とはなにか?

「以下に紹介する古典的記憶術は、一般に「記憶の宮殿」の名で知られている現代の記憶強化法と通じる部分が多々あるため、馴染みの深い方も多いことだろう。その歴史は古く、古代ギリシア・ローマの弁論術に起源をもつものだ。

 基本原理を簡単にまとめると、

 1.情報の器となる建築・空間を心の中に設定する(この器のことを「ロクス」と呼ぶ)
 2.憶えたい情報をイメージ群に変換する
 3.それらのイメージを先の仮想建築の中に順番に配置する
 4.思い出したいときに心の中の空間を巡回し、配置画像からお目当ての情報を取り出してゆく。
 5.データが不要になったら、イメージのみ消去して、建築の器は再利用する

 このように箇条書きにすると簡単そうに見えるが、実際にこのシステムを稼働させようとすると、かなりの手間とエネルギーを要する。もちろんそれだけの価値は十分にあり、一度この手法で記憶したデータは、かなり長い期間、克明に残りつづけることが確認されている(ぜひお試しあれ)。現代の記憶力競技大会の勝者の多くが、これと類似の方法を活用していることからも、その有効性が証明されているといえよう。

 ただし、効果を高めるにはいくつかの工夫が必要だ。まず器たるロクスは、何度も使いまわすことになるので、よほどしっかりと精神内に刻印し、心の目で内部を自在に移動できるようにしておく必要がある。また、記憶容量を増やしたければ、当然ロクス(仮想建築)の数と規模を増加させる必要がある。まさにヴァーチャル・アーキテクトだ。

 ついでイメージについて見るなら、憶えたい内容/概念を客観的に映像化しただけでは、印象が薄いし冗長になる。むしろ、情報を思い切って圧縮しつつ、鮮烈で過激な画像を作りこむ必要がある。要するに、見た瞬間にそれがあらわす内容が理解でき、かつ、ぎょ!と驚くか、映像の美(もしくは醜)に呆然とするか、はたまた笑い出したり恐怖に凍り付いたりしてしまうような、そんな偏倚でクセの強いイメージが理想なのだ。だから、映像作家としてのセンスも必要となる。

 さてこの記憶術、もともとは古代の弁論家たちが、長大な演説を暗唱するために開発したテクニックであった。つまり、一度は外部記憶装置たる「原稿=書かれた文字」に託した記憶のコンテンツを、再び精神内に取り込んで、内面化しようとする試みであったといえる。

 この術はその後、中世にいったん下火になったのち、西欧のルネサンス期(15-17世紀初頭)に華々しく復活し、大流行を閲する。印刷術が発明されたおかげで、術の原理を解説した安価な教本が出回ったことに加え、もうひとつ、忘れてはならない事情があった。それは、人々が記憶に留めたいと思うような、そんな新奇な情報の洪水が押し寄せた時代であったという点だ。新大陸アメリカの発見、アジア諸国との交易の進展、自然科学の発展、都市経済の発達、などなど。くわえて、印刷本が大量に刷られ、版画技術も洗練の度合いを深めたため、文字と画像が世の中にあふれ返ったのだ。

 とはいえルネサンス時代といえば、紙の供給も安定し出し、百科全書のたぐいも編纂され、公共図書館のはしりのようなものも、ちらほら現れ始めた頃である。つまり、記憶を外部記憶装置にアウトソーシングしようと思えば、ある程度は可能であったはずなのだ。にもかかわらず当時の知識人たちの多くが、この古色蒼然とした記憶の術に魅惑され、その効果にほれ込んだ。そこにはどんな深い理由があったのだろうか。」

・記憶を、外部装置にまかせるばかりでいいのか?

「ルネサンス期の人々が記憶術を具体的にどう活用していたのかを知るには、当時刷られた術の教則本を読むにしくはない。なかでも本好きにはたまらない事例を一つ紹介してみよう。それが「記憶の図書館」、すなわち膨大な蔵書を丸ごと頭にしまいこむ試みである。やはりこれも、いったんは書物という外部記憶装置に託したコンテンツを、再び精神内に取り込む工夫だ。」

「なるほど、記憶の図書館を構築し、巧みに運用するのは並大抵の労力ではない。けれどもそれに見合っただけの価値がある、とジェズアルドは断言する。なぜなら、記憶イメージを日々受け入れれば受け入れるほど、蔵書が完璧に育ってゆくので、かえって負担にはならないというのだ。データの増大はむしろ喜ばしいことだ、とさえ述べている。

 これはどういうことかというと、要するに、何か新しい知識や情報を取り込む際、それ以前に自分が蓄積してきた、構造化された知識を活用できるという意味だ。庭ないしは園芸術のメタファーを用いるなら、知の「接ぎ木」ともいうべき方法だ。

 そもそも記憶術とは、憶えたい内容、記憶すべき対象について、それを深く理解したうえで、もっともふさわしいと自分が判断したイメージを作りあげてゆく。しかもロクスに配置する際には、前後の情報のつながりを意識して、データ相互の関連付けを検討する必要もある。こうして試行錯誤の末に心/魂に収蔵された知識は、ただ表面的に字面をなぞるだけの読書よりも、はるかに深く血肉化されることだろう。そうしてできあがった、自分用にカスタマイズされた構造知が基盤となって、そのうえに、新しいデータを付け加えてゆくことになる。それは、基盤の一切ないところにやみくもにコンテンツを重ね置くより、はるかに効果的な知の管理法といえるだろう。」

「では、そのような膨大にして緻密な記憶の貯蔵庫を築きあげることができたとして、それを一生涯使い続けるためには、どのようなメンテナンスが必要になってくるのであろうか。後篇ではこの問題を考えてみよう。」

**(DISTANCE media 6-6 桑木野幸司「庭をつくるように、記憶を育む」/後篇 より)

・記憶術師=心の庭師!?

「庭は、造園の段階よりもむしろ、できあがった後の維持管理の方が大変であるといわれる。それと同様に、記憶術を用いて作りあげた「記憶の庭」もまた、日々のケア/メンテナンスを欠くことができない。

 記憶術の教則の基本となる、ロクスについて考えてみよう。術の準備段階として、情報の受け皿となる仮想空間を最初に用意して……と、簡単に指示されることが多いが、まずここでつまずく初心者も多いことだろう。郷里の実家、あるいは通いなれた学校や職場でさえ、じゃあそれらを心の中で完璧に再現して、そのうえ内部空間を精神の力だけで自在に動き回れるか、といわれれば相当に心もとない。しかも、データ容量を拡幅するために、さほど馴染みのない建物にまで手を伸ばしたり、あるいはそれでも足りなくて、まったくの架空の建築物を心の中に設計したりするなら、なおさらのこと、それらのロクスをいかに深く心に刻むのか、という点が喫緊の課題となる。」

「常に学習意欲を保って己の力で思考し、獲得した知識を丹念に育てること。要するに記憶術は備忘の万能薬ではないということだ。術の諸規則はあくまで、記憶の種が芽吹き、育ってゆくための庭を準備するにすぎない。水をまき、肥料を与え、害虫や雑草を取り除くのは、心の庭師たる記憶術師のつとめであるといえる。」

・根付かせた記憶をどのように忘却させるか?

「では記憶の庭の雑草ないし害虫被害にあたるものは何か。それはメンテナンスを怠り、記憶内容が混乱した状態ともとらえうるが、別の考え方もある。すなわち、ロクスに置かれた記憶イメージの変異という問題だ。別名を「賦活イメージ」(imagines agentes)とも呼ばれるほど、記憶内容を表象するイメージには、強さ、鮮烈さ、偏倚さが求められた。画像の強度、つまり心の目でそれを見る者に強い情動を与える力があればあるほど、それだけ記憶に強烈に刻み込まれ、忘れにくくなるからだ。

 けれどもその強さは諸刃の剣でもある。用済みとなり、ロクス上から消去しようとしても、容易に消せないことがあるからだ。下手をすると、コントロールを外れたおぞましき画像、妖艶なイメージ、哄笑を誘う強烈な映像たちに心を占拠されてしまいかねない。そんなばかな、と思われた読者も多いだろうが、ルネサンス期の記憶術教本の多くに、イメージ消去の方法があれこれ掲載されていることからも、術の実践者にとって切実な問題であったようだ。

 記憶術のネガともいうべきそれらの「忘却術」とは、記憶の庭の秩序を保ち、健全な情報の育成を守るための、強力なツールであった。もっとも単純なのは、ある意味逆説的ではあるが、メンテナンスを意図的に怠ること。つまり、仮想空間の保守点検を行わないことで、時間の経過とともにイメージがロクスから消えてゆくのを待つというものだ。それでもだめなら、もっと積極的な措置が必要になる。すなわち、消したい画像のうえに、白いペンキ(というイメージ)を塗りたくって見えなくする、同様に白い布をかぶせる、ロクスの照明を消して視認できなくする、清掃スタッフ(のイメージ)に片づけてもらう──要するに、イメージをもってイメージを制するわけだ。もっとも強烈なのは、殺人鬼の集団を仮想建築に送り込み、消したい画像を破壊・殺戮させるというもの。これは相当な荒治療になるだろうし、術者への精神的負担も大きいだろう。」

・耕すべき庭としての子供の魂

「これまで、西欧哲学ないしは弁論術の系譜上にある記憶=心=庭の伝統を眺めてきたが、この議論は教育学の分野にもつなげることができよう。教育と記憶は切っても切れない関係にあるからだ。

 そもそも西欧社会には、子供の心を庭にたとえる伝統が古くからあった。乳幼児を守り、その心を養い育てる場としての庭園の観念は、いわゆる「閉ざされた苑の聖母子」の図像伝統に、その美しいイメージを残している。掲載したのは≪楽園としての庭に座すマリア≫と題された作品で、周囲を壁で囲まれたパラダイスとしての庭園に、聖母子や天使、聖人たちが憩っている。楽器で遊ぶ幼子イエスの傍らで、マリアが本を読んでいるのが印象的だ。実際ここに描かれた庭園空間は、自然の多様な要素と人工技術から成り、多くの知識が得られる場、魂の涵養と教育に最適のスペースともみなしうる。」

・人間の記憶は意外と広く深い(きちんと育てれば!)

「ルネサンス時代に、当時の人にとってさえ「知的化石」とも映ったはずの記憶術が、なぜ流行したのか。こたえはきっと意外なほど単純で、それが実によく効いたからではないだろうか。ではなぜ効くのか。それは、場所とイメージの組み合わせという認知科学的に有効な手法に加えて、記憶データのケアをも有機的に組み込んだシステムであったから、と考えてみたい。

 繰り返しになるが記憶術においては、取り入れる情報を深く理解したうえで、自ら加工し、吸収する必要がある。いってみれば非常に能動的・積極的に情報と接することが求められるのだ。しかもいったん心に放り込んだらそれでおしまい、ではなく、繰り返し想起し、メンテナンスを重ねてゆく必要がある。これこそが、現代の読書や情報摂取の様態と大きく異なるところだろう。

 我々が日ごろ目にするネット上のニュースや動画コンテンツ、あるいは新書や文庫、e-book、新聞雑誌のたぐいは、ほとんど記憶に残ることなく忘れられてゆく。テクストを理解し、自分でその情報の要点をあらわす画像を作る必要もなければ、自分で動画やストーリーを作る必要もないからだ。文章も映像も、心にとどまることなく、ただただこぼれ落ちて行くにまかせているにすぎない。殺人鬼を心に送り込む必要など、さらさらない。

 もちろんここで、現代に記憶術的な情報管理法をそのまま復活させるべきだ、などと主張するつもりはない。ただ、モダンテクノロジーが生み出した高性能な外部記憶装置を過信するあまり、そこにあらゆる情報・知識・思い出を預けっぱなしにせずとも、我々人間の生得の記憶力は意外と容量が大きいのだということ。そしてその良質の素材をじっくり鍛えれば、驚くべきキャパシティを備えた、記憶の豊穣なる庭園を誰もが生み出せるのだということ。こうした点は今一度、心に銘記しておいてもよいのではないか。

 常に何か新しい刺激、おもしろい知見を求めて、無尽蔵のデータの海をあてどもなくさまよいつづけるのではなく、自分にとって意味のある情報を選び、それを徹底的に咀嚼しつづけることで、記憶は日々育ってゆくだろう。憶えれば憶えるほど、より豊かになってゆく、そんな奇跡の庭園を誰もが心の中に所持しているのだから。」

**(桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』より)

「記憶術(略)の核心をここでごく単純化して述べれば、心の中に仮想の建物を建て(=器の準備)、そこに情報をビジュアル化して順序よく配置したうえで(=情報のインプット)、それらの空間を瞑想によって巡回してゆく(=取り出し)−−−−たったこれだけである。けれども、(略)この仕組みは建築のもつ秩序的空間連鎖に、イメージの持つ情報圧縮力を巧みに組み合わせた、実に効率的なデータ処理システムとして機能することが実証されている。」

「西欧における記憶術の歴史を大まかにまとめると、次のように整理できる。

 紙の調達が不自由だった古代世界において、主に長大な弁論を暗唱するために開発された素朴な記憶術は、中世にはやや下火になりつつもキリスト教の影響を受けて独自の変容を遂げる。やがてルネサンスあるいは初期近代(一五〜一七世紀初頭)と呼ばれる時代に華麗な復活を遂げたが、そのあと忽然と姿を消す。
(略)

 では、なぜこの時期に、古代の、いってみれば黴臭いテクニックがよみがえったのだろうか。(略)
 時あたかもルネサンス人文主義のまっただなかである。古代ギリシアやローマの古典的名著が次々と印刷・出版され、教養人がそなえるべき知的スタンダードが形成された。その一方で、自然科学や航海術が発達して様々な新発見がなされ、それらの知見を通じて学術書も怒濤の勢いで増大してゆく。(略)そこで登場するのが記憶術だ。古代以来の伝統を戈巣盤石のデータベース・ツール。この術を当世風に改良することで、情報の洪水を乗り切ることができるのではないか−−−−そう人々が考えたのも無理はない。

 あらためて指摘するまでもないが、これとそっくりな危機的状況を、現代の我々は生きている。しかも、その深刻度は数倍どころか数百倍、数万倍だ。
(略)

 あえて極端なことをいうと、実はそういった現代の情報革命の萌芽は、すでにルネサンス時代の記憶術の消長史にすべて内包されていたのだ。」

「記憶の力は両刃の剣である。精神内面に蓄えた膨大な情報を独創的な仕方で組み合わせ、新たな知識を生み出す力がそなわっている一方で、その力を誤ると、内面イメージの暴走はもとより、記憶の書き換えや恣意的な操作といったネガティヴな面まで現前かしかねない。(略)

 記憶とは過去のデータを独創的に再構成することに他ならないということは、そのプロセスに人為的に介入することによって、人々が想起する内容を操作できてしまうということでもある。」

「ある歴史的記憶を後世に伝えたいと思う人と、それを望まない人がいたとする。後者が記憶の書き換えや歪曲といった手段に訴えたとき、前者にはそれに抗する術があるだろうか。繰り返すが、記憶とは我々が思っている以上に脆いものであり、架空の情報の示唆や誘導、プロパガンダによって、容易に変形させられてしまう。最新の認知科学の研究によれば、場合によっては、一度も起こったことがない事柄を「自らの体験」として人に思い出させることさえ可能だという。こうなると、実際の出来事の記憶と、創作された記憶との区別をつけることは非常に困難だといわざるをえない。

 だからこそ、記憶と想起のしくみを知り、記憶を構成する(賦活)イメージの力を正しく認識して、記憶と文化の創造的な交錯のプロセスに通暁することが、自己防衛の手段になりうるのだ。その意味で、初期近代における記憶術の発展と衰退の歴史を丹念にたどることは、過去の人々がいかにして記憶女神を味方につけ、その権能に与ろうとしてきたのかを知ることができる点で、有益な示唆を含んでいる。記憶を恣意的に操作しようとする者が我々の前に現れたとき、それらの知見は強力な武器となり、鎧となってくれるだろう。

 記憶女神ムネモシュネの叡智の饗宴は、まだまだ終わらないし、終わらせてはならないのだ。」

「完璧な記憶力を手に入れられたら・・・・・・そう思わないこともない。それは裏を返せば、一度覚えたことを永久に忘れないということだ。けれども、これはよくよく考えてみると、恐ろしく不便なことではないだろうか。」

「すべてを記憶しておくことは、必ずしも望ましい結果を生むとは限らない。我々は忘却することによって、情報の些末な枝葉をそぎ落とし、主要な点のみを抽出して管理する。そうすることで、様々に異なるけいけんから教訓や予測を引き出し、知識を継続的に積み上げてゆくことができるのだ。重要なのは、意味のある経験だけを選択的に記憶することであり、逆にもし全ての事柄を鮮明に覚えているとすれば。それは何も覚えていないのと同じくらい不都合なのだといえる。我々は、忘却と上手に付き合いながら生きてゆくしかないようだ。」

○桑木野幸司(くわきの・こうじ)
大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻 アート・メディア論コース教授。 1975年生まれ。東京大学大学院工学系研究科修士課程修了(西洋建築史)。同博士課程単位取得済退学。二〇〇七年、ピサ大学博士課程修了。Dottore di Ricerca in Storia delle arti visive e dello spettacolo(文学博士(美術史)・ピサ大学)。Kunsthistorisches Institut in Florenz研究生を経て、2011年4月大阪大学文学研究科准教授に着任。2020年より現職。2008年日本学術振興会賞受賞。2019年『ルネサンス庭園の精神史』でサントリー学芸賞受賞。

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