山口貴史「〇〇×シンリガク――小さな日常を〈心理学〉する」 第8回 身体の「バグ」に耳を澄ませてみる 第9回 「ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めた?
☆mediopos3693(2024.12.29.)
「創元社note部」で連載中の
山口貴史「〇〇×シンリガク
――小さな日常を〈心理学〉する」
前回とりあげたテーマは
第1回の「「食べ物の好き嫌い」の呪い」
第7回の「忘れられない言葉からこころの扉を開く」
(mediopos3654/2024.11.20.)
第1回では
なぜ多くのひとは「そういうものだ」
「みんな一緒」を疑いもなく受けいれるのかと問いかけ
第7回では
忘れられない言葉に出会い
それが自分のこころを知るための「扉」になるとき
その扉を開けてみると自分の知らなかった自分に
出会うきっかけになるかもしれないと示唆されていた
今回とりあげる第8回
「体育座り×心理学――身体の「バグ」に耳を澄ませてみる」
では身体への調律と非調律についての論考
著者の働いている子どもの臨床現場で
明らかに疲れていそうな子どもに
「なんだか疲れていそうだね」と声をかけるが
彼は自分の疲れを感じ取れていない・・・
こうした「疲れを「感じる」ことが難しい子ども」は
一定数いるのだという
竹内敏晴は『思想する「からだ」』で
学校生活でよくみられる「体育座り」について
「これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛りつけている」
「教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ」
と示唆しているが
「体育座り」が学校に取り入れられたのは1958年で
「管理強化の切り札」として1970年代に全国に広がったという
そのように
「知らず知らずのうちに体の感覚が麻痺するような行為が、
日常の至るところに埋め込まれてい」る
心理療法の目的の一つに
マインドフルネスやフォーカシングと呼ばれる
「身体感覚を取り戻す」技法があるが
その際重要なのは身体への「調律 attune」である
「身体への調律という視点から考えてみると、
私たちの日常は身体への「非」調律にあふれている」
「私たちの生活は思っている以上に身体への「非」調律にあふれ、
至るところで「バグ」が起こっているかもしれ」ない
「なんだか窮屈だなあ」「息苦しいなあ」といった
些細な感覚を感じられるようにすることが
「バグ」を発見する糸口になるのだが・・・
第9回「ゴキブリ×心理学
――「ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めた?」
ではマジョリティの論理について
著者の友人は「ゴキブリ」を飼っているという
彼にとって「ゴキブリ」は
通常ペットとされている犬や猫のようなペットなのだ
世の中には「マジョリティの論理」があって
マジョリティに属していると「気づかないうちに多数派の
「当たり前」の物差しで社会や個人をみている」
そして「あたかも「正しい」社会性や
コミュニケーション方法が一つだけであるかのように振舞い、
「社会」や「コミュニケーション」のもつ多様性を無視している」
「多数派の物差しは無数にある物差しの一つに過ぎない」
そのことを自覚しておく必要がある
頭の中ではそのことがわかっていたとしても
「ゴキブリ」がペットだというと
感情・感覚的にそれを受け入れることはむずかしい
しかし他者を理解するために
マジョリティの論理ではとらえることのできない
多様な感覚や感情のなかでとらえる視点が
重要なのはいうまでもない
ここでも「みんな一緒」とか
「そういうものだ」といったことが
疑いもなく受けいれられしまうことに対する
問いなおしが必要になる
それはマジョリティの論理の問いなおしだけではなく
それぞれの身体における気づきと
その「調律」とも深く関わっている
■山口貴史「〇〇×シンリガク――小さな日常を〈心理学〉する」
第8回 体育座り×心理学――身体の「バグ」に耳を澄ませてみる
第9回 ゴキブリ×心理学――「ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めた?
(創元社note部 2024年11月29日/2024年12月26日)
**(「第8回 体育座り×心理学」より)
・疲れを「感じ」ますか?
*「最近、皆さんは疲れを「感じ」ているでしょうか?」
「当たり前のように日常にある「疲れ」。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみたいのです。「実は、疲れを感じるのは難しいのではないか?」と。
ポイントは「感じる」にあります。」
・子どもの臨床にて
*「こんなことを考えたのは、普段働いている子どもの臨床現場での出来事からです。
ある日、明らかに疲れていそうな子どもに、「なんだか疲れていそうだね」と声をかけました。でも、その子は「え? 全然疲れてないよ」と戸惑った表情で答えました。
目の下にクマがあり、重そうな体をひきずるように歩いていたのに、彼は自分の疲れを感じ取れていなかったのです。
こういうことは決して珍しくありません。
もちろん、「疲れたー」と言う子どもはいます。疲れの感覚は成長とともに芽生えるものです。
けれど、疲れを「感じる」ことが難しい子どもが一定数いるのです。カウンセリングを続けていくうちに、そうした子どもが「やっぱり疲れていたのかも」と、疲れを「感じる」ようになることもあります。
と考えてみると、やはり疲れを「感じる」のは案外難しいことなのかもしれません(実は身体感覚だけでなく感情も同じなのですが、今回は身体感覚を取り上げます)。」
・体育座り
*「どうして身体感覚を感じるのは難しいのだろうと考えていた時に、ぎょっとする文章に出会いました。学校生活でおなじみの「体育座り」について、こんな風に書かれていたのです。
(竹内敏晴『思想する「からだ」』)
古くから日本語の用法で言えば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛りつけている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気づく。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは、「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息も殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。
体育座りが学校に取り入れられたのは1958年のことだそうです。
当時の文部省が戸外で子どもたちを座らせる姿勢として推奨し、「管理強化の切り札」として1970年代に全国に広がったといいます。校内暴力の蔓延など荒れていた時代背景もあり、爆発的に広がっていったようです。
人生のなかでごく自然に体育座りをし続けてきた一人として、私は驚かざるをえませんでした(今でも体育座りは多くの学校で行われているようです)。
皆さんはこの文章を読んでどんな風に思われるでしょうか。
知らず知らずのうちに体の感覚が麻痺するような行為が、日常の至るところに埋め込まれているのかもしれない、と私は思いました。」
・身体への調律
*「「身体感覚を取り戻す」。
これも心理療法の目的の一つになることがあります。例えば、マインドフルネスやフォーカシングと呼ばれる技法はそうした目的に有用です。
マインドフルネスでは、意識的に呼吸や身体の感覚に注意を向けることで、現在の瞬間に集中し、身体感覚を再認識します。一方のフォーカシングは、自分の内なる感覚に耳を傾けることで、身体の緊張や不快感を和らげる技法です。
これらの手法を通じて、身体と心のバランス感覚を取り戻すことができます。」
「ここではいかにして身体感覚を取り戻すかではなく、そもそも身体感覚はどのようにして育まれるのかに注目してみます。
ポイントは、身体への「調律 attune」です。
調律 attuneとは、元々は乳幼児精神医学者であるダニエル・スターン Daniel Sternが「自己感の発達」を提唱する中で用いたaffect attunement(情動調律)のことです。
たとえば、子どもがあくびをした時に親が「ふぁー」と声を出してみたり、子どもがおもちゃに興奮して手を挙げた時に親が同じように手を挙げてみると子どもが親の方を見て笑ったりすることあります。そうしたやりとりを通して、子どもは自分という感覚をもてるようになります。
平たく言えば、親が子どもの情動に波長を合わせることによって子どもの情動が発達するという意味です。
こうした調律は情動だけでなく、身体感覚を育む際にも重要になります。」
・身体への「非」調律
*「身体への調律という視点から考えてみると、私たちの日常は身体への「非」調律にあふれているかもしれません。
体育つながりで言うと、「休め」の姿勢もそうですね。休めとは「『休め』の合図で左足を肩幅に開き、両腕を後ろに回し、腰のあたりで手を組む」ものです。
この原稿を書きながら、私は数十年ぶりに「休め」をしてみました(よかったら皆さんもやってみて下さい)。
ん?
なんだか窮屈です。小学生の頃にあれだけ自然に行っていたはずなのに、すぐにでも腕を下ろしたくなり、どう考えても体は休まりません。休むとは体の力が抜けることですが、この姿勢はむしろ体に力が入り、「休む」の概念がバグりそうです。」
「他にも、息子の保育園でこんな場面を見かけました。
「みんなの好きな紙芝居を読むから集まろう」と先生が声をかけると、子どもたちが集まってきます。子どもたちは思い思いの姿勢で紙芝居を見ようとします。しかし、先生は「気を付け、ぴっ」と声をかけます。すると、部屋には広いスペースがあるはずなのに、狭いエリアに子どもたちは正座できれいに並ぶのです。
本来は好きな姿勢で紙芝居を聞いてもよさそうですが、窮屈な身体を伴うことで「リラックス」がバグりそうです。」
・「バグ」に気づく
*「以上はほんの一例ですが、皆さんの日常にも身体への「非」調律はあふれていないでしょうか。
この連載は心について話す場ですが、同じくらい身体も大切です。身体は心を映す鏡でもあるからです。
先の「疲れを感じない」子どもたちのなかには、身体の疲れを感じないがゆえに無理をし続け、身も心もぼろぼろになっている子どももいました。それは大人だって同じです。
私たちの生活は思っている以上に身体への「非」調律にあふれ、至るところで「バク」が起こっているかもしれません。」
*「「なんだか窮屈だなあ」
「息苦しいなあ」
「膝が痛いなあ」
こうした些細な感覚こそが、「バグ」を発見する糸口になるかもしれません。
日常の中でほんの少し立ち止まり、自分の身体の「声」に耳を傾けてみませんか。
あなたの身体はどんな言葉を語るでしょうか。そこには、新たな発見と気づきがあるかもしれません。」
**(「第9回 ゴキブリ×心理学」より)
・ペットはゴキブリ
*「私の友人は「ゴキブリ」を飼っています。」
「彼はゴキブリに愛情を注いでいます。当たり前と言えば、当たり前です。だって、彼にとってゴキブリはペットだから。」
・ゴキブリはペットじゃない!
*「多くの読者の方は私の友人のことを「え、気持ち悪い」「近づきたくない」「変な人」と思ったのではないでしょうか。ゴキブリなんて文字で見るのもイヤ、口に出すのもイヤで「G」や「C」と呼ぶ人もいるくらいです。
もしかしたら別のことを思った方もいるかもしれません。
「そもそも、ゴキブリはペットじゃないでしょ」
「殺虫剤メーカーじゃないんだから、飼うものではない」
そうした考えもまた、わからなくはありません。
今回は、「ペットとしてのゴキブリ」について考えてみたいと思います。」
・あなたの弟がゴキブリを飼っていたら
*「たしかに、一般的にはゴキブリはペットではありません。
でも、「ゴキブリはペットではない」と本当に言い切ることはできるのでしょうか?」
「何が言いたいかというと、あなたにとって身近な人がペットにゴキブリを飼っていたら、どう理解できるだろうか?を考えてみたいということです。」
・ゴキブリはペットじゃない?
*「冒頭の文章の「ゴキブリ」という言葉を「猫」に置き換えてみたらどうでしょうか。」
「改めて考えてみると、「猫はペットで、ゴキブリはペットじゃない」って誰が決めたのでしょう? 不思議だと思いませんか?」
「私自身、彼から「実はゴキブリを飼っている」と言われた時、驚きました。正直に告白すれば、「ゴキブリ飼う人っているの?」「どういうこと?」と混乱しました。
でも、彼からこう言われて、はっとしたのです。
「僕にとってのゴキブリは、みんなにとっての犬や猫。みんなにとってのゴキブリは、僕にとっての犬や猫」
たしかになあ、と私は深くうなずきました。
彼は犬や猫を全くもってかわいいと思わないそうです。むしろ、気持ち悪いし、嫌いなのです。だから、「猫カフェ」や「ドッグラン」などと猫や犬が市民権を得ている世の中は、理解できないと言います。」
・マジョリティの論理
*「私は彼の言葉を聞いて、『ソーシャル・マジョリティ研究』という本を思い出しました。著者の綾屋紗月は、自らが自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder: ASD)の当事者であり、ASDの当事者研究を行っている方です。
この本は、マジョリティ(=定型発達者)向けにつくられた多数派社会の暗黙のルールをASD当事者のマイノリティ視点から多角的に検討し、解き明かそうとした試みです。
とても考えさせられる本なので詳しく知りたい方はぜひ本をお読みいただきたいのですが、かなり大雑把にまとめると、以下になります。
多数派に所属している人たちは、気づかないうちに多数派の「当たり前」の物差しで社会や個人をみている。あたかも「正しい」社会性やコミュニケーション方法が一つだけであるかのように振舞い、「社会」や「コミュニケーション」のもつ多様性を無視している。
だから、あくまでも多数派の物差しは無数にある物差しの一つに過ぎないことを自覚する必要がある。」
「この文章を読んでみると、「ゴキブリはペットではない」という言葉がどう見えてくるでしょうか?
「ただ多数派の意見を押し付けているのではないか」
「当たり前は本当に当たり前なのだろうか」
「多様性を無視してしまっているのではないか」
など、いろんな考えが浮かんでくるかもしれません。」
・押し寄せるいろんな気持ち
*「マジョリティの論理を押し付けているのかもしれない、と考えることができても、人の気持ちのなかにはさまざまな感情が押し寄せてくるのがこの問題の難しさです。
もちろん、他者を理解するためにマジョリティの論理という視点があるかないかでは全く変わってきますし、どんな考えや気持ちであれ浮かんでくるのは人の自由なのですが。」
・「「ゴキブリ」じゃなかったら?
「もし、「ゴキブリ」が「幼い子ども」だったら、「人の血」だったら、みなさんはどう思うでしょうか?
いわゆる小児性愛や殺人鬼と呼ばれる法律に触れる人たちだから許されない、被害者が出ることは言語道断と思われるかもしれません。
もちろん、触法しているか否かは大きな分かれ道です。」
「では、次の言葉を聞いたらどう思うでしょうか。
これは『ふがいない僕は空を見た』(窪美澄 著)という小説に登場する小児性愛をもつ男性の言葉です。
「そんな趣味(=幼児性愛のこと)、おれが望んだわけじゃないのに、勝手にオプションつけるなよ神さまって」
この言葉に対してもまたいろんな考えや気持ちが浮かんでくるでしょう。
『正欲』(朝井リョウ 著)、『聖なるズー』(濱野ちひろ 著)も多様性を考えさせてくれる本です。」
「今回のエッセイはモヤモヤした気持ちにさせてしまったかもしれません。
シンプルに言えば、世の中はとても複雑であることを伝えたかったのです。そして、それ以上に心はもっと複雑で、「そういうものだ」と思っているものは実はかなり不確かだったりするのです。
「ゴキブリはペットなのか」
この割り切れない問いは、世の中の多様性や多様性に伴うひとり一人の心に湧いてくる複雑な感情を照らしてくれるのではないでしょうか。」
○【文】山口貴史(やまぐち・たかし)
臨床心理士・公認心理師。東京生まれ、大阪・福岡育ち。
2009年、上智大学大学院総合人間科学研究科博士前期課程修了。その後、精神科クリニック、総合病院精神科、単科精神病院など、医療現場を中心にさまざまな現場で臨床経験を積み、現在は児童精神科と開業オフィスにて臨床を行っている。日本心理臨床学会奨励賞受賞(2023年)
著書『サイコセラピーを独学する』(金剛出版)、『精神分析的サポーティブセラピー(POST)入門』(金剛出版、共著)
○【イラスト】楠木雪野(くすき・きよの)
イラストレーター。京都在住。主な仕事に『阿佐ヶ谷姉妹のおおむね良好手帳』のイラスト、web連載『楠木雪野のマイルームシネマ』など。猫とビールが好き。