三浦 雅士『孤独の発明 または言語の政治学』
☆mediopos-2585 2021.12.14
私という現象は
私が孤独であることに気づくこと
つまり自分で自分に話しかけること
によって始まる
そうでなければ
私であるということは意識されないままだ
その意味で
孤独でない私は存在しない
孤独によって私は自分を確認する
デカルトのいう方法的懐疑でもある
しかし人間である以上
どんなかたちであるにせよ言語を有しているが
それは私という現象が
私だけで成立しているのではない
ということを意味している
その意味でも
孤独は自分を確認するだけではなく
自分から離れた視点である
「相手の身になる」ということと深く関係してくる
孤独には「寂しさと優しさの感情」が含まれるが
それは「相手」を求める視点が
内包されているということだ
「言語は相手の身になる能力、
相手と入れ替わる能力を前提とする」から
「二つの視点を入れ替え可能とする」視点
つまりさらに上から俯瞰する第三の視点を必要とする
言語を有している私という現象は
その意味において
私という身体とその第三の視点によって
成立しているということもできる
人は鏡像段階を経て成長していくが
そのことによって私という現象としての
孤独を生きてゆくことになる
そしてその「孤独のなかにすでに他者との関係、
すなわち社会が含まれている」
孤独は他者を前提としているのだ
ゆえに人は他者とそして森羅万象ともむすばれ
その極北に「彼我一体感」へと至る可能性を得る
しかしそれにもかかわらず
私という現象は私という現象であり
「個別性としてある」以上
どこまでも他と同一化することはできない
真の意味で感動も悟りも共有することはできないのだ
孤独であるがゆえに
私は生まれ
孤独であるがゆえに
他とむすばれるが
どこまでも私は私である
神は「私は私であるである」存在だが
神もまた同じく孤独であり
孤独を発明したのもまた神なのだろう
そしてそれゆえに
神はコトバともなった
■三浦 雅士『孤独の発明 または言語の政治学』
(講談社 2018/6)
「孤独はありふれた語だが、見かけほど単純ではない。」
「孤独は言語とともに古い。
それには理由がある。孤独とは自分で自分に話しかけることだからである。そして、言語こそ、自分で自分に話しかけることをもたらしたものなのだ。すなわち、人は言語によって孤独になり、孤独になることによって言語を得たのである。
孤独は言語の別名であるとさえいっていい。私という現象もまた自分で自分に話しかけることである。人は、自分で自分に話しかけることによって私になったのである。私という現象は私が孤独であることに気づくことにほかならない。孤独は私という現象とともにすでに始まっているのである。」
「孤独は始めから方法的懐疑を内包している。
人は誰でも、思春期の初めに少なくとも一度は、外界のすべては夢ではないかと疑い、私もまた夢ではないかと疑う。そして、自分で自分に話しかけているというそのこと、すなわち自分を疑っているというそのことによって自分の実在を確認する。いわば、孤独によって自己を確認するのだ。むろん、確認しない人間もいる。自分を忘れることなど簡単だからである。自分を何ものかであると思い込むのと同じほど簡単だ。」
「孤独とは方法的懐疑のことなのだが、それにとどまらない。おまえのことは誰も分かってくれないという寂しさの感情を含まない。優しさに包まれたいという感情も含まない。迷子になったと気づいた瞬間の、あの青々とした不安、暗闇のような恐怖とは無縁なのだ。」
「寂しさと優しさの感情が重要なのは、なぜか。
孤独に含まれる寂しさと優しさの感情は、養い育てられるという体験からしか生まれないからである。」
「相手に身になることができるようになった瞬間、人はこの入れ子構造が無限に続くということ(・・・)をも会得してしまっているはずなのだ。現実にはしかし、この会得は、ただ、私という現象が、私から離れた視点、第三の視点なしには成立しえないという事態に代替されてしまっている。
孤独は寂しさをともなう優しさを求めるところに、その隠された出自が暗示されているといっていい。」
「言語は相手の身になる能力、相手と入れ替わる能力を前提とする。
人称を持たない言語はありえないとはそういうことだ。
たとえば日本語において、しばしば一人称が二人称に転じるのもその事実を示す。相手の身になる能力は捕食するものと捕食されるもの、追うものと追われるもののすべてが身につけなければならない能力だが(・・・)、その能力は、この二つの視点を入れ替え可能とする蝶番のような視点、すなわち、さらに上から俯瞰する第三の視点を想定しなければ成立しえない。
この第三の視点が私という現象の実質−−−−人間的意識の実質−−−−なのだ。空中に浮遊する第三の視点は身体を含まない。だからこそ、私には私の死が理解できないのである。死が不条理に思われる理由だ。
この第三の視点と、ここにあるこの身体との関係が、いわゆる私であるといっていい。第三の視点と、現に行動している行為主体との関係が、内的対話、内面にほかならない。行為主体は現場に属し、俯瞰する眼は永遠に属す。すなわち身体と精神である。
身体と精神の関係、肉と魂の関係は、言語とともに古い。この関係なしに、入れ替え可能性を基盤とする言語は成立しえないからだ。
言語は孤独と同時に彼岸をももたらしたのである。」
「俯瞰する眼、第三の視点が二人称に馴染まないのは、そこに自己の、すなわち私という現象の、出自が隠されているからである。
一人称、三人称と違って、二人称は抽象を嫌う。二人称は向き合っている具体的な現場にしか属さないからだ。向き合うときのその向きとは、左右をもつということであり、左右をもつとは現場にあるということ。いまここにこのようにしてあるということ、個別性としてあるということにほかならないからだ。」
「孤独は繰り込まれた他者を前提とする。
ということは、孤独のなかにすでに他者との関係、すなわち社会が含まれているということである。孤独のなかには社会が潜むということだ。
孤独すなわち私という現象が社会的現象であるというのは、私が社会の一員であるというようなことではない。私という現象そのものが、初めからひとつの社会として成立しているということだ。私が政治的現象であるということにしても同じ。私の成り立ちそのものがひとつの政治としてあるということだ。私とは、第三の視点としてある私が、身体としてある私を、徹底的に支配するということだからである。
私とは、私が私を支配するということである。」
「人は孤独によって結合する。
孤独は人間の特性である。誰もが孤独だ。それは誰もが私であるのと同じだ。だが人は、誰もが孤独であるというそのことにおいて結び合う。いわば、人と人は分かりあえないということだけは分かりあえるというかたちで、分かりあう。孤独な読書において、人は、数万、数十万、数百万の孤独な魂と結びあうことができる、時代を超えて。」
「人は孤独によって人と結合するだけではない。
森羅万象とも結合する。
宗教的感動のほとんどが、森羅万象すなわち宇宙との彼我一体感に収斂する。神との結合といってもいい。悟りといってもいい。だが、神との結合は分かちあえても、悟りを分かちあうことはできない。
宗教的感動と芸術的感動とは別のものではない。言語が発生させた俯瞰する眼、第三の視点の振る舞いであることに変わりはないからである。精神が肉体を脱ぎ捨てるのだ。この感動が、私という現象の謎、国家という現象の謎に直通することは疑いない。文学的感動の仕組みは、宗教、政治、経済、社会の仕組みに直通している。
だが、感動は分かちあえたとしても、悟りは分かちあうことができない。」
「悟りは証明することができない。
悟りは反証可能性を提示しえないのである。」
「感動もまた証明できない。
ただ、新たな感動を与えてその感動に応えることができるだけなのだ。」
「感動を分かちあうというが、ほんとうは分かちあうことなのでできはしないのである。」
「感動は多く興奮や熱狂を伴う。興奮や熱狂は伝染する。群集心理の問題に隣接している。」
「問題は、感動があくまでも個人的な体験としてあるということである。そしてそれは、騙し騙されるのと同じ次元にあるように思われるということである。」
「信じるということは騙されてもいいと思うことなのだ。
これこそ、宗教の基底である。
だが同じようにそれは、商業の基底でもあったのである。」
「騙されてもいいという決断、あるいは驚くべきものに出会おうという決断なしに、現生人類がアフリカを出たとは、私には考えられない。騙されてもいいという決断は、死んでもいいという決断と隣接する。
勇気とは死んでもいいと思うことなのだ。」
「宗教も経済も、要するに賭けである。命懸けの跳躍、すなわち騙されてもいいと決断することが、宗教と経済の起源、いや、あらゆる事業の−−−−つまり冒険の−−−−起源なのだ。それこそ孤独の次元なのだと私には思われる。
あるいは逆にこう言ってもいい。
人間は本来的にあらゆる文章を疑問形でしか終えることが出来ない。それが人間的孤独のあり方なのだ、と。」