田中 彰吾 『自己と他者:身体性のパースペクティヴから』
☆mediopos2698 2022.4.6
鏡に映る自己を認識できるようになるには
生後18カ月から24カ月程度が必要だと言われているが
鏡に映し出された自己の身体を
視覚的に確認するよりも重要なのは
他者との関係で「見る - 見られる」という
視覚的な相互作用を経験することだという
その意味で「鏡像段階」という「鏡」とは
身体的な他者の存在を意味している
私が私となるためには
他者の身体との相互作用が必要なのである
そしてその他者には
みずからの身体も含まれている
じぶんの身体を認識することは
じぶんを「知覚と行為の主体」としてとらえることだが
さらに身体としての他者との関係が生まれることで
「他者のパースペクティヴから把握しうるものとしての
自己の存在に気づくことになる」
つまり「自己自身の経験を他者がするように客観的に振り返ること、
すなわち反省することができるようになる」
他者を対象化できるとともに
自己自身も対象化できるようになるのである
そうした反省できる主体となるということは
「自己の外部の観点に仮想的に立って
自己自身を見つめる」ことができるということであり
それは同時に「他者を志向する感受性」に開かれることでもある
つまり「共感」である
それは「社会的に拡張された反省」でもあるといえるが
そうした観点を
「二人称のメタパースペクティヴ」と呼ぶことができる
もちろん共感は不安でもあるから
不安を避けようとして
承認欲求を過剰にもつというのも
欠損したかたちではあるが
「二人称のメタパースペクティヴ」に由来するといえる
さて身体化された自己は
その延長線上に発話能力の発現へと向かう
言語は身体的な文脈を超えて間主観的に働くために
「現実として与えられている世界と自己を
ラディカルに否定する思考を行うことで、
自己が世界のなかで生きることの意味を
問うことができるようになる」のだ
そして「いま・ここで行為する」
身体的な自己であるミニマル・セルフは
過去や未来からの視点を持ちながら
「いま・ここ」での行為を意味づけ
「人生という時間の中に位置づけたり、
世界との関係のなかに位置づける」ことのできる
ナラティヴ・セルフへと変貌することになる
ともにナラティヴ・セルフである自己と他者が
ポリフォニックな対話的な関係に置かれ
対話することで形成される自己は
「対話的自己(dialogical self)」である
プラトンはその著作のほとんどを
「対話篇」として著したが
実際に対話形式ではないとしても
哲学するということの根本には
身体性は考慮されなかったものの
そこには「対話的自己」があるといえる
その身体的自己が
やっと探求されるようになったのは
比較的最近のことである
メルロ=ポンティの重要性もそこにある
そして本書ではその視点を継承した
J・J・ギブソンの視点をもとに
自己と他者に関わる
身体性のパースペクティブが展開されている
■田中 彰吾
『自己と他者:身体性のパースペクティヴから』
(知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 3)
(東京大学出版会 2022/3)
(「第5章 身体に媒介される自己と他者」〜「6 二人称のメタパースペクティヴ」より)
「自己が身体化されているということは、一次的には知覚と行為の主体であることを意味し、前反省的なレベルでつねに「自己」として成立していることを意味する。ただし、同じく身体化された他者との関係が生じると、自己はたんに前反省的な主体として自足できる状態ではなくなる。他者との関係は、(…)互いに共鳴しつつ相互行為を展開する関係だけでなく、他者によって知覚されたり、他者の行為の対象となったりする受動的な経験を含む。(…)身体を介して他者によって客体化される経験を経て初めて、自己は、他者のパースペクティヴから把握しうるものとしての自己の存在に気づくことになる。他者に由来する外部のパースペクティヴを取り入れるとき、自己は、自己自身の経験を他者がするように客観的に振り返ること、すなわち反省することができるようになる。
改めてデカルトのコギトに言及すると、「われ思う、ゆえにわれあり」という反省的な意識作用を遂行することができる主体は、もともと他者との関係、とくに他者によって客体として知覚されり経験を内面化することで成立している。(…)主我(I)が客我(me)を志向する反省の経験は、他者が自己を客体として認識するのと同じしかたで、自己が自己自身を客体として認識することに他ならないのである。
(…)他者由来のパースペクティヴを内面化して反省することのできる自己は、そもそも自己とは異なる主体性を備える他者の存在に気づく「共感」の作用を持ち合わせている(…)。自己の外部の観点に仮想的に立って自己自身を見つめることができる自己は、それができるのと同程度に、他者を志向する感受性も持ち合わせている。その意味で、共感とは、社会的に拡張された反省に他ならない。いわば、自己ー他者という二人称関係について、自己からも他者からも一定の距離をとって見られるような観点を、ひとは客体としての身体の経験を通じて獲得するのである。(…)フックスはこのような観点を「二人称のメタパースペクティヴ」と呼び、社会的認知の発達過程における重要な到達点であるとしている。
ただし、自己を客体として俯瞰するメタパースペクティヴの成立は、「他者の他者性」への気づきを促すことにもなる。自己が自己として知覚し行為するところの身体は、他者が他者として知覚し行為するところの身体とは置き換えられない。ともに世界内で行為する主体として他者を理解することは可能であっても、その他者が他者として経験する知覚や行為をそのまま自己が経験できるわけではない。他者の主観的経験を、他者が経験するままに自己が経験することはできない。それはできるとすれば、それは端的に自己の経験であって他者の経験ではない。当たり前のことだが、説明すると煩雑になるこうした区別が一般に可能であるのも、自己の経験を自己の経験として、他者の経験を他者の経験として位置づけることはできる二人称のメタパースペクティヴをひとが保持しているからである。
具体的な他者との出会いの場面では、時として他者の主観性が「わからなさ」として現れてくる。間身体的な共鳴が顕在化する以前、具体的なコミュニケーションが成立する以前、自己は自己であるもののいまだ他者と有効な関係を取り結ぶことができていない。他者は自己をまなざす存在として現れる。そのまなざしにどこか否定的なものを察知するとき、自己はこれから生じることの不確かさを感じて不安のなかに宙づりにされる。他者に出会う経験は、共感の経験であると同時に不安の経験でもある。」
(「第6章 自己・他者・ナラティヴ」〜「5 パラダイムとしての対話」より)
「身体化された自己は、指差しの延長線上に発話能力を獲得することで、間主観的な現実について言葉で語ることができるようになる。他方で、豊かな身体行為の可能性を環境のなかに見出すことで、文字通りの現実とは異なる想像的世界を見出すことができるようになる。加えて、現実として与えられている世界と自己をラディカルに否定する思考を行うことで、自己が世界のなかで生きることの意味を問うことができるようになる。こうして、いま・ここで行為するだけだったミニマル・セルフは、過去の経験を振り返り、未来において実現すべきことを展望しながら、いま・ここで行為する自己を意味づけ、ナラティヴ・セルフへと変貌する。身体化された自己の観点からすると、両者は断絶しているわけではなく、連続的である。ミニマル・セルフが、いま・ここで行為することそのものに内在する自己だったとすると、ナラティヴ・セルフは、いま・ここで行為することを、人生という時間の中に位置づけたり、世界との関係のなかに位置づけることで、文脈的な意味の枠組みとして成立している自己である。
ミニマルからナラティヴへの自己の変貌が、個体内部だけで自発的に生じると考えることはできないだろう。自己反省という意識作用が、自己内に閉じた抽象的な意識作用に見えながら、他者との身体的相互作用から派生するものであったのと同様に、ナラティヴ・セルフの形成は、他者とのナラティヴの交換があって初めて可能になると思われる。そもそも「語り」という意味でのナラティヴは、自己自身についての語りから始まるわけではない。発話の発達について先に見た通り、多語文によって描写されるのは、他者の注意をそこに向けたくなるような外界の出来事である。(…)自己の身体を客体として知覚する能力は、自己を主語として発話する能力とセットで発達するのであろう。自己を客体として認知できなければ、自分で自分のことを「私」と名指せないのであるから、理論的には当然である。
(…)
自己自身について反省する作用が他者を理解する共感の作用の裏返しだったのと同様に、自己の経験について語るナラティヴの能力は、他者のナラティヴを共感的に理解する作用の裏返しであろう。自己のライフストーリーを語ることは、擬似的に他者の視点に立って、自己の過去を振り返り、未来を展望し、「私」という一人称の主語を用いながら、他者に理解可能なしかたで自己の人生を題材とする物語を構成する作業である。このような作業は、聞き手としての他者が目の前に実在するか否かにかかわらず、最初から他者との対話という性質を帯びている。ミードの自己論が示唆していた通り、「私」という一人称の主語を用いることができるのは、他者が自己を見るような目で自分自身を見ることができるからである。」
「対話では、発話者それぞれが「私」という一人称の主語とともにその場に参加しており、話のすべてが「私たち」という統一された主語のなかに解消することがない。もちろん身体的相互行為の場合も、行為主体の複数性は保たれているが、共同行為の場面では「私たち」という主体性の一部へと回収される場面も多多生じる。ところが、対話の場合、非言語の対人的強調が水面下でつねにはたらきつつも、ナラティヴの発話主体がつねに入れ替わることで、ポリフォニーのような多声性がつねに保たれる。
ハーマンスとケンペンは、こうしたポリフォニックな対話的経験を基礎として形成される自己を「対話的自己(dialogical self)」と呼んでいる。「ナラティヴ・セルフ」として発現するような、ライフストーリーが構成する自己のあり方は、人生で出会った重要な他者との対話の経験から多大な影響を受けている。(…)ナラティヴは言葉によって紡がれる語りであり。言葉はつねに宛先を持つ(それが自分自身である場合も含めて)。したがって、ナラティヴ・セルフの構造を理解するには、ナラティヴを構成する個別のエピソードだけでなく、ナラティヴ全体が差し向けられているところの潜在的な聞き手との関係を理解せねばならない。身体化された自己と同様にナラティヴ・セルフもまた、他者との複雑な相互作用を通じて構成される存在なのである。」
【目次】
序
1 神経構成主義
2 身体という広がり
3 身体のからみあい
4 本書の構成
第1章 動きのなかにある自己
1 運動学習の重要性
2 生きられた身体に備わる図式
3 運動学習の科学
4 二つの事例――シュナイダーとウォーターマン
5 運動学習において解明されるべきこと
6 運動学習が可能であることの意義
第2章 脱身体化される自己
1 身体の外に私がいる
2 ラバーハンド錯覚
3 全身錯覚
4 全身錯覚の意義
5 身体化された自己の拡張性
6 クリティカルな論点
第3章 「脳の中の身体」を超えて
1 脳の中の身体
2 幻肢を動かす
3 世界内存在としての幻肢
4 幻肢の「かたち」
5 身体と自己の構成
第4章 行為でつながる自己と他者
1 「身」という言葉
2 共鳴する身体
3 他者の心の問題
4 自己と他者のあいだ
5 「あいだ」で何が生じるのか
6 他者を理解するとは
第5章 身体に媒介される自己と他者
1 他者に知覚される経験
2 「主体としての身体」から「客体としての身体」へ
3 客体としての身体・自己と他者
4 他者の身体・他なる主体性
5 共感の裏側にある不安
6 二人称のメタパースペクティヴ
第6章 自己・他者・ナラティヴ
1 ミニマル・セルフを超えて
2 共同注意と発話
3 ふり遊びと想像力
4 反実仮想的思考
5 パラダイムとしての対話