日髙 敏隆『人間は、いちばん変な動物である/世界の見方が変わる生物学講義』
☆mediopos2655 2022.2.22
「人間はいちばん変な動物である」と
最晩年に講義したのは日髙敏隆氏である
(2009年に亡くなっている)
その変なところを考えることが
「世界の見方」を変えることにつながっている
主に引用してあるのは最後の第12講と第13講
「イマジネーションから論理が生まれる」
そして「イリュージョンで世界を見る」からだが
イマジネーション(想像)は「思いつき」
イリュージョン(錯覚)は「思い込み」のこと
「思い込み」は錯覚なのだけれど
「イリュージョンなしに世界は見えない」という
「思い込み」を
本能や生活・文化習慣の「型」として捉えれば
たとえそれらが現実と異なっているとしても
それらなしでは生きていくことができないといえる
ひとはなにがしかの本能を持って生まれ
じぶんのおかれた生活・文化環境から
さまざまなものを身につけてはじめて生きていける
しかしそれだけだと人間は
「思い込み」だけの存在になってしまう
動物の場合には
その「思い込み」から離れられないが
人間は「いちばん変な動物」だから
その「思い込み」が「思い込み」であることを
意識し理解しそれを超えていくこともできる
日本で剣道や茶道などの修業で
「守破離」という段階が示唆されることがあるが
ある意味で「思い込み」は
まず「型」として身につけていかなければならないものだ
それを新たなものに発展させるために「破」として
「型」を変化させていく必要があり
さらにはそこから「離」れることで
新たなものを生み出していくプロセスが「守破離」である
その「破」であり「離」を
イマジネーション(想像)/思いつきとして
とらえることができる
それは「世界の見方」を変えるためにも重要なプロセスである
人間はじぶんが動物であることも忘れてはならないが
「いちばん変な動物である」ことのなかに
可能性をもっているということができる
ちなみに神秘学的な視点では
人間は動物進化のプロセスを歩んできたのではなく
もともと人間であって
人間が進化していくために
じぶんのなかから動物要素を放出してきているという
つまり人間のまわりにいる動物たちは
かつて人間であった存在であって
人間を進化させてきた存在でもある
もちろんかつての動物性がまだ残っている人間の魂も
おそらくは存在していて
その「放出」をこれからの課題としてもいるだろうが
「放出」してきた動物たちへの理解を深め
さらにそうした存在たちに感謝していくことが
「破」であり「離」という課題に取り組む際には
非常に重要なプロセスとなるはずである
「世界の見方が変わる生物学講義」には
もちろんそうした神秘学的視点があったりはしないけれど
ほんとうに「世界の見方」を変えるためには
そんな視点で生物を人間を見ることも必要なのではないか
■日髙 敏隆『人間は、いちばん変な動物である/世界の見方が変わる生物学講義』
(ヤマケイ文庫 山と渓谷社 2022/2)
(第12講 イマジネーションから論理が生まれる)
「このごろ流行っている言葉で、セレンディピティ(setendipity)という言葉があります。非常に流行っている言葉です。たとえばノーベル賞をもらった人に対して、「彼はやはりセレンディピティがあったんだ」というふうに使われる。
そのセレンディピティを英和辞典で引いてみますと、「なにかものを見つけだす不思議な能力」だそうです。あることを見た時に、ふっとそのものを見つけ出す不思議な能力のことをセレンディピティというんだそうです。(・・・)
それで、ノーベル賞をもらった人っていうのは、やっぱりセレンディピティがあるんだということになっています。いますけど、「そのセレンディピティってなんあんだ」「「セレンディピティを持った人と持っていない人がいるのか」ということになると、そうではないんじゃないかと思います。いろんなことをよく思いつく人はいますけど、新しい思いつきになるというものらしい。それは能力がどうとかいう問題ではないんだけど、それを「それはセレンディピティですよ」と、一言でごまかしている。ぼくはそれはおかしいのではないかと思っています。(・・・)
それはセレンディピティなんていう大層なものじゃなくて、もっとふつうのことなんですね。どうもイマジネーション、想像力ってのはそんなものらしい。
ただ、いったいどうしたら、そういうイマジネーションがもてるかってことは、それは残念ながら言えないです。もにを知ってりゃいいかってことも、それも言えない。しかし、そういうもんであるということらしい、ということをみなさんに伝えておきたかったんです。」
(「第13講 イリュージョンで世界を見る」より)
「「思いつき」と「思い込み」ってのはやっぱりちょっと違うんで、「思いつき」は想像=イマジネーション(imagination)の話だろうし、「思い込み」の方はぼくはイリュージョン(illusion)と呼んでいます。イリュージョンっていうのは辞書を引くと「錯覚」というふうに書いてあります。錯覚、とか錯視。そういうこともあるけれども一般的には思い込みのことだと思っていいのではないか。人間は非常にこのイリュージョンが強い動物らしくて、なんかを見た時にはそれを思い込んじゃうんですよね。」
「イリュージョンというのは非常に大事なもので、これがないとぼくらはものが見れないだろうという気がします。それでももう三年ぐらい前に『動物と人間の世界認識』(ちくま学芸文庫)という本を書いたんですよ。要するにいろんな動物や人間が世界をどう見ているか、どう認識しているかってことを書いたんですが、ふつうの動物もやっぱり思い込みをしています。
ナミアゲハってチョウチョは知ってるでしょ? 黒いところに黄色い縞が入ってる。これはオスとメスとあまり変わりはない。それでオスのナミアゲハは、一所懸命飛び回って、メスのナミアゲハを探します。そして見つけると飛びついて交尾をします。その時にナミアゲハは「そういうものが自分のメスだ!」と思い込んでいるわけですよ。だから「そういうもの」がいたら、それに飛びついてみるわけです。
で、「そういうもの」というのはどんなもんなんだろうっていうことを、これはチョウチョに聞いたってわかりませんから、実験してみるよりほかないので、いよいよ実験をしてみました。
昔からそういう研究はたくさんあります。たとえばアカスジドクチョウという、黒い羽に広い赤い帯が入っているチョウチョがいるんです。で、このチョウチョで「オスはどういうものを探すか」ということを調べてみると、青い筋だと来ない。黄色い筋でも来ない、赤い筋を入れたのには来る。
ところが、この赤いところを大きく塗っちゃうんですね。そうすると本物のメスよりよく来るんです。そして、いちばんいいのは全部真っ赤っかにしちゃったたつなんです。そうすると猛烈にオスが来るんです。(・・・)
というような研究をして、チョウチョの場合に模様というものは意味はない。色が問題なんだというふうな論文を書いた人が何人もいました。で、ぼくもそういうもんかな、と思っていたんですよ。
それでね、本物のメスの標本を棒の先につけておきますと、飛んできたオスはそこにパッと来るんです。ところが、黄色いところをマジックで、たとえばブルーで全部塗っちゃうんです。そうするよすごいヘンなチョウチョができますね。こういう青く塗っちゃったやつには、絶対来ない。緑に塗っちゃっても来ない。黒だったらますます来ないです。だからやっぱり黄色が大事なんだということになるんです。
それからまぁ、よくあんなことをやったと思うけど、安全カミソリの刃でアゲハチョウの羽の黄色い縞のところを切り出すんです。(・・・)それをアゲハチョウの恰好の大きさに切った黒い紙の上に貼っていきます。真っ黄っきのアゲハをつくったわけです。これはきっと目立つはずであると。
そうしたら側を通るオスのアゲハがみんな来るじゃないか、とおもったら、まったくそうはならない。(・・・)寄ってくるのはいない。本物のメスだったらば、オスはさっとそこに飛んできます。だけどそんなことは絶対にしないんですね。
じゃあというんで、さっき切り抜いて残った黒いところだけを、この真っ黄色のモデルに乗っけてみたんです。すると。また元の黄色の縞模様がでてくるわけ。そうするとね、オスのチョウチョが来るんです。つまり色が問題で模様は問題じゃないというのは嘘だ。やっぱり模様は問題なんだってことになりました。
(・・・)
結局ね、ナミアゲハにおけるメスのシンボルは何だっていうと、それはこの色の縞模様である、ということになっちゃう。縞模様であれば、四角の上に黄色い筋をつけた、こんなに理論化しちゃった縞模様でも、メスだと思っちゃう。こういうことなんです。
人間にもそういうことがたくさんあって、たとえば男から見ると髪の毛の長いのはだいたい女だと思うんです。女もそう思うかもしれません。ところが昔は男の子でも長髪にしてた人がいっぱいいたんで、長髪にしてる男を後ろから見て女の子だと思っちゃうわけね。そてはまさに「髪の毛を長くしたのは女である」という思い込みです。それに近いようなことをこのチョウチョたちがやっているんだということです。しかしそれが悪いとは言えないですね。
ぼくらはやっぱりそういうふうに、ある程度思い込みでもってものを判断している。いいかえれば、思い込みがないとものを見ることはできない、という気もするんです。つまりイリュージョンがないと、ものは見えないということで、ぼくの書いた『動物と人間の世界認識』という本に「イリュージョンなしに世界は見えない」というサブタイトルをつけました。
この講義は、「人間はどういう動物か」というタイトルでやってきました。始めから言いましたけれども人間というのは、動物であるのは間違いないんだが。まっすぐ立って歩いていることから始まって、ひじょうにヘンな動物であるし、おまけにさっきのイマジネーションをもってみたりですね。イリュージョンをもってみたり言語をつくってみたりとか、いろんなヘンなことをしている動物なんだけれども、結果的にいうとやっぱり動物として生きている、こういう動物だってことになります。」