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ジョン・D. バロウ『無限の話』

☆mediopos2780  2022.6.28

無限の話には終わりがない
無限について考え始めると終わりがない
想像力も無限の前では力尽きてしまうが
無限にはやはり終わりがない

宇宙論における無限の話も
数学における無限の話も
とてもむずかしく
どこまで理解できているか心許ないが
無限の話というだけで
聞き耳をたててしまう

どうしてだろう

もちろん無限なんか関係ないと
気にしないで生きて行くことはできる
簡単なことだ
むしろ無限について考え続け
論争し続け
心を病んだりもする人のほうがずっと少なそうだ

ぼくのように無限と名がついた本をみつけると
気になって仕方がなくなる人間のほうが少なそうだが
それでもある意味「業」のように
「無限」は「人間の心につきまとってきた」

どうしてだろう

おそらく人間は
「意味」にとらわれて生きているからだ

「意味」がどこからくるか
実際のところわからないのだが
「意味」がやってくると
その「意味」は実体化してくるのだ

そしてその「意味」が与えてくれる世界のなかで
生きて行かざるをえなくなる

逆にいえば「意味」を失うと
ひとは「世界」を失ってしまい
ときに「生きる意味」を失って
死を選んだりすることもある
もちろん「意味」に縛られすぎて
死を選ぶこともあるだろうが

ある「意味」を特定しようとすると
その「意味」はやがて矛盾を孕んでくることにもなる
「意味」は決して閉じてはいないからだ

科学者はその探求するテーマにおける「意味」を
さまざまなかたちで理論化し実用化したりもし
それがある種のパラダイムとして
ある時代をつくりもするが
やがてどこかで矛盾や限界に突き当たり
それを超えていけるような理論を見出そうと奮闘する

「意味」は意味づけられることで
その世界がつくりだされるが
「意味」はいわばどこか無常なのだ
「意味」は「意味」を超えてゆこうとする

そんなことを考えるとすぐに思い浮かぶのが
「無限」という「意味」だ

以上は本書の論述をほとんど無視した話になっているが
「無限の話」は「意味」との無限の格闘
格闘というよりは遊戯といったほうがいいかもしれない

無限について考え始めると終わりがない
そのように「意味」について考え始めると終わりがない
考えるということは「意味」をめぐる遊戯だからだ
「意味」をはなれては生きていけないが
だからこそナンセンスという「無意味」が清涼剤にもなる

■ジョン・D. バロウ(松浦俊輔訳)『無限の話』
 (青土社 2006/3)

「無限は何千年も前から、人間の心につきまとってきた。神学者に対しても、科学者に対しても、それを理解してみろと迫ってきた。何かの大きさに切り分けられるか? いろいろな形や大きさがあるかどうかつきとめられるか? 人間による宇宙の記述から排除したいのか、そこに迎え入れたいのか、はっきりさせてみろ——そう迫ってきた。無限は問題なのか、答えの側にあるのか。

 それは差し迫った問題でもある。物理学者の万物理論探しは加速しているが、これはそもそも、無限に対する姿勢によって導かれてきた。無限が姿を見せるのは、何かの警報になっていて、答えに向かう道筋で、袋小路に入り込んだことを知らせるものだった。スーパーストリング理論が熱烈に歓迎され、支持されたのは、それが以前の理論にふりかかっていた無限大の問題を、巧みに消したことによる。

 その刺激的な新試論は、物質が無限に分割できると期待していいかどうかについて、判断をつける仕事を残す。われわれが見つけるどんなものの内部にも、ロシアの入れ子人形(マトリョーシカ)がどこまでも続くように、必ず、もっと小さい、もっと基本的な粒子が見つかるのだろうか。それとも限界があり、最小の「もの」、最小の大きさ、最短の時間があって、そこで分割は打ち止めになるのだろうか。はたまた、世界が織り上げられる元になる根本的な実体は、実はそもそも、小さな粒子ではなかったりするのだろうか。

 宇宙論学者にも、それに独自の無限に関する問題がある。宇宙論学者は、何十年も前から、時間と空間をもった宇宙の始まりは、「特異点」という、温度、密度など、ほとんど何もかもが無限の大きさになるところだと考えて満足していた。しかし、重力と量子は、本当に無限大を許容するのだろうか。無限大が現れるのは、成功のしるしなのだろうか、それとも失敗のしるしなのだろうか。無限大は、ジグソーパズルのピースがまだ十分見つかっていないことを知らせる合図なのだろうか。それとも、宇宙の始まりや終わり、ビッグバンやその正反対のビッグクランチの瞬間といった、究極の問題に対する答えに不可欠な部分なのだろうか。

 宇宙論学者は他にも奇妙な無限大について考えている。未来が無限に続く可能性だ。宇宙は永遠に続く道筋の上に乗っているのだろうか。「永遠」とは何を意味するのか。性命は、形は変わっても、永遠に続くのだろうか。それから、もっと人間的な水準で言えば、われわれが永遠に生きるとは、何を——社会的、個人的、精神的、法的、物質的、心理的に——意味するのだろう。

 現実に無限大はあるか、数学者も、この問題にむかわざるをえなかった。この問題点は大きくて、数学者がつきつけられた中でも最大の問題だった。わずか七〇年前、数学者は、無限大の意味をめぐって内戦状態になり、多くの死傷者と怨恨を残した。数学から無限大を追放し、数学の境界を、無限大を現実の「もの」と扱うことをいっさい排除するうように定めなおしたいと願った人々がいた。無限大を数学から追放しようという試みのせいで、廃刊になった雑誌があり、追放された数学者もいた。

 あらゆる騒動の元に、ある一人の人物の研究があった。ゲオルク・カントールという天才が、ある無限大の逆説について、その理解のしかたを示した。その三〇〇年前、ガリレオが最初に特定していた問題だった。無限集合の正体とは何か。そこから何かを取り除いても、残りはまだ無限だと言えるのはどういうことか。ある無限大が別の無限大より大きいということがありうるのか。究極の無限大があって、それよりも大きいものは、構成することも考えることもできないということなのだろうか。それとも、無限大はどこまでも進むのだろうか。しかしカントールは、自身の天才の成果が、数学の中に収まって、相応の評価を得る部分となるのを見るまでは、生きられなかった。無限の数学に反対する有力者たちに邪魔され、また足下を危うくされ、長い間数学を断念し、鬱病など精神の病に苦しみ、最後は療養所でひとりで亡くなった。数学の忘れられた英雄の一人、才能ある芸術家で、簡単に言えば天才だった(…)

 神学者は、古代も近代も、その教理や信仰に潜む無限大の意味を解そうと、苦労を重ねてきた。神は無限か。神は、すべての正の数の一覧のような世俗の無限大よりも、もっと「大きく」なければならないのではないか。宗教はそれぞれ無限大をどう解しているか、それは脅威と見なされるじょか。それともさらに大きなものがあることの表れなのか。カントールはまったく予想外の答えを出す。

 ゼノンに始まる古代の哲学者は、いろいいろな方面で、無限大の逆説につきあたった。今日の哲学者はどうだろう。現代の哲学者は、どんな問題で悩んでいるのだろう。本書では、有限の時間で無限回の作業を行うことは可能かという問題を考える、科学と哲学の界面にある活発な議論の対象について、いくつかの例を取り上げる。現実のコンピュータは、スーパータスクという、無限回の処理を含む計算を有限の時間で完了するという課題を実行できるか。もしできたらどうなるか。もちろん、こんな単純な問題は、哲学者の手に入ると、もう少し明らかにしなければならないことがある。「可能」、「課題(タスク)」、「無限」、「数」、「有限」、さらには「時間」とはいったいどういう意味か。

 現代科学を広い範囲にわたって巡っていくにつれて、無限に関する奇妙な問題群に遭遇する。宇宙は有限か無限か。われわれは永遠に続いて行くのか。過去は無限なのか。無限の宇宙の中で何かが起きることはありうるのか。コンピュータが解くのに無限の時間がかかる問題はあるのか。その問題はどういうものか。

 たいていの人は、無限と境界がないことを同一のことだと考えている。面白いことに、両者は同じではない。玉突きの球の表面のように、有限でも境界がまったくないものはある。蟻は球の表面をどこまで歩きまわっても、端に遭遇することはない。曲がった空間はいろいろあるが、無限の曲率で曲がると、宇宙はどうなるか。アインシュタインは、宇宙空間は曲がっていることを示したのではなかったか。すると、そのことは宇宙についてどういうことを教えてくれるのか。

 時間が有限でも終わりがないという、変わったこともある。われわれはたいてい、時間を自分の前に延びる直線として考えている。時間はまっすぐに見える。どんな出来事も、何らかの他の出来事の未来にあるか、過去にあるかだ。残念ながら、宇宙はそれほど単純ではない。前後に並んだ兵士が行進しているとしよう。しかしこの兵士の列を円形に行進させれば、誰もが誰かの前であり、かつ後ろとなる。もはや順番は成り立たない。時間がこのような意味で環状になれば、時間旅行が生じうるようになり、いろいろと奇怪な逆説が考えられる。誰かが本書の説を読み、時間をさかのぼって、この本を書いた私に、一語一句、書かれてある通りに教えてくれたとしたら、この本のためのアイデアはどこから来たのだろう。あなたはそれを私から得たが、わたしはそれをあなたから得た。これは無から何かが生まれたように見える——この宇宙と似たところのある話だ。」

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