サラ・ウォース『食の哲学/「食べること」に潜む深い意味』
☆mediopos2803 2022.7.21
さすがに現代においては
身体性についても
論じられるようになってきているが
かつてふつう五感といわれる
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚は
視覚と聴覚を除けば
直接的な感覚にかかわる感覚は
「下等」な感覚だとみなされ
深く論じられてはこなかった
秘教的なものを除けば
宗教においても
身体的なものというのは
迷いのもとだとされ
禁欲をよしとされる傾向が強くある
それは対象との距離が近く
それらの感覚にとらわれると
その影響を直接的に深く受けてしまうからだろう
地上的な「快楽」にとらわれるということだ
本書では哲学的もしくは宗教的な文脈では
避けられがちな「食べること」について
「味覚」という(抽象)概念から
「食」にまつわるさまざまな具体例まで
人間と「食べること」について
さまざまな考察がなされているのをきっかけに
そこから広がる視点を得るための恰好のガイドになる
本書を読みながらすぐに思い出したのは
道元『典座教訓』である
そこでは食と仏道が同じ視座で語られている
食もまた悟りと別のものではないのである
密教においてもそうだが
食だけではなく下等な感覚といわれる感覚が
いかに高次の認識への変容の契機となるか
ということは重要な示唆となる
しかしいわば低次のそれらにとらわれる危険性もあって
無前提に肯定されているわけではないのだが
それはともかくとして
哲学者をはじめとした方々には
ともすれば感覚音痴のような方も多いようで
その意味でも「視覚」や「聴覚」はもちろんのこと
「食(味覚)」だけではなく「嗅覚」や「触覚」に
目を向けることは重要だと思われる
たとえば「嗅覚」ひとつとっても
ある意味ではこれは「判断力」の源にある感覚でもある
いいニオイがするか変なニオイがするかは
たとえばだれかの言葉にふれるときにさえ感じられる感覚で
偽物のニオイがするかホンモノのニオイがするかを
直観的に感じとれる不思議な感覚でもある
■サラ・ウォース(永瀬聡子訳)
『食の哲学/「食べること」に潜む深い意味』
(バジリコ 2022/6)
(「はじめに」より)
「私に言わせれば、自分の外の世界を取り込んで自分の一部としてしまうなどということは、まさに驚くべきことだ。同時に、哲学者としては、大半の哲学者たちがこのような人間の営みをまったく無視してきたことが不思議でならない。
主流の西洋哲学では、これまで意識や心、観念的な身体については認識していたが、空腹や渇きを覚え、食べ物や水を切望する身体について考えることはなかった。
(…)
世界最初の美食家の一人、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランはこう言っている。
「あなたが食べているものを教えてほしい。あなたがどんな人物か言い当ててみよう」
ブリア=サヴァランは、人間と食べ物の関係について深く理解していた。普段食べているものが豆と米なのか、エビと粗挽きの穀物なのか、それともステーキとポテトなのかがわかれば、その人が属する社会的階級や、住んでいる場所、どんな文化の中で暮らしているのかなど、多くのことがわかる。食べ物の好みも、これらと決して無縁ではなく、遺伝的な要因や、地域、宗教、階級などに大きく影響される。
(…)
哲学者のルートヴィヒ・フォイエルバッハは、率直に「あなたは食べたものでできている」と述べている。しかし、彼の言いたいのは物質的なことであり、食事の内容が脳の健康に直接影響を与え、それが思考能力や何に金を使うかを左右し、ひいては愛国心や政府にも影響を及ぼすということだ。なぜなら、食品は私たちの生活において極めて重要な経済的資材であり、食べるという行為は、その経済的な選択の結果であるだけでなく、文字通り脳に栄養を与える行為でもある。フォイエルバッハによれば、貧しい食事からは貧しい思考と感情が生じるということになる。」
「いわゆる下位感覚——味覚、嗅覚及び触覚——は、文字通り身体を通じて情報を取り込むことから「近感覚」と呼ばれる。視覚には光が、聴覚には空気の振動が必要だが、触覚と味覚はどちらも感覚情報を取り込むためには身体が体操に直接触れることが必要だ。嗅覚の場合も、通常は対象との距離が近い場合が多い(異論もあるが)。
触覚と味覚の場合、二人の人間が同じように感じているかどうか確実にはわからないため、知識の情報源としては信頼性が劣る。味覚は感覚の順位付けにおいて最下位とされることも多い。味覚は身体と結び付いているだけでなく、味わい接種するという過程において「探求の対象」そのものが文字通り探求者の体内に取り込まれてしまうからだ。対象物は噛み砕かれて、それを味わう人と一つになる。」
(「第六章 料理の哲学」より)
「哲学的に言うと、料理はアイデンティティの問題の中核を成すものである。その人が何を本物で意味のあるものと考えているか、未知のものをいかに探求しようとしているか、そうした人間の固有性の基盤となるものだ。
料理の本質は、自然を文化へと変換する過程にある。食べ物を文化に変えることは、多くの宗教儀式や、国家をはじめとする共同体が有する文化的アイデンティティの土台であり、共に食べることは他者とつながるための大切な方法なのだ。
良い食事は、良い人生の大切な要素の一つだ。しかし私は、良い食事とは何かということだけでなく、「料理」が哲学的な理論や枠組みの理解にどのような基盤を与えるかについて考察したい。料理は持って生まれた能力ではないが、料理をどのように学び、その知識をどのように展開するか。それはここではの考察において重要な要素となる。」
「熟練のパン職人は、匂いでパンが焼けたのがわかる。経験を積んだ料理人は、オーブンの温度の変化による焼け具合の違い、小麦粉の品質が製粉の細かさや製造時期によって大きく変化することを熟知している。経験豊富な料理人が、調理の各段階で味見をして、必要な調整を行う。彼らは、思い描いた料理を作ろうとするとき、レシピに頼るわけではない。腕の良い料理人は味見をし、匂いを嗅いで、常に食べ物の状態を感じ取っている。彼らは、小麦粉が古くなっていることが触れるだけでわかり、スパイスの鮮度は匂いでわかる。味見をすれば、調味料一振りで料理の味を格段に上げることができる。同じ料理でも、レモンひと絞りでおいしくなったり、ライム果汁で台無しになったりすることを知っている。良い料理人が、ほどよく膨らんでオーブンに入れる準備ができたパン生地の感触を手で覚えている。彼らは、食料庫や冷蔵庫の中を見渡して様々な食材を取り合わせ、他の誰とも違う一皿を作ることができる。こうした知識を得るためには、実際に料理を作る訓練を積むとともに、経験と感覚を結び付けることが必要なのだ。」
「料理は、数学の方程式や科学の法則とはまったく異なる。料理には「過程」が重要だ。徳倫理学と同じように、料理の方法を知っているということは、食材の取り合わせや、調理によって材料がどのように変化するかを実践によって理解しているということだ。
徳倫理学には、常に同じ理想を目指して実践するほど、うまくできるようになると考える。料理でも同じことが言えるのだ。これ以上はないという理想のソースはなく、料理にはこれで良いということはない。」
「イデオロギーと聞くと、政治体制や教育制度、あるいは宗教を思い浮かべることが多い。食に関する選択においても、こうした眼に見えない暗黙の信念が関係していることがよくある。菜食主義者は、肉を食べないというルールに従う。そのルールの背景にあるのは、動物の福祉、環境への配慮、健康上の理由、宗教や文化的な理由、あるいはただの好みなどだ。しかし、菜食主義というイデオロギーに同意するからには、ある一連の信念があるはずだ。菜食主義を標榜する人は、肉を食べないという選択に至った理由と信念を説明できなければならない。
料理本は、取り上げた食べ物について特定の考え方を提唱することにより、ある信念の体系の一端を担っていることがよくある。」
「私たちは、自分が食べるものに関してイデオロギー的な信念を持っている。菜食主義から肉食を支持するカーニズム、さらには野菜を中心に時々肉も食べるフレキシタリアニズムまで様々な考え方があるが、私たちが抱くそうした考えや理想は、周囲の世界とどのように関わるか(そして、おそらく動物を食べるかどうか)という問題とも大いに関係がある。こうした信念は、文化や家族、教育、食の経験の幅などに影響される。しかし、食に関する判断の拠り所となるイデオロギーこそが(それを言葉では説明できない人が多いとしても)、何を選んで口に入れるかを決めている本質的な理由なのだ。」