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『未来哲学第五号』〜末木文美士「ウクライナという問題:「悪」は「悪」なのか」/「討議 悪と語りえぬもの」

☆mediopos3219  2023.9.10

『未来哲学』は現在第六号が刊行されたところだが
今回は第五号の巻頭にある「悪」についての問題

ロシアのウクライナ侵攻の問題から
「悪とは何か」が論じられ議論されている

何度も言及されているのが
二〇二二年四月一二日・東京大学の入学式での
河瀬直美の祝辞に対する反応である

河瀬氏は「「ロシアという国を
悪者にすることは簡単である」として、
「悪を存在させることで安心していないだろうか?」
と問題を提起した」のだが

それに対して池内恵は
「「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう」
と批判したのだという

その批判はアカデミズム特有の知的過信による視野狭窄から
河瀬氏の提起した問題をまったく理解していないものだが

未来哲学研究会による「討議/悪と語りえぬもの」で
とくに納富信留が述べているように
河瀬氏は「「悪の問題」について、
それを悪というレッテルを貼ることで
基本的に安心してしまう」と
「問題の本質を完全に見損な」ってしまう
ということを提起したわけである

末木文美士はウクライナ問題に関連しながら
「ナチスを絶対悪とする根拠はあるのだろうか。
そのことが改めて深刻な問題である」とし
「悪は悪である」ということ
そのことに対する倫理の根源にある根拠を
見いだすべく「討議」に臨んでいるが

納富氏の示唆のように
「「悪」という言葉を使ったとたん、
そちらのほうの論理に取り込まれてしまう
ということが起こる」ということには
注意深くなければならないだろう

それはたとえば
「陰謀論」という言葉を使うことで
思考停止になってしまうことにも似ている
(「反知性主義」という言葉も同様に)

「知的」であることを自称するような
アカデミズムもしくは公的な場での議論では
先のウクライナ問題におけるロシアの視点や
コロナウイルスにおけるワクチン被害の問題など
その背景にあるアメリカの関与や
それに追随する日本の政治状況などについての言及は
ほとんどその「陰謀論」という言葉で括られ
マスメディアはもちろんのことSNS等でも
思考停止を起こさせる壁となっている

さて末木氏がこだわっている「絶対悪」についてだが
議論のなかで永井晋は
倫理とは「理屈、理論として言えば、
やはり無、あるいは無根拠ということが
非常に重要なことではないか」という

「掟とか命令とかいうのは根拠があってはならない」
それが「無」であるがゆえに倫理は成立するのだ
それは悪についてだけではなく
善もまた同様である

まさに「倫理」は「同語反復」でしかない
「同語反復」であるがゆえにそれは成立する

中島隆博曰く
私たちは「ハンナ・アーレントが提起した
「悪の凡庸さ」の問題に、この一〇〇年間、
われわれは付きまとわれている」という

「悪」は「絶対」なのではなく
「凡庸」なのだ
それが無気味で怖い・・・

いままさに私たちが直面している
「凡庸な悪」の数々は
おそらくやがてその「悪」が
露呈される時を迎えることにもなるだろうが

そのとき
なぜそんな「悪」を成すことができたのか
と当事者に問い詰めたところで
そのときに現れるのは「絶対悪」ではなく
「凡庸さ」そのものだろう
それこそがまさに「無気味で怖」くはないか・・・

■『未来哲学第五号(二〇二二年後期)』
 (未来哲学研究所 ぷねうま舎 2023/1)

(末木文美士「声1 ウクライナという問題/「悪」は「悪」なのか————ウクライナ問題に寄せて」より)

「ロシアによるウクライナ侵攻は、私たちの思考を大きく混乱させた。
(・・・)
 戦争(とロシアは認めていないが)が長期化する中で、単純な善悪だけで判断できないさまざまな問題が絡んでくることが明らかになってきた。もともとウクライナのNATO接近へのロシアの危機感が大きな動機になっていて、NATOや米国が直接参戦しないまでもウクライナに武器を含めた強力な援助をすることで、冷戦期の東西対立を引き継ぐ新たな東西対立の様相を示してきた。冷戦期のイデオロギーの衣が剥がされたことで、対立はそれだけ露骨に経済力や軍事力の、力のぶつかり合いとなっていく。そうした中で、国際連合を核とした第二大戦後の世界の平和維持の構想そのものが揺るがされている。」

「二〇二二年四月一二日の東京大学の入学式における河瀬直美氏の祝辞と、それに対する反応は、このような思考の混乱を如実に反映するものとなった。河瀬氏は、「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」として、「悪を存在させることで安心していないだろうか?」と問題を提起した。それに対して、批判の声が上がり、例えば池内恵氏は、「侵略戦争を悪と言えない大学なんて必要ないでしょう」と批判したという。
 それに対してまず言えることは、多国の領土に侵入し、民間人を虐殺したことには、一切弁解の余地はないということだ。「悪は悪である」のであって、どんな弁明も許されないはずだ。「ロシアの正義がウクライナの正義とぶつかった」(河瀬氏)というような認識が成り立つはずもない。例えば、ナチスであっても、日本の侵略であっても、それなりの理論は具えていたわけだし、そこには今でも耳を傾ける要素はある。大東亜共栄圏や近代の超克論は、それはそれで興味深いし、いいところもある。しかし、だからと言って、「ナチスを悪者にするだけでは済まない」とか、「日本の侵略は、日本の論理が朝鮮・中国の論理とぶつかったからだ」などという議論が成り立つわけがない。悪は悪であり、そこに曖昧さがあるはずがない。」

「他国への侵略や虐殺は、どんな理由があっても正当化されるはずがない。そこに曖昧な要素はない。国連総会において、ロシアの非難の決議案に反対したのは、ベラルーシ、北朝鮮、エトルリア、ロシア、シリアの五か国だけだった。ロシアと利害関係を持っていても、せいぜい棄権しかできず、正面から反対はできなかったことは、そのことを証している。
 ただ長期化する中で、「悪いものは悪い」という原則自体が曖昧化し、麻痺していくことになる。「現実的な解決」が原則に取って代わることになるう。実際問題としてロシアの勝利に終わる可能性は大きいと言われる。個人の犯罪と異なり、国際関係の場では、悪が悪として断罪されるわけではない。そこでは、所詮、原則論などどうでもよいのであろうか。結局のところ、強いものが勝つだけであり、ナチスの復活でも歓迎すべきことなのであろうか。ナチスを絶対悪とする根拠はあるのだろうか。そのことが改めて深刻な問題である。」

「国連のロシア非難の決議案に、西ヨーロッパの国はすべて賛成したのに対して、アジア、アフリカの中には棄権した国が少なくなかったことは、その背後の東西対立を予想させる。実際、その後の動きを見ていると、いわゆる「西側」に対して中国・インドなどの大国がロシア寄りの態度を明確に示すようになって。新たな東西対立の様相を強めている。」

「今日、西洋の優位と普遍性の強要は揺らぎつつあり、それに伴って、思想・文化上の単純な二元論もまた成り立たなくなっている。そもそも西側のトップを走っていたはずの西洋で、西洋近代の価値観を否定するトランプが大統領となってのであり、今後さらにその傾向が強まる可能性がないわけではない。西洋近代の価値観の普遍性が成り立たなくなり、理念なきポスト近代へと突入していく。
 それに対して、それぞれの国や文化には。それぞれ異なる発想があるのだから、その違いを尊重しなければならない、という見方が盛んになっている。「みんな違って、みんないい」論である。もちろん、それぞれの個性は認めなければならない。しかし、だからと言って自己の利害だけが唯一の判断基準となり、そこにおいて共通する価値観が失われるとしたら、それはきわめて危険なことではないだろうか。そうであれば、国連の決議も、単に多数国の利害が一致したというだけのことになってしまう。」

「西洋近代という普遍性が通用しなくなった今日、もはや理念の普遍性を根拠づけることは不可能となったようにも見える。しかし力さえあれば、本当に何でもし放題なのであろうか。無抵抗の住民を虐殺しようが、核兵器を使おうが、すべて自由なのであろうか。「悪は悪」ということは、もはやあり得ないのだろうか。
 否、誰が、何を、どれほを言いつのろうとも、「悪は悪」である。そのいことは、利害を超え羅普遍性を持つのでなければならない。「ウクライナの正義」と「ロシアの正義」だけでなく。「ウクライナもロシアも従わなければならない正義」がなければならない。しかし、そうではあるが、その根拠はどこにあるのであろうか。西洋近代の普遍性が消えた跡で、それでもなお普遍的な倫理は根拠を持ちうるだろうか。」

「それは、ある面では世界の見方の問題として考えることができるかもしれない。キリスト教の目で見れば、すべれの人はキリストの贖罪によって救われたのであり、仏教の目で見れば、すべての人は仏性を持つことになる。こうして私のまなざしゃ他者の奥底まで達しながら、他方で、他者のまなざしは私の奥底まで届く。このような普遍性は相互浸透的、あるいは相互浸潤的とでも言うことがdきるのではないだろうか。その浸潤によって自己と他者との垣根は崩れていく。そこから浮上してくるところに、あるいは倫理の根源があるのかもしれない。そうとすれば。「悪は悪」は、たとえそれを踏みにじる人がいても、それでも「すべての人」に共通する普遍性を持ちうる可能性があるのではないか。
 それは宗教の問題だけに限らない。自己と他者との関係の根本かもしれない。相違し、断絶しつつ、しかも浸潤していくところに、新しい普遍の可能性を見い出すことができるかもしれない。たとえ現実の前では無力だとしても、それでも「悪は悪」という普遍的な理念を掲げることは、決して無意味なことではないと信ずる。」

(「討議 悪と語りえぬもの/未来哲学研究会(末木文美士・山内志朗・中島隆博・永井 晋・納富信留)」より)

「中島/末木先生のお話から私の頭にうかんだのは、やはり悪の問題です。悪の問題を相対主義的に考えるのではなく、ある種の普遍に向かう道程に位置づけて考えてみることですね。ただ、そこに挑戦するとすれば、例えば日本がこの一〇〇年の間にやってきたこと、あるいはそれこそ一〇〇年前から続く「加害と被害」の問題、こういった問題と取り組み直さなければならないと思われます。」

「末木/「悪の問題」、これは例えば、未来哲学研究所が定例で継続しているシンポジウムのテーマになりますね。本当にナチスが「悪である」と言えるのかどうか、これはそう言えなければならないはずなのですが、果たしてどのようにすればそれが言えるのかというふうに問い詰めていったら、そこには無気味な問題が潜んでいる気がします。それこそ近代の悪については、もしそれを悪と言えないのだとしたら、それこそそれまで積み上げてきた思考がすべてひっくり返ってしまう。(・・・)そうならないのはなぜなのか。一体どこにその根拠があるのか。やはりこの問題は大きいですね。

納富/その問題と関連して、ここのところ取り沙汰されている、映画監督の河瀬直美さんの発言ですが、私はあればきわめてまともなことを言われていると思っています。つまり、「悪の問題」について、それを悪というレッテルを貼ることで基本的に安心してしまうということ、それを彼女は批判しただけなのです。つまり、プーチンを精神異常とか、病気だと言ってしまうこと。テレビメディアが大好物の原因探しですね。麻原彰晃は結局狂人にすぎないとか言う、あの手のものはわれわれを心理的に安心させてくれるのですが、問題の本質を完全に見損なわせる。一種、麻薬的な機能があって、「悪の問題」というときに、要するに「悪」という言葉を使うことで、むしろわれわれのそうした問題に対する感覚をすべて麻痺させる効果が、まず一方に確かにあるわけです。そこにあるのは、ただの相対主義の問題ではなく、ある種の心理的な効果の問題ではないか。誰かしら悪人がいて、そいつが悪いことをやっている。その原因は、例えば幼児期の虐待にあるのだとか、ヒトラーの行為の遠因はコンプレックスにあるのだとか、そのように言えば片付くという、それを落とし所にするということ。その心理的メカニズムによる説明を、全部いったんきれいに拭い去ったその後で、いままさに言われた、それではどこに悪とか善という問題が残るのだろうという辺りから取り組まなければならない。
 例えば、現在の状況を例に取りますと、問題のごく表面のところで、ロシアという国に対してはもうみんな口をそろえて批判しますけれども、ウクライナを批判するようなことを言えば、たちまちバッシングされる。ロシア人にもいい人はいるなどと言おうものなら、それだけでバッシングされる。ここにあるのは完全な思考停止であって。逆に「悪という問題」を完全に見損なっている。」(・・・)それを突き抜けたところで、「哲学の問題」にするためには、中島さんの言われる「問い」がまさに必要だと思います。中島さんの「無気味な問題」とは、そういう問題だろうと思います。
 まず、その手前で、われわれが浸かっている悪という概念のまったく駄目なところを、いったい洗い出して検討してみるという、末木先生が云われたことは、そのこと自体、かなり難しい課題ではないかと思います。つまり、「悪」という言葉を使ったとたん、そちらのほうの論理に取り込まれてしまうということが起こる。
 ですから、先日の河瀬さんの発言をめぐる出来事は、そんなに騒ぐほどのことではない。むしろ、河瀬さんはまともなことを言っている、と私は思って見ていました。それが世間一般では誤解され、バッシングを受け手いるのだ、と。」

「永井/これは、きわめて複雑な話で、いろいろに切り分けなければならないと思うのです。最初に末木先生が書かれていたように、絶対悪、彼らが行っていることはもう絶対悪に違いないのですが、それについては恐らく、善という観点から考えることはできるのではないかと思うのです。つまり、人を殺してはならないという規範、そうした倫理、あるいは善はいかにして成り立つのかということだと思うのですが・・・・・・。
 その前に、さきほど納富先生が云われたこと、私もつねづね思っていたことなのです。まったく賛成なのですが、とにかく情報がおよそあてにならないので、何が正しいのかがまったくわからない。何が起こっているのかということ自体がまずわからない。情報にしても、報道で露リアの偽情報だとコメントされても、逆かもしれない。この辺りの真相は、絶対にわからないでしょう。これに関連して、もう一つはマスコミの報道姿勢ですが、ヨーロッパも日本も完全にアメリカの言っていることを、そのまま繰り返しているだけです。ですから、少しでもロシア側の視点に立って、ロシアにもこういうことがある、などと言おうものならもう終わりです。
 (・・・)
 あるいは。アメリカがこれまで何をしてきたか。ネオコンなどはずっと以前から関与し、要因を送り込むなどして、ウクライナの二〇〇四年のオレンジ革命、二〇一四年のマイダン革命など、そのすべてに介入しているわけですから、やはりアメリカが何を目論見、どうかかわってきたかということを知らねばならない。その意味で、これはきわめて複雑な話だと思うのです。
 それで悪、絶対悪についてですが、結局人を殺してはならないという根拠はないのですよね。

末木/そうですね。

永井/ですから、要するに理屈、理論として言えば、やはり無、あるいは無根拠ということが非常に重要なことではないかと思うのです。エマニュエル・レヴィナスの考えでは、結局、掟とか命令とかいうのは根拠があってはならないわけです。これは、理想論なのですけれども、倫理とは無根拠であるということがきわめて重要だと思います。
 もう一つ、末木先生が云われていた、諸宗教の関わり、あるいは普遍性の問題ですが、これもやはり理論として言えば「無」しかないと思います。」

「中島/ハンナ・アーレントが提起した「悪の凡庸さ」の問題に、この一〇〇年間、われわれは付きまとわれていると思います。納富先生が云われるように、悪人を見つけ出して安心してしまうわけですが、その悪人の「悪」があまりにも凡庸であるということが露呈してしまった。ですから、加害者にある高邁な理想があったり、あるいは逆に精神疾患があったりという、何かしら「強い理由」というのを見いだしたいという気持ちになるわけですが、それができない「悪の凡庸さ」にわれわれは直面してしまっているのではないか。」

「山内/「悪の問題」はキリスト教でもさまざまな動きがありますけれど、欠如ではなく、掟を破るというモデルもあったり・・・・・・。ただ、行き着くところとして、中島先生が言われていた、アーレントの「悪の凡庸さ」、これが根源的にあって、そこを掘っていくと凡庸な位相に突き当たって、そこにはなにもなかったりするということが、とても無気味で怖いなといつも思います。」

「永井/さきほどの無根拠ですけれども、悪が無根拠というよりも、善が無根拠であって、つまり「汝、殺すなかれ」という命令、これが本当に命令、戒律であり、絶対の命令であるためには根拠があってはならないわけです。普遍的な命令であるためには、命令という力を持つためには、その根拠があってはならないということです。つまり、「神の」命令として神を立ててしまうと、それはやはりさきほどの否定の論理に従って相対的なものになってしまいますから、結局何の根拠もなく、何の理由もなく、なぜ殺してはいけないのか、それに理由はないということになる。要するに、同語反復です。その意味で無根拠とうのは同語反復なのです。「汝、殺すなかれ」という絶対の命令が他者の顔として現れるとレヴィナスが言う時、これと同じことが起こっています。それは何の意味づけや根拠づけもなく、端的に善そのものが現前しているだけなのです。この端的な現前が同語反復です。」

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