山本哲士 『学校・医療・交通の神話』
☆mediopos-2411 2021.6.23
自分で歩く
自分で学ぶ
自分で癒やす
わたしたち一人ひとりにあるはずの
そうした自律的な力を
現代産業社会は
専門家による制度的な他律によって
スポイルし続けている
自分で歩く前に/代わりに
移動機械に交通機関に委ねる
自分で学ぶ前に/代わりに
専門の教師に学校に委ねる
自分で癒やす前に/代わりに
専門の医師に病院に委ねる
現代産業社会を構築している
象徴でもある学校・医療・交通は
主体を自律から専門家による他律へと
upside downし続けているのだ
そのきわめて現代的な象徴が
考えることを代替させようという
AI神話である
そこで人間が主体的にしていることは
与えられた「より良い」サービスを
半ば作られた欲望によって
享受するだけの消費行動でしかない
社会制度内のなかでのそうした行動からは
一人ひとりの自律的な行為は可視化され難く
自律的な力はますますスポイルされ
見えない=存在しないことにされてしまう
そしてやがては
存在してはならない力とさえされてしまう
つまり
社会制度内的な専門家なしでは
自分で歩いてはならない
自分で学んではならない
自分で癒やしてはならない
ということにさえなってしまう
それは管理社会の完成でもある
専門家というのは
社会制度によって保証された
各専門領域における権威である
それらの専門家は専門家である以上
みずからの領分を超えて働きかけてはならないし
社会制度内で保証されていない力を行使してはならない
みずからの行使する力を問い直すことも許されない
社会制度内的専門性を否定することにもなるからだ
だから先生も医者も学者も
制度内的であるかぎり
学校や病院の外でも先生という専門家であり続けねばならず
みずからもそのなかで生きることが求められる
現代産業社会はそうした専門家による他律的な力によって
独占運営されることで成立するからである
管理された移動
管理された学び
管理された癒やし
昨今のコロナ禍が露呈させてもいる
現代産業社会の姿でもある
■山本哲士
『学校・医療・交通の神話<底本>
現代産業社会批判----コンビビアルな世界へ----』
(山本哲士著作撰2/知の選書SNDEOS 102)
(文化科学高等研究員出版局 2021.6)
「わたしたちは自ら歩き、学び、病気や損傷を癒やす固有の力を有している。それは、わたしたち一人一人の自律的力能であり、伝統的な文化の体系に支えられ、隣人との相互交換から守られているものである。ところが、産業的な技術科学文明はこうした自律的力能を麻痺させてしまっている。学校で教えられ、専門的医者に治療され、モーター乗り物で運ばれるわたしたちの日常世界では無限の<成長>が幸福な生活を保障するのだと考えられている。より良い、より多くの、技術科学、サービス、商品、そしてエネルギー消費が探求・実現されるべきであるというのだ。しかしながら一九六〇年代になると、発展や進歩の結果生みだされ分配された富は、わたしたちを裏切るものになってきた。世界がますます豊かな国と貧しい国に偏極化しただけでない。わたしたち素人は、専門家たちだけが問題を解決できると信じ、さらに現在の諸制度に依存するだけでなく、それを受容してはじめて社会的に生存できると思いこんでいる。そこでは、わたしたちの政治的自律性が不能化されている。」
「専門エキスパートは、自分たちだけが定義し、作成し、修善し、開発し、破壊しうる技術的力能をもっているだけではない。それはただ消費者にたいして諸々の必要をサービスすることに限られているが、エキスパートの象徴的なパワーはその技術的パワーよりももっと危険である。それは、必要が定義される一方で、個人の力能を骨抜きにしているのである。個人の自律的力能は、サービス諸機関の過剰なサービスによって時代おくれの古くさいものにされ、個人は自ら統治する必要もなく教えられ、動かされ、治されている。
太郎/花子は、教師から読み書きを教えられるだけではない。資格ある専門教師の教授がよりよいと教えられる。義務的学校なしには学べないと信じている。車は人を運ぶだけではない。環境を変え、歩くことを追いだしてしまう。
子どもは自分の目で自分の身体を判断する際に、ドイツ語を使用する技術者の前に身をさらすのを知り、自分の身体は見知らぬ専門家がとり扱うものだと知り、社会保障や医者の数がそなわっている自分の社会を誇るのである。
このようにわたしたちの日常生活での諸行為が産業的活動に(かつ制度化された行動に)転化されている。その転化を産業社会の神話は合理化しているのである。<行為>と<行動>の矛盾的対立をおおう産業社会的神話は、人間の諸行為に束縛を与えていた伝統的な神話と違って、無限の成長にむけてわたしたちを駆り立てる<幻想の権力>となっている。その神話を保つのが魔術師・司祭・聖職者となっている専門家たちである。そして、消費者は彼らの儀礼的祭式に従順になってのみ、産業的な危機・破壊性からの救済を保障される。その見返りは、自分でも気づかない「自律性の不能化」である。」
「論点は、学校/医療/交通の三大パラダイムを、いかに統合するかである。その統合は、国家論でも経済的土台論でもない。マルクス主義的なものとはずらして、政治統治技術と生産様式をいかに理論配置するかである。それはつまり、支配されているとか抑圧・搾取されているとかの象徴暴力を含めての暴力性を知的認識だとしている知識主義の状態からのずらしであり、自らの自律的な自己技術を受動性・他律性から切り離すことを意味する。(…)社会主義と社会主義国との違いを強調された吉本さんお提起を考えれば考えるほど、わたしにとっては社会主義は社会主義は社会主義国にしかならないという実証的かつ理論的な結論であり、社会主義にも革命の政治行動にも展望・希望をもつことにならなかった。他方、資本主義という実態も存在しない。なぜなら資本主義は自らの真正原理を有していないからだ。実際にあるのは、商品の「産業<社会>経済」でしかない。つまり、日本がマルクスのイメージした社会主義に近いのではないかと、といく示唆は実際には、ただ産業<商品・制度>社会主義になっているだけのことで、安楽の全体主義へ欲望消費を規定開放しているだけである。
つまり、本書で解析した他律的サービス制度の受容・依存によって保証される産業利益に立脚した、産業人間の消費欲望の安楽生活である。主体従属的に耐えているかうまくやり過ごして自由でいるかのような生活世界において、自分の自分への関係の仕方をごまかしているにすぎないゆえ、そこへ専門他律的世界がその不能化した専門的横暴さを社会責任行使であるかのように医師、教師、加速化された官僚たちにおいて介入させている。産業<社会>経済とは、社会を経済化し、その均質化・均一化した「社会市場」空間を市場経済であるとしている規範化社会/制度化社会であり、商品/賃労働中心の<社会>経済であり、諸個人は社会代行者としてしか生活生存できない、そこで機能しているのは、本書が明証にした産業サービスであり、そこにおける専門家権力による統治支配体制である。
コロナ禍の情況において、「専門家の意見を聞いて」が乱発されている。本書の「医療の神話」世界がさらに徹底されている。専門的不能化介入の極限状態が生活を浸蝕してきている。PCR検査/ワクチンをしていないと、人にさえも会えなくなってきている。こうした社会の医療化は医療だけではすまない、自分を取り囲んでいる生活世界総体の現在性となっている「起きている状況」をふまえた上で、理論構成を明確にしておきたい。つまり、制度的諸編制の構造化およびその象徴形式と実際に起きている状況との混成がなされていることの対象化/客観化である。」
「そこにもう一点、非常に重要な、概念空間の対象として「実践praxis」ではなく「実際行為(プラチック)=pratiques」が対象設定されていることだ。日々の当たり前として暫定的に疑われることなく行為されている総体であるが、外在批判ではなく行為者自体の対象化である。これは、マルクス主義や近代的学問体系では対象から除外されていた行為存在である。構造理論によって浮き出されてきたのであるが、イリイチの論述はこのプラチック自体の神話発生構成を明示したものであった。自律行為はプラチックである、それが「制度アクトact」へと転じられてしまっていることへの批判考察であったのだ。」
「実際世界では、学校化は多くの課題を抱えながら、子どもの自律性の多様な領域を拡延的に教育化して、ただ他律的管理を洗練化して増大させていくだけになっているし、医療の病院化は老人をますます医療化社会の独占を強化しており、加速化は移動人口を急速に量的拡大してきた。これらが、コロナ禍で、ほとんどストップし、逆生産構造にあることが露呈した。つまり、制度生産の構造化が完全に社会日常化して逆生産を常態化し、人々を不能化しているだけでなく、他律専門家たちの不能化を想像以上にすすめていたことが露出したのだ。それゆえ、医療化は未知なるコロナの「起きている状況」を使って医療化独占の社会状態を作り上げようと象徴形態をさらに強化している。」