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『野生性と人類の論理: ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考』

☆mediopos-2422  2021.7.4

人類はこれまでさまざまな動植物を
ドメスティケーション(家畜化・栽培化)してきた

それは人間が動植物とのかかわりのなかで
それらの「野生」を改変してきた歴史であり
そのことでみずからの生活をも変えてきた歴史でもある

そしてそれはまた人間が自然を
どのようにとらえてきたかということに深く関わっている

人間はどうしても
じぶんにとって都合のいい視点で自然をとらえてしまう
過去の長い歴史のなかでも
多かれ少なかれそうした傾向は否定できない
とくに近代以降の歴史は
自然をいわば搾取することが加速してきた歴史でもある

やっと現代になって
これも結局は人間の都合なのだが
このままでは自然環境の破壊によって
人類の持続可能な生存環境が失われてしまう危機感から
これまでの自然認識や
自然への関わり方が問われるようになった

本書で示唆されている
「ポスト・ドメスティケーション」という視点も
これまでのメスティケーション(家畜化や栽培化)の
延長線上にある未来への危機感からだろうが

それは「あえてドメスティケートしないこと」や
動植物のほんらいの「野生性」を
あえてスポイルしないで共生する可能性など
これまで「ダンスパートナーになってくれた動植物」に対する
あらたな在り方を模索するためのものだろう

本書に収録されている事例は以下の目次にある通り
どれも非常に興味深いものばかりだが
引用でとりあげてみたのは
個人自的に興味をもっているミツバチの養蜂における
「あえてドメスティケートしないこと」という視点
そして腸内に形成された細菌叢もまた
「意図しないドメスティケーション」ではないか
という視点のふたつである

まず前者だが野生性という難しい問題がある

人工と自然とを二分して
自然を野生としてとらえるだけでは
野生性がなんであるかはわからない
人間のなかにも野生性があり
それが失われてしまったとき
人間もまたその生のほんらいを失ってしまう
しかし野生性とはなにかはよくわからないところがある

しかしそれを問いつづけることで
近代以降無自覚に行ってきた自然改変の問題点や
それを未来に向けてどのように方向づける必要があるのか
そうした視点を得るための重要な契機とすることができる

腸内細菌叢の問題は
シュタイナーの医学との関係でも
ずっと気になっている問題である
やっと最近になって腸は第二の脳であるというように
腸の捉え方やその細菌叢が注目されるようになっているが
現実的には「殺菌」による腸内細菌の大量絶滅が加速している
感染症予防もまたその加速に力を貸すことになり
自然治癒力や抵抗力をこれまで以上にスポイルし続けている

殺菌で弱った野生の力を補完するために
今度は過剰な対処療法的な薬や治療に
無自覚に頼るようになってしまっているのは
わたしたち人間そのものが
「家畜」そのものと化しているともいえるのではないだろうか
先日来とりあげている「学校・病院・交通」の問題も
言葉をかえていえば「人間家畜化」のことでもある

その意味でも
「ポスト・ドメスティケーション」という問いは
人間と自然のスポイルを避けるための喫緊のテーマに他ならない

■卯田 宗平 編
 『野生性と人類の論理: ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考』
 (東京大学出版会 2021/4)

(卯田宗平/「まえがき 欲望のダンスへようこそ」より)

「人類はこれまでさまざまな動植物を生活域のなかに取り込み、みずからにとって都合のよい性質を獲得させてきた。」
「人類はこの「自然」な風景をつくりだすまえに長い年月を費やしてきた。」
「もちろん、過去の人々は何千年後のいまの風景を想像して動植物に介入したのではない。(・・・)そののち、人間による介入の程度が徐々に強化され、意図的な改良を重ねられてきた。この結果、私たちは自然の再生産力以上の恵みを得られるようになった。」
「ただ、私たちのダンスパートナーになってくれた動植物は多くない。(・・・)人間が都合に合わせれドメスティケートした種は少ない。つまり、私たちは限られた動植物だけに強く依存し、そのほかの多くとは程度の差こそあれ距離をとりながら生活しているのである。いいかえれば、地球上の多くの動植物は、人間との「欲望のダンス」には加わらなかった。」
「一方で、さまざまな動植物を利用していることもまた事実である、これは、人類による自然利用が動植物をとりこむだけの単純なものではないことを意味する。」

(卯田宗平/「序章 ポスト・ドメスティケーションという思考」より)

「本書は、人間がほかの生物種を人為的な環境にとりこまない事例や野生種を保持する事例、生殖介入したあとに天然や野生と呼ばれるものに改変していく事例などに注目し、そうした人間の働きかけを包括的に理解するための解釈枠組みを提示するものである。」

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(第一部 野生に向かう力の利用〜竹川大介「第二章 あえてドメスティケートしないこと――ミツバチ養蜂戦略の違いから家畜と野育を考える」より)

「人類は、なにをきっかけに、なんのためにドメスティケーションを始めたのだろうか。そして人類とほかの生物との多様なかかわり方のなかに、ドメスティケーションという現象を、どう位置づければよいのだろうか。」
「イヌの事例ひとつをとっても、はたしてどの段階からドメスティケーションとよぶべきかという点についれは、まだ多くの議論が残されている。ドメスティケーションには、ヒトがある生物種を飼い慣らし、繁殖させ、さらに生殖に介入し、品種化という形で遺伝子を改変すること、つまり自然選択から人為選択へと移行する一連のプロセスが含まれている。」

「きっかけはどうあれ、いったん定住化が進行しはじめると、ヒトは食料が限られた環境のなかで生きるために、動物や植物のドメスティケーションを手放すことができなくなるのである。」

「現在、筆者は世界各地の養蜂に関する民族誌の分析を通してミツバチと人とのかかわりについて以下のような五段階の歴史変遷を想定している。(一)偶然の蜂蜜採取、(二)樹木の洞を利用した蜂蜜採取、(三)地上に設置した罠による蜂蜜採取、(四)巣箱を利用した蜂蜜採取および巣箱や土地の利用権の形成、(五)巣箱を利用し、分蜂群を管理する蜂蜜採取である。
 このような段階を見ると、ミツバチと人とのかかわりは、多くの場合、人がミツバチをドメスティケートするのではなく野生種を継続的に利用してきたことがわかる。そして、そのかかわりの歴史は長い。ミツバチのこうした利用形態は日本におけるイノシシ利用の事例と類似している。」
「今後は広く世界的な視点からミツバチの野生種や家畜種と人とのかかわりを整理し、いわゆる「半家畜」とよばれる利用形態も含めてその実態を明らかにする必要がある。こうした作業によって、セイヨウミツバチの一部はかぜ家畜化に成功し、トウヨウミツバチはニホンミツバチも含めて家畜化の方向に向かわなかったのかを問うことができるからである。」

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(第四部 意図しないドメスティケーション〜梅﨑昌裕「第一四章 意図せざるドメスティケーション――人間と細菌のかかわりを手がかりに」より)

「本章では、人間の意図とは関係なく腸内に形成された細菌叢に焦点をあて、人間の生存と適応に果たす役割に注目すれば、細菌叢はドメスティケートされた存在とみなせるのではないかという仮説を検討する。」

「それぞれの人類集団が、自分たちの生存に都合のよい細菌を大腸のなかにもっていたとすれば、それはドメスティケートされた真核生物と似たような存在であるといえないだろうか。体の大きさは違うものの、人間の消化できないセルロースを多く含む草を食べて肉や乳を生産できるウシやヒツジ、ウマを飼育することと、消化されずに大腸にやってくたセルロースを短鎖脂肪酸というエネルギー源・免疫系における重要な物質に変換する細菌をもっていることは基本的には同じことである。私たちが食べることのできない残飯や人糞を食べて肉を生産することのできるブタを飼育するのと、私たちが消化できない尿素という排泄物を餌にしてアンモニア、さらにそこからアミノ酸を合成する細菌を大腸にもつことも同じことのようにみえる。
 そもそも腸内細菌の存在する消化管の内側は、解剖学的には私たちの体の外側である。私たちの体はちくわのような構造になっており、いわゆる体表がちくわの外側、消化管がちくわの真ん中の穴にあたる。」
「問題は、ドメスティケートした腸内細菌叢と共生しているという自覚を人間がもっていないことである。強力な抗生物質を摂取することで無差別に細菌を殺したり、手洗い・消毒を徹底して環境からの細菌の暴露を減らしたり、ドメスティケートした細菌の生存に必要な食物繊維の摂取量を減らしたりしたことで、とくに産業革命以降の近代化のプロセスでは私たちの大腸では最近の大量絶滅が起こっているだろう。このような最近の大量絶命と、現代社会になって増加してきたさまざまな健康問題(花粉症、認知症、うつ病、肥満、糖尿病など)には関連があるのではないかと考える研究者もいる。」

(卯田宗平/「終 章 いま,野生性を問うことの意義――成果と展望」より)

「本書では、人間がほかの生物種を人為的な環境にとりこみすぎない事例や野生性を保持する事例、対象をドメスティケートしたあとに天然や野生とよばれるものに改変したりする事例などを取りあげ、それらを体系的に理解するための解釈の枠組みを示した。」

※以下、本書の目次一覧

《目次》

序 章 ポスト・ドメスティケーションという思考
     ――鵜飼研究からの展開(卯田宗平)
    
第一部 野生に向かう力の利用

第一章 野生を飼いならすことの難しさ
     ――インドネシア西ジャワ州におけるコピルアク生産の事例から(須田一弘)
第二章 あえてドメスティケートしないこと
     ――ミツバチ養蜂戦略の違いから家畜と野育を考える(竹川大介)
第三章 博物館の展示場で生き物文化を考える
     ――ミツバチと人の関係から(池谷和信)
第四章 アンチ・ドメスティケーションとしての「野生」
     ――双主体モデルで読み解くバカ・ピグミーとヤマノイモの関係(安岡宏和)
 
第二部 野生性と扱いやすさのバランス調整

第五章 慣れと狩りの「心の理論」
     ――鷹猟における関係性の構築と葛藤(竹川大介・南香菜子)
第六章 駆け引きすることの有効性――九州の狩猟犬の事例から(藤村美穂)
第七章 スイギュウの「再ドメスティケーション」
     ――フィリピンのカラバオの乳用化とポリティカルな力学(辻 貴志)
第八章 リバランスの論理
     ――育てたウミウがみせる個性と鵜匠たちによる介入の事例から(卯田宗平)

第三部 ドメスティケート後の改変

第九章 立地条件の克服と養殖技術の開発
      ――「半天然アユ」の誕生とニーズ(井村博宣)
第一〇章 食用ドジョウの過去・現在・未来
      ――水田環境の悪化が招いた品種改良の進展(中島 淳)
第一一章 つくられた野生――エノキタケ栽培がたどった道(齋藤暖生)
第一二章 人為と人工のあいだの家畜動物
      ――イベリコブタに求められる自然を考える(野林厚志)

第四部 意図しないドメスティケーション

第一三章 イヌのドメスティケーションをニューギニア・シンギング・ドッグから考えてみる(小谷真吾)
第一四章 意図せざるドメスティケーション
      ――人間と細菌のかかわりを手がかりに(梅﨑昌裕)
第一五章 ドメスティケーションの実験場としての水田
      ――水田植物の採集と栽培の事例から(小坂康之・古橋牧子)
第一六章 農耕空間と親和的な「野生」植物のドメスティケーション
      ――タケと東南アジアの焼畑(広田 勲)
第一七章 ドメスティケーションの背景としての民俗自然誌的技術
      ――生産技術の文明論的序説(篠原 徹)  
終 章 いま,野生性を問うことの意義――成果と展望(卯田宗平)

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