齋藤直子「他なるものと共に生きること」 (『未来哲学 別冊』)/「翻訳としての哲学」 (『未来哲学 第五号』)
☆mediopos3729(2025.2.3.)
ぷねうま舎から刊行されていた『未来哲学』は
二〇二四年前期の『第八号』が第一期の最終号となったが
「別冊」として
『哲学の未来/未知なる哲学』が刊行されている
今回はそのなかから
齋藤直子「他なるものと共に生きること」をとりあげ
『第五号』(二〇二二年後期)に
その背景となる論考「翻訳としての哲学」が
掲載されているのであわせてとりあげる
齋藤直子の論考
「他なるものと共に生きること」は
二〇二四年六月一五日に開催された
地球システム・倫理学会の研究例会における
中島隆博の講演「世界哲学と人間の再定義」
において提示されたコンセプト
「“Human Co-becoming”————
「他者とともに、他者を通じて、人間的になる」こと」
を承け
マルクス・ガブリエルの示唆しているような
「人類共通の人間性」が成立しないでいる現状から出発し
「いかにひとりひとりがこの語彙を自らのものとして
実感し語ることができるようになるのか」
という問いを紐解くために
スタンリー・カベルの
「翻訳としての哲学」という観点から
描き出していくものである
カベルの哲学は「日常言語哲学」であり
「翻訳」についてのものではないが
それは「文字を読むことができても文盲でありうるという
言語存在としての人間の宿命や、
それが引き起こす悲劇や苦悩を引き受けて、
それでもなお他者と生きるということは
いかにして可能になるのか
という問いに取り組むもの」であり
齋藤直子はそれを「翻訳としての哲学」として
「言語の不安定性さ、言語存在としての
人間のつかみがたさを通じて、
他者と共にありえないことから出発する
共生への道筋を示すもの」と位置づけて援用している
ここでいう「翻訳」とはいうまでもなく
単に異言語からの翻訳ということではない
「同一言語内ですでに翻訳は始まっている」ことから
「翻訳それ自体が変容」であり
「言語の関わりはすでに、
たえず広義の「翻訳」に巻き込まれている」
という観点からのものである
つまり「われわれ自身も翻訳のさなか」にあり
「言語存在としての人間の自己の〝アイデンティティ〟
と言われるものの推移性、複数性、流動性」のなかで
「自己は絶えず発見され続け」ている
「わかりえぬものへの対話の経路は、こうした営みの内から、
互いを翻訳し合いながら、創られてゆくしかない」
ということにほかならない
それは「共に生きる」という「共生」と深く関わっている
しかしここでは
共生は「co-being」ではなく
「co-becoming」という動態となっているように
「human co-becoming として、人間になりゆく、
という変容のプロセス」としての「共生」である
「co-being」においては「共通の人間性」
「つながりや共同体の前提から出発」しているが
「co-becoming」においては
「「共通の人間性」や「類縁性」に依拠することなく、
それでもない「他者と共に生きる」道のり」が重要となる
その「co-becoming」としての「共生」は
他者と共にありえないことから出発するのである
「完全に知りえない他者と共にあるということは、
自己に対しても、他者に対しても、
隣りにあり続けることしかできないことを意味する。
そしてそれがとりもなおさず、
己に対してもアイデンティティを固めない、
ということである。」
カベルは「孤立のための教育」を構想しているが
それは「Uncommonなものからしか出発しえない
Commonへの道筋を通って、遠回りではあるが、
もっとも切実な他者と共に生きることへの応答」なのである
人間になりゆく(becoming)ためには
「たゆみなき、終わりなき言語との関わり直しを必要とする」
そしてそうした「言語との関わり直しとしての翻訳は、
変容と再生の過程を含意し、
自らが「疎外状態」をくぐり抜けることを求める」のである
ガブリエルのいう「人類共通の人間性」では
その前提として「つながり」や「共同体」といった「Common」が
いわばグローバル的な文脈で前提とされるが
「他者と共に生きる」という「他者」とは
「Uncommonなものからしか出発しえない」他者なのである
「他なるものと共に生きること」という論考の最初には
エマソンの「最も内なるものからやがては最も外なるものへ」
という言葉が引かれている
それはカント的な自己統制的な自立的自己ではなく
「自己放棄を通じて自己を超え続ける自己超越と、
他者の隣りにあり続ける隣接性の思想」
「自己を律するのではなく、自己を解放する思想であり、
我が家に戻るのではなく、我が家を出る出立の思想である。」
「共生から出発せず、「類縁性」にも訴えず、
差異を維持したまま共に生きること」・・・
現代におけるさまざまな分断や紛争などを見るにつけ
非常に重要な示唆となっていると思われる
果たして私たちは「human co-becoming」として
人間になりゆく変容のプロセスを生きられるだろうか
■齋藤直子「翻訳としての哲学」
(『未来哲学 第五号』20243/1)
■齋藤直子「他なるものと共に生きること」
(『未来哲学 別冊』2024/9)
**(齋藤直子「翻訳としての哲学」)
・序論
「本発表では、〈個別性・固有性・多様性と普遍性を共存させる世界哲学の言語はいかなるものか〉という哲学的問いに先立つより大きな問いとして、わかりえぬものへの対話の経路をいかにひらくか、という中心的問いを設定し、この問いに応じる上で、翻訳という考え方そのものを捉え直すことが有効ではないか、という仮説を立てる。そして多元的な世界哲学の実現のためのひとつの経路として、スタンリー・カベルの日常言語哲学から導きだされる代替的翻訳観「翻訳としての哲学」(Philosophy as Translation)という思想の現代的意義を解明する。翻訳としての哲学という視座から哲学を問い直すことは、言語存在としての人間の問題を問い直すことであり、それはとりもなおさず哲学のつとめを問い直すこと、人間の生き方を問い直すことである。これを通じて、哲学の営みは人間変容に関わる教育と不可分であることを結論づける。」
「翻訳の問い直しを通じて行いたいことは、何よりも、翻訳という営みの不思議、言語存在としての人間の可能性を紐解くことである。そのために、翻訳ということで人が通常想起する一般通念的な見方を超え出る視座を提起することを試みたい。こうした翻訳をめぐる見方の転換は、言語観そのものをとらえ直し、ひいては哲学のつとめのとらえ直しにもつながってゆくであろう。そして本稿が訴えたいのは、そうした人間と言語の置き換え(translate)によってこそ、他者へのひらかれ、わかりえないものとの共存の未知も開かれるのではないか、ということである。」
・1 翻訳・言語・哲学————視座の転換
「スタンディッシュの諸論考は、翻訳ということで人が通常想起する一般通念的な見方を揺さぶる。第一に、それは、英語という「共通」「語」は、どこまで「共通」「理解」をもたらす単一性をもつものかという問いを喚起する。それによって、共通言語(多くは英語)を通じて、共通理解が成立するという想定が崩される。第二に、異言語間の翻訳の前提には言語内翻訳が関わることが示唆されることにより、翻訳とは異言語間(iner-lingual)の言語の置き換えである、という想定が崩される。第三に、翻訳とは、異なるものの間の溝を埋めて共通理解に至る営みである、という想定が揺さぶられる。むしろ言語の深淵は、埋めえぬ溝を示唆するものであり、翻訳を通じて「共通」「理解」に「至る」保証はないという気づきがもたらされる。第四は、哲学と翻訳の関係として、普遍的な真理を探究する哲学がまずあって、それは翻訳に関わるというよりもむしろ、哲学の営みそのものが翻訳という性質を内在的にはらむものであり、それによって普遍性の意味が逆に問い直されるという転換がなされる。第五は、流動性、過渡性が言語の特質であるとするなら、ことばは文脈に埋め込まれ、文脈固有性をもち、動き続けるものである。これによって、異言語間の翻訳というものが真偽レベルでの置き換えであるという想定が揺さぶられる。
もしこれらの揺らぎが言語に内在する翻訳の性質を示すものであるなら、哲学すること、思考すること全体は、たえず翻訳によって条件づけられることになる。翻訳は哲学が取り組むべき数多の課題の中の一つではない。翻訳は哲学のアイデンティティを試練にさらす。こうした、言語の性質としての翻訳という視座の転換を手がかりに、一言語市文化という画一的アイデンティティ観を揺さぶる翻訳観のさらなる解明を行っていきたい。」
・2 翻訳としての哲学/カベルと日常言語学
「スタンディッシュは、翻訳による抑圧・支配を超えて、言語と人間の解放可能性につながる翻訳への方向性を示唆する哲学者としてスタンリー・カベル(一九二六ー二〇一八)に言及した。カベルの思想は、命題や言明としての異言語間翻訳から、個別文脈に根差した言語の内在的性質に関わるものとしての翻訳への視座転換をさらに裏付ける助けとなる。」
「カベルは一方においてオースティンと後期ウィトゲンシュタイン、他方においてエマソンとソローのアメリカ超越主義の影響を受け、独自の哲学を構築した哲学者である。」
「カベルの言語観は、人間の言語に対する関係のもろさと、深淵性に特徴づけられる。この点で、(・・・)デリダの言語観との共通性をもつが、同時に、日常性という考えに与えられる位置づけと重要性という観点で、デリダからは幾分離れる。両者はともに日常性のロマン化に耽溺することはしないが、デリダが日常性を疑問にふすのに対して、カベルは、日常性がすでに問題含みでかき乱され不穏にされているものとして、これを受け入れる。」
・2 翻訳としての哲学/Translating The Senses of Walden
「カベルの著作の中で明示的に「翻訳」が語られることはないが、その言語哲学の内実と主題化にそれは現れる。言い換えるなら、カベルの言語それ自体が行為遂行的に、過渡性と揮発性をもつものとしての翻訳の過程を体言する。そのことをわからせてくれたのは、カベルの著書The Senses of Walden(1922)(『センス・オブ・ウォールデン』法政大学出版局、二〇〇五)の翻訳経験であった。本書は、一九世紀アメリカの超越主義者ヘンリー・D・ソローの著者Walden(1854)を再解釈する著書である。訳出にあたってのインタビューにおいて、カベル氏は、「本書執筆の目的は『「ウォールデン」を一層難解なものとなすことである』」と語った。」
なぜ『ウォールデン』を一層難解にする必要があったのか。このことの意味が明らかになったのは、翻訳の過程に身を投じてからである。カベルの書き物の翻訳は、翻訳という作業が、単なる異言語間の言語の置き換えであるという想定を超えるものであることを知らしめてくれた。それは、すでに複数出版されていた『ウォールデン』の既訳の日本語が揺さぶられ、覆され、あたり前だと思っていた文や単語の意味がひっくり返される過程であった。ソローの元の言語も、カベルの言語も、固定され定義されることを拒絶する。」
「この翻訳経験は、私をして、私自身、私の母語である日本語、日本という文化に直面させ、それらを再考させるものであり。ひとつの言語、ひとつの文化という幻想を砕くものであった。また、ネイティブとノンネイティブの区分けに先立ち、ネイティブであることそれ自体にもグラデーションがあることを知らしめ、ネイティブであることの幻想や自らのおごりを砕くものであった。そして、外国の哲学を完全に理解することの困難さや不可能性は、たんにその哲学と言語(この場合は英語)の外国性にあるのではなく。それが書かれた言葉が知らしめる言語そのもののよそよそしさ(foreignness)にある、という気づきをもたらした。それは、同一言語内ですでに翻訳は始まっているということ、そして命題や言明としての言語間翻訳を超えて、個別文脈に根ざした言語の内在的性質に関わるものとしての翻訳への視座転換をもたらした。」
・2 翻訳としての哲学/翻訳としての哲学
「ことばの意味は、いつでも、われわれが意図するものを超えるところに広がる。真理はただちに「置き換えられる」(translated)ということは、それが固定されることを拒絶し移ろうということを示唆する。たとえ真なる表現を達成したと思っても、その表現はただちに手からこぼれ落ち、生気を失ったことばとなる。ページに残された残留物としての言明は、表象的言語を象徴し、こうした捉え方のもつ死滅的効果を暗示する。だがそうした死んだことばもまた、生気をもったことばに置き換えられうる。ことばと対象は一対一の関係にはなく、ことばはただ世界を表象するものではない。言語は、指示対象や意味を固めるためにあるのではなく、むしろわれわれをことばの発生とその対象との間に横たわる溝に向き合い、これを認めさせる。対象であるものも安定したものではない。カベルは、言語がいつでも新たな可能性にひらかれていると言い、これを言語の「投企的な」(projective)性質という観点から記述する。すなわち、ことばはいつでもその既存の文脈を超え出て、新たな使用と文脈に開かれているのである。翻訳において思考は脱線する。それは言語の内部で生じる思考の動きを体現し、言語がことばを稼働させる仕方を反映し、ことばに内在するダイナミズムを明るみに出すのである。それを通じてわれわれは、自らの把捉を超えるものへの驚きを取り戻す。」
「カベルの翻訳としての哲学においては、把捉不可能なものといかに関わるか、翻訳に伴う喪失の経験の中からいかにして再生を果たすかという実存的な主題が巻き込まれることになる。ここにこそ、言語の解放性、翻訳が生み出す創造性の鍵もある。(・・・)思考の脱線を通じて、異質性に襲われることは、他者へのひらかれの契機である。Lost translation————翻訳を通じて自己喪失こそが、把捉を超えるものの到来による生まれ変わりの契機、他者への解放性の鍵である。」
・結論 人間変容の翻訳へ
*「不確定なもの、あいまいさ、つかみえぬものに目を向けることは、不可知論や相対性に与することではなく、たゆみなき言語との関わりを通じて、規準を模索し改定し続けること、言語共同体の内で自らのことばを試し続けることを意味する。規準は静態的ではなく、言語共同体の制約のうちから、たえず改訂され続ける。真理は置き換えられる(The Truth is translated)。このことは、言語存在としての人間の自己の〝アイデンティティ〟と言われるものの推移性、複数性、流動性をも含意する。われわれ自身も翻訳のさなかにある。自己は絶えず発見され続けてゆく。わかりえぬものへの対話の経路は、こうした営みの内から、互いを翻訳し合いながら、創られてゆくしかない。普遍的に依拠できる共通の基盤なるものがどこかに現存するのでない。もし不反的なるものがあるとすれば、それは、埋め切れない溝を抱えたまま、「相互調律(mutual attunement)という奇跡の瞬間を模索することで達成され続けるような普遍性であると言えよう。
スタンディッシュが指摘した、カベルの会話の思想————「われわれの相互作業の現在の状態・・・・・・の曖昧さ、不透明さ」の強調、そしてそこで求められる徳としてのm「耳を傾けること、差異への応答性、変化しようとする意欲」への着眼————は、まさにそのような相互調律が行われる場を表すものであると言える。応答性への不完全性————分析不可能な残余————こそが、他なるものへと開かれる翻訳経験の要件となる。「多元的な政治と哲学への道をひらくような他性(alterity)」を受容すること、安住した世界の外に出ること、自らの足場を揺さぶること、自己のアイデンティティを固めないこと————これこそが翻訳としての哲学が示唆する、わかりえないものとの対話の経路をひらく鍵であると言えよう。このとき、哲学の営みは、人間変容に関わるものとして、教育と不可分となる。
こうして、「単一言語」としての「英語」支配と普遍言語の希求という構図、個別と普遍という対立構図もまた、英語そのものの単一性を政治的に糾弾する見方を超えて、英語という言語への多層的な関わり。ひいては言語への多層的な関わりを促す構図へと見えがシフトする。そのことは「世界哲学」なるものが目ざす方向性の転換にもつながるであろう。」
**(齋藤直子「他なるものと共に生きること」)
「最も内なるものがやがては最も外なるものとなる。(Emerson)」
・1 世界哲学と共生
*「(未来哲学研究所の中島隆博氏は)去る二〇二四年六月一五日に開催された、地球システム・倫理学会の研究例会で「世界哲学と人間の再定義」という講演をなさった。本稿はこの中島氏の講演に触発され、それを契機に改めて生じた「他なるものと共に生きるということ」はいかなることか、そしてそれを可能にするための教育のあり方はいかなるものか、という問題を論じるものである。」
「中島氏の講演では、哲学が古来問うてきた、個別と普遍についての問いが新たに提起された。」
「趣旨文には、世界哲学の課題として、以下の三つの要点が含まれている。第一は多様性を維持しながら普遍性を希求することはいかにして可能かという、個別と普遍の関係についての哲学的問いである。」
「第二は、それにどのように関与するか、という哲学の実践性に関わる問いかけである。」
「第三には、「誰が」世界哲学を構想するか、という当事者性の問題である。」
「ここで世界哲学を構想し実践し、そして多様性のもとで普遍性を実現していく上で鍵となるコンセプトとして中島氏が提示するものが“Human Co-becoming”————「他者とともに、他者を通じて、人間的になる」こと————である。」
「ここで着目すべきは、まず、共生が、co-beingではなく、co-becomingという動態になっている点である。そしてそれが human co--becoming として、人間になりゆく、という変容のプロセスを巻き込むものである。このことは、一人一人の生き方を賭して、他者と共に、普遍性が達成されてゆくという、動きに力点がある。世界哲学にとっての文化の固有性と普遍性の問題は、まさに他者と共にいかに生きるか、ということにかかっていると言っても過言ではない。その根底には、戦争やいがみ合いで分断される世界情勢の中で、また地球規模の危機の中で、「わけのわからないもの」といかにつながるかという切迫した問題意識がある。」
「本稿では、ひとりひとりの生き方と不可分は世界哲学の構想をさらに豊かに発展させるために、そこに内包されつつも明示的にといかけられていない問いを紐解いてゆく。その問いとは、中島氏がガブリエルを引用して用いている言葉、「人類共通の人間性」————英語にするならcommon humanity————という言葉が届かない、空転する現状から出発して、いかにひとりひとりがこの語彙を自らのものとして実感し語ることができるようになるのか、というものである。」
「「共生」という言葉が世の中に流布すると、普遍性に依拠しないとは言っても、どこかで、共通の人間性にスライドしてしまう。それが問題であるのは、「共生」という言葉が他者の知りえない生への感受性を鈍らせ、思考をストップさせ、覆い隠してしまう機能を果たすマジックワードであるからだ。現代社会や世界紛争の分断や社会の孤独の問題を見るときに、つながりや共同体の前提から出発して人が変わる、人を変えることは可能なのか、そうした問いから改めて。「他者と共に生きる」ということの意味を問い直す必要があるのではないか。「共通の人間性」や「類縁性」に依拠することなく、それでもない「他者と共に生きる」道のりを、われわれはどのように築いてゆけばよいのだろうか。————この問いに応えるためには。分離や疎外を原点とし、それを背負い続けるco-becomingのあり方、徹底した個の単独性を起点とした共生の哲学が必要とされるのではないか、というのが本稿の仮説である。」
「本稿では、この仮説を検証すべく、他者と共にありえないことから出発する共生への道筋を、スタンリー・カベルのアメリカ哲学から引き出される「翻訳としての哲学」という観点から描きだしてゆく。」
・2 他者と共にありえないこと(Being literate,being illiterate)
「スタンディッシュによる、ポスト構造主義に基づく他者性の思考は、ガブリエルが述べた「自己統制」や「自己規制」というカント的な自律性の倫理を超え、他者の受容と自己超越と自己放棄の倫理的生き方への我々を指すものでもある。スタンディッシュがポスト構造主義を通じて描き出す他者性の視点は、差異を「超える」ことが難しい状況の中で、差異を超えるのではなく、引き受けて生きること、差異と共に生きることの終わりなさを描き出すものでもある。それは、自己の統合性(integrity of the self)を希求し(え)ないがゆえに、自己の安定を崩すことにもなる。」
「とらえきれないもの、わからないもの、人生の沼地、暗闇(ソロー)、そういったものに届く哲学の言葉、哲学の思考はいかなるものか。アイデンティティ理論に向かう哲学、明証性への希求、論証の一面性にいかに抗うか。この点について、次節では、言語存在としての人間の条件を紐解く翻訳という視点から応じてゆきたい。」
・3 翻訳としての哲学————ずれを背負って生きること
*カベルの日常言語哲学
「カベルの日常言語哲学は、文字を読むことができても文盲でありうるという言語存在としての人間の宿命や、それが引き起こす悲劇や苦悩を引き受けて、それでもなお他者と生きるということはいかにして可能になるのかという問いに取り組むものである。」
「カベルの言語への関わりは、「ずれ」を巻き込む彼の翻訳観に密接に関わるいくつかの特徴をもつ。第一に、言葉は日常的コンテクストの中で学ばれ意味をもち、コンテクストを絶えず超えて行く。第二は、言語のもつはかなさ、基盤の脆さ、そして開放性である。(・・・)通常の/ありふれた(common)な言語の使用は、いつでも震撼し不穏にされ、Commonを超えるUncommonをはらむ。言葉は決して完全に確かなものではない。」
「第三に、言語の過渡的・可変的性質は、uncommmonによる相対主義、主観主義を意味しない。Uncommonhという視点はむしろ、我々が言語使用を通じて単独化される有様を示すものである。にもかかわらず、それゆえに、人は「私」が意味するものを「あなた」に訴えかける。自身が意味するものを真剣に受けとめ、。それを他者に投げかけるのが言語使用の実践である。それにより、言葉は論証とは異なる意味で明晰さを増す。」
*翻訳としての哲学
「こうしたカベルの言語観は、読み切ることのできないずれを背負って、それでも他者と言葉を交わし、他者の生に関わるとはどういうことかという、翻訳をめぐる地平へと我々を誘っていく。」
「翻訳それ自体が変容であるという意味で、翻訳は、我々の生活の比喩(metaphor)ではなく、むしろ我々の生活の換喩(metonym)である。翻訳は生活の一部である。哲学の営みそのものはすでに広義の翻訳の営みであるということを意味するという点で、彼の日常言語哲学は「翻訳としての哲学」と呼んでよかろう。翻訳は命題や言明としての言語間翻訳以前に、個別文脈に根ざした言語の内在的性質に関わるものである。同一言語内ですでに翻訳は始まっている。日本語、英語といった「共通」とされる言語そのものが、すでにその内部のずれや多元性を含み込む。一言語一文化という発想は崩され、言語の関わりはすでに、たえず広義の「翻訳」に巻き込まれている。
「共通の人間性」や「類縁性」に依拠することなく、それでもなお「他者と共に生きる」道のりを、われわれはどのように築いてゆけばよいのだろうか————この問いに応えるためには、分離や疎外を原点とし、それを背負い続けるco-becomingのあり方、徹底した個の単独性を起点とした共生の哲学が必要なのではないか、というのが本稿の仮説であった。
カベルの翻訳としての哲学は、言語の不安定性さ、言語存在としての人間のつかみがたさを通じて、他者と共にありえないことから出発する共生への道筋を示すものである。元言語を尊重しつつ、決して翻訳し尽くせない溝を引き受けて、自らの言葉を生み出し続けること、それが「読む」ということである。生きることの渾沌やあいまいさを引き受けて思考し続けること、言葉と関わり直し続けること、言葉を生み出していくこと、それは、他者と共有可能な規準を探し続ける営みである。他者とのずれやわかりえなさから目を背けることなく、それでも他者と共に生きることは、ガブリエルが述べたような、「自律性」や「自己統制」をすら揺さぶり、自己を崩し不穏にするような自己と他者との関わりを伴うものである。そこには、充たしても充たしきれない他者への負債の感覚がある。Co-becomingの“Co-”は、保証されてはいない。差異を「超える」ことはできない、カベルの思想は、「最も内なるものからやがては最も外なるものへ」のエマソンの道徳的感性主義を今日に蘇らせるものであるが、それはカントの自己統制的な自立的自己の代替案として、自己放棄を通じて自己を超え続ける自己超越と、他者の隣りにあり続ける隣接性の思想を提示するものである。これは、自己を律するのではなく、自己を解放する思想であり、我が家に戻るのではなく、我が家を出る出立の思想である。「喪(mourning)」から「朝(morning)」へ」というソローの言を引くカベルの思想は、悲劇と希望の際に立ち、過去を懺悔するのでもなく、過去を忘れて明るく生きるのでもなく、別離を背負って共に生きていく、他なるものとの関わりを希求する。それは、共生から出発せず、「類縁性」にも訴えず、差異を維持したまま共に生きることを描く思考の様式として、アメリカ的なco-becomingの思想であると言ってもよかろう。」
・4 孤立のための教育————他者と生きるために
*「世界紛争の分断や現代社会の孤独の問題を見るときに、つながりや共同体の前提から出発して人が変わる、人を変えることは可能なのか。そうした問いから改めて、「他者と共に生きる」ということの意味を問い直す必要があるのではないか、という問題意識と共に、本稿は始まった。
アメリカ哲学のco-becomingの思想は、生成し続ける共生への道筋を示すものであるが、そこから導き出される「翻訳の哲学」は、他者と共にありえないことから出発する共生への道筋を示すものであることがわかった。完全に知りえない他者と共にあるということは、自己に対しても、他者に対しても、隣りにあり続けることしかできないことを意味する。そしてそれがとりもなおさず、己に対してもアイデンティティを固めない、ということである。
カベルの言う「孤立のための教育」は、そうした自と他が共になりゆくための教育を構想するものである。それは、国際理解教育や異文化間教育のキーワードともなっている共生の論理に挑戦する。いわな「包摂なく市民性」(citizenship without inclusion)の教育でもあう。そうした教育は、Commonから抜け落ちるもの、把捉を拒むもの、知りえない他者を「理解」し、「知る」ことをデフォルトとして目標設定することに抗う。」
「孤立のための教育は、Uncommonなものからしか出発しえないCommonへの道筋を通って、遠回りではあるが、もっとも切実な他者と共に生きることへの応答である。「教育」は、子どもにとっての教育であるだけでなく、大人にとっての教育でもあり。人間になりゆく(becoming)ことに関わることがらである。これは、たゆみなき、終わりなき言語との関わり直しを必要とする。哲学することは、おとなりなる続ける人間の教育そのものである。言語との関わり直しとしての翻訳は、変容と再生の過程を含意し、自らが「疎外状態」をくぐり抜けることを求める。他なるものと共に生きることとは、そうした疎外を自らが負うて生きることにほかならない。」