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西平直『内的経験 こころの記憶に語らせて』

☆mediopos3587(2024.9.14)

西平直の名を知ったのは
『魂のライフサイクル』(1997)だったと記憶している
エリクソンのほかにシュタイナーもとりあげられていた

その後比較的すぐに『シュタイナー入門』
(講談社現代新書,1999)という著書がでたこともあり
またほぼ同世代である親近感から
著作を見つけると読むようになった

その西平氏が大学院で定年を迎えるにあたり
エッセイの話があったといい
それが『内的経験 こころの記憶に語らせて』という
一冊の著書となっている

ここでとりあげるのは
エッセイの内容のほうではなく
「エッセイを書く」ということに対して
問いかけられていることについて・・・

このエッセイを書くことになるにあたっては
以下のような思いが詰まっているようだ

「「エッセイ」という言葉にはこだわりがあった」
「これまで院生たちと「論文」について議論する際、
「エッセイであってはならない」という形で
使ってきたためである」
「論文は個人的な体験・感想・印象を語る場ではない。
私は(偉そうに)そんなことを語ってきた」

それが「エッセイの場合は、
まさにこの「私」を主語にする」ことになる

「もうこの年になったのだから、書いてもよいか、
何度かそう思った」ともいい
また「こうしたエッセイを私と同年代の方々にご覧いただ」き
「私自身の内的経験を、ひとつのケーススタディとして提供」し
「正解のない問いを温め続ける稽古」とする・・・・・・

ぼくは学者でも教育者でもないこともあり
少しばかり失礼にあたるのかもしれないのだが
「論文」という形で公になる文章を紡がれる方は
ずいぶん窮屈な思いをされているのだなあと苦笑してしまった

「論文の文章は「私」を主語にしない」
「筆者」という表現も避ける」
論文における主語は研究対象の思想家にする。
あるいは、専門用語を主語に置く。」
「書き手である「私」を主語に置かない。」
・・・というのだが

論文のコミュニケーション上の発信者は
論文を執筆される「私」にほかならない
論文は決まり事の範囲内で特定の形式をもって書かれるため
ベタなかたちでは「私」は出てこないものの
論文の著者名は明確にされ
その著者の視点から論じられている

どんな公にされる言葉にも
それぞれの場における慣習やルールがあるだけで
そこに筆者・発信者の意図は明らかに埋め込まれている
それがベタなかたちでは隠されているだけのことではないか

「「私」を主語にしない」といえば
ぼくが長年携わってきた広告コピーという表現では
書き手という「主語」さえも存在していないし
それが明記されることもない
だからこそ「コピー」なのだが
それでも広告表現における要請から
技術の提供という形で作成されている

とはいえ社会的コミュニケーションの枠組みにおいて
「私」が存在していないわけではない
「私」の視点から発信されてはいないというだけだ
発信者(の視点)は企業や行政である

さて西平氏はエッセイを書くということになり
「テクスト理論」をひきあいにだし
(もっぱら1979年に邦訳されたロラン・バルトの
『物語の構造分析』だけを参照されているようだ)

そこには「作者」ではなく「書き手」がいて
「テクストは正解を持た」ず
「「書き手の意図」が正解ではない
そして「固定された意味を拒否」し
あらかじめ存在している正解(作者の実人生)
を探り当てることが読み手の目的ではない」
という理解から

それに対し「心を込めるとか、
自分の実感とすり合わせながら丁寧に言葉を選ぶとか、
そうしたことはまるで滑稽なことになるのだろうか」
と(少しばかり扇情的に)問いかけているが

おそらく西平氏は
テキスト内的な読み(作用/受容)だけをとりあげた
テクスト理論の理解に留まっているようである

実はぼくの書いた卒論(1981年)があり
そのなかで
テクスト理論を含み
「受容」を軸とした
テクストのコミュニケーション構造について
もっぱらとりあげていたのだが
(結論は「本の外へ出ようぜ!」だったのだが(笑)」

その時点でのテクスト理論においても
(おそらくその時点ではドイツ語圏においては最新だったが
それ以外の視点は不案内なので正しいとは限らないが)
西平氏のいうように
「書き手はテクストの創造者ではない。
書き手はおのれを表現しない。」
という理論に限定されているわけではない

テクストは位相の異なる
コミュニケーション上の入れ子として存在していて
単純な図式として表すとしても以下のようになる

現実の作者→
テクスト(テクストの発信者→テクスト内の書き手
→テクスト内の読み手→テクストの受信者)
→テクストの実際の読み手

西平氏がテクスト理論だととらえているのは
「テクストの発信者→テクストの受信者」と
「テクスト内の書き手→テクスト内の読み手」
というコミュニケーション上の位相のレベルの一部であって
そこには「現実の作者→テクストの実際の読み手」が
存在していることが入っていない

いうまでもなく
「現実の作者→テクストの実際の読み手」のレベルにおいても
現実の作者とテクストのあいだには
編集者や出版社はそのほかのさまざまな要因が含まれ
「○○○→テクストの実際の読み手」のレベルにおいても
○○○にはさまざまな要因がふくまれている

したがって西平氏の危惧しているような
「心を込めるとか、
自分の実感とすり合わせながら丁寧に言葉を選ぶとか」
そうしたことはまったく「滑稽なこと」ではありえない

先のコミュニケーション構造においても
テクストは
「読み手が、テクストと対話する中で、
そのつど意味を紡ぎ出してゆく」としても
そこに「現実の作者」の情報や
そのテクスト作成にあたっての表現性などが
関係してこないわけではない

西平氏はどこかでみずからの学者としての立場から
しかもどこかで抑圧されてきた「私」へのこだわりから
テクスト理論の一部だけから
現実の書き手のレベルが捨象されるように思ったのではないか
そう思われるのだが実際のところはどうなのだろう

論文を事としてきた西平氏の
エッセイとして紡がれた文章からも
これまで「私」性をどこかで
「縛り・歯止め・抑制」してきたとまどいなどが
感じられたりもする

学問の世界においては
「理論」という呪縛から逃れることが
難しいのかもしれない

しかしエッセイを書かれた意図の真実として
「正解のない問いを温め続けること。
自分の内的経験を見つめ直すこと。」
その視点がたしかに伝わってくることに変わりはない

■西平直『内的経験 こころの記憶に語らせて』
 (みすず書房 2023/12)

**(「書きながら/書いてみて」
   〜「記憶のかけら――自分の生を書くということ」

*「エッセイの話をいただいたのは、定年前の時期だった。本を手放し、資料を大量に破棄する必要に迫られていたから、「記憶のかけら」を拾い集めようとしたのか。書いてみたいと思った。

「エッセイ」という言葉にはこだわりがあった。これまで院生たちと「論文」について議論する際、「エッセイであってはならない」という形で使ってきたためである。論文はエッセイではない。論証する必要がある。「私はこう思う」では論文にならない。論文は個人的な体験・感想・印象を語る場ではない。私は(偉そうに)そんなことを語ってきた。

 ところが今度は、そのエッセイを書く。「個人的な体験・感想・印象」を書くとはいうものの、そこにはどんなルールがあるのか。実は、私は、エッセイと論文の違いを、この「私」という主語の有無と考えてきた。論文の文章は「私」を主語にしない」「筆者」という表現も避ける。論文における主語は研究対象の思想家にする。(・・・)あるいは、専門用語を主語に置く。(・・・)書き手である「私」を主語に置かない。

 それに対して、エッセイの場合は、まさにこの「私」を主語にする。私はどう感じたのか。私の心は何を感じていたのか。個人的な体験の内側を一人称で語る。それがエッセイの務めであると、私は考えていた。

 ということは、私が考えていた「エッセイ」とは、実は最初から「自伝的エッセイauto-portrait」であったことになる。そう気がついたのは、連載を終えて後のことになるのだが、「自伝」については前から気になっていた。私は自伝を書こうとしたわけではない。しかし、記憶のかけらを拾い集め、自分の心の揺れを思い起こす作業は、自伝作家が自らのことを綴る作業と似ているように感じることがあった。」

*******

*「もうこの年になったのだから、書いてもよいか、何度かそう思った。定年になり職場が変わり、院生たちと接する機会が少なくなったことは大きい。これまで院生や学生の目が一種の「縛り・歯止め・抑制」の役割を持っていたことになる。うすうすは気づいていたのだが、思っていた以上に、大きな意味を持っていたようである。

 もうひとつ、エッセイを書きながら考えたのは、こうしたエッセイを私と同年代の方々にご覧いただくということである。私自身の内的経験を、ひとつのケーススタディとして提供する。類似した体験を思う出す縁として、あるいは、子どもの頃の不思議を取り戻すきっかけとして、人生の後半に、あらためて、振り返ってみる。

 それは、正解のない問いを温め続ける稽古である。しかし、そうした稽古に慣れておられない方には、その意味がわかりにくい。何を目指しているのか。いつまでたっても答えがない。手ごたえがない。そうした不安を抱く。

 本当はそのように生じてくる心の「揺れ」を体験してくだされば、それで十分であるようにも思うのだが、それではなかなか納得していただけないから、もう少し言葉を重ねてみる。それがこの本である。この本に集められた文章は、内容は多少違うとしても、根底に流れる課題は、どれも同じである。正解のない問いを温め続けること。自分の内的経験を見つめ直すこと。

 つまみ食いするくらいがちょうどよいのかもしれない。

********

・補論——テクスト理論のこと

*「つまみ悔い」は自分にとって都合の悪いところは相手にしない。わかりやすい部分だけ楽しむ。だから気楽でよいのだが、では何を「残して」きたのか。自分でもその全体像はよくわからないのだが、どうやらそのひとつに「テクスト理論」と呼ばれる難解な議論がある。物語る中で「私」が作られてゆく。最初から私がいて、その私が書くのではなくて、書くという出来事の中で「私」が生成してゆく。

 私が大学院生の頃、こうした話は、時代の最先端を走る理論として、様々な場面で語られていた。私も少し聞きかじり、理屈としては共感したのだが、しかしそれでは日常的な実感が説明できないように感じた。この理屈だけでは、私が大切にしたいと思う体験世界が消えてしまうと思ったのである。

 しかし、ずっと気になっていた。ある意味では、いつもこの理論からの批判を気にしていた。あの頃の違和感を思い出すために、少しだけ「テクスト理論」を見る。ロラン・バルトに由来する「作者の死」、あるいは「作品ではないテクスト」という考え方である(ロラン・バルト『物語の構造分析』、花輪光訳、みすず書房、一九七九年)。

 この理論に習えば、私の常識的な自伝理解は、『作品としての自伝』にすぎない。常識的な理解においては、自伝の出発点は「作者auteur」である。実在する人物が、自らの生涯を表現する(告白する)ことによって、作品が生まれる。作品の読み手は、その表現された言葉の奥に、作者の意図を探り当てようとする。つまり、作者が実際に生きた人生経験が自伝の正解であり、その正解に最も近い特権的な位置に作者がいる。

 それに対して、テクスト理論は「作者」と言わず、「書き手scripterur」という。そして「作品」と言わずに「テクスト」という。テクストは正解を持たない。「書き手の意図」が正解ではない。固定された意味を拒否する。あらかじめ存在している正解(作者の実人生)を探り当てることが読み手の目的ではない。

 作者の意図を目指すのではない。テクストの意味はそのつど「読み手lecteur」が創り出す。読み手が、テクストと対話する中で、そのつど意味を紡ぎ出してゆく。のみならず、テクストより先に「書き手」は存在しない。書くという行為の中で、初めて「書き手」が成り立つのであって。テクストの中で書き手は、特権的な位置をもたない(それゆえ「作者の死」という)。」

「どうやらテクスト理論は、この「書く」という営みを、極論すれば、「ことばのはたらき」と考えている。「意味生成の言語活動」である。「書くという行為(エクリチュール)」が、「テクストの生成という出来事」を生む。書き手はその一端を担う。何ら特権的な位置ではなく、いわば、読み手と同じ資格において、その出来事の一端を担う。」

「書き手はテクストの創造者ではない。書き手はおのれを表現しない。ただ言語の多様な連鎖を操作しながら、「テクスト」という意味の織物を織りあげる。他方、読者は、読むという行為において、この織物を解きほぐす。解きほぐすとは、別の織物を織りあげることである。新たに書くことにつながる。」

「こうした理論に倣えば、私が試みてきたことは、こう説明される。

 私はエッセイの創造者ではない。私が自分のことを語ったのではなく、「書くという行為(エクリチュール)」を通して、日本語という「言葉の差異の体系」を操作し、「テクストの生成という出来事」に参与した。私はその一端を担当したが、このテクストの意味は、読み手によって紡ぎ出されて、初めて成立する。」

「そう言われると、気が楽になる。しかしその反面、優秀な人たちはこうした理解の中で、ものを書いているのかと思うと、怖くなる。そうした優秀な人たちから見ると、心を込めるとか、自分の実感とすり合わせながら丁寧に言葉を選ぶとか、そうしたことはまるで滑稽なことになるのだろうか。

 しかしこうした理論のおかげで、自分の実感から距離を取ることができる。理論は、ある一つの方向を極端なまでに突き詰め、その先に見えてくる風景を示してくれる。実感にしがみつくのではなく、それと距離を取るための足場を提供してくれる理論。

 一貫性を拒否する。そのつど新しく生じる。他者から承認されることによって初めて自分で納得する。そうした、何度も繰り返される問題に出会うたびに、私は、この難解な理論の詩選を気にしてきた。その批判に晒されながら、それでも自分の実感をどこまで投げ出さずにいられるか。私はそんなことを繰り返してきた。」

□目 次

目を閉じる
散歩の中で――憶えているわけではないのだけど
目をオフに――ブラインドウォークの達人
内的経験――「内」側から

――誰かにおしゃべりしたくなったら――

決める/決められない
やる気と気まぐれ――おもしろさの予感
決められない――内的な促し
どちらがよいか――「どちらでもよい」の奥の奥

祈る
祈る人々――「無の祈り」の先に、もう一度「有の祈り」
あなたの幸せ――エゴイズムがひっくり返る瞬間
何もしてあげられない――「させていただく」のか

受け入れる/受け入れられない
なぜ神は――「すべてはよい」か
運命ならば――「仕方がない」か
なぜこの人たちが――『サン・ルイス・レイ橋』(1)
死者となった者たちの声――『サン・ルイス・レイ橋』(2)

――食べてもらえ[小さな物語]――

つながる
臆病なのに――二十歳の旅から(1)
なぜか縁あって――二十歳の旅から(2)

書きながら/書いてみて
期待していると来ない――こころの記憶に語らせて
記憶のかけら――自分の生を書くということ

○西平直
(にしひら・ただし)
1957年、甲府市生まれ。信州大学卒。東京都立大学大学院を経て、東京大学大学院博士課程修了。東京大学教育学研究科准教授、京都大学大学院教育学研究科教授を経て、2022年より上智大学グリーフケア研究所(副所長・大阪)。教育人間学、死生学、哲学。主な著書に、『エリクソンの人間学』(1993)『魂のライフサイクル』(1997)『教育人間学のために』(2005)『世阿弥の稽古哲学』(2009)『ライフサイクルの哲学』(2019、以上、東京大学出版会)、『シュタイナー入門』(講談社現代新書、1999)、『無心のダイナミズム』(岩波現代全書、2014)、『誕生のインファンティア』(みすず書房、2015)、『稽古の思想』(2019)『修養の思想』(2020)『養生の思想』(2021、以上、春秋社)、『井筒俊彦と二重の見』(2021)『西田幾多郎と双面性』(2021、以上、ぷねうま舍)など。共編著に、『宗教心理の探究』(2001)『シリーズ死生学 3・ライフサイクルと死』(2008)『生涯発達とライフサイクル』(2014、以上、東京大学出版会)、『講座ケア 3・ケアと人間』(ミネルヴァ書房、2013)、『無心の対話』(創元社、2017)など。訳書に、E・H・エリクソン『青年ルター』(全2巻、みすず書房、2002、2003)、同『アイデンティティとライフサイクル』(誠信書房、2011)など。

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