佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か』 ・中田考『イスラーム法とは何か?』
☆mediopos-2420 2021.7.2
モーセの十戒は
神と人との関係
人と人との関係を
戒律として示しているが
出エジプト後にモーセがシナイ山で
神より授かったとされている
その内容はともかくとして
その戒律は人が作り出したのではなく
神から与えられたものである
つまり内的倫理としての戒律ではなく
外的倫理としての戒律である
十戒を与えられてはじめて
それが倫理的な価値をもつことになった
初めは超越的なものとして戒律は与えられたのだ
現代において
倫理を語ることが困難なのは
その背景に科学主義な唯物論があって
倫理の根拠はすべてそこで
超えることのできない壁に跳ね返されてしまう
おそらくだれでもが
じぶんなりの倫理
集団や共同体から示された倫理
思想的に与えられた倫理などを持っているだろうが
それらは根拠を突き詰められると
おそらく結局のところ
「そういうものだ」
「そうなっている」
「そういう生き方をしている」
としか答えることしかできなくなる
「いのちがなにより大事だ」ともいわれるが
その「いのち」は「死」を拒むものでしかなく
感情的にはそれだけではないと感じているとしても
結局のところその背景には
科学主義な唯物論しか存在しないのが実際である
霊学的にいえば
霊的世界においては
その霊的階層に応じた「倫理」があり
そこに存在している者は
その「倫理」を離れて存在することはできない
故にその霊的世界における「倫理」が
ある程度地上を生きている私たちに働いている
あるいは働きかけているということはいえるだろう
この地上では魂の霊的出自の異なった存在が
多種多様に混在しているのだが
ある意味で地上は
そうした倫理の実験場ともなっているのかもしれない
地上においては顕在的には
「倫理」は慣習的にしか存在していない
それが地上という場所の特質でもあるのだが
それゆえに十戒やコーランのように
初めに倫理的な戒律が
高次存在から超越的に与えられることで
それが倫理として人間を規制することになり
さらには集団や共同体や個々人それぞれの倫理が
半ば外的に半ば内的に規制すしはじめたのではないだろうか
だから倫理をどんなに論理的に詰めようとしても
それを超越的なものに遡らないかぎり
「そうなっている」「そうあるべきだ」の先には行きにくい
ただそれらがどこから来ているものなのか
その背景にあるものを意識化することは
ある程度可能ではあるのかもしれない
生まれた環境のなかで基調となっている倫理観が
そこにはそれなりに(反発も含め)影響しているだろうし
信仰があるならばその宗教的背景が強く働いている
もちろん個々人の魂の出自も
それなりの形で独特な倫理観を規定している
ここで「イスラーム法」についても示唆してみたのは
倫理的なものを超越的な唯一神に求める倫理観は
現代のような科学主義な唯物論の対極にあるからだ
イスラームにおいて倫理の根拠は唯一神にあり
人間に可能なのはその適用解釈でしかないといえる
ゆえにそれは「そういうものだ」で留まるのではなく
超越的なかたちで与えられたものとしての淵源を持つ
さて今後も倫理については
さまざまに議論がなされるだろうが
「倫理とは何か」
「倫理はなぜあるのか」について
検討していく際には
それを検討する背景にある世界観が
規定してしまうことになるのは避けられないだろう
唯物論的な科学なのか
超越的な宗教なのか
霊的認識を持つ神秘学なのか
それによって語れることはそれぞれ
ずいぶん異なってくることになるからだ
■佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か/メタ倫理学から考える』
(光文社新書 2021/4)
■中田考『増補新版 イスラーム法とは何か?』
(作品社 2021/2)
(佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か』より)
「倫理は本当に無視してもいいようなものなのでしょうか、それとも誰にとっても大事なものなのでしょうか。自分なりの倫理などというものは本当に存在するのでしょうか、それとも誰もが従わねばならないような倫理、いわば普遍的な倫理があるのでしょうか。それは悪いことだと心から思いながらも、あえて他人を傷つける、というようなことは本当にありえるのでしょうか、それとも、本心では別に悪いとは思っていないから、他人を傷つけるのでしょうか。
本書で考えていくんもはこうした一連の問いです。」
「数学の問題と対比して考えてみましょう。数学の問題に答えを出す方法は、様々あるでしょうが、その一つは計算をしたり、証明をしたりすることです。「2+3はいくつ?」という問題に答えを出すには、足し算という計算方法を覚えて、それを使えばよいでしょう。他方、数学の問題との向き合い方を考えるというのは、それとは違った問いです。それはむしろ、微分や積分を習って何になるの? とか、数学の問題を考えるというのは人生にとってどんな意味をもつの? とかいった問いです。そして、それに答えるために、そもそも数学の問題を考えるって何なの? 数学って何なの? ということまで考える、それが数学の向き合い方を考えるということです・
倫理の問題に向き合うというのも同じです。」
「もちろん、自分は倫理という言葉の意味くらいわかっているし、皆、同じように分かっているはずだ、と思った人もいるかもしれません。現に私たちの多くは、日常のなかで倫理という言葉について深く考えたりしませんが、それでもたいてい倫理的に適切に振る舞っています。あらためて言葉にして考えずとも倫理のことは分かっている、と言いたくなる気持ちも分かります。
しかし、私たちは本当に倫理のことを分かっているのでしょうか?」
「実際、子供の頃から家庭でのしつけや学校教育などを通して何度も言われているので、私たちは何が倫理に反するか、ということについては、ある程度、共通の理解をもっています。人のものを盗んだり、嘘をついたりしてはいけない。しかし。それがいったい何に反しているのか、倫理はそもそも何を意味しているのか、についてはそこまではっきりと説明できる人は少ないのではないでしょうか。
これはちょうど、赤いものとは何かという問いには答えることができる一方で、赤さとは何かを説明せよと言われるt戸惑ってしまうこととも似ています。」
「どんな理論やそれに基づく知識をもってしても、倫理に対する懐疑論を根本的に否定することはできません。倫理などいらない、すなわち、世界とのかかわりあいなんていらない、という人に、かかわりあいを強制することはできません。そうしたかかわりあいの否定は、自分勝手なナルシシズムの結果とは限りません。ひどい苦難に苛まれ、世界に対する信頼を失ってしまった人もいるかもしれません。そんな人たちに、何を言うことができるでしょうか。」
「私たちの多くは、幸運にも、これまで世界のなかである程度安定した日常を送ってきましたし、きっとこれからも送っていくと信じていますが、そうした日常は根源的に偶然によって成り立っている、とっても壊れやすいものです。多くの人々の善意、努力、優しさ、などによって、ぎりぎりのところでかろうじて支えられているものが、この日常です。だからこそ、そのような自身も薄氷の上で成り立っている日常の側から、なお世界にかかわり続けることで、私と懐疑論者の両方を含む「私たち」にとっての新たな日常を作り出していくこと、作り出し続けていくこと、懐疑論に応えるにはそうした不断の営みしかないのではなうか、ということなのです。
そして、これが本書の冒頭で掲げた問い「倫理の問題にどんなふうに向き合えばいいのか」への答えです。」
(中田考『イスラーム法とは何か?』より)
「「イスラーム法」などというものは実のところ幻想にすぎる、どこにも実在しません。」
「イスラーム法など存在しないなら、「真のイスラーム法」について語ることにも意味などないのではないか、と言われるかもしれません。しかしそうではありません。確かにイスラーム法は存在しないのですが、「イスラーム法」という幻想は強固に存在します。しかもそれは時に学問の装いをまとっているため、それが幻想であることにはなかなか気づきません、そして、イスラーム法という幻想が存在するにはそれなりの理由があり、イスラームをよく知らない人々が「イスラーム法」として表象してしまううような何かが存在するのは事実です。そしてその何かは「真のイスラーム法」とでも仮に呼ぶべきものであるため、多くの人々が抱いているイスラーム法のイメージがたとえ幻想であっても、今の時点では「真のイスラーム法」について語ることには意味があるのです。」
「イスラームとは、世界のあり方にほかならず、特に人間のあり方です。ですから、世界について、人間についての正しい洞察をもたずしてイスラームについて理解することはできません。イスラーム法も同じで、法とは何か、を知らずして、イスラーム法について語ることはできません。」
「そもそも日本人には「法」は理解できない。既に述べたようにまず義務教育で「殺人罪」や、「窃盗罪」のような初歩の法学さえ教えない日本人には「法」を理解するための基礎教育が決定的に欠けている。
日本だけでなく、西欧もまた法を理解できない。それは近代西欧の世俗主義と三権分立のイデオロギーによる。世俗主義が法の理解を妨げる、というのは、「この世」を超えた存在への問いを封印する世俗主義には、国家による法律の制定の先に遡る超越的起源を有する法を認識することが方法論的に不可能だからである。」
「この宇宙には「客観的」な善悪もなければ目的も意味もない。現代世界で、「法」を有意味に語るためには先ずこの「化学的」前提条件が守られている必要がある。但し、宇宙に「客観的」な善悪、目的、意味がない、ということは、人間が主観的に「善悪」、「目的」、「意味」と呼んでいる現象が存在しない、ということではない。」
「善悪に客観性がなく主観的でしかないなら、互いに異なる善悪の基準を持つ人間の間では、成否を論ずることはできない。善悪の基準が違っても、相違する当該の基準に比べて抽象度の高い基準において合意があればその上位の基準に照らして両者の妥当性を比較考量することは可能であるが、「生命」、「自由」、「快楽」など最上位クラスの善悪の価値の基準が対立する時には、「神々の闘争」(M・ウェーバー)が生じ、そこではもはや「正否」を「客観的」、「記述的」に決定する議論は不可能であり、利害打算で妥協点を探る政治的議論しかありえない。」
「現在世界の支配的イデオロギーは科学主義である。西欧であれ、中国文明圏であれ、イスラーム文明圏であれ、インド文明圏であれ、小中学校で共通して教えられているのは自然科学であり、宇宙は自然科学によって「客観的」に認識される、と信じられている。それは勿論、事実ではない。」
「科学主義はイデオロギーでしかなく、著者はこの科学主義の世界観は根本的に誤っていると考えるが、それは法学ではなく神学の主題となる。」
「イスラーム法は、全知全能の創造主が使徒に下した啓典とこの宇宙を超えた最後の審判を本質的要素とする点において、この科学主義の世界観の西欧近代法の用語に還元して記述することには慎重でなければならない。しかし逆にその宗教性に幻惑されて、存在しない相違を読み込まないように気を付ける必要もある。啓示と理性を対立させるキリスト教神学の思考様式も誤解を招く。啓典クルアーンには、アラブ人が理解できるようにアラブ人の使徒によって明白なアラビア語で啓示された、と明記されている。
クルアーンは啓示と理性を対立させない。というよりも、クルアーンのアラビア語にはギリシャ的な理性の概念は存在しない。」
「アラビア語において神(イラーフ)とは特定の性質によって定義されているのではなく、人間によって崇拝されることであらゆるものがイラーフとなる。イスラーム学によると、あらゆるものに存在を与える永遠の自存者である創造主アッラーだけが真のイラーフ、イラーフとされたそれ以外のものは偽のイラーフである。いかなるものであれアッラー以外のい偽のイラーフを偶像として崇拝することは決して許されない多神崇拝として厳禁される。
現代世界ではイスラーム教徒といっても絶対多数は名ばかりで誰もがリヴァイアサンとマモンの偶像崇拝者である。」
著者は西欧近代化学的世界観が少なくとも今後三〇年にわたっては主流であり続けると信ずるが、それが不変の真理であるとは考えない。二一世紀後半の虚無主義の処方箋となる新たな形而上学を生みだすための物質主義的な西欧近代科学的世界観の見直しは、すべての存在(Sein)者の唯一の創造者であると同時に当為(Sollen)の世界の価値定率sがでもある真実在のみを崇拝すべき対象である真の神(イラーフ)であるとし、真実在の仮象であり本質的に「無」にすぎないあらゆる被造物をイラーフとして崇拝することを許しがたい「多神崇拝」として断罪してきたイスラーム神学の仕事となる。」