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松浦寿輝「講演 中上健次の「文」」 (『すばる』)/はんざわかんいち『語りの喩楽』

☆mediopos-3008  2023.2.11

「文章読本」には
谷崎潤一郎の『文章読本』をはじめ
川端康成・三島由紀夫・丸谷才一
井上ひさし・吉行淳之介など
有名作家の書いたものだけでもたくさんあり

それぞれにそれなりの視点で書かれ
日本語の「文章」について理解するにあたって
参考になることは多いが

それを読んで「文章」が書けるようにはおそらくならない
「文章」が書けるということは
じぶんなりの「文体」を持つことでもあるからだ

かたちを真似ることはそれなりに可能だし
役立つこともあるのだが
そうすることだけで
その人なりの「文体」が成り立つわけではない

少し前に刊行された
はんざわかんいち著『語りの喩楽』という
有名作家の典型的ともいえる「語り」について
論じられたものを読みながら
その作家なりの「語り」
いってみれば「文体」をつくっている
表現技法についていろいろ考えたりもしていたが
(以下の引用に目次を引用してある)

ちょうど今月号(2023年3月号)の『すばる』に
松浦寿輝「講演 中上健次の「文」」という記事を見つけた

主に中上健次の『千年の愉楽』の「文」を中心に
(このタイトルもそういえば「愉楽」)
「散文におけるもっとも根本的な問題」としての
「「文」の問題、センテンスの問題」について
論じられている

中上健次の「文」について論じられるにあたって
ジャズの「自由自在なインプロビゼーション」からの
影響について示唆されていたが
そこで少しだけ腑に落ちたことがある

「文」を書いていくことはある意味で
音楽演奏のようにとらえられるということだ

「いかなる単位によっても分節化されない
無限旋律みたいなものに入ってい」くような
フリージャズもあるように
前衛的な文学実験では
「センテンスそのものを壊すような試み」がある

けれどそうした実験的なものでないときには
「言語で書く以上」「「文」の制度に縛られざるをえない」
そして中上健次もまた
前衛的な言語実験をしようとしたのではなかったし
だからといって
「論理的で明快で意味がよく通る」
「達意の名文みたいなものを書く気ももちろんなかった」

自身では「自分の書法を自動記述になぞらえている」
としてはいたものの
それはシュルレアリストたちのそれとは異なっている

中上健次は「ほとんど神がかった
シャーマン的な錯乱状態に自分を置き、
無意識からふつふつと噴き上がってきた言葉を
意識の表層まで引き揚げ、
それを紙のうえの文字記号として物質化する」
そんな作業をしてはいたのだが
それは「その凄みとはたんに、無意識界に滾っている欲動を
快楽的に開放するというだけの操作によって
生まれたものではない」

「普通の意味での理性的思考では」ないが
それとは異なったレベルでの意識によって
「すべての言葉が考え抜かれ統御されている」
そんな言葉が『千年の愉楽』のような
中上健次の最高の作品においては生み出されている

さて「文体」のある「文章」の話である

個人的にいえばコピーライティング的な仕事を
長年やってきているのだが
そこでの言葉の作業には「コピー」という言葉あるように
必要な広告表現に応じた「文章」が求められる
類型化された「文体」もどきは必要になるが
それを「文体」だということはできないだろう

しかしそうしたコピーライティングを離れて
なんらかの個人的な「文」を書くとき
そこには自分では意識されない意識からくる
言葉がなにがしか生み出されてはくるはずだ

ある種のスキルを前提しながら
(言語にはその言語特有の「文」の制度があるから)
自分のなかの意識の深みのなかから
音楽を作曲しそれを演奏するように
生み出されてくる「かたち」が
「○○語り」のように生み出されてくるとき
それがある種の「文体」となるのではないか

■松浦寿輝「講演 中上健次の「文」」
 (『すばる 2023年3月号』集英社 所収)
■はんざわかんいち『語りの喩楽』(明治書院 2022/10)

(松浦寿輝「講演 中上健次の「文」」〜「「文」とは何か」より)

「「文」という言葉に、講演タイトルではカギ括弧を付けてみたのですが、これは要するにセンテンスのことです。「文章」の全体ではなく、一文一文のことです。フランス語ではフラーズという言葉を使いますが、英語だとフレーズというよりむしろセンテンスと言ったほうがいい。つまり、「何々gは」「誰それは」というふうに主語から始まって、「何々である」「何々する」「何々した」などと術語によって完結する文章単位、それを「文」と呼ぶわけです。近代日本語の書き言葉の慣習では、句点の「。」を付けることでこの完結性が強調されることになっている。

 四十数年文章を書いてきて、私自身ずっと感じてきたことなのですが、この「文」の問題、センテンスの問題というのが結局、散文におけるもっとも根本的な問題なのではないか。「文」をどう書きはじめ、どう書き終えるのかということです。「文」をどう完結させるか、あるいはその完結性をどう壊すか。「文」と「文」とをどう繋げるか、時にはむしろその繋がりをどう切断するか、等々、微妙で複雑な問題の数々がここから派生してきます。

 言葉というのは、だらだらだらだら、切れ目なしに続いてゆくものなんじゃなくて、「文」の単位から成り立っているわけです。われわれがふだん交わしている日常会話というのはもちろん、「あのほら、あれ、どこだっけ」とか何とか、きわめてラフでいい加減なものですよね、ただ、いい加減ながらも一応、「文」単位での文節化は施されている。だらだらと垂れ流しになっているのではなく、「。」を付けるという意識はないかもしれませんけれども、どこかで区切りがあり、切れ目があり、「文」単位でものを考えているというところはある。もっと言うなら、マグマ状態に流動している漠とした思いを「文」単位に裁断し構成すること、それがものを考えるという行為そのものなのだ、と言ってもいい。

 このことが散文を書くうえでの、アルファでありオメガだと思います。いや、広く一般に散文というより、もの問題のエッジがきわめて尖鋭に、鮮烈に露出するのはやっぱり小説においてでしょう。評論文やエッセイの場合、思考を一応筋道立てて展開しつつ書いてゆくわけですから、センテンスによる文節化はいわば自然に、あるいはおのずから、施されてゆくところがある。しかし小説というのは、まったくの虚構の世界を想像力で構築しつつ、「一寸先は闇」というか、わけのわからない暗闇のなかを手探りで言葉を紡ぎ出してゆくものですよね。そこではやはり、「文」の一つ一つをどう書き始め、どう書き終わらせてゆくのか、それを次の「文」にどう繋げてゆくのかといった問いが、いわば作品の生死を分けるような最重要の問題になってくる。私はそういう気がしています。」

「近代以降、前衛的な文学実験では、センテンスそのものを壊すような試みもありますね。たとえば、ジョイスの『ユリシーズ』では、最終章の『モリーの独白』の部分なんていうのは、センテンスそのものが消えてしまう。ピリオドもカンマもなくなって、単語の流れが脈絡なしにずるずると続いていきます。同じジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』になるともっと凄くて、単語それじたいが溶解したり融合したりしてゆく。

 フランスだとアントナン・アルトーの統合失調症的な「舌語(グロソラリー)」のような、極限的な言語実践がある。テル・ケル派のフィリップ・ソレルスは『天国』という前衛的なテクストを書いていて、これもセンテンス単位を崩壊させてしまうという過激な試みです。

 そういう実験があったりするわけですが、では、中上健次はどうなのか。中上さんの文章ももちろんセンテンス単位で出来ています。ただ、「文」のつくりよう、「文」から「文」への繋げようというのは、かなり特異なものです。

 彼の初期作品にはさほど特異なものはありません。『岬』にしても『枯木灘』にしても、文体じたいはわりと平易で率直です。しかし、これからちょっと細かく読んでみたい『千年の愉楽』などによると、相当凄いことをやっている。中上さんは少年時代はクラシック音楽のファンだったと言いますが、東京に出てきて、ジャズ喫茶に入り浸るようになり、ジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーのフリージャズに夢中になってしまった。『千年の愉楽』や『重力の都』や『奇蹟』などの場合、文章を書き継ぎながら、コルトレーンやアイラーやオーネット・コールマンのサックス演奏、あるいはエリック・ドルフィのクラリネットやフルート演奏の、どこまでも果てしなく続いてゆくようなあの自由自在なインプロビゼーションが、一種のモデルとして頭にあったのではないでしょうか。

 音楽にも「フレーズ(音句)」という用語がありますが、これはフランス語で言う「文(フラーズ)」とは違って、もっとずっと緩い概念です。のみならず、フリージャズでは、フレーズもへったくれもあらばこそ、いかなる単位によっても分節化されない無限旋律みたいなものに入っていきます。コルトレーンがどこで息継ぎするのかわからないような持続感とともに、延々と吹き続けるといったことも可能になる。

 しかし、作家が使うのは楽音ではなく言語です。言語で書く以上、やはり「文」の単位にこだわらざるをえない。いや、意志的にこだわるというよりもむしろ、否応なく、「文」の制度に縛られざるをえないと言うべきでしょう。それは制度であり桎梏であり、そこから逸脱しようとすれば、さっきの『ユリシーズ』とか『天国』とか、そういう前衛的な言語実験になってゆくほかありません。しかし、中上さんはそういうことがやりたいわけではなかった。しかし、その一方、論理的で明快で意味がよく通る、まあ「達意」という言葉がありますが、達意の名文みたいなものを書く気ももちろんなかった。

 一方に「文」の制度の束縛があり、他方にそこから解放されて天に向かって自由に飛翔したいという意志があり、その両方の間のせめぎ合いみたいなものが、中上健次の文章のもっとも昂揚した箇所にはある。そこに、途方もないグルーヴ感みたいなものがみなぎることになる。」

(松浦寿輝「講演 中上健次の「文」」〜「「自動記述」との差異」より)

「それではこういう「文」を書き継いでいるとき、その現場で、中上さんの意識がどんなふうに動いているのか。すべての言葉が考え抜かれ統御されている、と今私は申しましたが、どこで働いているコントロールというのは、普通の意味での理性的思考ではもちろんありません。

 皆さんよくご存じかと思いますが、フロイトの「無意識」の理論というものがありますね。フロイトは、人間の意識の外に、広大な無意識の領域を抱えこんでいると考えました。意識というのは氷山の一角でしかなく、水面下には、覚醒した意識によっては到達できない闇の部分があると想定し、そのうえで彼は、人の心の構造を、意識・前意識・無意識という三つの領域から成り立っているという仮説を立てた。

 意識と無意識のあいだに前意識という中間領域がある。前意識というのはドイツ語では「フォアベヴステ」で、「フォア」というのは「前にある」という意味の接頭語ですね。この三つの「トポス」(場所)から成り立つ心的空間の「トポロジー」があるというわけです。

 フロイト派一九二〇年頃にちょっと考えを変え、意識・前意識・無意識の代わりに、自我とエスと超自我という三つのトポスを提起することになるのですが、私はむしろ最初のトポロジーのほうが文学作品を考えるうえでは面白いと思います。ここで明らかなのは、中上健次のmっとも凄い文章というのは、意識的な思考で書かれたものではないという点です。」

「ここではともかく中上健次の最高の瞬間にフォーカスして、そこで彼が「文」をどういうふうに統御していたのかを考えてみたい。すると、ともかく一つ確実に言えるのは、彼がほとんど神がかったシャーマン的な錯乱状態に自分を置き、無意識からふつふつと噴き上がってきた言葉を意識の表層まで引き揚げ、それを紙のうえの文字記号として物質化する————そういう作業をやっているということでしょう。

 とはいえ、文章を書くというのはやはり、一応日本語の統辞法に則って言葉を連ねていき、漢字と仮名を使い分けたり、点や丸を打ったりしながら、センテンスの単位に分節化し、それを構成してゆくということなんです。日本語なら日本語という言語は、まあ人間の意識を動かしているOSみたいなものですよね。そのOSのうえに、書く行為のプログラムが走っているわけです。英語とも他の何語とも違うある特有の文法構造があり、ある特有の有限数の語彙があり、その語彙をその文法規則に則って並べてゆく。そうでないと、思考が「文」に定着するということは可能にならない。これは無意識ではなく意識の世界で行われる作業です。無意識から湧いてくる言葉をたんにそのまま、脈絡なく、とりとめなく並べてゆくだけだったら、物狂いのうわごとみたいなものにしかなりません。あるいはアンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちが試みた自動記述のようなものになってしまう。」

「彼は自分の書法を自動記述になぞらえているのですが、詩ならともかく、彼が志したような散文の物語を、ただひたすら「オートマティック」に語ることは不可能です。知的に計算し尽くされ、推敲し尽くされた文章にはありえない凄みみたいなものが、中上さんの散文にみなぎっていたのは事実としても、その凄みとはたんに、無意識界に滾っている欲動を快楽的に開放するというだけの操作によって生まれたものではない。」

(はんざわかんいち『語りの喩楽』より目次)

吃音語り————井上ひさし
論理語り————丸谷才一
意図語り————村上春樹
心象語り————梶井基次郎
否定語り————新川和江
対比語り————川端康成
美女語り————海音寺潮五郎
自分語り————松尾依子
庶民語り————伊藤永之介
感覚語り————黒井千次
誘導語り————芭蕉
短編語り————三島由紀夫
芝居語り————つかこうへい
断片語り————庄野潤三
反物語り————夏目漱石
男女語り————藤沢周平
片恋語り————古閑彰
位相語り————向田邦子

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