戸谷 洋志『スマートな悪/技術と暴力について』
☆mediopos2693 2022.4.1.
本書は『群像』において
二〇二一年4月号から二〇二二年一月号にかけて
連載されたものに加筆修正したものであり
mediopos-2581(2021.12.10)でも
取り上げたことのある論考だが
今回は全体を通したテーマについて
その論旨を追ってみることにしたい
日本政府は第5期科学技術基本計画で
「Sciety 5.0」という理念を掲げ
「超スマート社会」を目指しているが
著者は「スマートさ」には
「余計なものを排除するという性格」や
「人間が受動的になる」という側面があり
その「最適化」によって
人間は「単なる資源」として扱われ
「ある種の暴力性を帯び」
「その暴力性のうちにスマートさに特有の
「悪」の姿が立ち現れる」のだという
アイヒマンもそうした「スマートさ」を発揮し
「最適化」へと向かって
「他者に対する非情さである以上に、
自分自身で思考すること」を拒絶することになった
そうした「最適化」は
「人間を交換可能な「歯車」に置き換え」ることであり
システムにおいて生じた責任を
個人が負うことができなくなる
「スマートなシステムは人間から
責任の主体としての性格を奪」ってしまうのだ
ハンナ・アーレントはそれを
「悪の陳腐さ」をめぐる議論として展開したが
それをテクノロジーの観点から考察したのが
ギュンター・アンダースである
アイヒマンは「最適化」を目指すことで
「別の、もっと大きなシステムのなかに組みこまれ」
「その一回り大きなロジスティクスのなかに
最適化されていた」のだという
そしてそれはアイヒマンだけの問題ではない
私たちもまた「アイヒマンの息子たち」なのだ
私たち一人ひとりがスマートな悪に抵抗し
それを克服していくためには
ひとつのシステムだけに「最適化」することを拒み
別のまったく違った原理に基づく
複数のシステムへとアクセスする可能性に
開かれている必要がある
著者はイリイチの技術論から
「システムに帰属しながらも閉鎖性に抵抗しうる」
「ガジェットという存在様式」を見出そうとしている
「潜在的に転用可能な道具」であり
「何らかのシステムに還元されない道具」としての
「ガジェット」は
「複数のシステムを結ぶかのように機能する」というのだ
そこで「結ぶ」というのは
「二つのものを同化させることではな」く
「その差異性をもったまま結合すること」だ
システムに「最適化」するのではなく
システムどうしを「結ぶ」技術が必要となる
この観点は一昨日と昨日とりあげていた
「共感」の問題と深く関わってくるところだ
「世界は ひとつじゃない」
「世界は ひとつになれない」
「ばらばらだけど
「ばらばらのままでいっしょにいられる」
そんな「結び」を可能にする社会像を
模索していかなければならない
■戸谷 洋志『スマートな悪/技術と暴力について』
(講談社 2022/3)
(「はじめに」より)
「私たちの日常を多くのスマートなものが浸食している。私たちの生活はだんだんと、しかし確実に、全体としてスマート化し始めている。しかし、それはそうであるべきなのだろうか。そのように考えているとき、問われているのは倫理である。」
「スマートさの内在的な価値を証言する根拠の一つは、日本政府が第5期科学技術基本計画で掲げた「Sciety 5.0」という理念である。これは、今後の日本社会が目指すべき未来を指し示す社会像であるが、その内実は「超スマート社会」と表現されている。つまり、私たちの社会はスマートになるべきだと考えられているのであり、そこには明かな倫理的規範が織り込まれているのである。実際、政府は超スマートな社会を実現するための様々な技術開発に巨額の資金を投じている。」
「あえて疑問を口にしてみよう。スマートさがそれ自体で望ましいものであるとは限らないのではないか。むしろ、スマートさによってもたらされる不都合な事態、回避されるべき事態、一言で表現するなら、「悪」もまた存在しうるのではないか。そうした悪を覆い隠し、社会全体をスマート化することは、実際にはとても危険なことなのではないか。」
(「第2章 「スマートさ」の定義」より)
「スマートさの本質には少なくとも次の二つの側面がある(・・・)。すなわち第一に、それが余計なものを排除するという性格を表すものであるとうこと、そして第二に、それによって人間が受動的になることだ。この二つの特徴はいずれもその語源である「痛み」の意味を反響させている。
スマートさがもつ「賢さ」とは、この二つの特徴を有するような、ある特殊な賢さとして理解されなければならない。本書ではそれを用語として「最適化」と名づける。なぜなら、何かが最適かされるとき、そこには余計なものが存在しなくなり、またそれが「最」適を目指すものである以上、到達するべき答えは一つであって、そこに人間の選択の余地はなく、人間には能動性を発揮できなくなるからである。」
(「第3章 駆り立てる最適化」より)
「スマートさの本質的な特徴は「最適化」である。そうであるとしたら、次に問われるべきなのは、その際に最適化されるのが何なのか、ということだ。(・・・)
結論から言えば、それは、テクノロジーの性能ではなく、仕組みである。ただし、その際に仕組みと呼ばれているのは、個々のプロダクトの機構のことではない。そうではなく、問題なのは、そうした個々のプロダクトをいかに組み合わせるかということであり、またそうしたグランドデザインに基づいて個々のプロダクトをデザインすること、そうしたシステムの調整である。と言える。
本書ではこうした仕組みを「ロジスティクス」と呼ぶことにする。スマートさとはロジスティクスの最適化である。」
「超スマート社会において、この世界はフィジカル空間とサイバー空間に分割され、フィジカル空間はサイバー空間において情報処理をするためのデータを提供する場として定義される。そのとき現実は、サイバー空間によって処理された、最適化されたロジスティクスによって決定される。しかし、それはむしろ現実の世界に不正義を再生産する結果にもなりかねない。(・・・)
人間を単なる資源として扱い、最適化という観点からのみ眺める態度は、人間に対してある種の暴力性を帯びる、そしてその暴力性のうちにスマートさに特有の「悪」の姿が立ち現れるのである。」
(「第4章 アイヒマンのロジスティクス」より)
「アイヒマンのスマートさは、同時に非情さでもあった。ただしその非常さは、他者に対する非情さである以上に、自分自身で思考することの拒絶である。「もしかしたらおかしいのではないか」と考える可能性を、自ら追放することによってこそ、アイヒマンはスマートなロジスティクスを作り出すことができた。
(・・・)
このように非情であることは、ロジスティクスの天才であったアイヒマンだけに限定される性格なのだろうか。それはアイヒマンという特別な人間だけに与えられた宿命であり、それ以外の多くの人々にとっては関係のない、無視しても構わないような外れ値に過ぎないのだろうか。それとも、そうでないだろうか。」
(「第5章 良心の最適化」より)
「良心の最適化は、人間を交換可能な「歯車」に置き換える。そして、あるシステムによって生じた出来事の責任は、そのシステムを支える部分にではなく、そのシステムそのものに対して請求される。みんなに責任があるからこそ、そのみんなを構成する個人には、誰一人として責任が求められない。それによってスマートなシステムは人間から責任の主体としての性格を奪うのである。
アーレントは、以上のような「悪の陳腐さ」をめぐる議論を、あくまでも政治思想の文脈のなかで議論している。しかし、「歯車」という比喩に示唆されているように、そこには技術の問題が介在しているようにも思える。こうしたテクノロジーの観点から、アイヒマンが引き起こした悪を考察した哲学者がいる。それが、ギュンター・アンダースだ。」
(「第6章 「機械」への同調」より)
「アーレントは、アイヒマンが陥った悪の根源を、システムに対する良心の最適化のうちに見出した。それに対してアンダースは、機械の原理に対する同調のうちに、その根拠を見出す。二人の見方は相当な程度かなりあっている。
二人の思想から浮かび上がってくるのは。ユダヤ人問題の最終解決のためにロジスティクスを最適化させていくアイヒマン自身が、別の、もっと大きなシステムのなかに組みこまれ、いわばその一回り大きなロジスティクスのなかに最適化されていた、ということだ。この意味において彼は紛れもなく「歯車」だった。本書は、このようにして引き起こさる悪のあり方を「スマートな悪」と呼ぶことにする。すなわちそれは、人間がテクノロジーのシステムに自らを最適化することで、システムの「歯車」となり、責任の主体としての能力を失い、無抵抗なままに暴力に加担してしまう悪のあり方である。アイヒマンが加担していたのはこの意味での「スマートな悪」である。(・・・)
アンダースに従うなら、今日を生きる私たちもまた、「アイヒマンの息子たち」である。アイヒマンが陥った「スマートな悪」に私たちが陥っていない保証などなにもない。私たちがそれとして認識できないうちに、私たちもまたその悪に加担し、歯車となって誰かを傷つけているかもしれない。」
(「第8章 システムの複数性」より)
「私たちはどのようにしてスマートな悪に抵抗すればよいのだろうか。どのようにすれば、この悪に加担することを拒絶し、それを克服することができるのだろうか。」
「私たちが生きている現実には、複数のスマートなシステムが存在している。そしてそのいずれかのシステムへと自らを最適化することで、人間はスマートな悪へと飲み込まれる。それに対して、そうしたシステムを別のシステムで否定したとしても、それはスマートな悪そのものを克服することにはならない。別の形で悪が発露することを妨げることができないからだ。
むしろ、私たちにとって重要なのは、スマートなシステムそのものを否定することではなく、別のシステムへとアクセスする可能性を守ることではないか。特定のシステムに自らを最適化することを拒否し、複数の違ったシステムに開かれていること、その開放性を擁護することではないか。あるスマートなシステムが、別のまったく違った原理に基づくシステムと連続していること、その継続性を維持し続けることではなか。」
(「第9章 「ガジェット」としての生」より)
「イリイチの技術論から見えてくるものは、システムに帰属しながらも閉鎖性に抵抗しうる道具の姿として、ガジェットという存在様式が考えられる、ということだ。」
「ガジェットを語源的に解釈すれば、それは、潜在的に転用可能な道具であり。究極的に何らかのシステムに還元されない道具として理解されうる。ガジェットは、私たちの暮らしに外側から新しい可能性を付け加え、それによって私たちの生活環境が、まだまだ改善可能であることを感じさせる。こうした解釈は、単に語源的にではなく、現在の私たちが使用している「ガジェット」という言葉の用法にも該当するのではないだろうか。」
「答えは一つではない。いま目の前にある世界がすべてではない。私たちにとって、「これしかない」、「これ以外にはありえない」と思える、すべてのことが、別でもありえる。ガジェットという比喩はそうした自己理解を表現しようとするものだ。また、そうした自己理解を促すための、一つのヒントたろうとするものだ。」
(「おわりに」より)
「「歯車」とは異なる技術的産物の存在様態として「ガジェット」を理解するとき、私たちはそこに、超スマート社会とは異なる人間とテクノロジーの関係を想像することができる。(・・・)ガジェット性−−−−このような表現が可能だとして−−−−を基準としてテクノロジーがデザインされるなら、それは、別の用途にも使うことができる、という点に主要な価値を置いた技術のあり方が擁護されることになる。
(・・・)
この意味において、ガジェットは複数のシステムを結ぶかのように機能するプロダクトであるということができる。スマートなテクノロジーが最適化するためにあるのだとしたら、ガジェットは結ぶためにあるのだ。ガジェット性の価値を尊重する社会において、人間はテクノロジーを結ぶ技術として活用することになるのである。
本書は、「結ぶ」という言葉を慎重に選択している。結ぶということは、二つのものを同化させることではない。何かと何かを結ぶということは、結ばれるもの同士が、その差異性をもったまま結合することであるからだ。
(・・・)
複数の閉鎖したシステムを結ぶ、ということは、それらを統合してより大きな一つのシステムにすることではない。それは結局のところ絶対的な閉鎖的システムを促進することにしかならず、開放性を棄損することになる。一元性を理想とし、個別性と多様性を否定するスマートさが、そうしたシステムの結合様式に該当するものであろう。結ぶということは、このような一元性を実現することではない。そこでは異なるシステムが互いを排除しあうことなく同居することになる。
同時に、結ばれたものは、それが差異を含んだ結合であるからこそ、いつでも解かれる状態にある。どんなに固く結ばれたものであっても、正しい手順でその結び目を解いていけば、いつか結合されたものが再び離散する。もしも解くことができないならば、それはそもそも結ばれているとは言えない。絡まっているだけである。いの意味において解除可能性は結ぶ技術の条件なのである。
(・・・)
超スマート社会が掲げる一つの目標は、人間に対して豊かな暮らしを提供することであった。もし、本当にそれを目指すのならば、私たちが目指すべき技術のあり方は、最適化する技術ではなく、むしろ結ぶ技術であろう−−−−それが本書の回答である。」
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