見出し画像

伊藤亜紗・村瀨孝生『ぼけと利他』

☆mediopos-3066  2023.4.10

「みんなのミシマガジン」(ミシマ社のウェブ雑誌)に
二〇二〇年九月から二〇二二年四月に連載されていた
全三十六通の往復書簡「ぼけと利他」の書籍化

「誰かのため」にするということ
それは思いのほかむずかしいことだ

「情けは人のためならず」という言葉がある
もちろん「誰かのため」=情けが
ひとのためにはならないという意味ではなく
自分に良い報いが返ってくるという意味だが

実際には「誰かのため」ということは
「一筋縄ではい」かないことが多分にしてある

ふつうわたしたちは多かれ少なかれ
「誰かのため」になにかをすることがあるが
意識するしないにかかわらず
そこにある種の「見返り」を期待してもいる
ただ単純に「感謝」であったりもするし
もう少し大きな「見返り」を求めたりもするように

そうした「見返り」をまったく期待することなく
ときには「逆恨み」のようなことさえ起こりかねないなか
「誰かのため」になにかをすることができるだろうか
ということを問い直してみることも大切なことだろう

「誰かのため」というのは
それを行うひとにとっては
「誰かのため」であったとしても
その相手側にとっては
必ずしも「ため」にはならないかもしれない

そのことを考えていくとき

「ぼけのあるお年寄りが相手だと
「わかったつもり」にすらたどり着けない場面が
増えることになる」というように
「ぼけのあるお年寄りとのやりとり」が
「利他を考えるうえでの重要なヒントを与えてくれる」
ということで「ぼけと利他」についての対話が行われている

「自分のしたことが本当の意味で相手のためになる、
というのは、おそらく私たちが思うよりもずっと不思議で、
想定外に満ちた出来事」で
「ほとんど、奇跡だと言ってもいい」

そして「そこには
「自分とは違う考え方や感じ方をする他者」との
濃密な出会いがあ」る

往復書簡の最後に
「〈ぼけ〉と〈利他〉の接点」についての
伊藤亜紗の示唆的な言葉がある

「別の人やものや現象」について
「普通はAとBが一致することを
「わかり合う」と言ったりしますが、
むしろズレているときにこそ、
ああでもないこうでもないと
土をこねるようなその人との対話が生まれ」る

「そんな目で道を歩くと、
景色がちょっと違って見えたり」して
「ふと階段に置かれた石が、
誰かからの手紙であるような気がします。
揺れる葉っぱを通じて、
誰かが語りかけているような気がします。」

おそらくこの地上世界においては
AからBへのどんな思いもそして行為も
それそのものが直接相手に
100%届くということはない
それがこの物質世界のありようで
そのことにこそ意味がある

AとBのあいだにはズレがあり
そのズレゆえにこそ
そしてAとBのあいだにある
無数の「縁」(関係性)のなかで
その思いや行為は働きかけあい
それがさまざまに現象化している

「誰かのため」として何かをするとき
それがどんなかたちで現象化するかということに
とらわれないですることができたとき
「階段に置かれた石」や「揺れる葉っぱ」から
語りかけられているような
そんな景色が見えてくるようになるのかもしれない

■伊藤亜紗・村瀨孝生『ぼけと利他』
 (ミシマ社 2022/9)

(伊藤亜紗「はじめに」より)

「私たちの生活の中には、さまざまな「誰かのため」を思ってする行為があります。その相手は、家族であったり、友だちであったり、職場の同僚であったりするでしょう。

 しかし、他者とはきまぐれなもの。ありがとうと口では言いながらどこか迷惑そうだったり、実は相手にも計画があったり、善意がかえって疑心暗鬼を招いたり・・・・・・。

 してあげた側からすれば、「せっかくしてあげたのに」と怒りたい気持ちにもなるでしょう。でも、自己犠牲が相手の利を保証するとはかぎりません。そもそも「相手のため」というこちらの意図が、一方的な思い込みである場合もしばしばです。

 かと思えば、ねらってやったわけではないことが、結果的に相手のためになることもあります。失敗した料理のほうがかえって思い出に残ったり、うまくいかなかったプレゼンが相手の心をつかんだり、迷惑をかけたときのほうが喜ばれたり・・・・・・。「誰かのため」は、一筋縄ではいきません、

 自分のしたことが本当の意味で相手のためになる、というのは、おそらく私たちが思うよりもずっと不思議で、想定外に満ちた出来事なのでしょう。ほとんど、奇跡だと言ってもいい。そして、だからこそ、そこには「自分とは違う考え方や感じ方をする他者」との濃密な出会いがあります。

 本書のタイトルである「利他」とは、この不思議に満ちた「自分のしたことが相手のためになる」という出来事を指し示す言葉です。

 利他はどんなときに起こり、その背後にはどんな仕組みがあり、歴史的にはどんな背景が潜んでいるのか。私は二〇二〇年二月に、大学の数名の仲間とともに、利他について考える研究プロジェクトを立ち上げました。現代においては、「誰かのため」ということがあまりに単純化して考えられすぎて、そのせいでうまくいっていないことがたくさんあるのではないか、という思いがあったからです。

 利他について研究するにあたって、私がまっさきに協力を請うたのが、福岡にある「宅老所よりあい」代表の村瀬孝生さんでした。日頃から、お年寄りたちの介護や亡くなってゆく方の看取りに関わっていらっしゃる方です。

 まず「ぼけ」は、利他を考えるうえでの重要なヒントを与えてくれるのではないか、と思いました。

 なぜなら、ぼけのあるお年寄りとのやりとりには、ズレがつきまとうからです。ぼけのあるお年寄りは、そうでない人とは異なる時間感覚、空間感覚の中に生きています。それゆえ、関わろうとすると、自分の言葉や行為がトリガーとなってお年寄りの中で思わぬ連想が広がったり、そもそも会話をしているという前提が共有されず、一緒に歌を歌うことになったりします。ぼけのない人が相手だとついつい「わかったつもり」になってしまう場面でも、ぼけのあるお年寄りが相手だと「わかったつもり」にすらたどり着けない場面が増えることになる。

 そこに生まれる葛藤や手探りに、むしろ利他を考えるヒントがあるのではないか、と思いました。そして、ぼけについて教えてもらうのであれば、先生は村瀬孝生さん以外にはいない、と思いました。」

(「村瀨孝生 1通目「答えを手放す」二〇二〇年九月三日」より)

「本当は介護する僕たちが「わかっていない」のですが、その状況に耐えきれずいつのまにか介護されるお年寄りを「わからない人」にすり替えてしまうのです。そうなると介護が作業になり、人が物になっていく。やっぱり、人を物のように扱うわけにはいかなとなぁと葛藤する。

 よって、自分を問い続けます。「今、この人とどう過ごすのか」「どう過ごしたらいいのか」「どう過ごしたいのか」。悩むことになります。この無防備な付託に対して。

 自分が問われるというのは、あまり気持ちが良いものではありません。やっぱり、良い面より嫌な面が際立つのです。自分の嫌な面を知れば知るほど、独りよがりになれなくなる。何とか「これでいいですよねぇ」と、手応えが欲しい。よってその模索に勤しみ続けることになります。」

(「伊藤亜紗 2通目「アナーキーの相互扶助」二〇二二年九月一七日」より)

「最近読んだ文章の中で、ブレイディみかこさんが、アナキズムの話をされていたことを思い出しました。ケアっておそらく本質的にアナーキーなことなんでしょうね。

 ブレイディさんがあげていたのは、英国がロックダウンしたときの相互扶助の光景でした。ブレイディさんの住むブライトンでは、独り暮らしのお年寄りや自主隔離している人に食品を届けるネットワークをつくるから電話をしてください、と連絡先が書かれたチラシが郵便受けに入っていたり、自宅の壁にチラシを貼ったりしている人がいたそうです。アナキズムというと、暴動を起こして一切合切破壊するようなイメージがありますが、相互扶助のために勝手に立ち上がるという顔もある、政治が右往左往しているときに、組織とか利害とかと関係のないところで、他人をケアするために、できることを生き生きとやり始める人たちがあらわれた、と。

 村瀬さんからうかがう介護の話は、いつもアナーキーだなと思います。」

「私にはわからないことだらけですが、ケアすることとケアされることのあいだには、面白い関係がありそうですね。それから、ケアする人同士の関係や、ケアされる人同士の関係も、一対一ではない、集団の中で生まれる相互扶助のアナキズムというものがあるのでしょうか。」

(「伊藤亜紗 36通目「カワウソからの手紙」二〇二二年四月八日」より)

「私たちが、当たり前のように人やものや現象だと思っているものは、手品のようにあっさりと、別の人やものや現象になってしまえるのですね。ある人にとってAであるものが、別の人の力を借りるとBになってしまう。

 そして大事なのは、そのAとBのあいだにこそ、思いが溜まるということですね。普通はAとBが一致することを「わかり合う」と言ったりしますが、むしろズレているときにこそ、ああでもないこうでもないと土をこねるようなその人との対話が生まれます。わからなさの果てに、いらいらしたり、やきもきしたり、にやにやしたり、謎をとくと眺めてみたり、生活の脇に置いてみたり、置いたまま忘れかけたり。

 でも、そんな目で道を歩くと、景色がちょっと違って見えたりします。ふと階段に置かれた石が、誰かからの手紙であるような気がします。揺れる葉っぱを通じて、誰かが語りかけているような気がします。村瀬さんとのやりとりを通じて、そんな可能性にずいぶん敏感になれました。これが、〈ぼけ〉と〈利他〉の接点だと感じています。」

●目次

第1章 どうしたら一緒にいることができるのか? 2020年秋
第2章 人と言葉をケアする居場所としての「しゃべり」 2020〜2021年冬
第3章 共感でも反感でもない、ぼ〜っとする 2021年春
第4章 変化は「戸惑いと待ちの溜まり場」で起こる 2021年夏
第5章 深まるぼけがもたらす解放と利他 2021年秋
第6章 心とシンクロしない体を生きる 2021〜2022年冬
第7章 生身の痕跡を手紙に残す 2022年春

◎伊藤亜紗(いとう・あさ)プロフィール
東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、リベラルアーツ研究教育院教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』など多数。

◎村瀨孝生(むらせ・たかお)プロフィール
1964年、福岡県飯塚市出身。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から「第2宅老所よりあい」所長を務める。現在、「宅老所よりあい」代表。著書に『ぼけてもいいよ』『看取りケアの作法』『おばあちゃんが、ぼけた。』『シンクロと自由』など多数。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?