山本貴光「文学のエコロジー①文学作品をプログラマーのように読む」(群像 2022年 03 月号)〜「文学のエコロジー⑯文学作品は何をしているのか」(群像 2023年 06 月号)
☆mediopos-3096 2023.5.10
「群像」で二〇二二年三月号から連載されていた
山本貴光「文学のエコロジー」が
二〇二三年六月号で最終回を迎えた(全一六回)
ここで使われている「エコロジー」という言葉は
エルンスト・ヘッケルの造語だが
自然環境の保全といった意味ではなく
文学作品でいえば作品内世界
つまり作品を構成する各種要素の関係した全体における
「生態学」とでもいった意味である
生態学であるということは
作品内の構成要素は静的なものではなく
動的なものとしてとらえるということである
そうした観点のもとで
「文学作品」を読むということは
いったいどういうことなのかが
この連載では論じられてきた
それはよく問われたりもするように
「文学はなんの役に立つのか」
ということにも関係してはくるが
それはたとえばかつてサルトルが
「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」といったような
直接的な作用を問題にするような視点において
「文学のエコロジー」を論じることは無意味である
そうした観点は問題にならないとしても
「苦悩を癒やす」「創造力を育む」「孤独を和らげる」といった
人の心に対してもちうる影響を論じることは
それなりに可能ではある
とはいうもののそうした「実用」的な観点でいえば
昨今問題になっている「国語」の選択科目における
『論理国語』と『文学国語』のような発想に傾斜し
そうした目的でしか「文学」がとらえられなくなる危うさがある
「文学のエコロジー」の連載の最後に示唆されているように
「なぜ文学作品を読むのか」という問いにおいては
「文学作品を読むことは、言語でつくられた作品内世界で
かたとき精神を遊ばせることである」という観点が重要である
最終回を読みながら
高校の頃の国語の授業で
「読書」をテーマにした作文を書いたことを思い出した
それは「自分では直接経験していないことを
間接的なものであるとしてもなにがしか経験することで
自分の(経験)世界を広げることが読書の重要な目的である」
といった内容だった
飢えて死ぬ子供の前で文学は意味をもたないけれど
本を読むという経験が可能であれば
経験世界を現実・虚構を超えて広げていける契機となる
ひとり一人が実際に現実で経験できることは限られているが
たんなる「論理」的な意味での言語経験にとどまらず
「文学」的な意味での言語経験にまで広げることで
(もちろん「量」ではなく「質」が問題にはなるが)
じぶんでは直接経験できない領域においても
精神を(自由に)遊ばせることができる
■山本貴光「文学のエコロジー 新連載
①文学作品をプログラマーのように読む」
(群像 2022年 03 月号)
■山本貴光「文学のエコロジー 最終回
⑯文学作品は何をしているのか」
(群像 2023年 06 月号)
(「文学のエコロジー新連載 ①文学作品をプログラマーのように読む」〜
「3.文学をエコロジーとして見る」より)
「文芸作品は、その規模の大小、費やされた文字の多寡を問わず、そこになにかしらの世界のあり方が示されている、と考えてみる。ここで「世界」とは、私たちが生きている場所や、その場所を含む環境、さらには地球、あるいは地球を含む宇宙というほどの意味だ。現実の世界だけでなく。虚構の世界も含む。」
「鍵となる概念に触れておこう。ひとつは「エコロジー」である。現在では、もっぱら「生態学」と訳される学問領域、あるいは「自然環境の保全」といった意味で使われているだろうか。ここでは前者の「生態学」という意味で使おう。
エコロジーという言葉は、もともとエルンスト・ヘッケル(一八三四−一九一九)が造語したものだった。ヘッケルは、生物を研究する態度としてこれを提唱した。(・・・)
ヘッケルは、ある静物について、その静物が生きる環境を構成する各種要素との関係の全体を見てとる。そのような学問を「エコロギー(Ökologie)」と名づけた。(・・・)
「エコロギー」を構成する要素は、いわゆる自然物だけにかぎらない。人間がつくる社会や技術をはじめとする人工物、あるいはそこで生きる人間、人間が発想すること、それを表現したものなども含めた生態、エコロギーを観察することにしよう。」
「ある文芸作品に描かれた世界が、どのような要素とその関係から成るのかというエコロギーを見てとる。このとき、その世界はピンで留められた昆虫のように静止したののではなく、生きて動きまわる昆虫のような状態にある、と考える。」
(「文学のエコロジー最終回⑯文学作品は何をしているのか」〜
「3.文学の作用」より)
「言葉によって組み立てられた文学作品は、そこに並べられた言葉によって、作品内世界とそのエコロジーを描く。ある空間はどのような要素からできているか。気候うや地形、動植物といった自然、都市や建造物といった人工物、あるいは法律や経済や貨幣のような社会制度などは、どのような状態にあるか。そこにはどのような人間がいて、どのように生きているか。また、お互いに関係しあっているか。直接目に見えない人の心の状態はどうか。さまざまな要素は相互にいかなる影響を及ぼしあうのか。そうしたことはどのように変化してゆくか。いくつかの文学作品を例に、そこに描かれる世界とエコロジーを観察してみた。
そうした文学作品は、これを読む者の記憶を呼び起こし、その脳髄に作品内世界を浮かび上がらせ、なんらかの認識や感情の変化をもたらす。ただし、実のところ文学作品を読むことが、私たちにどのような変化をもたらしているのかについては、確たることはわからない。そんなこともってか、人類の歴史を通じてこれほど長く続いている文学や文芸と呼びうる営みについて、いまだに「文学はなんの役に立つのか」といった疑問が口にされたりもする。もっとも「役に立つ」という評価は、その人が何を目的として、なにを有益と考えているか次第である。例えば、文学作品を読みさえすれば、すぐにお金を儲ける役に立つかと言われれなそうではない。これは単にお門違いというものだ。
仮に文学作品がなんの役に立つかを考えたいのであれば。文学作品が言語を通じて読者の脳裡に生み出す状態、心脳内作品内世界とそのエコロジーの経緯が、その読者になにをもたらすか、という点を検討する必要がある。」
「そちらの方向(引用者註:「苦悩を癒やす」「創造力を育む」「孤独を和らげる」など、人の心に対してもちうる影響)での展開にも期待しつつ、ここでは別の観点からもう一言述べて終わるとしよう。文学作品を読むことは、言語でつくられた作品内世界でかたとき精神を遊ばせることである。ここで遊びとは、「なんの役に立つか」という特定の目的を脇において、ある条件の下、自分の身心になにが生じるかを試してみる営み、というほどの意味だ。古代ギリシアの『イリアス』を体内に入れてみる。その結果、身心になにが生じるか。リディア・デイヴィスの文章ではどうか。目にした文字から、そんなことでもなければ思い出さなかったかもしれない記憶が喚起され、その言葉の組み合わせでなかったら生じなかったかもしれない感覚を抱き、脳裡に作品内世界とそこで生じる出来事が思いうかぶ。
喩えるなら、自分というコンピュータに、各種文学作品というソフトウェアを詠み込ませ、そこに記された作品内世界を、自分の体を使ってシミュレートしているようなものだ。なにが出てくるかは試してみるまで分からない。また、その経験を通じて、自分というコンピュータの一部が変化する。そのような世界が実在するかどうかとは関係なく、あるいはその世界に登場する人間が実在するかどうかとは関係なく。そこで生じる出来事が実在するかどうかとは別に、もしこのような状況にこのような人が置かれたら、なにをどうするか。その結果、その世界にはどのような変化が生じるか、生じないか。文学作品を読むつど、私たちはその作品愛世界を通じて、そのようなシミュレーションを体験している。それが何をしていることになるのか、その後の生活にどのような影響をもたらすのかは不明である。持ち歩いている傘が役に立つのは、雨が降る場所にいあわせたときだ。あるいは雨が降ってきたとき、傘を持っていなければ役立てることはできない。そして、文学にとっての雨がなんであるかは、傘の場合ほど明確ではない。
ただ、文学のエコロジーという観点を携えてみることで、異なる文学作品のあいだで、あるいは文学作品と現実世界のあいだで、互いを比べ、照らしあう手がかりを得られたように思う。それは実にささやかと言えばささやかなことだが、言語と世界と人間の精神を理解する一助にもなるはずだと考えている。」
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