桜井哲夫『阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆』・一遍と時衆の謎 時宗史を読み解く』/河竹登志夫『黙阿弥』/網野善彦『無縁・公界・楽 増補』
☆mediopos-3081 2023.4.25
一遍を始祖とする時宗は
謎のような宗派だ
興味は尽きない
南無阿弥陀仏を唱える
他力の宗派の極北にあり
仏教とはいいながら聖と俗を超えている
一遍は時衆を率い遊行を行い
下人や非人も含む民衆を
踊り念仏と賦算によって極楽浄土へと導いたが
その教えは他力による「十一不二」
つまり今のこの時そのものを臨終の時と心得て
ひたすら六字(南無阿弥陀仏)の念仏を称えること
そのものを救いとした
寺院には依存せず
一所不住の諸国遊行を行い
「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言し
通常の宗教教義のような教学体系は残さなかったという
今この時を臨終の時とするがゆえに
おそらくは「時」そのものを生きるという意味で
「時宗」なのだろう
また聖と俗の境を超えているがゆえに
髪の毛を伸ばし妻帯している僧(通称「毛坊主」)
妻帯し戒律に従わず遊行廻国に同道する者(法名「何阿弥」)
葬儀の葬列にカンカンと鉦を鳴らす者(「鉦打ち」)
戦陣におもむく将軍に伴われた僧(「陣僧」)
室町将軍に仕え雑事や諸芸能にたずさわった僧(「阿弥号」)
といった者たちが
「時宗」という枠を超えて中世の歴史文化に深く関わっていた
以前より「阿弥」という名をもつ芸能者たちが
「時宗」と深く関わっていることに興味をもっていたが
その歴史的な経緯等について
桜井哲夫の『一遍と時衆の謎』や
新刊の『阿弥衆/毛坊主・陣僧・同朋衆』は
その実際の姿を垣間見せてくれる
とくに時宗的なありようとは直接関係はしていないとしても
たとえば「河竹黙阿弥」の
「黙阿弥」のような名にも魅力を感じる
特に興味が引かれるのは
「遊行の客寮」についてである
「客僚」とは
「合戦に負けたり、盗賊に襲われたり、主君の命に背いたり、
親族と対立して追われ、当座の責任や被害から免れるため
遊行上人・藤沢上人のもとにかくまわれて、
白袈裟を与えられてにわかに出家した者」であり
そうした者たちをかくまう場所が「客寮」と呼ばれた
それは「西欧中世における「アジール」」の日本版だともいえる
いわば駆け込み寺的な存在である
そうした中世的なアジールを奪ったともいえるのが
豊臣秀吉の「豊臣平和令」「刀狩令」だというが
いわば管理社会的なものが強化されようとするとき
そうした「アジール」が奪われてゆくことになるのだろう
現代にも現代の「アジール」が
必要不可欠だともいえるのだが
管理社会化の強い波のなかで
「アジール」は次々と奪われているようだ
こんなときこそ
「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」
とでもいうような「遊行」の「今」を生きる
そんな大きな波が必要とされるのかもしれない
■桜井哲夫『阿弥衆/毛坊主・陣僧・同朋衆』(平凡社選書 2023/1)
■桜井哲夫『一遍と時衆の謎/時宗史を読み解く』(平凡社新書 2014/9)
■河竹登志夫『黙阿弥』(講談社文芸文庫 2011/6)
■網野善彦『無縁・公界・楽 増補』(平凡社ライブラリー 1996/6)
(桜井哲夫『一遍と時衆の謎/時宗史を読み解く』より)
「原文は『時宗阿弥教団の研究』(池田書店、一九五六年)にあるが、『出雲の阿国』(中外出版社、一九六五三年)にある吉川清の現代語訳のほうも参考にしながら大意をまとめてみた。
私ども遊行上人の沙弥は、法名として「何阿弥」といいますが、別名としては「聖(ひじり)」あるいは「鉦打(かねうち)」と称しておりました。もとは、今から五百余年前に、開祖の一遍上人が諸国遊行の折に帰依し信仰した武士が、諸々の合戦に負けた結果として時宗の沙弥になったのです。
そのなかで、妻帯しているので戒律に従わないのですが、頭をまるめていた者は、上人やその他の僧のために薪をあつめたり、水をくんだりして給仕をしておりましたので、それぞれ「何阿弥」という法名をつけてもらい、遊行廻国に召し連れてくれました。
一遍上人没後は、それぞれゆかりの生国に帰りましたが、藤沢周辺や関八州(関東地方)のうちにとどまる者も多かったそうです。この者たちは、上人の教え通りに鉦を打ち鳴らし、和讃と念仏をとなえ、あちこちで修行して布施を受けて生活をしてきました。その後遊行上人の廻国の折には馳せ参じて薪や水の提供をしたり、給仕をする仕事を欠かさずに行って参りました。
(・・・)
この文書を読むと想起するのは、日本民俗学の祖たる柳田國男の「毛坊主考」(大正三年(一九一四)発表)という論考である。
(・・・)
柳田は、髪の毛を伸ばし、妻帯している僧、通称を「毛坊主」と呼ばれる存在を各地に見出した。そして関東地方で葬儀の葬列にカンカンと鉦を鳴らす(ジャンボンの響き)念仏団体が介在する風習があったことを記している。」
「室町時代から戦国期の芸能と時宗の関係では、本書で詳しく述べたごとく、歌舞伎の源流にあたる「出雲の阿国」もいるし、囲碁には天下第一の上手と言われた時衆の僧・重阿弥がいた(・・・)・築庭では善阿弥、生け花では立阿弥がいた。「万葉集」研究で名高い由阿(一二九一——没年不詳。二祖真教上人の弟子で遊行寺に住む)もいた。茶道の千利休についても、本書で少しふれた。ともあれ、現在では、日本の中世文化を論ずる際に、時衆を無視することができないことは、研究者の間でも基本的に認識になったのである。
(・・・)
「時宗のかかる光輝ある歴史は完全に忘れられている」と赤松俊秀(一九〇七——七九)が悲憤慷慨した時代を経て、ようやく今日に至って、日本の仏教宗派では圧倒的少数派である時宗(現在の末寺数、約四百カ寺)の歴史は、多くの人々の関心を惹くテーマとなってきたように思える。」
「網野(網野善彦『無縁・公界・楽/日本中世の自由と平和』(一九七六年))は書いた。
「また、遊行・遍歴する上人、一遍を祖師とする時宗の徒——時衆も、同じく葬送に携わった。鎌倉末〜南北朝期、彼等は、まだ必ずしも「墓所」、寺院に定着することなく、軍勢に伴われて遍歴し、まさに死なんとする戦士に「十念」を与え、戦死者を供養した。正慶二年(一三三三年)、楠木正成の楯籠(たてこ)もる千早城を攻めた幕府軍には、二百余人に及ぶ時衆たちがつき従っていたのであり、戦死した新田義貞の遺骸を輿にのせてかついだいだのも「時衆八人」だったのである」。
(河竹登志夫『黙阿弥』より)
「観阿弥、世阿弥の昔から、阿弥号は時宗において許される法号である。黙阿弥も時宗総本山の藤沢山遊行寺へ出向いて、「黙阿弥」の号を受けた。引退興行があいて五日後の、十一月二十五日であった。
時宗の信者だったわけではない。黙阿弥は浄土真宗でもいちばん簡素な門徒宗ではあったが、ほとんど無宗教といってもいい合理主義者だった。この黙阿弥という号の発想は、昔からある諺の「元のもくあみ」に「黙」の字を当てはめたのにちがいない。
が、では黙阿弥は「元のもくあみ」にどういう意味托したのか、「黙」の字をつかった真意は何であったのか————。」
(桜井哲夫『阿弥衆/毛坊主・陣僧・同朋衆』より)
「阿弥衆という言葉は、吉川清の『時宗阿弥教団の研究』(一九五六年)から生まれた、と想われている。だがこの本では、(・・・)特に「阿弥衆」という表現はみかけない。(・・・)ところが、中村元ほか編『岩波仏教辞典』(第一版一九八九年、第二版二〇〇二年)には、「阿弥衆」という項目がある。(・・・)
中世から近世初頭にかけて、時宗教団に客寮(きゃくりょう)衆(客僚とも)というのが従属していた。僧俗の中間的存在で、剃髪法衣の姿は僧に似て、妻子を養い諸芸の従事するところは俗である、時宗では男性僧俗ともに〈何阿弥陀仏〉の阿弥陀仏号を称し、省略して〈何阿〉(阿号)を用いる。これに対して客寮は〈何阿弥〉(阿弥号)と呼ばれた。僧は決して阿弥号を用いない。
客寮は、南北朝時代に敗残者や世間のあぶれ者が教団の保護を求めたのにはじまる。衆僧の給仕や雑用を勤めた。また鉦を打ち和讃念仏を称えながら家々をまわり、信施を受けて世を渡った客寮が〈鉦打ち聖(ひじり)〉である。妻子を養うために農耕や商い・諸芸に従事するものもあった。[中略]
京都の寺院所属の客寮衆の中には、将軍や大名に仕え〈同朋(どうぼう)衆〉となり、芸能の達者も現れた。茶の能阿弥、華道の台阿弥、作庭の善阿弥・相阿弥、能の観阿弥など、いわゆる阿弥号を称する人々は、時宗の僧と考えられているが、実は客寮衆もしくはその子や孫とみるべきであろう。(第二版より)」
「「遊行の客寮」とは何だろうか。「客寮」とは「真宗要法記」(・・・)の「十三 客僚袈裟白色事」に出てくる言葉である。合戦に負けたり、盗賊に襲われたり、主君の命に背いたり、親族と対立して追われ、当座の責任や被害から免れるため遊行上人・藤沢上人のもとにかくまわれて、白袈裟を与えられてにわかに出家した者(・・・)を「客僚」と言うのである。罪業は深いけれども、彼等を打ち捨ててしまえば、その罪は償えず、消えることがない。だからこそ、彼らに白袈裟を与えて阿弥陀様の光に触れさせ、たちまちに往生を遂げさせるのである。(・・・)
知識(僧)の袈裟は、白は極妙に至る真の色であるが、結縁した客僚の袈裟は、未だ修行の場に至っていない色ということだ。
さらに、こうした人たちをかくまう場所を「客寮」と呼んだ。
(・・・)
「客寮」は、西欧中世における「アジール」(避難所・アジールは、ギリシア語に由来し「不可侵」を意味する)の日本版とみなせる(阿部謹也 一九八五、ヘンスラー 二〇一〇)。
むろん時衆だけではなく、他の時衆だけではなく、他の宗派寺院でも駆け込み助命がなされていた。伊藤正敏は、日本でのアジールの廃止時期について、豊臣平和令、刀狩令はアジールの実力奪取が目的であったので、平和令が出された一五八八年(天正十六年)をあげている。」
「時宗を語る際に論じられてきた特色の一つが「陣僧」という役回りである。陣僧について、『岩波仏教辞典 第二版』(二〇〇二年)には、以下のように書かれている。
「〈じんぞう〉とも。室町時代、戦陣におもむく将軍に伴われた僧。文筆の用を足し、軍師となり、また戦没者の廻向をした。なお、陣僧の名称はなくとも、より古くからこの種の僧が従軍していたことは、『平家物語』で木曽義仲の幕下にあった太夫房覚明のごときにも徴せられるし、室町時代には時宗聖などの従軍などもあった。「いろいろ謀事を廻らし、かの法師を陣僧に作り、廻状を書きてかの陣に送りける」(足利季世記)」。」
」江戸時代にも、徳川家康に命じられた内田全阿弥に始まる「御同朋」という阿弥号を名乗る僧形の役職は存在した。だが、ここには時宗とのつながりはない。では、足利時代の「同朋衆」とは、いかなる存在だったのだろうか。ここでまた『岩波仏教辞典』(一九九七年)から引いてみよう。
「室町将軍に仕え、雑事や諸芸能にたずさわった僧体の者、阿弥号をもつ。戦陣に従った時宗の徒(時衆)の系譜を引くとされるが、同朋衆は時宗とは限らない。取次や使者などの将軍身辺の雑務から、将軍家所蔵の財物の鑑定・出納、絵の製作や座敷飾などの特殊技能まで職掌は多様。将軍足利義政の頃活躍がめだち、能阿弥・芸阿弥・相阿弥らが著名。同名の相承、同名異人などの場合があり、注意が必要」。」